プラチナ

皐月あやめ

はなさないでね、さいごまで。

 怖がりなあなたが、そっとわたしのジャケットの裾をつかんだ。

 ぐるりとガラス張りで外の景色が一望できる円形エレベーターの中、高所恐怖症なあなたは壁にしっかりと背中を預けて、エレベーターの扉の上の、どんどん増えていく階数表示だけを見つめている。

 パッと見にはいつもと変わらない涼しい横顔。けれど実際は誰にも気づかれないように、隣に立つわたしに摑まっているんだもの。


 可愛いなぁ。


 わたしはあなたの左腕にぴったりと身を寄せると、あなたの指に自分の指を絡めて恋人繋ぎして、誰にも見えないように素早く自分の背中に隠した。

 チラリとあなたの視線がわたしに向けられ、わたしは悪戯っ子みたいな笑顔を返す。

 そして何事もなかったかのように、足下に零れ落ちていくみたいな、煌めく夜の街に視線を戻した。


 コリコリと指に当たるプラチナリングの小さな痛みが、心地よかった。


 今日はわたしたち夫婦の初めての結婚記念日のお祝いに、最近話題の『地上45メートルから夜景を見下ろせるリバービューレストラン』を訪れていた。

 だからいつもはファストファッションなわたしたちも、今夜ばかりは少しお洒落して、お互い余所行きの顔をしている。


「……マジか」

 先程、お店のエントランス前でスケスケのエレベーターを仰ぎ見たあなたは、思わずといった感じで呟いた。

「すごいねぇ。エレベーターまでコレだとは思わなかったよ。ごめんね」

 わたしは謝ったけど、嘘。本当は知ってた。

 予約前にちゃんと調べたもの。

 だからこれは、高所恐怖症のあなたへの、ささやかなお仕置きなの。

 



 わたしたちは元々、会社の同期だった。

 わたしは総務部、広報のあなたとはすれ違ってばかりだったけど、そこは同期のよしみで何とか交際にこぎつけた。

 同じ総務部のおひとり様の先輩から、あなたがフリーになったみたいって情報をもらって、わたし超頑張って告白したんだよ。

 OKしてもらえた時は、本当に嬉しかった。


 でもいちばん嬉しかったのは、あなたからプロポーズされた時。嬉しくて、幸せで、わたしってば涙が止まらなかったよね。

 だってあなた発信で何かしてくれたのって、今のところ後にも先にも、あのプロポーズだけだから。


 告白も、付き合ってからのデートプランを決めるのも、わたし。同棲しない?って切り出したのもわたしだった。

 そんなわたしからの提案、あなたは全部、受け入れてくれたね。

 優しいあなた。

 同い年なのに落ち着いていて、口数も少なくて、たまに見せてくれる静かな微笑みが愛おしい。


 だけどわたしは知ってるの。

 本当のあなたを。


 元カノにだけ見せる、本当のあなたの貌を。




 あなたは広報部に配属されてすぐに、同じ部署の二期上の先輩に恋をした。

 艶々ストレートの黒髪で、スラリと長い脚を包むパンツスーツが様になってる、社内でも評判の美人さん。

 そんな先輩に気に入られたくて、あなたは張り切って仕事したり、猛アピールを繰り返したりしていたよね。


 先輩といる時のあなたは、心の底から嬉しそうに笑ってた。

 普段のあなたからは想像もできない笑顔。

 破顔って、こんな表情のことなんだなって、思ったよ。

 

 ふたりが付き合い出した時、あなたは周囲には秘密にしていたようだったけれど、正直、バレバレだった。

 見ていれば分かるよ。

 わたし、あなたにずっと片想いしてたから。


 付き合い出して少しして、あなたが先輩の奔放な恋愛観に振り回されていることにも、すぐに気がついた。

 笑顔がだんだん翳っていってたからね。

 それでも関係を続けようと必死に頑張っていたあなただったけど、いつしか先輩といても笑わなくなっていた。


 別れを切り出したのはあなたの方。

 けれど、結果そう仕向けたのは、先輩。

 あなたの心は疲れ切っていたし、新しい恋をすることに、臆病にもなっていた。

 

 あなたをそこまで追い詰めた先輩には、わたし本当に感謝してるの。

 だって考えてもみて?

