はなさないで・シンドローム

藤光

分離拒否症候群

 ある朝、突然、妻の様子がおかしくなった。ベッドを抜け出し、洗面台で顔を洗っていると小学生の息子がやってきて言うのだ。


「お父さん大変だよ!」

「……なにが?」

「お母さんが変なんだよ!」

「お母さんはいつも変だろ」


 息子を相手に朝から会心のジョークを炸裂させたつもりだったが――。


「冗談いってる場合じゃないんだよ! マジなんだってば」


 青ざめた息子の顔はひきつっている。ちょっと普通でないことが起こっているようだった。息子に急かされるようにしてダイニングへゆくと妻がテーブルに朝食が並べていた。トーストとサラダ、ヨーグルト。いつもと同じ、いつもの妻だ。なにも変なところはないじゃないじゃないか。


「おはよう」

「はなさないで」


 ん、なんだって? 朝のあいさつとしては不適当な言葉なような気がしたが……聞き間違いだろうか。


「なんだって?」

「はなさないで」


 妻は自然かつ大真面目にそう言った。早く朝ごはんを済ませてよ、忙しいんだからと言わんばかりだ。


「変だろう?『はなさないで』としか言わないんだ」


 息子がパジャマの袖を引いた。

 そんなばかな。


「おい、朝から変な冗談はやめろよ。子どもが怖がってるじゃないか」


 なるべく冗談めかして言ってみたが――。


「はなさないで!」


 言葉の意味はわからない、いや、妻が「離さないで」というイントネーションで話しているのは分かるが、前後に脈絡がないので意味をなしていない。その声の調子から判別できるのは、彼女がだんだんと腹を立てはじめたということだけだ。


「どうしよう」


 その後しばらく、息子とふたり手を尽くして妻が正常に話せないのか試してみた。おれと息子が気に入らないことをしたことに腹を立て、意地悪してるのか――謝るから許して――にはじまり、のどが痛いの? もしかして風邪ひいてる? とか、まだ寝ぼけてるのかなとか、やっぱり手の込んだジョークなんだろもうやめてよとか。しかし――


「はなさないで?」


 あんたたちなにいってんの? と言わんばかりの様子の妻からは、なんの情報を得られず、わたしたちは途方に暮れてしまったのだった。



 どうしていいか分からないわたしと息子は、会社と小学校をそれぞれ休んで、妻を病院へ連れてゆくことにした。「はなさないで、はなさないで」と大騒ぎする妻を、息子とふたりでなだめすかしながらタクシーに乗せると有無を言わせず病院へ連れていった。


 今朝のてんまつをわたしと息子から入れ替わり立ち替わり聞き取った医者は、問診(もちろん、妻の答えは『はなさないで』だった)といくつかの検査のあとで、妻か病気であると告げた。


「病気!」

「はい、ブンリキョヒショウコウグンですね」

「ぶんり……きょ……?」


 耳慣れない病名が頭に入ってこない。


「分離拒否症候群です。中高年の男女、なかでも中年女性に多い症状で『はなさないで』としか話せなくなる病気です。一般には《はなさないでシンドローム》と呼ばれています」

分離拒否症候群はなさないでシンドローム!」


 まず第一に妻の症状に病名があることに驚いた。ただ、聞いたこともない病気だが。


「近年、流行が判明したばかりの病気です。季節性の疾患で、ちょうど今頃3月いっぱいが発症のピークですが、原因は分かっていませんし、治療法もありません」

「そんな! じゃあ、わたしたちはどうすれば……」

「お気の毒ですが。ただ、この病気は慢性化することは稀で、多くはある日突然回復するといわれています。その理由もまだ分かっていないのですが」


 病名を知ることはできたものの、そのほかには得るものもなく、わたしたちは診察室を後にした。


「ありがとうございました」

「お世話になりました」

「はなさないで」


 これからどうすればいいのだろう。呑気に鼻歌など歌いながらタクシーに揺られている妻を眺めながら、わたしと息子は顔を見合わせるしかなかった。



 家族と妻との間でコミュニケーションが取れないというのは不便なものである。


おかずはコロッケとハンバーグどっちがいいはなさないで?」

片付かないから早くお風呂に入りなさいはなさないで!」

わたしのバスタオルどこにあるか知らないはなさないで?」


 なんでもかんでも妻は「はなさないで」とだけ言う。ケロッとしている様子から、本人はそれで通じているつもりなのかもしれないが、その意味するところを読み取らなければならないわたしと息子には大きな負担である。声の大きさやイントネーション、ジェスチャーの組み合わせからおよそ理解できるものの、いつまでこんなことが続くのだろう。


「お医者さんはああ言っていたけれど、もし、お母さんの病気が治らなかったらどうしよう」


 息子が不安に感じるのはもっともだ。わたしもそれを考えると暗澹とした気分になってしまう。


 夜、ベッドに入ったがなかなか眠つけない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。妻は病気の原因はなんなのか。気づいてあげられなかったのはなぜなのか。もとの妻に戻ってほしい――声をころして泣いていると、それに気づいた妻がわたしの背中を撫でて慰めてくれる。「はなさないで」と。だって、彼女にはそうとしか言えないから。


 わたしはたまらなくなり、声を上げて泣いてしまった。「はなさないよ。ずっとはなさないよ」離さないから戻ってきておくれよ。きみと話せないといやだよ。妻を抱きしめて泣いているうちにわたしは眠りに落ちていった。今日はとても疲れた。とても。





 翌朝、わたしと息子は、妻の「いつまで寝てるの。もう起きる時間よ!」と言う大きな声で叩き起こされた。妻の分離拒否症候群はなさないでシンドロームは一日でしたのだ。


 わたしがふたたび泣いて喜んだことは言うまでもないだろう。


(了)

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はなさないで・シンドローム 藤光 @gigan_280614

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