放さないで

etc

第1話

 蝉の声が響き渡る中、私は妹の手を握りしめ、必死に走っていた。

 目の前には燃え盛る街の熱気と焦げた匂いが待っている。



 ◆



 数時間前、早朝のひぐらしが鳴き始めた頃、母は親戚の家へ大根の葉や豆の煮汁を貰いに行くと言って出かけた。

 いつもは駄々をこねない妹が珍しく母と一緒に行くと言い張ったため、私は思わず妹を怒鳴ってしまった。

 嫌味な親戚で、このまえウチに来た時も私たちの細い腕を見て母に辛く当たるのだ。


 満足に飯も食えないのは母のせいなんかじゃないのだ。

 ただ、それを口にするのはご法度だったから、八つ当たりに妹に怒鳴ってしまったのかもしれない。


 今思えば、妹は何かを感じ取っていたのだろうか。


 三瀧寺の麓にある我が家から東に広島城があり、その裏手が親戚の家がある。

 そのすぐそばで突然爆発が起こり、巨大なキノコ雲が立ち昇った。

 台風よりも強い風が家々を吹き飛ばし、火の手が瞬く間に街を包み込んだ。


 我が家も甚大な被害が出た。

 屋根が落ち、私と妹は下敷きになった。

 なんとか這い出た私は凄惨な光景に言葉を失った。


 昔話で聞いたダイダラボッチが何かしたのかと思った。

 母はきっと巻き込まれたに違いない。

 妹のわがままを聞いていればよかった。



 ◆



 そうして私はうるさい蝉の声がする中、妹の手を引いて母の元へ走っている。

 太田川にかかる橋で、親戚と出くわした。

 少し顔が丸い女の人で「おばさん」と声をかけると、「お姉の所の、ああ、みっちゃんかい?」と彼女は目を凝らした。


「はい、みち子です。母は一緒じゃないのですか?」


 首を横に振った。


「祇園町の小作に用があってね。いま家にゃあ誰もおらんよ」


 祇園町は三瀧寺よりもっと北の田畑ばかりの場所だ。

 母がそこに向かうとは一言も言ってなかった。

 もしそうなら、通りを東に出ないで、三瀧寺の麓沿いに行った方が近い。


「お姉は入れ違いになったんじゃのぉ。ああ、なんて運の無い」


 おばさんは深いため息を吐く。息が震えていた。

 燃え盛る街の方を振り向くと合わせた手を何度も擦った。

 それから三瀧寺のある高い丘の方へ改めて向き直る。


「みっちゃんもお寺さんへおいでね」


 いつも母に嫌味を言ってるおばさんが妙に優しい声色をしていた。

 おばさんのこういう話し方は母に似ているのにな。

 私はぎゅっと手を握ると妹の爪が私の手に食い込んだ。


「いいえ。私たち、母を探しに行くんです」


 するとおばさんは血相を変えた。


「何をバカ言いよるんだ! もうあそこに何も残っとらんけぇ行っても無駄じゃ!」


「もしかしたら母が助けを待っているかもしれないんです!」


「ほら、行くよ!」


 おばさんが私の腕を掴んだ。

 細い腕だから骨ごと握られたような感触がある。

 無理に引き離せば肉がぼろりと千切れてしまうと思ったが、私はお構いなしに振り払った。


「だったらどうやって妹を泣き止ませれば良いんですか!」


 さっきから後ろでずっとずっとずっと妹の泣く声が止まない。

 手を強く握りしめると妹の手が私の手に食い込んで、熱した鉄に触ったような痛みが走った。

 おばさんはそんな私の手を困惑した顔で指差す。


「そのずっと握っている木片は何じゃ?」


「妹です」


 おばさんの血相が変わり、私の手を力強く叩いた。

 そして、無理やり妹と引き離した。


『放さないで!』


 妹の叫び声が響いた。

 初めて泣きじゃくる以外の声を聞いて振り向くと、たしかに妹の姿が見えた。

 なのにそう思った端から、妹の輪郭がぼんやりと薄れていく。


「放さないよ……」


 おばさんが私を抱きしめた。

 汗と煤の混じった匂いがした。

 彼女の体がぶるぶると震えているのが分かった。


 私の頭の中は「放さないで」という声でいっぱいだった。

 母と妹を失った絶望と、取り残された孤独。

 焼け野原となったこの街で、私は一人になったのだと理解した。


 蝉の声はもうしていない。

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