第8話 ありきたりな天使からのよくある呼び名






「べびたん」


「ふふっ」




「‥‥‥‥っ!」

 声が出ない。


 え? 一体今何が起こってるの? 一体何の時間なんだ?



「べ~び~たんっ♪」

「そ、それって、俺の、こと?」

「そうよ。かわいい呼び名でしょ?」

「やめろよ」

「え~。だって赤ちゃんみたいなんだもん」

「おかしいと思ったんだ。いきなりほ乳瓶で飲めとか」

「え?」


「最初から俺を赤ん坊扱いしてイジるつもりだったんだ」

「それは違うよ? 法力を払底ふっていするまで使用した副作用による運動野の機能低下、それ由来のがく顔面領域を除く身体の随意的な運動の困難、摂食・嚥下えんげ障害。誤嚥ごえんを防いで秘薬を効率的に経口摂取する合理的な器材が、ほ乳瓶だったっていうだけだよ?」


「専門用語で殴るのやめて!」

「あ、ごめんなさい。つい‥‥」

「あ、でも正気に戻った?」

「そんなことはないでちゅよ~。べびたん」

「なんでだよっ!?」


 どういうことだ? 正直、意味がわからない。こんな難しい医学用語を話せるってことは、愛依は赤ちゃん返りをして‥‥いない?



「どうちたの? 急に『俺』なんて言いだして?」


 うぐぐ!


「今まで『僕』だったのに?」

「愛依が赤ちゃんイジりしてくるから」

「面白いね。それで強そうな一人称に変えたのね」

「分析するな」

「だって。『俺』って言ったって。身体が動かないよ?」

「そうだけど」

「でも、そう考える暖斗くん、ちょっとカワイイかも」

「な、なんだよそれ」


 ちくしょう。完全にからかわれてる。こんな子だったのか?


「‥‥じゃ、検査の続きしましょうね? 足は動く?」


 秘薬を飲んでさらに時間が経ってる。自前で歩けるかどうかは重要だよ。


 だって。



「はい。あんよがじょうず♪ あんよがじょうず♪」

「‥‥‥‥ぐっ」


 今日二回目に言葉が出ない。想像して欲しい。セーラー服に白衣着た美少女が手拍子をして囃して。

 その眼前をよろよろ歩く僕を。


「よちよち歩きは何とか‥‥できてきてるね。すごいすごい」


 「よろよろ」だよ訂正して! しかし恥辱に耐えてもこれは達成したい。僕もそろそろ自分の身体が発するサインに抗しきれなくなってきてるんだ。


 膀胱だけど。


 この課題をクリアすると転倒のリスクがオフ、で、歩行時の僕への介助が不必要になる。そうすればつまり。


 ひとりでトイレに行けるようになるんだから!



「あ、回復が早いね、今回。じゃあクリア、でいいかな?」

「やった。じゃあ早速‥‥」

「よくできまちた~。うふ。ちゅっ」


 え? 今一体何が起こった!?


