ナルちゃんは女の子なんだから

秋犬

ナルちゃんは女の子なんだから

 ナルちゃんの爪が羨ましかった。きれいで女爪で、私の指とは大違い。


 ナルちゃんがたまにしているネイルを見る度、私は私の手を見る。ごつごつしていて、爪なんか丸くて男みたい。それにすぐべらべら剥がれるし、いつもあかぎれでいっぱいですぐささくれにもなる。


 何で私、豆腐屋なんかに生まれたんだろう?


 私は両親を恨む。代々続く豆腐屋は、採算なんか取れてないのにご近所の義理だなんだと言って畳む気は全くない。隣のおばちゃんはいつも「アンタはお婿を取らなきゃいけねんだー!」と言う。こんな不細工な私のところにお婿なんか来るわけないのに。


「行ってきます」


 私はランドセルを背負うと裏口から家を出る。看板の出ている表からなんか出て行けない。みんなが私のことを豆腐屋の娘って馬鹿にしてるの、知ってるんだから。こんなに寒くなってきたのに冷たい水の中に手を入れるなんて、バカみたい。豆腐なんかなくなっちゃえばいいのに。


 ワセリンまみれの手を抱えてとぼとぼ歩いて行くと、ナルちゃんがいた。ナルちゃんの髪は少し明るい茶色で、お人形さんみたいにきれいだった。


「おはよう、トモちゃん」

「おはよう」


 ナルちゃんは私と並んで歩く。昔から一緒に歩いてきたけど、最近はナルちゃんと一緒に歩く度に私が惨めになる気がしてあまりいい気分ではなかった。


「ねえトモちゃん、今日の図工なにやるんだっけ?」

「ステンドグラスじゃなかった?」


 それは色セロファンを切って窓に貼るだけの簡単な工作だった。


「あ、私カッター忘れちゃった」

「じゃあ一回うちに取りに帰ってあげるよ」

「で、でも」

「大丈夫、うちに引き返したほうが早いし」


 私はナルちゃんをその場において、白い息を吐きながら家へと引き返す。そして店の方へ回るとお母さんに大声で言う。


「ねえ! 図工で使うカッター忘れちゃった!」

「なに? 仕方ないね、そこから持って行きな」


 お母さんは作業の手を休めず、事務用品の入った棚を指さす。私は大きくて無骨なカッターを掴んで、すぐさまナルちゃんの元へ走って行った。


「カッター持ってきたよ。後で貸してあげる」

「ありがとう、トモちゃん」


 ナルちゃんには私の普通のカッターを貸してあげよう。うちの豆腐屋の名前が入ったデカいカッターなんてナルちゃんには似合わない。ナルちゃんは女の子なんだから。


***


 放課後、ナルちゃんにカッターを返してもらって私たちは帰り道に通る公園に来た。本当はランドセルを背負って公園に入ってはいけない決まりだけど、たまに私たちは公園のブランコで少し話してから家に帰っていた。


「ねえトモちゃん」


 ナルちゃんがぽつりと口を開く。


「私、転校するんだって」


 転校? ナルちゃんが? 私は信じられなかった。


「い、いつ?」

「今学期が終わるまで。お正月前に引っ越しするんだ」


 ナルちゃんは引きつったように笑っていた。


「そんな、急だよ。じゃあお別れ会とかしないと」

「いいの。そういうのじゃないから」


 ナルちゃんはずっと笑ってる。


「そうなんだ」


 私はどんな顔をしていいかわからなかった。ナルちゃんみたいに笑えれば、楽になるんだろうか。


 ナルちゃんと別れて家に帰ると、お母さんとお客さんが話し込んでいた。


「あそこの丸川さん、離婚ですって」

「へえ、だって丸川さんって旦那さんが高給取りだっていつも自慢してたじゃないですか」

「浮気だってよ浮気」

「どっちが?」

「奥さんの方。この前うちの前で間男と土下座しているところ見たって人がいてね」

「あらやだ……あら、お帰り。おやつ冷蔵庫に入ってるからね」


 お母さんはまたお客さんとの話に夢中になった。私のお母さんはあかぎれだらけの手でお客さんに油揚げを包む。


 話の中心になっている丸川さんは、ナルちゃんのお母さんだ。私はランドセルを降ろすと、何故だかわからないけど泣いた。ナルちゃんがあまりにも可哀想だ。


***


 冬休みになる前、すっかりナルちゃんはクラスで居場所をなくしていた。それまでナルちゃんをかわいいと言っていた女の子たちはナルちゃんを遠ざけ、元から寄りつかなかった男子はもっと近づかなくなった。


「かわいそうにね」

「お母さんに引き取られるんだって」

「丸川さんのお父さん裁判するってよ」

「相手は売れない俳優だって、騙されてるよね」


 大人顔負けの噂話が小学校に飛び交った。


 それでも、ナルちゃんはキレイだった。体育も給食も休み時間も、ナルちゃんは1人になった。私が声をかけても「私なんかと一緒にいたらトモちゃんまで悪く言われる」と私の元を去って行った。そんなナルちゃんが私はたまらなく可哀想だった。


 騒ぎを大きくしないよう、お別れ会はなかった。ただ最後の日に、ナルちゃんはみんなの前で別れの挨拶をさせられた。


「この小学校で卒業できないことが残念です。6年間ありがとうございました」


 ナルちゃんがぺこりと挨拶すると、まばらな拍手が起こった。担任はそれから何も言わなかった。まるでナルちゃんが最初からいなくなることが決まっていたように、みんなナルちゃんに関心を払わなかった。


 それでも、私だけでもナルちゃんとお別れの挨拶をきちんとしたかった。あの公園で、私はナルちゃんにお別れを言うことにした。


「ナルちゃん、これ。向こうでも元気でね」


 私は必死でかき集めたコレクションのシールの入った封筒をナルちゃんに渡す。


「ありがとう、トモちゃん」


 ナルちゃんはそれ以上何も言わなかった。代わりにナルちゃんは手を振ってくれた。すごくキレイな手。私なんかとは違う、すらりとした指と傷ひとつないすべすべの肌。


「ねえ、最後に握手をしてもいい?」

「いいよ」


 私はナルちゃんの手を握った。温かくて、ぬくもりのある手だった。


 それから私は、ナルちゃんに会うことはなかった。


***


 それから数十年。実家の豆腐屋も両親もなくなり、私は生まれ育った土地とは違うところで子育てをしている。私はかわいい女の子に恵まれ、自分がしてやれなかったおしゃれを娘にたくさんさせている。


「ママ、また不倫だって」


 テレビを見ていた娘が私を呼ぶ。大物タレントと有名シンガーソングライターのダブル不倫だとテレビでは嬉しそうに報じていた。


「子供もいるのに、ひどいよね」


 娘は素朴にそんなことを言った。その瞬間、私の中で何かが傷ついた。


「まあね、いろんな事情があるから」


 私はテレビのチャンネルを変えた。究極のいなり寿司の特集に娘は見入る。


 子供がいるのに他人と性的関係を持つことが私には理解できなかった。そして、私の中の傷は不倫の話を聞く度に何度でも蘇る。ささくれのようにちくちくと何度も何度も私の心は少しばかりの血を流す。そしてすぐに乾いて、なかったことになる。


 ナルちゃんとは手紙の交換を数度したけれど、中学にあがってから忙しくなってそれきりになった。今でも私はナルちゃんのすべすべした手を思い出す。そしてナルちゃんのように、たまの休日に娘にきれいにネイルを施す。ピカピカした爪を私に見せて、娘は微笑む。


 娘の中学の入学式は、間もなくに迫っていた。

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