ささくれ剥いたら、並行世界に行った話
篠騎シオン
ああ、もうほんと消えたいんだけど……
目の前にはPC。
タイピングし、仕事を進める。
時刻は深夜の2時。
上司は帰った。何時間前? わかんない。
朝までの大量の仕事を俺に押し付けて、帰りやがった。
まあ正直、いても邪魔なだけだからいいことにする。
でもさ、うん。この物量は応える。
休憩したら絶対間に合わない。
かと言って放り出せば困るのは最後俺だ。
客の会社前で土下座しながら浴びた雨ほど、冷たくて痛いものはないんだから。
そんなことをぼんやりと思いながら、ひたすら打ち込んで資料を作る。
朝の5時には納品物が届くからその受け取りをしないといけないからそれまでがリミットだから。
あくびをかみ殺す。
ぼーっとする。
ぼろぼろの唇をかむ。
癖になって段々になっている唇が割け、口の中に血がにじむ。
んで、血の味に生きてるんだって安心する。
エナジードリンクをごくりとして、胃がキリキリと痛む。
マウスを握った指先がどうにも気になって触れると、どうやらささくれになっているようだ。
それを見て手が綺麗なとこも好きと言ってくれたかつての彼女を思い出したりする。
ああ、もうなにもかもどうにでもなれ、終わらせたい。
そう思いながらも、自分が手を止めようとしないことに、苦笑い。
社畜が骨まで染みついている。
親指にできたささくれを、人差し指で剥きとる。
ささくれ剥いたら、ささくれだった心も消えてくれないかなー、なんて適当なことを考えながら。
……そしたら、一瞬世界は真っ白になって。
俺は、アパートの自室にいた。
「は?」
業務連絡に必要外の言葉を発したのなんていつぶりのことだろうか。
いや、大事なのはそんなことじゃない。
仕事は?
土下座案件だけはなんとしても避けたい。
慌ててポケットからスマホを取り出す。
時刻は先ほどPCで確認したときから一分ほどしか経っていない。
夢を見ているのだろうか。
そんな俺は開いたスマホのロック画面に驚いてしまう。
そこにはお揃いの指輪を左手の薬指につけた俺と彼女。
新卒で会社に入って激務の末にすれ違って、別れた。
大学時代からの彼女の美香がそこに写っていた。
記憶にない写真。慌てて部屋の中を確認する。
見ると、忙しさにかまけて散らかり放題だったはずの部屋がきれいに整っている。
出ていくときに立つ鳥後を濁さずと、彼女が持ち帰ったはずの私物がそこにある。
スマホで今度は日付を確認しても、覚えている今日そのものだった。
年もずれちゃいない。
ここまでくると、本当に俺は寝てしまっていて、夢を見てるのかもしれない。
そう思いたいのだが、ささくれがジンジンと痛みこれが現実であることを告げてくる。
「夢じゃない」
現実であるとするならばやっぱり心配なのは会社と仕事のことで。
俺はスマホの電話帳から、上司と会社の連絡先を探す。
「ない……」
見知らぬ連絡先が増えているせいで見失ったのかと数回探したが、やっぱり見つからない。
呆然としながらも手が勝手に会社の電話番号を打ち込む。
スマホも通じない僻地で幾度も公衆電話や、地元の人の家電を貸してもらった経験が役立った。
コール。
して、すぐ音が切り替わる。
「なんだ、やっぱり何かのまちが……」
『おかけになった電話は現在使われておりません』
呆然。
いや、爆発しろとか、消えろとか、思ったりもしたことあったけどさ。
その場にへたりこむ。
山のように頭の中を占めていたタスクの山がガラガラと崩れて、脳に多大なダメージを与えていく。
なぜか、涙が出てくる。
どうして。どうして……
「え? どったの、竜ちゃん?」
後ろで声がする。
俺が勇気を振り絞って頭を後ろに回すと、そこには別れたはずの美香がいた。
その薬指には写真の通り指輪。
それに気づいて、自分の顔を覆っていた手を見てみると彼女とお揃いのデザインのものがはまっている。
ひたすら混乱する。
涙が止まらない。ひたすらどんどん流れてくる。子どものように泣きじゃくる。
そんな果てしなく情けない俺の背中を、美香はゆっくりと撫でてくれた。
「その発作、久しぶりやんね。いいよ、気のすむまで泣き」
そうして赤子のようになだめられて、俺はその場でそのまま眠りについた。
起きる。
起きてすぐ、スマホを確認する。
朝8時。
「納品!」
言葉と共に喉の奥がひゅっとする。
首元のネクタイを締めようとするが、そこにネクタイはない。
慌てて自分の恰好を確認すると、ゆったりとしたパジャマ姿だった。
どうして?
