百万本の薔薇

斑鳩陽菜

第1話  百万本の薔薇

「ねぇ? あんた、ちゃんと食べてるの?」

 スマホ越しから聞こえてくる母親からの声に、俺はまた始まったかと軽く舌打ちをして、聞いていた。

 一人暮らしを初めて三年、まもなく二十二になる息子に、この母親は現在でもうるさい。

 彼女が電話をしてくるときは、最後は決まって、彼女はいないのかとか、貯金はしているかとか、食事はきちんと摂っているかなどきりがない。

「ああ。食べてるよ」

 内心うるせぇな……と思いつつ、俺は答えた。

「あんたねぇ……、面倒くさいって思ったでしょ?」

 さすが母親、息子の心情をピタリと言い当てる。

「そ、そんなことはねぇよ。あ、そろそろバイトの時間なんだよ。切るぞ? お袋」

 俺も馬鹿正直に狼狽うろたえて、バイトを理由に通話ボタンをオフにする。

 スマホに表示される時刻は午後五時――、実はこの日のバイトのシフトはオフだった。

 そう、俺は母親との会話が面倒になって、通話を切ったのだ。

 俺の母親は五十二歳、家の窓から桜島が見えるという鹿児島の中央に住んでいる。

 何処にでもいる普通の母親だが、俺は彼女に怒られている記憶が多い。


 ま、俺もだらだらとしていたため、彼女が怒りっぽくなったのは、俺のせいでもあるのだが。

 東京に出てくる前の俺の生活スタイルは、学校の成績はさがるということはなかったが、といって上がることはなく、家の中では寝っ転がっては好物の『わさびビーフ』を頬張りつつ、スマホをいじっていた。

 知っているか? わさびビーフ。

 グリーンのパッケージに、牛のキャラクターがロゴから顔を出しているポテトチップで、濃厚なビーフ味と程よい辛さのわさび味の組み合わせは、これがたまらないのだ。

 ただ俺が住んでいた地域のコンビニには、こいつが売っていない。

 俺は普段は運動などしないくせに、わさびビーフを買うためなら隣町だろうと買いに走ったものだ。

 

 現在俺は、小さな牛丼店にてバイト店員として働くフリーターである。

 安定した職につけと、ここでも母親は言ってくるが、俺だって夢はあった。

 昔から、絵を描くのが好きだった。

 幼稚園ぐらいの時、近所のおばさんが家にやってきて俺の絵をベタ褒めし、将来は絵描きさんねぇと、笑っていた。

 それをに受けたわけではないが、高校を卒業した俺は、通信教育のイラストレーター講座を見て学び、東京でイラストレーターになると母親に言った。

 当然反対されたが、テレビ画面越しに映る東京は、俺には希望の町にしか見えなかった。

 今思えば、愚かだと思うよ。

 東京は、そんなに甘くはなかった。

 バイトをしながらイラストを描きつづけ、デザイン会社に売り込むも、俺のイラストは、とてもプロでやっていけるレベルではなかった。

 夢に挫折し、気がつけばもう三年だ。

 母親は、ふらふらしていないで早く帰ってこいという。

 でももう少し、頑張ってみたいのだ。

 夢には挫折したが、少ないが友達もできた。

 

 俺はキッチンへ行くと、常備しておいたカップ麺の蓋を開けた。

 そういえば、まともな飯を食べたのは、いつだっただろう。

 俺のバイト先はマイナーな牛丼屋で、昼時になると外まで行列ができる。

 もちろんまかない飯は出るが、家庭料理というものは実家に帰省した時以来、食べてはいなかった。


 確か、実家に帰ったのって正月だったよな……?


 今は二月――、つまり一ヶ月は家庭料理とは無縁である。

 誰もいない、一人だけの食事タイム。

 ここに、うるさく言ってくる母親はいない。

 誰に気兼ねすることなく、好きなものを食える。

 ひとり暮らしを始めた頃――、俺はそう思っていた。


 ――よく味わって食べなさい。ほら、よく噛んでっ。


 母親は、俺が食べている最中も口を出してきた。

 手元にあるカップ麺――、軽く腹を満たすには便利な食べ物だが、なぜこの日は心が満たされることはないのだろう。

 いつもなら今日も美味かったぜと、終わるのに。


 翌日――、バイト先にて俺は洗い場に立った。

「痛てっ……」

 客が食べ終わった丼を洗っていた俺は、指先に鋭い痛みを感じた。

 見れば、爪との間に白い棘がある。

「どうした?」

 俺の声に、近くにいた店長が気づく。

「なんか、棘が刺さったみたいで……」

「ああ、それはささくれだな」

 俺の指を見た店長は、そういった。

「ささくれ?」

「指や爪の周辺の皮膚が乾燥して、皮膚がめくれ上がってしまう症状のことさ。事務所に爪切りがあると思うから」

「ありがとうございます」

「しかしなぁ……、昔から、ささくれができると親不孝になるというが」

 店長はそう言って、苦笑する。

 

