不離不離 不話不話

西川 旭

姉妹蜂

 昂(こう)、という目出度くも景気のいい名前の帝国に、帝国なのだから当然のように大きく荘厳な後宮があった。

 その名を「朱蜂宮(しゅほうきゅう)」と云う。

 東西南北の四区画に分けられた朱蜂宮、その南苑(なんえん)を統括する貴妃、塀(へい)紅猫(こうみょう)は、朝から憂鬱な溜息を、何度も吐いていた。


「明日には、漣(れん)が東苑(とうえん)に遷(うつ)ってしまうのですね……」


 部屋に控えている侍女に聞いてもらいたいのか、それとも単なる独り言か。

 紅猫の憂いごとは、同じく南苑の妃、除葛(じょかつ)漣(れん)という美妃が、東苑に部屋替えをしてしまうからだった。

 空座であった東苑統括の貴妃に、漣が昇位するためである。


「統括の仕事が忙しくなったら、きっと私のことなんて相手にしなくなるんだわ。この部屋に遊びにも来てくれなくなる……」


 誰に聞かせるでもない後ろ向きなことをボヤきながら、紅猫は自分の部屋を見回した。

 貴人の部屋にあるまじき、散らかりっぷりである。

 書き物の途中の紙、襟巻を作ろうとして途中で諦めた毛糸と編み針、木彫りの動物たち、なにに使うのかわからないガラス製の立方体。

 その他ごちゃごちゃと、有用無用の品々が部屋の棚に、卓に、床にと散乱している。

 紅猫は典型的な「片付けられない女」であった。

 むしろ部屋が無秩序に乱れている様子に安心感を覚える性質である。

 そのために、侍女たちも特に言われないうちは部屋の整理をしない。

 

「もう少し片付けた方が良いですよ、足元が安全なくらいには」


 と、意見したものもいたのだが、彼女はすでに後宮の仕事を辞して、別の土地へ行ってしまった。

 その女がいなくなってから、部屋は散らかる一方であった。


「漣が貴妃になるのを整理しきれていない、私の心の乱れみたいね」


 紅猫はそんな風に悲哀に暮れてみたものの、部屋が汚いのはいつものことだ。

 一人で愁嘆ぶっている紅猫を見て、部屋付き侍女は心の中で軽く嘲笑した。

 東苑なんて、いつでも歩いて気軽に行ける距離だろう、と。

 事実、以前まで東苑の貴妃を努めていた盲目の女性は、日課の散歩と称して朱蜂宮の中をくまなく歩き回り、多くの妃たちと茶を飲み、世間話を交わし、一緒に楽器を奏で鳴らして、広く深く友誼を結んでいた。

 

「そんな度胸も社交性も、紅猫さまにはないでしょうけど」


 どこか頼りない主人だからこそ、むしろ愛らしい。

 侍女はそう思い、沈んだ表情の紅猫を愛おしむように見つめるのだった。


「夕刻のお祈りが、そろそろ始まるようです」


 いじけながら書き物の続きをしていた紅猫に、侍女が伝えた。

 漣の日課である祈祷の時間が迫ったのだ。

 個人的な理由からあくまでも自主的に、漣は巫女のような役割を長年続けて、日昇と日没に毎日欠かさず、祈りを捧げている。

 しかし継続の力とでも言おうか、今となっては後宮内でほぼ公的な勤めであるかのように、漣の祈祷は誰からも尊重を以て扱われていた。

 漣が中庭で祈っている間、他の南苑の妃も自ずから進んで慎み静寂を保ち、あるものは同じ時間に合わせて自らも太陽に祈るようになっていた。


「漣が南苑で祈るのも、これが最後ですね」


 紅猫は筆を置いて身だしなみを整え、中庭へと向かった。

 もちろん一緒に祈るためであるが、これも義務ではなく、好きでやっていることである。

 漣が東苑に遷るとなれば、毎朝毎夕の祈りの場所も、東苑の中庭で行うことになるだろう。

 一緒に祈るのも最後になるのであろうか、そんな悲壮感を漂わせている。

 供回りを勤める侍女に言わせれば「一緒に祈りたいなら、明日からご自身も東苑に行けばいいのに」という話でしかなかった。

 南苑の紅猫の部屋から東苑の中庭に至る路、屈折した廊下をくねくね歩いたところで、十数軒程度の距離でしかない。

 後宮を一つの町と仮に言うならば、せいぜい同じ町内の隣の区画でしかないのである。

 

