とても効果的なささくれの治し方

蜜柑桜

それは効果的な治癒法

 ヨーロッパは乾燥する。

 そのせいか、冬場はすぐに手荒れが酷くなって手を洗ったらハンドクリームを塗るくらいでないと悲しい事態になる。

 そんなことも知らないでいたら、あっといまに手指が見るも痛ましい状態になった。指紋は白く浮き上がるし表面は赤く擦り傷のようになるし、指の皮は剥けるは、私の手は被害甚大の大災害だ。

 でも指というものは作業をしていれば気付かぬうちにどこかしらにぶつけたり触ったり擦ったりするもので。今日も仕事をしていたら書類をめくるだの整理するだの手仕事は多いわけで。

 ルームメイトである友人と雑談しながら作業をしていた。と言っても向こうの言葉が全部わかるわけでもなく、適当に理解して相槌を打っていたのだけれど。

 その不注意のせいだろうか。

 やってしまったのだ。

「う、」

 短い呻きがつい漏れて、犯人たるささくれに対する呪詛が出た。

 呟きの怨念だったはずなのだが、友人には聞こえていたらしい。

「え? すぐ治るよ」

 そうだね。ささくれ……ってフランス語で何て言うんだろう。

 だが友人には通じたのだろうか。

「じゃあ行こう」

 行くってどこに?

「——ささくれ。一発で良くなる」

 よく聞き取れないんだけど。

 まあいいか。よくわからないけれど、良くなるなら。

 そうして私たちはコートを着て、マフラーをして、ブーツを履いて、外に出た。

 街は風が強く髪の毛を容赦なく巻き上げて、マフラーで守られていない頬はピリピリと痛くて。

 でも石畳の両側には世紀を超えて使い続けられた建物が立ち並び、古びた軒先の看板や石壁が時を語りかけてくる。丸屋根とコリント式円柱のパンテオンを背中に下って緑の公園に入ると、寒空の下でも精緻な彫刻が悠然と噴水の周りで人々を見守る。

 彼らに見送られながらいまなお豪奢な宮殿を見上げ、聖人の間の時計を確認すればまだそう経っていない。昼過ぎて数時間、大通りに出れば焼き栗売りが焚く火の匂いが漂い、満腹から遠かった胃を誘惑してくる。

 一歩進むごとに満たされてくる散歩の時間。しかし友人は先へと急ぐ。

 一体どこに行くのかと問いかけようとした時、「あれだ」と先を指差した。


 目の前にあったのは、壮大な教会。

 丸っこい塔と角ばった塔という非対称な二塔を左右に持ち、その下に二重構造のファサード。未完成だというのに近寄れば近寄るほど見上げるのが困難な丈高く雄々しい知の結晶。

 重い扉の向こうに踏み入れれば、三廊式の巨大な空間が広がっている。頭上高くにヴォールト式の天井が彩光で不思議な白さを湛え、灯火はほぼ見えないのに視野に困らぬ明るさがある。一つ一つの礼拝堂にはドラクロワなどの絵画が今にも動き出しそうな聖人たちを描き出し、巨大なパイプオルガンの上では天使が竪琴を奏でている。

 

 なんて厳かで、なんて自我を忘れられる場所だろうか。

 たとえ信仰心がなくても、汚れて煤けた感情が洗われていく場所か。


 言葉なく立ち尽くす私に近づいて、友人がいくつも並ぶアーチをぐるりと眺める。

「ね、素晴らしいでしょう」

 そうだね。素晴らしい。

 ささくれとか、そんなちっぽけな傷とか痛みとかどうでもいいくらい、素晴らしい。

 でもどうして突然こんなところに連れてきたの?

 友人は満足げに私を見ると、にっと笑った。

「だって聞いたじゃない」

 え?

「『òuどこ çaそれ? sacré神聖な』……って」

 気分が悪い時にはここにいくって言ったんだよと、友人はヴォールトを見上げた。

C’est ça, sacréサクレ(これこれ。神聖な)」

 ああ。

 確かに。一発だね。


 すっかり清々しい気分で教会を出て、焼き栗を買って、ささくれの残る指で摘んで頬張りながら、私たちはパリの道を歩いて行った。


——Fin.


 パンテオンからリュクサンブール公園、オデオンの脇を通って、St. Sulpiceへ。地図で写真と一緒に見てみてください。

*作者はフランス語があまりできませんので、不確かなところがあるかもしれません。


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