その手を離さないで

西しまこ

幸福な祈り

 子どもが小さいとき、絶対に手を離さなかった。


 油断すると走って行ってしまう。そして、車道に飛び出すのだ。わたしはだから、いつもしっかり圭人の手を握っていた。

 だけど、児童館に行ったある日、ほんの一瞬目を離した隙に圭人はいなくなった。急いで児童館を出て探すと、圭人はまさに車道に飛び出るところだった。そこに黒いタクシーが通りかかり、わたしの心臓は止まりそうになった。

 タクシーは急ブレーキをかけて止まり、運転手は「子どもはちゃんと見ていて! 目を離さないで!」と大きな声で言って、わたしは半分泣きながら「すみません!」と返した。


「圭人、走って行ってしまわないで」

 圭人は何が起こったのか分からなかったのか、わたしに強く抱き締められ、にへへと笑っていた。生きていてよかった、圭人。


 圭人が歩き始めた一歳くらいからずっと、わたしは常に圭人を目の端で捉えていた。何をするのか分からない子だったし、何しろ突然走って行ってしまうのだ。児童館の一件以来、お出かけするとき、わたしはますます圭人の手をぎゅっと握ることにしていた。


 そんな圭人も小学校に入学することになった。

 手をしっかり握って、学校へ行く。

 真新しいランドセルに入学式らしい服を着た一年生たち。みんな光って見えた。

 わたしの手を離して、自分の席へ行く圭人を見守った。


 一年生になったら、一人で友だちの家に行きたがった。最初はついて行っていたけれど、だんだんそういうこともなくなった。一人で行って一人で帰ってくる。もう、手をぎゅっと握って緊張しながら歩くことはなくなった。ただ、二人で出かけるときは、ときどき圭人からそっと手をつないできて、わたしはそのあたたかいまだ小さい手をそっと握った。冬の日の陽だまりのような温もりだった。


 手を離さないで。

 そんな期間は、なんて短いのだろう? 永遠に思えた、あの期間。思えば短い幸福な夢のような時間だった。光の中にわたしたちはいたのだ。


 今ではもう、手をつなぐことはない。

 圭人は圭人のだいじな人と手をつなぐ。


 今は制服を着ているけれど、いずれ制服を着ることもなくなり働くようになり、いつか、まだ遠いと思える未来だけど、時間がずっと伸びた先には、圭人も小さな手をつなぐ日が来るのだろう。


 ねえ、その手を離さないで。

 大変かもしれないけれど、手を離さないでいる期間は人生の始まりの子が一人で歩きだすまでのほんの短い時間だから。


 小さい圭人と散歩していたとき、ざあっと風が吹いて、梅の花びらが散った。雪のような小さな花びらを圭人は追いかけた。

 梅の花びら散るそのころ、春の兆しがした。

 圭人の小さな足音が、音符を運んで軽やかな音楽を奏で、春を連れてくるように感じたのだった。





    了

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その手を離さないで 西しまこ @nishi-shima

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