見えない傷跡

文月みつか

見えない傷跡

 中学三年生になるタイミングで引っ越しをした。うちは転勤族だったのであちこちをまわっていたが、今度住むことになるその借家は中でもずば抜けて古かった。四階建ての白くて四角い集合住宅で、戸数はそれなりに多かったが、住んでいる人は少なかった。ほとんどが単身世帯で、引っ越しの挨拶をしたときに一軒だけ家族の世帯もあったが、その後会った記憶がないのでおそらくうちと入れ替わるように引っ越していったのだろう。


 玄関を入ると右手に風呂と洗面所とトイレがあり、左手にはダイニングキッチンがあった。キッチンから左手には洋室、右手には和室が二部屋続く。一人暮らしには十分な広さだが、四人家族には手狭である。


 風通しが悪く、壁やふすまはところどころ変色していた。壁はコンクリートに直接紙を貼っているだけのようで、固くて冷たかった。なんとなく空気も重たかったように思う。とにかく、かなり古くて老朽化していたという点は重要なので押さえておいてほしい。


 洋室は父の部屋になった。和室の一方は居間となり、夜は座卓を立てて脇にどかしてここに布団を敷いて寝た。もう一方の和室は私と弟に割り当てられたが、学習机のほかに背の高い箪笥たんすが二組押し込まれていて圧迫感があったため、私はあまり居つかなかった。それで実質、そこは弟の部屋になった。


 私は居間にいることが多かったがそこは共有スペースでもあるので、着替えるのも勉強するのも大変だった。好きな音楽を聴いて鼻歌を歌うのもはばかられる。受験を控えた思春期真っ只中の中学三年生には、けっこうしんどい状況だった。


 加えて、私は人付き合いが得意なほうではなかったので、新しい学校でも気心を許せるような仲のいい友達はあまりできなかった。初めのうちは転校生の物珍しさで話しかけてくれる人もたくさんいたが、二年生から持ち上がりのクラスですでに出来上がっていた女子のグループのどこにも溶け込むことができず、そこからあぶれてしまっていた子とつるんでいた。一人よりはよかったが、すごく気が合うわけでもなかった。


 そんな感じで学校でも家でも鬱屈した日々を送っていたので、普段はおとなしい私だったが、時々ストレスに耐え切れなくなり爆発することがあった。


 その日、気に食わないことが重なってどうにもイライラしていた私は、大声で叫びたい衝動にかられた。だが家族に叫び声を聞かれるのは嫌だったので、寸前のところで抑えこみ、少しだけ冷静になって、ものすごく力をセーブしながら、声は出さずにトイレのドアを蹴った。


 バンっと軽い音がして、トイレのドアに穴が開いた。


 びっくりして一瞬怒りを忘れた。

 すごく抑えたのに。やわらかいスリッパで蹴ったのに。


 木製の白いドアは思っていたよりもずっともろく、貫通こそしていなかったが、いとも簡単に破損した。15センチくらいの斜めに開いた裂け目から、ささくれた木が見えていた。


 こんなつもりじゃなかった。


 小さいころからずっと賃貸で暮らしてきたから、まずいことをしたのはわかった。傷の程度からして隠し通せるものでもないので自分から母に申告した。本当に軽く蹴っただけなのだと説明しても納得してもらえず、そもそもドアを蹴ること自体が悪いことであるので、私の家族間での評価は野蛮人としてしっかりと刻まれた。


 ドアは特に修理されることもなく、目隠しが貼られることすらなく、その後私はトイレに入るたびに、バカなことをしたなと思う羽目になった。


 それからしばらく経ったある日。ドアの傷跡が見慣れた景色になってきた頃だった。トイレに入って鍵をかけた私は、用を済ませて出ていこうとした。


 ……開かない。


 どうしても鍵が開かず、軽いパニックに陥った。幸い父も母も家にいるタイミングだったので、大声で助けを呼ぶとすぐに駆けつけてくれた。だが、外からいじっても鍵は開かなかった。結局業者を呼ぶことになり、私は数時間トイレの中に閉じ込められた。業者によると鍵はかなり旧式のタイプだったため、たまにこうした事故が起こるのだという。


 私は無事に脱出し、トイレの鍵は新しいものに取り換えられた。


 因果応報という言葉を体感した出来事だった。まさかトイレのドアに復讐されるとは。



 高校を卒業して、私はその古い借家を出た。もっときれいで自分の部屋がある環境を手に入れたいがために、県外の大学に入学したのだ。人生で初めて自分だけの部屋がある状況にいたく感動した。さようなら、狭苦しかった日々よ!


 しばらくして、あの古い集合住宅は取り壊されることとなった。固くて冷たい白い箱は跡形もなくなり、今ではもう新しい建売住宅が並んでいる。


 私が穴を開けたドアはもう存在しない。きっと家族もあの頃私がはたらいた狼藉など忘れていることだろう。


 暗くて寂しかったあの頃に戻りたいとはまったく思わない。だけどもう二度とあの傷跡を見ることはできないと思うと、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、寂しいような気もする。

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見えない傷跡 文月みつか @natsu73

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