成功者の作り方

凪野海里

成功者の作り方

 指の爪を切ろうとしたら、左手の親指にささくれを発見して一気に萎えた。

 テーブルの上の引き出しから爪切りを取り出し、指を傷つけないよう慎重になりながら根本からパチン、と切った。

 最近、ささくれがよくできる。寒い上に肌も乾燥しているから余計だった。テーブルに置いてあるチューブ式のハンドクリームを見ると、それはまるで歯磨き粉のように限界まで搾り取ろうとしてか、かなりぺたんこになっていた。これも買わなきゃいけない。明日になったら買おうと思って、スマホのメモ欄に書いた。


「アハハ」


 そのとき、目の前でバカ笑いが聞こえた。顔をあげると、スマホの画面を見て笑っている娘――夏菜がいる。


「いつまで起きてるの。明日学校でしょう?」


 夏菜は途端にムッと眉間にシワを寄せて、乱暴に席から立つとおやすみも言わずに、さっさと部屋をでていってしまった。

 夏菜は絶賛反抗期中。最近、まともに口を聞いていない。最後に会話をしたのは、果たしていつだったかな。

 私は夏菜が2階にある自分の部屋へ階段をのぼっていった足音を確認してから、小さくため息を吐いた。



「今の成績だと志望校の一律女子高は厳しいですね」


 私はもう一度、手元にある夏菜の成績表と、夏菜を交互に見比べた。夏菜はムスッとふてくされたまま、何も言わない。もしかして学校や教師の前でもその態度なのだろうか。

 不安になった私に、担任の男の先生は「でも」と話題を変える。


「まだあと1年ありますからね。挽回はできると思いますよ」

「そうですか……。ありがとうございます、先生」


 私はぺこり、と頭をさげた。席を立って、夏菜と共に教室をあとにする。


「勉強しなきゃね」


 昇降口に向かいながら、私がぽつりと呟くと夏菜は「してるもん!」と声を張り上げた。


「してないじゃない。毎日スマホばっか見て……」

「してるもん!」


 全く、小学生じゃないんだから。私はため息を吐いた。

 これはスマホを取り上げた方が早いかなと考える。受験は来年からでまだ時間があるとはいえ、意識している子は入学当初から成績を伸ばしている。

 旦那にも相談して、どうにか対策を練らないとと思い、ふと爪を見るとまた左手の親指にはささくれがあった。このあいだ切ったばかりなのに。もう……。そういえばハンドクリームも買おうとしてて忘れている。


「帰り、どこか寄ろうか?」


 気を取り直して声をかけてみるけれど、夏菜からの反応はなかった。私の少し後ろを歩いているはずなので、振り返れば、ちゃんとそこにいる。「ねえ聞いてるの?」と再び声をかけると、「ん」とそっけない返事。


「どこか寄る?」

「寄らない」

「そ」


 結局、私たちは車でまっすぐ家まで帰った。



 旦那が帰宅するのは、いつも夜の9時を過ぎる。夏菜は勉強についてうるさく言われるのが嫌なのか、今日は風呂からあがるなり。さっさと2階へあがってしまった。

 夕飯の用意をしながら進路相談の結果を報告すると、旦那の返事は頼りないものだった。


「うーん……、まあ別に良いんじゃないか? 受験っていっても、来年だし」

「早い子は入学のときからやってるのよ?」


 私の抗議に旦那はまた「うーん」とうなる。


「そういう子はさ。中学の受験に失敗したりとか、もっと上の高校や大学を目指す意識の高い子たちなんじゃないか? 夏菜は別に、それほど成績悪くないんだし、今からわざわざ頑張らなくても」

「でも、毎日家に帰ってきたかと思えば、スマホばっかいじってるのよ?」

「うーん……。まあ、それはたしかに問題だなぁ」


 いまいち他人事のような態度の旦那に、私はしびれを切らしてよそったばかりの茶碗を乱暴に彼の前へと置いた。

 結局、夏菜の成績はそれからも伸び悩み続けた。勉強を促すだけじゃなくて、塾に通わせるべきだろうか。家に来ていた大量の広告とにらめっこしながら、私はため息を吐く。


「塾なんて行かないよ」

「わっ。何あんた、帰ってたの……?」


 肩に鞄をかけた夏菜がムスッと不機嫌な顔でそう告げると、「でかけてくる」と呟いて踵を返す。


「どこ行くの?」


 聞いても答えはなかった。夏菜は一度2階へ上がったかと思うと、やがて降りてきたときにはセブ区から私服に着替えて、いつもでかけるときに使っているハート型のショルダーバッグを提げていた。

 おそらくそこには、いつも使っているスマホと財布が入っているのだろう。


「ねえ、夏菜」


 呼び止めようと声をかけても夏菜は無視して、私の前からいなくなった。

 私は苛立ちを込めて、テーブルを幾度か叩いた。左手の親指のささくれが痛い。ハンドクリームは……、ああそうだ。切らしてるんだった。

 思い通りにならないことの苛立ちの矛先は、目の前のささくれへと向けられた。こんなものがなければ。

 私はささくれの端っこをつまんで、そこを剥がした。皮が剥けていく感覚と同時に、傷口がうまれそれが空気に触れてピリピリと痛みが走りだす。

 絆創膏が残っていたので、それを傷口に貼った。



「どうしたんだその絆創膏」

「別に。ささくれ剥がしてできただけ」


 素っ気なく返して、私は茶碗を旦那の前に置く。

 リビングのソファに寝転がりながら、スマホ片手にゲラゲラとバカみたいに笑っている。


「夏菜! いつまでもスマホいじってたら取り上げるよ!」


 そう一喝すると、夏菜は途端に笑うのをやめて不機嫌な顔で私をスマホ越しに睨んだ。


「勉強しなさい! このあいだ先生に言われたこと忘れたの? あんた、その成績のままだと第一志望に受からないわよ!」

「どうでも良い!」


 夏菜はそう言い放った。私は絶句した。

 どうでも良いなんて、あんたの志望校なのに?


「うっさい、いちいち勉強勉強って! それしか言えねぇのかよ!」

「夏菜!」


 声を上げたのは旦那だった。夏菜はびくん、と身構えて口を閉ざした。それから乱暴にソファから立ち上がり、部屋を出ていく。音をたててドアを閉められた。

 旦那がため息をついて、私を見る。


「お前も……。まだ1年あるんだからいいだろう、勉強くらい」

「あなたは何も知らないからそんなこと言えるの! 第一志望受からなかったらどうするのよ!」

「後悔するのはあいつだろ」


 冷たく言い放ち、旦那は音をたてて味噌汁を飲んだ。

 何もわかってないくせに勝手言わないでよ。

 旦那の顔を今すぐにでも殴りたくなった。

 夏菜が行ってる中学は、全国でもそこそこ名の知れた私立の進学校なのだ。

 私が行きたかった学校。でも「中学から受験しなくても良いでしょ?」と両親が渋ったせいで行けなかった。

 夏菜が行くはずの一律女子高校は、毎年、有名国立大の合格者を多数輩出している全国でも名の知れた学校だ。私は現役時代、そこを第1志望にして落ちて、結果行きたくもない第2志望に行く羽目になった。

 第2志望の学校なんて……。所詮は名前だけだもの。夏菜が人生の成功者になるためにも、学校のブランドはとにかく重要だ。


 夏菜には絶対、第1志望を目指してもらわなきゃ困るのだ。

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