 何でもささくれができるのは、栄養バランスの崩れが関係しているという。

 自炊せず、外食や惣菜、カップ麺が中心だと栄養不足となり、皮膚の再生に支障が起きてささくれができやすいらしい。

 手の乾燥が大きな要因ではあるが、食生活や睡眠不足、生活リズムの乱れなどもささくれの原因ともなるという。

 ささくれができると親不孝といわれるのは、親が子どもの健康を心配している中で、その子供が不摂生な状態になっていることが、親不孝だと連想させるのだという。


 それを聞いて、俺は母親を思い出す。

 いつも電話越しに、うるさく言ってくる母親。

 俺はウザい、面倒と思っていた。

 彼女にとって俺は、何歳になろうと子供なのだ。

 そんな母親を、俺はうるさく思っていた。

 俺の健康を、成長を心配してくれていた母親。


 ――お前は、本当に親不孝ではないのか?


 指先にできたささくれが、そう俺に問いかけてきた気がした。


 バイトの帰り、俺は花屋の前で立ち止まった。

 あれは――、いつだっただろうか?

 

 

「小さな家とキャンバス~、 他には何もない♪」

 キッチンから、母親の歌声が聞こえてくる。

「なんだよ? その歌」

「百万本の薔薇よ。ああ、うちも薔薇で埋め尽くしたいわねぇ」

 母親は機嫌がいいときは、加藤登紀子という歌手が歌ったという『百万本の薔薇』を口ずさむ。

「やめてくれよ……」

「あんた、ロマンがないわねぇ。そういうとこ、あの人にそっくり」

 聞けば亡き父親は、花の一本も寄越してこない男だったらしい。

「悪かったな……」

 俺が不貞腐ふてくされると、母親は再び歌い出した。


 

 ♪小さな家とキャンバス 他には何もない

 貧しい絵かきが女優に恋をした

 大好きなあの人に バラの花をあげたい

 ある日、街中の バラを買いました

 百万本のバラの花を

 あなたに あなたに あなたにあげる……



 花屋の前で立ち尽くす俺に、花屋の店員が気づく。

「お決まりですか?」

「え……、あ、あの――」

 俺のバイト代では、とても百万本の薔薇は買えない。

 それにそんなものを抱えて歩いたら、恥ずかしいだろう?

 だからせめて――。

 

「母親に送りたいんですが……、その――、住んでいるところが鹿児島なんです」

「もちろん、全国発送も当店は可能ですので」

 赤い薔薇一本、四百円。

 俺は二千円という送料込みの値段で、薔薇を購入した。

 店員いわく、最短で明後日には着くという。


 帰宅した俺は、指に巻かれた絆創膏を見つめた。

 よし、今夜はカレーだ。

 自炊をするのは、一人暮らしを始めた頃以来である。


 そして――。


「ねぇ? 今日って、母の日だっけ?」

 いつもの、母親との電話でのやり取り。

 母親は、突然俺から届いた薔薇の花束を訝しんだようで、電話をかけてきた。

「あのなぁ……、母の日はカーネーションだろ?」

「じゃ、何よコレ」

「なんとなく、さ」

「ふぅ~ん……」

 下心があると思っているのか、母親はまだ疑っている。

 俺も素直に、感謝を伝えればいいのだが。

「あ、あのさ、なんか俺にでも出来る料理を教えてくれないかな?」

「は……?」

 は? じゃねぇよ。息子がやる気を出しているというに――。

「昨日カレーを作ったんだけどさ、底のほうが焦げちまって……」

「どうせ、わさびビーフを食べながらスマホに夢中になっていたんでしょ」

 おおお、さすが母親。

 大当たりである。

 母親は仕方がないわねぇと言いながら、レシピを教えてくれた。



 あれから、俺の指先にはささくれはできなくなった。

 実家から三十分という地域に住んでいる兄いわく、母親はすっかりドライフワラーと化した薔薇の花の束を、大事そうに飾っているという。

 そして『百万本の薔薇』を歌いながら、料理をしているらしい。

 俺は、親不孝ではなくなったのか、そうではないのか。

 相変わらずフリーターのままだが、自炊もやるようになった。

 それから以前は月に一度の母子の会話が、週に一度になった。

 いつも母親からかかってくる電話だったが、俺からかけている。

 母親は「なぁに? 今忙しいのに」と言いながらも、電話を切ることはしない。

 俺に出来る親孝行は「元気だよ」と知らせてやることしかできないが、母親からの小言が減ったのは確かである。

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百万本の薔薇 斑鳩陽菜 @ikaruga2019

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