爪切りと記憶[KAC20244]

ガビ

第1話 爪切りと記憶

 右手の人差し指にささくれができた。

 皮が3ミリくらい剥がれているのが気になって仕方がない。横になっているだけでも、布団にカスって微妙に痛い。

 いっそ無理矢理千切ってしまおうとも思うのだが、その決断ができない。だってあれ、思った以上に痛いんだもん。


「‥‥‥爪切り」


 考えた末、爪切りを使うことにした。

 ハサミも候補に浮かんだけど、ウチにあるのはそれなりにデカい。間違って別のところまで切ってしまいかねない。


「えっと、どこだっけ?」


 自室を見渡して、私は途方に暮れる。


 出そう出そうと思ってはいるけど、結局は10袋は溜まっているゴミ袋。一口分残したペットボトルの山、とっくに連載が終わっている作品が表紙を飾っている、ヨレヨレの漫画雑誌。

 このゴミの海から、あんな小さいものを探さないといけないのかと、軽く絶望する。


「‥‥‥はぁ」


 億劫なことこの上ないが、ささくれのストレスから脱するためにダラダラと動き出す。


 仕事を休職してから、もう2週間経つ。


 その間、元々は綺麗好きであった私の部屋は日に日に汚部屋と化していった。

 朝、目は覚めるのだが、カーテンを開けることすらできない。晴れだろうが曇りだろうが雨だろうが、外を見ると心臓が暴れる。

 誰も見たくないし、誰の声も聞きたくない。

 私の世界は狭いアパートの一室だけで完結していた。


 そんな中、爪切りを探し求めて歩き回っていると「パキッ」という音がした。


 床を確認すると、ファンデーションが入っているプラスチック性の入れ物にヒビが入っていた。


 働いていた頃は毎日のように使っていたファンデーションだが、休職してからは一度も使っていない。いつの間にか床に転がってしまっていたのか。

 私が女性として社会に出るための道具を、自分で壊してしまった。


「‥‥‥ハ、ハハ、はハハ!ハハはハははははハは!!!」


 気がつくと、笑いが止まらなくなっていた。


 みんなが当たり前のようにしていることが、私にはできない。働くことはおろか、爪切りを探すことさえできない。

 何なんだ、お前は?生きている価値があるのか?

 そう自問自答しても、答えは見つからない。


「ハハはッ、は‥‥‥ハ‥‥‥」


 今度は涙が出てきた。

 感情をコントロールできない。

 私はいつまで経ってもボロボロと涙を垂れ流しながら、その場に蹲った。


 誰が助けて。

\



「おかあさーん。爪切りどこだっけ?」


 これは夢だと瞬時に理解した。


 何故なら、今の私がこんなに大きな声が出せるわけがないからだ。

 制服を着ている。これは中学の頃のやつだろうか。


「綿棒の隣ー!」


 台所で夕飯を作ってくれているお母さんは、何かを炒めている音とともにそう返してくれる。

 レバニラだろうか。「食べると元気になれるから!」と頻繁に作っていたことを思い出す。


 パートの後で疲れているだろうに、家族のために食事を作っていたお母さんの凄さが、今ならよく分かる。社会という荒波の中で揉まれても、家事を怠らない凄さが。


 中学生の私はお礼も言わずに爪切りを取りにいく。

 リビングに戻り、右手薬指のささくれを切る。

\



「‥‥‥」


 現在の汚部屋で目が覚める。


 無条件で味方でいてくれるお母さんが夢に出てきたからか、あれだけ泣いたくせに、また涙腺が刺激された。


<ピンポーン>


 しかし、呼び出し音という強制的に現実に戻す音によって、その涙は引っ込んだ。


 誰だろう。もしかして職場の人かな。

 嫌な汗をかきながら玄関に向かい、ドアスコープを覗き込む。


「お母さん!」


 急いで鍵を開けて彼女を出迎える。


「お。いた」


 見慣れた顔。2年ぶりに見たからか、少し老けている気がするお母さん。私の味方。


「アンタねぇ。最近電話にも出ないから、心配になってきちゃったわよ」


電話の呼び出し音が嫌で、スマホと固定電話の電源を切っていたのだ。


「‥‥‥」


 何も言わない娘を素通りして、汚部屋に侵入してくる。


「あらま。ひどいねこりゃ。一緒に掃除しましょ」


 平日の真っ昼間に、何故家にいるのかを聞いてこない。

 その優しさに心が凪いでいく。


「‥‥‥うん」


 お母さんとなら、心のささくれを切ることもできるかもしれない。

 

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爪切りと記憶[KAC20244] ガビ @adatitosimamura

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