焦憬

森陰五十鈴

ささくれ

 ぷしゅ、と空気の抜ける音を立てて、黄昏電車の扉が閉まる。

 木の板が貼られた内装の車内に、乗客はただ二人だけだった。刹那せつなと、明るい色の髪を番傘のかんざしで結い上げた少女。白い詰襟と同じ色の襞のスカートの、制服を纏った身体を縮こまらせて、ロングシートの向かいに座るこちらの様子をちらちらと窺っている。

 日向ひゅうが美晴みはる。名を体で表したような明るさを持つ少女が、自分の前でだけはこのようなしぼんだ様子を見せるので、刹那は胸のすく思いがした。が、すぐに苛立ちに変わる。長い靴下からはみ出た自分の膝小僧を睨みつけている彼女のその態度は、明らかに刹那に対する怯えによるものだった。

 わらわせる。まるで被害者だ。裏切ったのは、そちらのほうだろうに。

 失笑する刹那に、美晴はびくりと身体を震わせる。そんな彼女に気付かないふりをして、刹那は制服の白いズボンの足の片方を座席に乗せ、窓の外を眺めやった。


 黄昏電車が動き出す。走るは、帝都の地下。煉瓦敷き詰められた空洞を、黄色のヘッドライトが照らし出す。きぃ、と鉄の車輪を軋ませて、更に地下へと続く線路の上を行く。


 壁にかけられた鈴蘭型の照明が照らす車内は、重い空気に包まれていた。美晴は居心地悪そうに身を捩る。刹那は気付かないふりをして、窓の外を睨みつけている。

 カタン、カタン、と列車の振動音が、気まずい空気を緩和しようと無駄な努力を見せていた。


「……あのね、刹那」


 走り出して二、三分ほど経過しただろうか。おずおずと美晴が切り出した。膝の上に硬い拳を作り、肩を張り、勇気を出している様子が伝わってくる。


「……なに?」

「私、刹那に謝りたくて」


 刹那はじろりと美晴へと視線を向けた。俯き気味のその顔は、今にも泣き出しそうだった。刹那の心が揺れ動く。歓喜と、やはり苛立ちと。


「謝る?」


 刹那はようやくそこで、美晴に顔を向けた。彼女の背後のガラスに映る自分の顔は、能面のように無表情。それを目にした彼女は、緊張からか唾を呑み込んでいる様子を見せた。


「なにを?」


 分かっていて、意地悪く問う。


「私が、刹那を差し置いて、先に万宵洞ばんしょうどうへ行ったこと」


〝万宵洞〟。黄昏電車が向かう先。この地下鉄メトロでしか行けないそこは、帝都の足元に広がる地下迷宮ダンジョン。地面の下であるのにも関わらず、常に宵のような明るさを湛えたその最奥さいおうには、天使が眠っているという、不思議な曰くを持つ場所だった。

 刹那と美晴は、現在その万宵洞の探索に赴くところだった。

 けれど、彼女が口にしているのは、もっと時を遡ったときのこと。調査隊を養成する学園で、学生として――同期として訓練を受けていた中で、彼女だけ一人先に調査隊に選ばれたときのこと。




 美晴は、特別だった。

 太陽のような輝きで周囲を魅了した彼女。美晴自身もまた、なんのてらいもなく、皆に手を差し伸べる。

 それは、刹那に対してもそうだった。


『よろしくね、刹那くん』


 学園の講義でたまたまペアになった。そのときも彼女は、太陽のような微笑みで、刹那に握手を求めてきた。


『あ、うん……よろしく』


 求められるがままにその柔らかな手を握った自分は、滑稽で。暗闇から引きずり出されたような戸惑いを持ってしか、彼女に言葉を返せなかった。

 けれど彼女は胡乱な眼差しを投げることも、嘲笑うこともなく、透き通った眼差しを刹那に向けた。

 たちまち刹那も、惹かれていった。


 とはいえ、すぐに打ち解けていったのは、彼女の朗らかさがあってのことだろう。


『俺はいつか、万宵洞の最奥に行って、天使に会いに行くんだ』


 いつの間にか刹那は、美晴に自分の夢を語るようになった。摩訶不思議な万宵洞。天使が地の奥底で眠る不思議。それを自らの手で突き止めたい、という願いを、彼女によく聞かせていた。


