お嬢様のご心配

平 遊

〜どんだけ心配性ですか〜

 夜明光留よあけみつるは私立の高校に通っている一年だ。自分ではごく普通の目立たない、可もなく不可もない生徒だと思っている。

 けれどもつい先日、ひょんなことから、同じ高校の二年生の、朝陽華恋あさひかれん下僕しもべとなった。

 華恋は光留の通う高校の理事長の姪で、理事長は姪である華恋を殊の外可愛がっているとのこと。頭脳も美貌も学内一と評判の華恋は、その容姿に見合う高飛車な性格で、華恋を少しでも傷つけた生徒はなんのかんのと理由を付けては退学させられているらしい。

 所詮それは噂に過ぎず、実際に退学させられたという生徒の話は耳にしないが、光留は近頃何度か『退学の危機』に襲われているような気がしている。

 華恋の人となりを知れば知るほど、華恋に惹かれはするものの、惹かれる度に『退学の危機』もより迫ってくるような気がしてならなかった。



 ある日の放課後。

 教室まで迎えに来るよう華恋に言われていた光留は、『光留、手』の言葉にいつもの通り手を差し出し、そして華恋はいつもの通りその手に自分の手を絡めた。

 とたん。


「あらっ!?」


 華恋の指先が、何かを確認するように光留の指先を何度も往復する。


「どうかしましたか?」


 光留の問いには答えず、華恋は光留の手を自分の目の前に持ち上げると、じっと見つめて呟いた。


「たいへん……『ささくれ』が」

「えっ?」


 華恋の手を解き、光留も自分の指先を見る。確かに、左手の中指と薬指にささくれができている。


「あ、ほんとだ」


 そう言うと、光留はいつものように、右手の親指と人差し指で左手薬指のささくれを摘み、勢いよく引っ張った。


「いてっ!」


『ささくれ』だけを取るつもりが、繋がっている皮膚までむしってしまったらしく、じんわりと血が滲み出す。


「あー、失敗しちゃっ」

「何をやっているの、あなたはっ!」


 光留の血を見るなり、華恋は血相を変えて光留の手を取り駆け出した。


「えっ、ちょっと、華恋さんっ!?どこに」

「保健室に決まっているでしょう!」

「はっ!?」


 光留は慌てて急ブレーキをかけ、華恋を止める。


「『ささくれ』くらいで保健室なんて」

「『ささくれ』くらい、ですって!?」


 形の良い眉を吊り上げ、華恋は光留を睨みつける。


「その傷口からもしバイ菌が入ってしまったら、化膿してしまうのよ!?酷くなってしまったら、壊死して指を切断しなければならなくなるのよ!?そしてさらに酷くなれば死に至る事もあるのよ!?あなた、ちゃんと分かっているのかしらっ!?」


 華恋のあまりの剣幕に、光留はポカンとして華恋を見つめた。


 いやいや、何言ってんですかこの人は。

『ささくれ』で指が壊死して切断とか死んだなんて話、聞いたことないですけど。


 けれども、華恋はいたって真剣な顔で、光留の視線を受けとめている。

 光留は華恋の真剣そのものの眼差しに若干引きながらも、諭すように口を開く。


「華恋さん、でもやっぱりこれで保健室なんて、いくらなんでも大袈裟で」

「まだそんなことをっ!下僕しもべのあなたがこのわたくしにどこまで心配をかけるつもりなのっ!」

「ですから、大袈裟」

「……そう、わかったわ」


 ギロリと光留を睨むと、華恋は言った。


「それほどまでに保健室を拒むのであれば、伯父の所へ行きましょう」

「へっ!?なんで……」

「確か理事長室にもお薬箱はあったはずだから」

「いやいや……いやいやいやいやっ!」


 光留は慌てて全力で拒否の意思を示す。


 理事長室に行けば当然そこには、理事長である華恋の伯父がいるだろう。殊の外可愛がっている姪である華恋が、たかだか『ささくれ』くらいで血相を変えて理事長室に光留を連れて来たならば、理事長はどう思うだろうか?


「どちらかに決めなさい、光留。保健室か、理事長室か」

「華恋さん、ほんとにこれくらい」

「いいから早くお決めなさいっ!」

「何を騒いでいる」


 華恋と光留の言い合いに割って入ったのは、よく響く低めの声。

 光留はその声に聞き覚えがあった。

 この声は……


「伯父さまっ」


 助けを求めるように、華恋は光留の手を掴んでいる方とは反対の手で理事長の腕を掴む。


「光留が、わたくしの下僕が、少しもわたくしの言う事を聞いてくれないのです」

「ほぅ」


 僅かに目尻を下げて華恋を愛おしげに見つめていた理事長が、その目をチラリと光留に向ける。反射的に、光留の背筋がピシリと真っ直ぐに伸びる。


「見て!光留ったら、『ささくれ』をこんな風にしてしまったのよ!だから早く処置をしないといけないのに、保健室に行くのは嫌だと駄々を捏ねるから、それなら伯父さまの所へ行こうと話をしていたところだったの」


