別心同体だった、かつての私たち

サトウ・レン

赤い糸で結ばれて。

 私はひとりの男性と十年間、赤い糸で結ばれていたことがある。

 言葉にしてみると、まるでチープな比喩にしか聞こえないが、これは比喩でもなんでもない。本当に私の手と彼の手は、手錠よりも、この世にあるどんなものよりも、頑丈な赤い糸で結びつけられていたのだ。


 私が十四歳の時から、二十四歳までの、もっとも多感で、重要な時期と言っても過言ではない十年だ。


 最初、私は彼があまり好きではなかった。彼は周りと歩調を合わせることなくマイペースな性格で、授業中はいつも、ぼんやりと窓越しの景色を眺めている印象があった。不良ではないが、真面目でもない。だからと言って、一匹狼を気取るわけでもなく、斜に構えた態度でもなく、どこか頼りなさげで、失礼な言い方にはなってしまうのだが、当時の私には、ただ世の中を漠然と、流されるように生きているだけに見えたのだ。


 話すこともないまま、進級とともに関わりがなくなっていく、私の人生という物語において、生徒Aのような存在で終わるはずだった。あの日がなければ。


 きっかけはいまも覚えている。

 席替えで彼が隣の席になり、私が消しゴムを落としてしまった。


 拾おうとした私の手と拾ってくれようとした彼の手が触れて、「あっ、ごめん」とお互いの声が重なり、慌てて手を離そうとした瞬間、異変が起こった。気付いた時には、私と彼の手に繋がれるように、一本の赤い糸が巻かれていた。びっくりとした私と彼は、まずはすぐに糸を切ろうとした。


 ハサミで。


 だけどまったく切れる様子はなかった。そして周囲が私たちの様子がおかしいことに気付き、先生も含めて、最初は私たちがふざけていると思ったみたいだが、普段から仲が良いわけでもなく、私たちの表情に焦りも見えて、冗談ではない、と分かり、みんなで糸が切れるように色々なことを試してみた。切っても焼いても、どうやっても、糸から逃れることはできなかった。


 結局は諦め、私たちは私の家に帰ることになった。

 彼には母親がおらず、考古学者をしている父親は家を空けることが多く、その時も不在だったので、家族に事情を伝える必要がなかったのだ。


 私たちが家に帰ると、家族はちょっとした大騒ぎだ。それは私たちの手が繋がれていたことではなく、

「おい、彼氏か!」と父。

「あらあら、彼氏と糸なんか結んじゃって」と母。

「えぇ、私より先に作るなんて」と姉。

 と、彼を私の彼氏と勘違いして、囃し立てはじめたのだ。


 私たちが慌てて、こんなことになってしまった理由を話すと、

「まぁ、ほっとけばそのうち、切れるだろう」と父。

「その間は泊まっていきなさい。ドラマチックな出来事が恋にでも発展するといいわねぇ」と母。

「うんうん。私、本当は妹なんかより、弟のほうが欲しかったんだ」と姉。


 失礼すぎだぞ、お姉ちゃん。……私たちは思わず苦笑してしまった。深刻に捉えられるより、こういう様子のほうがずっと気楽だったから。私は気丈な振りをしていたが、この先が不安で、暗い気持ちになっていたのだ。彼がすぐ近くにいるから、強がって泣かなかったが、ひとりだったら、部屋で大泣きしていた、と思う。


「優しい家族だね」

 私の部屋に入った彼が、きょろきょろと部屋の中を見回しながら、言った。初めて部屋に父親以外の男を入れる。糸で繋がれていることの恐怖とは、別の怖さがなかったか、と言えば、それは嘘になる。


「あんまりじろじろ見ないで。きみのところは違うの。きみのお父さんは」

「悪いひとじゃないよ。でもあんまり知らないんだ、家にいないことが多いし、僕にそんなに興味がないんだ」

「そっか。……これから、どうしよう」

「分からないけど、いつか離れられるよ」と彼が繋がれていないほうの手を、私の繋がれた手の甲に乗せた。「大丈夫」


 その行動にびっくりして、そしてその時になって、ようやく自分の手が震えていることに気付いた。彼の行動に下心なんてひとつもなかった。


「ありがとう……」

「嫌だとは思うけど、すこしの間、一緒にいてください」と彼が頭を下げる。


 その日から、私たちの同じ屋根の下で暮らす生活がはじまった。

 食事もお風呂もトイレも、寝る時も一緒だ。糸は多少、伸び縮みができるので、お風呂やトイレの時は相手にドアを挟んだ向こう側まで出て行ってもらい、目隠しや耳栓をする、という決まりになった。食事は運よく私たちの利き手が逆だった、ということもあり、比較的、苦労はしなかった。最初は嫌だな、という気持ちもあったが、一緒に寝る生活にも、半年もすれば、順応できた。どちらかと言えば、私のほうが寝相が悪いので、彼には迷惑を掛けたと思う。


 こんな不思議人間を世間はほっておかない。私たちはちょっとした有名人になり、テレビや雑誌で取り上げられるようになった。もちろん嬉しい内容ではなく、怪異や化け物やUMAのような扱いだ。まともな人間として扱ってもらえない悲しみや悔しさに思わず泣き出した私の背中を、彼がずっとさすってくれたこともある。最初は取材や自分ならばその糸を切れるという人間が押し寄せてきて、慌ただしかったが、時間が経つと、凪いだように静かになった。


 部活はふたりとも退部した。私はバレー部、彼は囲碁部で、バレー部は団体競技だから、不可能で仕方のないことなのだが、囲碁部は続けられる可能性はあったのではないか、という気もする。だけど彼はあっさりと辞めてしまった。きっと私への気遣いもあったのだろう。