 わたしと先輩は真逆のタイプ。

 あの手の女に傷つけられたあなたを癒せるのは、わたしみたいな平凡だけど一途な女しかいなくない?

 ね、そうでしょ?


 先輩のおかげで、わたしたちは結婚できたと思ってるの。

 この一年、毎日が楽しく過ぎていって、わたしって本当に果報者だなって。

 ありがとうって思ってたんだよ。


 それなのに。


 あなたは結婚記念日の約束をドタキャンしたよね。

 そう。二ヶ月前の、本当の結婚記念日だよ。


 理由は仕事上のトラブル処理。

 わたしはそれを信じてたよ。

 寿退社したとは言え、わたしも元社員。

 部署によってはそういうことで遅くまで残業になることは、本当によくあったしね。


 だけどね、あなたには言ってなかったけど、あの日の夜、総務のおひとり様から久々にLINEがきたの。画像付きで。

 なんだと思う?

 

 そこに写っていたのは、繁華街を歩くあなたと先輩のツーショット。

 遠目からの隠し撮りっぽかったけど、間違えるはずもない艶々ストレートの黒髪。

 トレンチコートを颯爽と着こなした女性と、隣を歩くあなたの破顔。


 おひとり様ってば、ご丁寧に「復活したんじゃない?」とか「まだ切れてなかったのかも」なんてメッセージまで書いてくれちゃってさ。

 そんなことあるわけないのにね。


 先輩とは同じ部署なんだから、一緒に仕事していただけ。

 それを勘違いしてわざわざLINEしてくるなんて、おひとり様にも困ったものだよね。

 だけど、おひとり様みたいな情報通に画像を撮られちゃったのは、迂闊だったね。


 だってそうでしょ。

 それがどんなシチュエーションだったとしても、誤解や勘違いであらぬ噂が立たないとも限らないんだから。

 そんなことでもしもあなたの将来に傷がつくようなことにでもなったら、わたし耐えられないよ。


 だけど安心してね。

 画像はおひとり様ごと処分しておいたから。


 最近は無断欠勤が続いてるはずだけど、広報のあなたが総務のおひとり様の勤怠なんて、知る由もないか。


 わたしね、これでも怒ってるんだよ。

 違う。あなたが先輩とふたりでいたことなんかじゃないよ。

 そんなことじゃない。

 わたしは、本当の結婚記念日から今日までの二ヶ月間、あなたから何の埋め合わせもないことに、怒っているの。

 

 あの日、夜遅くに帰宅したあなたは手ぶらで、寝ずに待っていたわたしに「ごめんね」の一言もなかった。

 次の日も、その次の日も。


 謝ってほしかったわけじゃない。

 ましてやプレゼントが欲しかったわけでもないの。

 わたしはただ、あなたに愛されているって実感が欲しかった。

 一年間、夫婦として同じ時を過ごしてきたあなたの想いを、気持ちを、あなたから発信して欲しかったのに。


 ついに今日まで何もなかったね。




 ——チン。

 微かな音が静かに響いて、僅かな浮遊感の後、エレベーターが停止する。

 恋人繋ぎのあなたの指がギュッとなって、プラチナリングが食い込んだ。

 ふふ、停まる時ちょっとドキッとした?

 地上45メートルなんて、思っていたよりもあっという間に着いちゃったね。

 あなたってばせっかくの景色を見ようともしないで、高所恐怖症なんだからしょうがないけどさ。


 こんな高さちっとも怖くないのに。

 わたしは高い所も、狭い所も、暗い所も平気だし、ホラー映画やお化け屋敷も怖くない。

 そんなわたしの唯一の『怖いもの』――


 それは、あなたの左手の薬指から、このプラチナリングがなくなる日が来るのが、怖い。


 だから離さないでね。わたしのこの手を。

 わたしも絶対に離さないから。

 ——そう、最期まで。




 今夜はあなたとわたしの、仕切り直しの結婚記念日。

 かなりお高いフレンチ、奮発しちゃった。

 リザーブしておいた席は、これまた全面ガラス張りの窓際の超特等席。

 そのスペースだけ、床面までスケスケなんだって。ああ、楽しみだなぁ。

 さあ、ふたりでこの夜景とお料理をめいっぱい堪能しようね。




  完

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