 言いながら、華恋は掴んでいた光留の手を理事長の目の前に差し出す。

 慌てて引っ込めようと光留は腕に力を込めたのだが、一瞬早く理事長の手に捕まってしまった。


「なるほど」


 光留の手を確認すると、理事長は光留の手を掴んだまま歩き出した。


「ああああのっ」

「いけないね、主人の言う事を聞かない下僕は」

「……は?」

「おしおきが必要だ」

「え……ええぇっ!?あああのっ、俺っ」

「伯父さま、光留はわたくしの下僕よ?あまりいじめないであげて?」


 焦る光留の隣を歩きながら、華恋が心配そうに理事長に声をかける。


「さて、どうしようかな?」

「伯父さまったら」


 成すすべなく、光留が連れて行かれたのは、理事長室だった。


 神様、俺は今度こそ退学なのでしょうか……




「そこに座りなさい」


 応接セットのソファを指定され、光留は言われるままにソファに腰をおろす。そのすぐ隣に、華恋も腰をおろす。

 一度執務デスクの方へと向かい、戻ってきた理事長が手にしていたのは、小さなハサミと薬箱。


「まずはこちらからだな」


 光留の前にひざまずき、小さく呟きながら、理事長は血の固まりかけた指先を手早く消毒すると、くるりと絆創膏を貼り付けた。

 そして、まだ残っている『ささくれ』をハサミで手早くカットする。

 その様子を、光留は呆気にとられて眺めていた。


「小さい頃、わたくしも伯父さまによく『ささくれ』をカットしてもらったわ」

「そうだね、華恋はすぐに服にひっかけて血を出してしまっていたからね。最近は大丈夫か?」

「ええ。きちんとハンドクリームで保湿しているもの」


 呆けたままの光留に構わず、理事長と華恋は会話を続ける。


「それはいい。たかが『ささくれ』と侮ると、大変なことになるからね」

「そうよね。バイ菌が入って化膿してしまったり、壊死して指を切断することになってしまったり、酷くなれば死に至る事もあるのよね、伯父さま」

「ああそうだよ」


 え?マジですか?

 理事長それ本気で言ってます?


 華恋の言葉に穏やかに微笑み頷く理事長を、光留は驚きの目で見た。すると、理事長は意味ありげな視線を光留へと向けつつ、華恋に告げる。


「華恋、この薬箱をしまってきてくれないか」

「はい、伯父さま」


 華恋がその場を離れると、理事長は光留だけに聞える声でこう囁いた。


「華恋は今でこそ落ち着いたが、昔は随分とお転婆でね。怪我もしょっちゅうで、『ささくれ』なんてキミより乱暴に毟っていたような子だったのだよ。だから止めさせるために、少し大袈裟に怪我の怖さを教えたのだが……今でも信じているのだねぇ、可愛い子だ」


 いや。

 いやいや。

 いやいやいや。

『可愛い子』で済ませていいのか、これっ!?


「ところで夜明光留よあけみつる君」

「はいっ!」


 ガラリと変わった理事長の声音に、光留はソファから飛び上がるようにして立ち上がる。

 ゆっくりと立ち上がった理事長は、光留の前で腕組みをして光留を見下ろす。


「主人である華恋の言うことが聞けないと言うのなら、キミは下僕失格ということになると思うが」


 理事長の言葉に、光留はゴクリと唾を飲み込む。


 もしかして……退学か?退学なのか、今度こそ……


「キミはそのことについてはどう」

「あっ!そういえば!」


 薬箱を片付けて戻ってきた華恋が、理事長と光留の間に割って入る。


「伯父さまったら、最後の仕上げを忘れているわ」

「……あぁ、そうだったね」

「仕上げはわたくしがしていいでしょう?光留はわたくしの下僕なのだから」

「……好きにしなさい」

「はい!」


 仕上げって、なんだ?

 もしかして、華恋さんの言う事を聞かなかった『おしおき』のことかっ!?


 身構える光留の左手を、華恋がそっとすくい上げるようにして口元まで持ち上げる。

 そして。

 ゆっくりと顔を近づけると、まつ毛を伏せ、絆創膏の貼られた薬指に唇を近づけた。

 直後、絆創膏で覆われていない箇所に感じる柔らかさと温もりに、光留は信じられない思いで目を丸くして華恋を見つめた。


「……え」


 思わず声をあげた光留に、華恋が小さく笑う。


「これはね、早く治るおまじないよ。わたくしも小さい頃よく、伯父にしてもらったの」


 いつの間にか理事長は執務デスクに座り、意図的に光留と華恋の事を視界から外しているかのように、デスクに置かれた書類に目を落としている。


 華恋さん、今俺の指にキス……した?


 気づいたとたんに光留の胸の鼓動が早まり出す。

 頬の熱を感じながら光留は慌てて左手を引こうとしたが、素早く華恋に指を絡められてしまった。


「伯父さま、本当に助かったわ。ありがとう」

「ああ。わたしは仕事があるからもう帰りなさい」

「はい」


 手を繋いだまま理事長室を出ようとする華恋に引きずられる光留を、理事長が呼び止める。


「夜明光留君」

「はいっ!」


 振り返った光留に、理事長は言った。


「もし、キミに華恋の下僕が務まらないようなら……」


 退学は、嫌だっ!


 すんでのところで言葉を飲み込み、光留は勢いよく頭を下げ、


「以後気をつけますっ!失礼しますっ!」


 理事長室を出た。

 その間際。

 理事長が小さく笑ったように、光留には見えた。


 良かった……退学は免れた……たぶん。


 ホッと胸をなでおろす光留に気づくこと無く、華恋は繋いだ手を確認するように見ながら、光留に釘を刺す。


「光留、もう『ささくれ』を毟ってはダメよ。それから、予防のためにもちゃんとハンドクリームで保湿なさいね。そうだわ、わたくしとても良いハンドクリームを持っているの。明日持ってくるから、ちゃんと使うのよ?」

「……はい」


 ハンドクリームなんて、めんどくさいから別にいいんだけど。


 とは、さっきの今では言い出せず、光留は華恋の言葉に素直に頷くしかなかったのだった。


【終】

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お嬢様のご心配 平 遊 @taira_yuu

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