そこで、昨日の夢を思い出す。美香がずっと俺を慰めてくれていた、会社がなくなったそんな夢。
恐る恐る、もう一度スマホを見ると、そこには昨日見たあの写真。
「夢じゃない……?」
再びささくれがその痛みで現実を主張してくる。と共に、俺の鼻が何かいい香りをとらえた。
「あ、竜ちゃんやーっと起きた。もう、昨日はあのころみたいになっとったから、うちすごく心配したんよ?」
両手に味噌汁の器をもって、キッチンから出てくる美香。
そして彼女はダイニングテーブルにそれを置くと、俺を椅子へと急き立てる。
「食べんと元気にならんから、はよ食べな? んで、元気になってちゃーんとうちとデート行ってもらわな困るわ」
「デート?」
俺はその言葉を聞いて、もう一度スマホを確認する。
今日は、平日だよな?
「えっと、俺、仕事……」
「何言うとるん? 今日のために久しぶりに二人で合わせて有給とったやん。熱でもあるんとちゃうん?」
俺の頭に手を当ててくる美香。
けれど俺の体は正常そのもので熱もないようで、美香は首をかしげていた。
「一応だいじょぶそやね。やけど、調子悪いなら今日は休んどく? 竜ちゃんの体が一番やし」
状況に戸惑いつつも、俺はその言葉に首を振る。
別れた時の涙でいっぱいの彼女の顔がちらついて、もう、美香の悲しい顔、見たくなくて。俺の口から言葉がついて出る。
「行くよ。一緒に出掛けるの久しぶりだし」
嘘じゃない。三年以上ぶりだ。
「わかった。じゃあ、さっさと食べて準備せんと!」
そう元気に言って、彼女は朝食をかきこみ先に立って準備をはじめに行った。
出かけるといっても着替えるだけでいい男の俺は、味噌汁をゆっくり飲みながら頭の中を整理する。
自分に、今、何か不思議なことが起こっているのは、さすがに理解してきた。
じゃないと、平日に有給なんて取れないし、会社の電話が不通になっているわけないし、彼女の美香が幸せそうに俺と一緒にいるわけがない。
全てが異なる、現実。
スマホでカレンダーアプリを開く。
今日の予定には、有給、美香とデート、と書かれている。仕事が本当に休みであることにまず安堵して、俺は日付をさかのぼる。
目的の日付を見つけ、タップ。
三年前、美香と別れたその日のカレンダーに書かれた短いコメント。
どんなに忙しいときでも続けてきた、ちょっとした日記のような習慣。
『美香と喧嘩。仕事、もうやめよう』
そこで、なんだか腑に落ちる。
ああ、ここは。
ここは美香と喧嘩したあの日に、俺が仕事を選ばなかった世界線、あり得たかもしれない俺の人生なんだなって。
SFとかそういうもの信じないはずなのに、そう理解、いや実感してしまった。
カレンダーのコメントを読んでいく。
会社を辞め会社を訴え、しばらくの求職期間を挟んで再就職。
ホワイトな新しい職場、いい上司と同僚に恵まれて、今は中途社員で最速の昇進もしたんだそうだ。それから、この世界の”俺”が訴えた影響か何かわからないが、会社は倒産したとも書いていた。
けれど、そんな”俺”もここまですべて順風満帆なわけではなかったようだ。会社のトラウマが発症して精神的に不安定になって心療内科に通ったり、美香の父親に結婚を反対されたり、会社の上司に刺されそうになったり。
十数分かけて、3年分のコメントを読み切る。
そこで出てきた感想は、『ああ、こっちの俺はすごく頑張ったんだな』だ。
勿論、あの会社で働いてる俺がいつも頑張っていなかったわけじゃない。
でもそれは、流された挙句頑張らざるを得なかっただけで、自分で何かを良くしようと動き続けてきたこっちの俺とは、違う。
「あー、もう竜ちゃん。スマホ見とる! そろそろ出かけんと」
唇とその事実を噛みしめていた俺に、美香がぶーぶーとそう言ってくる。
可愛い。
俺はごめんと謝って、立ち上がり、彼女と出かける準備を始めた。
それから俺は、"俺"の作り上げたこの世界で数日を過ごした。
美香とデートを楽しんでそれから家でやることをやって、新しい職場、ホワイト企業に出勤して働くことの楽しさを知ったりした。
そんな風にこの世界をひたすらに満喫する。
これは、神様が俺に与えてくれた生きなおしのチャンスなんじゃないかって、そう信じこもうとしながら。
でも、痛みの引いてきたささくれを見るたびに、自分の本当の世界を思い出してしまうのだ。
俺はこんな幸せを得られるだけの何かを頑張ったのだろうか。
