私の小さなささくれ
秋色
The Hangnail
夕暮れ時のバスの座席で気が付いた。
最近、つい、ささくれを指でちぎろうとしてしまう。指にささくれがたくさん出来て、気になって仕方がない。
ささくれの病名って何だろう?
分からない。スマートフォンで検索をかけてみる。
これが腫れたり出血したりしていたら、爪周囲炎で良いみたい。でも、痛みもなく、ただ皮が剥けかけているだけだったら? 痛みがなかったら、皮が剥けかけていても病気とは言えないんだ。何物でもない、ただの状態。
だけどこれはとても危険だ。私みたいに紙をよく扱う事務仕事では、何かの拍子に紙の縁がささくれの間に偶然入り込んでしまう事がある。そうすると、すごく痛いし、血も出るし。
こうなると爪周囲炎、いや手指挫創と言うんだな。
ついこの間までは、ささくれを気にしたりする事はなかったのに。
一ヶ月前、カレシと喧嘩した。
行きつけのチェーン店のカフェ。いつも遅刻して待たされるのは私。その日は、何だか腹が立ってつっけんどんな態度をとってしまった。
「何だよ。せっかく会ってるのにスマホばっか見るの、よせ」
「だってずっと待ってる間中スマホのゲームするしかなかったし」
今まで我慢していたのは、平凡な日々を乱すのが怖かったから。はっきり自分の気持ちを口にする事で嫌われるのを恐れていたから。
いつも自分は無色透明に近い気がしてた。何の特徴もなく、主張もなく。そんな自信の無さが裏目に出たんだ。
カレシとの喧嘩以来、あのコメダには行ってない。二人の思い出のいっぱいある場所というのが、そこに入るのを躊躇わせていた。
でも今日はなぜだか突然、あの店に入ってみたくなり、バスを降りた。
店の中では、学生やサラリーマンが思い思いの過ごし方をしている。
私がボッチなんて事、誰も気にしていない。
道路に面した長いテーブルに腰掛けた私は、クリームのたっぷりかかったシロノワールを前にして、考えてしまう。
もう私達は自然消滅なのかな、と。
窓の外には街路樹が風に打たれて凍えている。
それならそれで仕方ない。
我慢すれば良かったんだろうか? いや、きっと違う。
学生時代から定期的に、気の強いクラスメートや同僚から非難された。
「いつもいい子ぶってる」とか、「主張がない」とか。
誰かが言った。向こうは口論したいのに、私が口ごもるのがいけないと。
今は分かる気がする。きっと私は、ささくれみたいになっていたんだ。
ヒリヒリしてもそこをちぎって治療したいのに。いつもくっついたまま、痛くも何ともなく、どうしてほしいのか主張しない。
だから不機嫌な態度に出て、カレシを傷付けた。
ささくれがささくれの状態のままなら何物でもない。
一度傷付いて、痛かったり、疼いたり、痛みが和らいだり、きっとそんな事で何かになる。
だから今、ささくれを指でちぎりたくなるんだ。
そんな事を考えていると、扉を入って来る見慣れたコート姿が。
カレシだった。
「おー」
普通に挨拶。隣に座る。
「すごい偶然」
「ここ来たら、藍花に会えるかもしれんと思って毎日来てた」
「じゃあラインすればよかったのに」
「直接会わんと言えん事もあるし」
「どんな事?」
「いつも遅刻したりで我慢させてゴメンって」
「いーよ。私も悪かったの。素直でなかったから」
「でも一人で何か真剣に考え事しとったけど、何やったん? オレ達の事も?」
「まぁね。いや、色々。ささくれの病名の事とか」
「え? ささくれに病名があるん?」
「ないよ。ささくれはささくれでいいよ」
クリームを頬張った時、さっきまでの指先の痛みが和らいでいるのを感じた。
〈Fin〉
私の小さなささくれ 秋色 @autumn-hue
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