白昼三景

藤野 悠人

白昼三景

 こんな夢を見た。


 なんでも田舎道を歩いている。足元にはアスファルトが敷かれ、スニーカー越しに固い地面の感触が伝わってくる。五月晴れのような晴れ渡った空は高く、空に手を伸ばすような電柱が一定の間隔でぽん、ぽんとたたずみ、頼りない命綱のような電線が、その間を繋いでいた。しばらくして、ようやくここが生まれ育った家の近くにあった道だと思い出す。


 道の左手側には、青々とした田圃たんぼが広がっていた。稲の足元には水が張られ、鬱蒼うっそうとした稲の間から差し込む光に照らされ、その水面がキラキラと光っていた。


 さらりと風が吹く。その風に揺られて、田圃全体が緑色の絨毯じゅうたんを波打たせた。日の光は穏やかに、この体を暖めていた。


 ふと、右手側を見る。記憶が確かであったなら、ここにも広い畑が広がっているはずだった。だが、そこには原っぱが広がっており、田圃の稲と同じように、黄金色こがねいろの絨毯がなびいていた。


 黄金色? そう、黄金色だった。私はそれがどんな植物だか知らないが、背の高い、妙に繊細で細やかな植物が、さらりとした風の中でゆらゆらと踊っていた。この道の右手側の景色は、こんな原っぱだっただろうか。最初からそうだった気もするし、そうではなかったような気もする。


 そうして首を傾げていると、音楽が聴こえることに気付いた。これもまた美しい、繊細な響きを持った、管弦楽オーケストラの曲だった。


「あぁ、ラヴェルだ」


 思わず口に出す。


 ラヴェルが作曲した『クープランの墓』のプレリュード。オーボエの主旋律が、遥か天から聴こえてくるような気がした。この演奏は、この世のものではないのかしら、という気さえした。


 オーボエに追従するように、弦楽器が歌いだす。その音に身を任せるように、私はただ歩いた。歩いた。歩いた。


―――


 はたと気付くと、景色が変わり、私は座り込んでいた。もう風も、日の光の暖かさも感じない。明るいが、どこか余所余所よそよそしい蛍光灯の明かりと、無造作に置かれた低い机、その上では文庫本が塔のように積み重なっている。


 絶えず聴こえる『クープランの墓』は、しかし、天上の音楽のごとき輝きを失い、机の上に置かれた小さなラジオから、ときどきひび割れたようなノイズとともに、六畳一間の部屋に、その旋律を届けていた。


 そして、私がいる場所が、学生時代を過ごしたアパートの一室であることに気付いた。濃いブルーのカーテンも、小さな声で唸る冷蔵庫も、カラーボックスに無造作に詰め込まれた教科書や本も、ひやりとした固いフローリングの感触まで、そっくりそのままだった。


 座ったまま、うたた寝をしていたのか、と思った。


 不意に電話が鳴った。部屋の一角に置かれた、年代物の電話機だった。左上についたライトはけたたましく点滅しているが、コール音は存外ぞんがいに控え目で、家主に気を遣っているかのようだった。


 誰かが訪ねてきたのだ。その電話は、オートロックになっている一階のエントランスへ繋がっている。訪問者は、エントランスにある機械に部屋番号を入力し、目当ての部屋の人物へ電話を掛けるのである。


 私はのろのろと、受話器を手に取った。


「もしもし」


 間髪入れずに返事は来た。


『来たよー』


 若い女性の声が、懐かしいその声が、受話器越しに軽やかに聞こえた。本当に、久しく聞いた声だった。


「開ける」


 短くそう答え、電話機の#ボタンを押した。それが、エントランスの解錠ボタンだった。受話器の奥から電子ロックの開く音と、扉を開ける音がする。私は受話器を置いた。


 とん、とん、という軽やかな足取りが、部屋のドア越しに聴こえた。ややあって、玄関のドアを開けて、申し訳程度の小さな三和土たたきの前へ彼女が立った。


 あぁ、懐かしい。そうだ、あなたはよくそんな色のワンピースを着て、この部屋を訪れていたんだ。思わず、私は自分の頬が緩むのを感じた。


「寝てた?」


 見透かしたような、どこか面白がるような声音で、彼女が言った。


「うん、そうみたい」


 思わず、私は自分の顎に手を触れた。バツが悪い時、こんな仕草であなたを誤魔化していたんだっけ、と、またひとつ懐かしい思いが胸をよぎる。


 いつの間にか、『クープランの墓』は聴こえなくなっていた。


―――


 また、景色が変わった。


 なんでも、大粒の雨が降る中、雨宿りをしている。寒々しい空気の中、雨粒がしたたかに世界を叩き、それ以外のすべての音を飲み込んでしまっていた。湿った土と、むっとするような濡れた草の匂いが鼻孔びこうをつく。


 白くけむったような雨のカーテンを眺め、私は缶コーヒーを手に持っていた。中身はブラックコーヒーだろうと分かっていた。私は甘い缶コーヒーがどうにも苦手だった。


 寒かった。季節の頃は分からないが、ふぅ、と吐いた吐息が、冗談のように真っ白になって、雨の中へ溶けていった。


「あぁ、そっか。これで死ぬんだ」


 ふと、理由も、根拠もなく、確信めいたものが、私の胸中きょうちゅうに広がり、そのままその確信が口をついて出てきた。死ぬには良い日だとは思えないが、私のようなしみったれた人間にはおあつらきな天気のように思えた。


 背後には、浅く呼吸をする誰かの気配があった。その人物は、上目遣いに雨を眺めているのだろうと、これまた根拠もなく私には分かっていた。


「まだ降るかなぁ」


 背後の人物が、短くそう言った。子どもの声だった。まだ小学生くらいの、男の子の声だった。


「そうかもね」


 私もまた、短くそれだけ答えた。いや、答えたような気がした。どういうわけだか、自分が声を発したのか、ただそう思っただけなのか、判然としなかった。


「じゃあ、また今度ね」


 子どもはそう言うと、くるりと身をひるがえして、私を置き去りにして、雨の中へと駆け出して行った。彼は青いレインコートを着ていた。目立ちにくい色を着るものだと思った。頭をすっぽりと覆うフードには、蝶々の刺繍ししゅうがされていた。


 青い生地に合わせてか、その蝶々のはねも鮮やかな青色だった。モルフォ蝶の刺繍を頭に載せた子どもは、そのままどんどん離れていく。


「気を付けろよ」


 そう声を掛けて、手元の缶コーヒーを飲み干そうとした。


―――


 そんな夢を見て、真っ暗な部屋の中、今度こそ私は目を覚ました。


 奇妙な頭痛がした。目の前の景色は真っ暗だが、視界の端にはぐるぐると小さなねずみ花火が踊っている。


 不愉快なその感覚を黙らせるように、再び眠った。


 もう夢は見なかった。

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白昼三景 藤野 悠人 @sugar_san010

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