甘い汁だけ、吸っている。
幸せが、徐々に真綿のように俺の首を絞めてきた。
「あの時、竜ちゃんさー……」
美香との会話の中で持たない記憶をカレンダーのコメントをもとに補完して話す。
それもまた、俺の良心を傷つけていく。
俺がこの世界に来てから1週間が経とうとしていた日曜の深夜。
ゆっくりと休んで元気な体で仕事に行ける幸せを噛みしめながら、俺はこの世界にいたはずの”俺”のことを思案する。
スマホのカレンダーアプリを起動し、今日のコメントを綴る。
美香や同僚、その他すべての人間に、俺はこの世界の”俺”であるように振る舞っていたがここにだけは正直にすべて書いていた。
ほとんど治った手のささくれを見つめて、俺は初めてそこに、この世界にいたはずの"俺"に向けて言葉を綴ってみる。
『お前はすごい。よく頑張った。ここは俺には分不相応な世界だよ、俺は何も行動できなかった。できるなら、お前にちゃんと返してやりたい』
「竜ーちゃん!」
後ろから抱き着かれて、慌てて俺はスマホの画面を閉じる。
「美香、こんな時間に起きてるなんて」
基本彼女は早寝早起きだ。何かなければ、こんな時間に起きているなんておかしい。
振り返ろうとするも、美香が俺の頭に顎を載せているせいで首が動かせない。
それに、何だろうか。
少しだけいつもの美香と、違う雰囲気がする。
「竜ちゃん好きやよ。うちな。竜ちゃん以上に好きな人って。多分おらんと思う」
「そりゃあ、俺達結婚してるし。そうじゃないと困る」
くすくす笑いながら返す。
「ちがうんよ。うちが言いたいのは、そういうことじゃなくって……」
俺の言葉に対し、歯切れの悪い美香。珍しい。
「うちな、多分待っとると思うんよ。だからちゃんと追いかけてくれると嬉しい……」
そう言ってぱっと離れる美香。
振り向くと、美香はすでにこちらに背を向けていた。
「なんだか、言いたくなってん。おやすみ!」
そう言って振り向かず、すぐに寝室に向かって行ってしまった。
俺はしばらく考えて、美香の言葉にハッとする。
もしかして、彼女は俺が”俺”ではないことに気付いて?
そう思ってしまった俺は、美香と同じ空間で寝れる気がしなくてリビングのソファでそのまま眠りについた。
――もう、ささくれは痛くなくなっていた。
*
朝。
こわばった体で、目を覚ます。
ソファで寝ればそれもそうだと思ったが事実は異なっていて、俺の目の前には机と煌々と輝くPC。
どうやら俺は突っ伏して寝てしまっていたらしい。
つまり、全部ただの夢だったってことだ。
時刻は、と見ると、深夜の4時半。
短い時間でずいぶんと濃い夢を見たもんだ。
もう今日の仕事は確実に間に合わないな、とあまり焦りもせず諦め心で画面を見ると、先ほど作っていたはずの資料ではないものが映っていた。
しかも、完成済み。
慌てて日付を確認すると、1週間後。
夢で見たのと同じだけ、時間は経過していた。
俺は、カレンダーアプリを立ち上げる。
そして、予測通りのことが起こっていたということを知る。
1週間、”俺”は俺の世界で交換に暮らしていたのだ。
”俺”にとっては、どんな罰ゲームだっただろう。
でも、コメントには一つも俺への恨みなんて書かれていなかった。
最後のコメントを見る。
『お前はすごい、ここでよく頑張ってる。でも、すべての行動に遅すぎることなんてないと俺は思う。お前の人生は、これからだ』
本当にこいつは俺と同じ人間なのか、なんて思えて声を出して笑ってしまう。
まるで、何かのヒーローみたいだ。
でも、本当にそうだ。
もう考えずに流され続けるのは、やめよう。
俺は封筒を買いに行かなきゃなあ、なんて思いつつ、スマホの連絡帳をスクロールしてしっかりとまだ残っていた彼女の電話番号をタップする。
早起きの彼女。
もう、起きているはずの時間だ。
着信拒否はされておらず、すぐに電話の音が変わる。
「……竜ちゃん?」
ちょっと前に聞いたばかりだけれど、三年ぶりに聞く声に涙がぶわっとあふれてくる。
さあ、ここから、始めよう。
”俺”にできるなら、今の俺でもきっとできるはずだ。
「美香、俺な……」
あり得たかもしれない人生なんて思わずに、俺のこの手でつかみ取るんだ。
ささくれ剥いたら、並行世界に行った話 篠騎シオン @sion
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