第2話 痩せたい
その日、いつものように沢木がコーヒーを淹れて、今では取る人も珍しくなったかのようにも思える新聞に目を通していた。
「んー……。最近の政治ってなんだかモラハラやらパワハラやら、スキャンダルだらけね」
そんなことを口にしながら、さっと一通り新聞に目を通した沢木は新聞を部屋の決めている新聞置き場に置き、ハイヒールをかつかつと鳴らして椅子まで戻る。
パソコンを開いて額に手を置き、ぼそりと呟く。
「どうしよう。全く依頼がない……」
そう。依頼が全く来ないのだ。
というのも、広告を出しているわけでもなければティッシュ配りをしているわけでもない。つまり、知名度を上げる行為をしていないのだから、そうなるのは必然というものだ。
「看板だけじゃダメだって言うのー? まあ、そうよね。誰だってそうか。知名度のない何でも屋なんて怖いわよね。そりゃそうだ」
そこへ、控えめに事務所のドアを叩く音がした。
「いらっしゃいませ! 何でも屋沢木へようこそ!」
沢木はドアを開けて、笑顔でそう言う。
「あ、あの、私……依頼を……お願いしたくて」
「もちろんです! ご依頼は何でも承っておりますよ! さあ、まずはお入りください。コーヒーでよろしいですか?」
「は、はい」
勢いに押されているのはかなりふくよかな体型をした女性だった。
「どうぞ、召し上がってください。ミルクと砂糖はこちらにございます」
「ありがとうございます……」
その女性は砂糖をひとつ、ふたつ、みっつと入れていく。
さすがに入れすぎではないかと沢木は不安さえ覚えたが、今、そのことを指摘したところで意味はないと思い、何も言わなかった。
「さて、ご依頼の内容は何でしょうか? あと、ご依頼人様のお名前をお伺いしても?」
「……私、
途中まで言いかけて、紫雨は俯いて言おうかどうしようか悩んでしまった。
「大丈夫ですよ。秘密は絶対に守ります。何か、私にお手伝いできるかもしれませんから、話してみませんか?」
沢木の優しい問いかけに、紫雨は頷いて少しばかり息を吸ってこう言うのだった。
「私、どうしても痩せたいんです。お願いします。痩せさせてください」
「痩せたいんですね? わかりました」
わかりましたとは言ったものの、これは長期戦になりそうだと沢木は思った。
どう見ても、体重は三桁くらい。どのくらい痩せたいのかにもよるが、恐らくこういう女性は……。
「私のベスト体重だった、55kgまで、痩せたいんです」
こういった大きな目標を言うものだ。
「それは、もちろん長期目標ですよね? 短期目標だとどのくらいですか?」
「一ヶ月で、5kgくらい……。私の体重が、110kgだから、不可能ではないと思うんです」
「確かに、脂肪が多く、痩せやすい体であれば可能ですが……」
そもそもにおいて、痩せやすい体であればこうはなっていない。
ということは、何かと痩せにくい理由、原因があるはずなのだ。
沢木は太ったと思われる原因を聞いてみると、紫雨は言いにくそうにしながらも口を開く。
「薬、です。精神科の……。副作用で食欲増進する薬があって、それを飲んでから、こんなことに」
「なるほど。運動習慣は?」
「ありません」
「食事はどんなものを?」
「好きな時に好きなものを……。でも、前と同じ内容なんですよ! 本当なんです! 何も変えていないのに」
「うん。何も変えていない、と。お風呂はシャワーで済ませちゃいますか?」
「そうです。よくわかりましたね」
これだ。そう沢木は確信した。
恐らく紫雨は若い時、恐らく20歳くらいの頃と同じ内容の食事をし、運動習慣もないまま過ごし、体を冷やしてしまうような生活を送っていたのだろう。
そしてさらに精神科の薬を……ということは、太りやすい環境が整っていたと言えるかもしれない。
かと言って、精神科の薬は絶対に抜いてはいけない。勝手に抜いてしまったら、後々紫雨が困ることになる。
沢木は短時間で脳をフル回転させて考えた結果、こう答えるのだった。
「まずは、痩せやすい体を作りましょう! そうすれば、痩せることに繋がりますから。急に痩せるのは無理ですし、無理は続かないものです。ちょっとずつ、変えていきましょう」