『私も、一緒に行くよ』


 彼女は、刹那の夢に付き合うとそう言ってくれた。いつの間にか、ただの同期ではなくて、二人は友人になっていた。

 二人一緒に万宵洞の謎を解き明かすんだ、と約束しあったあの頃。

 ……しかし。


『ごめん、刹那。私、調査隊に引き抜かれた』


 日向美晴は、特別だった。その優秀さで、誰よりも――刹那より先に、憧れの場所へ行く特権を得た。


『凄いじゃん! 先、越されたなぁ』


 一人抜け駆けをすることに申し訳なさを感じて縮こまる彼女の背を、刹那は押した。


『俺も、すぐに追い付くからな!』


 羨望を胸の奥に押し殺して、虚勢を張って。約束を果たすのだと誓った。

 だが、彼女が得た特権を掴むことは、並大抵の努力ではすまなかった。血の滲むような努力を繰り返した。けれど、いつまでも刹那は学生ぼんじん扱い。

 その間に美晴は先を行く。万宵洞への突入を繰り返し――

 ついには、天使の手掛かりを得て、戻ってきた。


 功績を讃える人々に囲まれる美晴を見て、刹那の中で何かが崩れ落ちていった。抜け駆けされた。置いていかれた。はっきりとそう認識したとき、刹那の心はささくれ立った。

 裏切られた。

 その瞬間、刹那の胸を満たしたのは、美晴への憎悪だ。

 あの日差し伸べられた手を、偽善に感じた。

 ともに夢語り合った日々を、欺瞞に感じた。

 美晴は、刹那が彼女と同じところに立っていると錯覚させ、今になって絶望の淵に突き落としたのだ。


 それから刹那は、憎悪を糧に這い上がった。さらなる努力を重ね、ようやく調査隊への加入を果たした。




 そして今刹那は、美晴とともにいる。かつて約束したように、二人で万宵洞の探索へと赴いている。

 もっともそれは、あの日夢見たときのような、輝きに満ちたものではないけれど。


「別に、美晴の所為じゃないだろ」


 心とは裏腹に、そんな言葉を紡ぎ出す。慰めを口にして、彼女の罪悪感を煽り立てる。

 効果は覿面てきめんで、美晴は苦しそうに刹那を見つめた。


「私、刹那に許して欲しくて――」


 美晴は拳を胸に抱え込み、切なげな表情で瞼を伏せた。か細い声で、刹那に懇願する。


「……許してくれるなら、なんでもするから」


 その言葉は、刹那の心を揺さぶった。


「へえ。なんでも?」


 シートから立ち上がり、美晴との三歩の距離を詰める。彼女の顔の真横の壁に片手をつき、もう一つの手で顎を持ち上げた。

 大きく見開かれる美晴の目。揺れ動くその中に、薄く笑った自分の顔が映り込む。

 ぐちゃぐちゃにしてやろうか。仄暗い炎が、刹那の中に灯る。無人で動く電車の中に二人きり。邪魔する者は、誰もいない。

 しかし、昏い欲望を抱く刹那に対して、美晴は真っ直ぐな視線を向けた。陽の光のような、透き通った眼差し。

 興醒めきおくれした刹那は美晴の顎から手を離し、壁からも手を離して、目を瞠ったままの彼女を見下ろした。


「じゃあ、天使の羽をちょうだい」


 彼女が見つけたという天使の手掛かり。刹那はそれを要求した。

 美晴は、瞳に涙を湛え、唇を引き結んで俯いた。


「…………無理だよ」


 美晴が見つけたという天使の羽。だが、彼女の仲間だった者以外で、現物を見た者は誰もいない。

 何故ならそれは彼女が手にした瞬間、溶け込むようにして、彼女の体内に取り込まれたから。

 そうと知っていて、刹那は唇を歪める。


「嘘吐き」


 美晴はつらそうに瞼を伏せた。

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焦憬 森陰五十鈴 @morisuzu

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