「漣、今日もよろしくお願いします」


 南苑に来た紅猫は、これから夕陽への祈祷祭祀を行おうとしている漣に、沈痛な面持ちで声をかけた。


「なんや、改まって。こんなんいつもと変わらへんよ」

「そ、そうですね。いつも通り、粛々と、取り組みましょう」


 自分の懊悩に反し、漣の振る舞いがまるでいつも通り、日常の様子であることに、紅猫は余計に凹んだ。

 なんにしても、祈りの間は雑念を捨てねば、神への礼にもとる。

 努めてなにも考えないよう、紅猫は祈ることにのみ、神経を捧げた。

 冬の寒さも随分と過ぎ去り、中庭には紅梅が鮮やかに咲き誇る。

 あの梅のように明々(あかあか)と、堂々と自分も咲くことができればいいのに。

 不遜ながら、神への祈りの中に、紅猫のそんな私情が混じるのも、致し方ないことであろう。

 いつまでも、この最後の祈りが終わらなければいいのに。

 言葉もなく、ただこうして一緒にいられるだけでいいのに。

 いつしか情けない感傷で胸がいっぱいになった紅猫は、じわりと目尻が濡れるのを覚えた。

 慌ててそれをぬぐうと、太陽への祈祷を終えた漣が、じっとこっちを見ている。


「す、すみません。目にホコリが入ってしまって」


 そう言い訳をした紅猫に、漣が歩み寄って、袖の中にあるなにかを出して見せた。


「珍しい花が市場に売ってたって、うちの部屋の子が買って来てくれたんや。紅(こう)ちゃんにもひとつあげるわ」


 漣はそう言って、きゅっと紅猫の掌に一輪の花を握らせた。

 紅猫は、その薄い紫色の花弁を持つ植物の名を知らなかった。


「確かに珍しいですね。見たこともありません。でも、綺麗……」


 三方向に広がる小葉と、四方向に尖って伸びる不思議な花びら。

 この国のものではないのだろうかと、紅猫は右手に花を持ちながらしげしげと眺める。


「いつまで握っとんねん」


 少しの間、夢中になっていると、呆れ笑いのように漣に突っ込まれた。

 花を渡されたときに、無意識に漣の左手を握ったまま、離さずにいたらしい。


「あ、ごめんなさいね」


 いつまでも、この手を離さないでいたい。

 しかしそんな野暮でつまらないことを言って、漣を困らせるわけにはいかない。

 居住まいを正して咳ばらいをした紅猫は、未練と執着を振り切る。

 笑って、東苑に漣を送り出さなければいけない。

 南苑統括の貴妃として、それはどうしたって、しなければいけないことなのだ。


「漣、今までありが」

「話さないでええよ、そんなん」


 これまで仲良くしてくれたことへの感謝と、これから貴妃としての生活を送ることへの激励を口に出そうとした紅猫だが、漣に言葉を止められてしまった。


「で、ですが」

「お別れっちゅうわけやあらへんのに、みずくさいねん。長い話やったらまたお酒でも飲みながら話そや」


 爽やかにこだわりなく言って、漣は南苑の中庭を去った。

 一人残され、佇んでいる紅猫。

 侍女の一人が、しょげていないかどうか、顔色を窺う。


「……また、お酒でも、って。漣、これからも遊びに来てくれるのね」

 

 なんの心配もいらぬようで、一人で勝手に漣の言葉を反芻し、幸せそうな顔をしていた。

 

 余談であるが、漣が紅猫に渡した花。

 我々の世界では錨草(いかりそう)と呼び、尖った花弁が海底に打ち込まれる錨のようであるからその名がついた。

 その花言葉は「あなたを離さない」というものだが、昂国に生きる彼女らがそれを知る由もない。

 なににせよ、離れがたき関係というのは、いつの世も、どこの地でも、あるものだなあ。

 と、この話を後になって聞いた私は、半分呆れつつも思うのであった。

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不離不離 不話不話 西川 旭 @beerman0726

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