「……でも、変えるって言っても、出来ることなんて。私、運動は嫌ですよ?」
「大丈夫。もっと簡単なことから始められますよ。たとえば、お風呂はシャワーだけじゃなくて、湯船に浸かるようにすること。特別なマッサージなどは今は不要です。ご飯だって、間食してしまうなら似たような商品のカロリー表示を見て、カロリーの少ないものを選ぶ。それだけでいいんです」
「えっ、そんな簡単すぎる……」
「でも、今までやってこなかった。違いますか?」
「そうだけど……」
「いいんですよ。最初はそれだけで。無理は禁物。先ほども言いましたが、出来るところから始めましょう。それから、もし、負けちゃいそうになったらそれでもいいって思えるように、私とトークアプリ、繋がりませんか? 私も出来る限り、お返事します。あ、もちろん強制ではないので断っていただいても大丈夫ですよ」
「そこまで、寄り添っていただけるんですね……!」
「え?」
沢木はきょとんとした表情を見せる。一方で紫雨は嬉しそうに微笑みながら沢木の両手を自身の両手で包んだ。
「ぜひ、お願いします。何でも屋さんって、怪しかったけれど、沢木さんでよかった! トークアプリは、これが私のアカウントです。どうか、これからよろしくお願いします!」
「はい。よろしくお願いします」
「あの、ところで……」
「はい」
「料金なんですが、おいくらになりますか……? 私、あまり持ってなくて」
「毎月3000円でお願いします。大丈夫ですか?」
「……! おやつや飲み物の分我慢すれば大丈夫かも! 改めまして、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は握手を交わし、紫雨はまず3000円を沢木に手渡した。
「ありがとうございます。では、先ほど言ったことを、また後程メッセージを送らせていただきますね」
「はい!」
そしてその日から、紫雨は小さな努力を始めるのだった。
沢木も、その努力を応援し、事務所にやって来ては報告と料金の支払いだけではなく、楽しく話をしていた。
今のところ、始めたばかりでまだ結果は出ていないが、少しずつ、何かが変わってきているようなそんな気がしていた。
というのも、会話をしている時に紫雨の表情が段々と明るくなってきていたのだった。
それに、カロリーの高いものを食べてしまった時も素直に報告してくれるから沢木としてもありがたかったし、紫雨からしても応援してくれる沢木の存在は頑張る力になっていた。
気づけば、紫雨は自分から調べるようになると出来ることから取り入れているようだった。最初に運動が嫌だと言ったのに、一日10分から動画を見ながら動いたり、ラジオ体操を取り入れたりするようになって、ちょっと近くに行くくらいなら徒歩で行くようになったと紫雨は沢木に報告していた。
……やがて、紫雨は一ヶ月に1kg落とし、次にまた戻り、2kg落とし、1kg戻り……と、それを繰り返して少しずつ、痩せていった。
見た目の変化はまだまだ先のことだろう。
だが、その努力が実を結んでいるのは、表情や行動からわかるのだった。
「沢木さん、こんなに長い間、付き合ってくれてありがとうございます。まさか、こんなに付き合ってくれるなんて」
「頑張る素敵な女の人を、応援したいんです。私。だから、全力で頑張る紫雨さんを、私は応援しているんですよ。これからも、二人三脚で頑張りましょうね!」
「……はい!」
「あ、そういえば今日なんですけど、ちょっと歩くけど近くの公園でイベントがあるみたいなんです。せっかくなので行ってみません? 紫雨さん」
「沢木さんとなら行きたいです!」
「なんだか、フットワーク、軽くなりましたね」
「沢木さんのお陰ですよ」
「……ふふっ」
沢木は心の中がじんわりと温かくなるのを感じた。
「行きましょうか! 紫雨さん!」
「はい!」
何でも屋沢木へようこそ! 根本鈴子 @nemotosuzuko
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