 私も、彼も、一緒にいるうちに、相手の考えることが、ある程度、分かるようになってきていた。


「まるで一心同体だね」

 と一度、彼が言ったことがある。そうだな、と思いながらも、私は認めるのがすこし悔しくて、


「別心同体だよ。まだ、ね」

 と答えたことがある。


 高校への進学は推薦入試を受けることになった。一般入試は受けることができない可能性があったからだ。確かにふたりの人間の脳みそで試験を受けることができる、というのは、フェアではない。


 高校生になっても、私たちの肉体は繋がれたままで、だけどお互いにこれからの未来、歩んでいきたい道は別々にある。私は彼が、父親のような考古学者になりたいことにも気付いていた。私が歩みたい道は、はっきりと定まっているわけではなかった。ただ私の存在が、彼の足枷になるのは嫌で、はやくこの糸が消え去ることを望んでいた。同時に、この糸が消えて欲しくない、とも願っていた。


 もうすでに彼の父親も、私と彼がこんな状態になっていることは知っていて、心配してくれるとともに、


「こんな素敵なお嬢さんで良かったな」


 と優しくほほ笑んでくれた。格好よくエネルギッシュな雰囲気のひとで、どこか「ジュラシック・パーク」の主演だったサム・ニールに似ている。あんまり知らない、と彼は父親についてそう言っていたが、憧れは間違いなくあったのだろう。彼と彼の父親が話している様子を見れば、すぐに分かった。


「私は、これからどうすればいいんだろう?」

 私のつぶやきに、彼が困った表情を浮かべる。


「僕のせいで、進路も限定されちゃうもんね」

「そういう意味で言ったんじゃないし、それはお互いさまでしょ。ただ漠然としすぎてて、よく分からないなぁ、と思って。あっ、もちろんきみと大学に行くのは反対しないよ」

「うーん。僕も大学に行くかどうかは迷ってる」

「それって私がいるから」

 彼は否定も肯定もしなかったが、私を気遣っているのは、その表情から、すぐに察することができた。


「……私に気遣っているのなら、そんなの絶対にやめて。私もゆっくり今後の進路を、高校と大学での時間を使って考えるから」


 そして私たちは大学に進学した。彼の父親のいる大学だ。また一般入試ではなく、推薦で、私たちがある種の色物として受け入れられたことは自覚している。彼が夢に向かって勉強している時、私が何をしていたか、というと、ずっと小説を読んでいた。彼の父親が暇そうにしている私に、一冊の小説を貸してくれて、それが私と小説との出会いで、大学時代、私は小説に漬かる毎日を送っていた。


 大学の時にできた友人が私たちがふたり暮らしする部屋に泊まった時、その友人に聞かれたことがある。


「ねぇ、そういう関係になったことないの?」

 彼はもう寝てしまっていて、私とその友人だけが起きていた。


「そういう関係?」

「分かってるくせに、肌を重ね合わせたこと」

「ないよ」

「本当に?」

「うん」

「だとしたら、心底嫌いか、あまりにも好きなのか、のどっちかだね。で、多分、後者のほうだ」

 と友人は笑っていて、私は何も言葉を返せなかった。たぶん私の顔は赤く染まっていたはずだ。


 彼が大学院に入ることを決めたのと、ほぼ同時期に、私ははじめて自分で小説を書きはじめた。作家になれるかどうかなんて分からないが、プロの作家ではなくとも、いまは小説を書ける場がある。その頃、私はカクヨムという小説投稿サイトを知った。


 私たちは大学を卒業した。

 同情の目や偏見の目は当然、いまもある。消えることはないだろう。だけど私たちは繋がることでしか得られない幸福を得て、彼の心までは分からないが、私の心はいまの人生に満足している。家族との関係も良好だ。彼の父親は私を実の娘のように、私の両親は彼を実の息子のように想ってくれている。


 姉は、

「あんたたち、そろそろ結婚でもすれば。そうじゃないと、お姉ちゃんが奪っちゃうよ」

 と私に言った。私の気持ちを知る姉が、彼もいるのに。まったく困った姉だ。


「いびつな三角関係になるから、やめて」

 冗談めかして返した。


 そして二十四の春、私が地方の主催する小説コンテストで佳作になり、彼と同様に夢を叶えるために、ステップアップしはじめた時、突然、私たちの糸は切れた。公園をふたりで散歩していた時のことだ。


 唐突にはじまったことは、唐突に終わりを告げた。何も脈絡はなかった。


「切れた、ね」

 私はそれしか言えなかった。


「うん」

「良かった……んだよね」

「そう、だね」


 そう、これで私たちは自由になれた。なのに彼の顔はあまり嬉しそうじゃなかった。きっと私も同じような表情を浮かべていたはずだ。


 それから数日間、私たちは繋がれていない状態で過ごした。一緒に暮らしているのに、片割れを失ったような感覚がある。


 朝、起きると、彼がいなくて、書き置きが残っていた。

 公園で、彼が待っているそうだ。待ち合わせの公園は、私たちの糸が切れた、近所の公園だ。


 中央の噴水の前で、彼が待っている。

 彼と待ち合わせる、というのは不思議な気分だ。


「全然、慣れないね。いつも一緒だったから」

 彼が言った。私たちは同じ気持ちを共有している。


「うん」

「これから、僕たちは離れることができる。当たり前のことができるようになった」

「そう、だね」

「一緒にいる必要もなくなった」

「改めて言われると」


 寂しい。


「うん。改めて言いたくなったんだ。これからもきみと一緒にいたい。きみがまだ、別心同体って言うなら、諦めるけど」


 嬉しい。


 彼が手を差し出す。そこに赤い糸はもう見えないが、心に繋がれた糸はきつく結ばれて、もうほどける様子もなさそうだ。


 私は彼の手を強く握る。

「いつの話、してるの?」

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