 愛依に抱きつかれて、顔が近づいた一瞬だった。


「だ~って。あんよがじょうず、なんだもんっ」


 頬の一部分。空調の風が当たって、そこだけがひんやり冷たい。


「どうしたの?」


 あまりのことに頭が追いつかない。死ぬほど驚いたけど、あ、辛うじて粗相はしてないみたいだ。ナイス耐久僕。いや俺。


「トイレ行ってくる。ついて来なくていいから」

「うん。ここで待ってるね」


 彼女はベッドの脇、医師用の丸椅子スツールに座ったまま頷いた。



 病院トイレの洗面の鏡。映る自分の顔。ひんやりする箇所に別段の変化はない。いっそ、と思って顔を洗おうとしたけれど、やめた。


「ひとりでちゃんとできましちたか~? べびたんっ」


 予想通り。授乳室では、満面の笑顔が待ち構えていた。



「だからなんだよその『べびたん』って?」

「ふふ~。秘密だもん」

「女子の『秘密』って便利だよな」

「そうよ。じゃあまた検査クリアしたら、いい子いい子♪ するね?」

「しなくていいから! 近づかなくていいから」

「そんな~。ご褒美だよ?」

「誰のだよ?」

「ふふ~。どうでしょう? じゃ、そろそろおねむの時間♪」

「こら~。勝手にベッドを倒すな!」

「ねんね♪ ねんね♪」

「歌うな!」

「あ~~。わたしも今日はがんばったから、疲れちゃったかも」

「‥‥そりゃ法力使い切ったんだから」

「そうよね。じゃあもう、まぶたが上がらないかも」

「えぇ‥‥?」

「あ~。こんな所にちょうどいい枕が」

「こ、こらちょっと」

「う~ん。吸い込まれる~」

「勝手に人の腕を」

「腕まくら♪」

「だめだって」

「あ~。いいきもち~」

「‥‥っ」

「ふぅ~」

「あ、頭ぐりぐりすんなよ。アホ毛が刺さる」

「じゃああっち向いてれば?」

「そうするしか‥‥」

「すきあり! むちゅ!」

「は? はい? 今何した‥‥!?」

「ふふっ、秘密~。じゃ、おやすみなさい」

「明り消すな。うああぁ~」

「もうねんねよ? べびたん♪」








 後日。


 魔物の出現が急激に減った。想定内らしい。緊急出動もほぼ無くなり、僕の身辺は急に落ち着いた。


 そのタイミングで逢初家にお邪魔した。食事に招待されたんだよ。「回復担当として娘がお世話になりましたので」みたいな名目だったかな。

 咲見家としても「いえいえ。こちらこそ」だったので、親から大仰な菓子折りとかを持たされた。今日は取りあえず、僕だけが招かれている。


 食事会については特に何も。普通のご家庭の普通の食事会だった。愛依のご両親から魔物退治のこととかを訊かれた。愛依は三姉妹の長女らしく、色々率先して動いてたな。座布団を用意したり、お茶を淹れたり。「愛依は咲見さんの横で座ってなさい」ってお母さんに釘を刺されるくらいだった。



 食事の片付けとかで愛依がいない時に、客間に来た愛依のふたりの妹と遊んで仲良くなった。


 その時、ちょっと興味深い話を聞いた。


 慶生けいちゃんと詠夢えむちゃん。ふたりとも愛依に雰囲気がよく似ている、美人だった。








 慶生ちゃんは11歳くらいかな。


「あのね。私知ってるよ。お母さんとお姉ちゃんが話してるの聞いちゃったんだ。お姉ちゃんはねえ、無くなるんだって。あれが」

「え?」

「だから気をつけなさいってお母さんが。自制心が無くなるの。後遺症の時」








 詠夢ちゃんはもっと幼い。仔犬のぬいぐるみを抱いて放さなかった。


「あのね。わたし知ってるよ。それはこの子のなまえなの。えいちゃんも、わたしくらいのころ、こうやってこの子をだいてたから。あのね。えいちゃんはねえ、言ってたの。せかいでいちば~んかわいくて、いちば~んだいすきなあかちゃんの名まえ」

「え?」

「この子。あのね。このこいぬのあかちゃんの名まえなの。ね? べびたん?」








 肩を叩かれてはっとした。愛依だった。





「ね? りんご切るけど食べる? べびた‥‥あ、いえ。暖斗くん」




 了



―――――――――――――――――――――――――――――


全8話、終了となります。

ここまでお読みいただきありがとうございました。


このふたりのイチャコラをもっと‥‥という方は

本編「ベイビーアサルト」も、是非ご一読くださいませ。

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ありきたりな退魔師のよくある異変 ~医務室の青い春 僕はこの娘と今日もふたりきり~【二万文字版】 いぬぅと※本作読んで作者への性癖認定禁止 @inu-to

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