バニラアイスが溶けかけたクリームソーダのような色のシーグラスは
葛西 秋
バニラアイスが溶けかけたクリームソーダのような色のシーグラスは
バニラアイスが溶けかけたクリームソーダのような色のシーグラスは、彼女が昨年、夏が終わりかけた海で拾ってきたものだった。
彼女はお気に入りのカフェで、お気に入りの煉瓦色の革の手帳に予定を書き込んでいるところだった。
半年先までみっしりと。
彼女がペンを持つ指、手帳を押さえる指それぞれにピンクベージュのマニキュアがきれいに塗られている。
彼女は自分の爪の美しいマニキュアの艶に思わず満足の吐息をもらした。
気に入っている色、気に入っているブランド、そしてお気に入りのネイリストに仕上げてもらった爪先の芸術だ。
彼女が持って生まれた指の形、爪の形、そしてささくれ一つない自分の健康的な皮膚にも満足だった。
なのに、テーブルの上に突如現れた、まるでバニラアイスが溶けかけたクリームソーダのような色のシーグラスが思いがけずに彼女の均衡を大きく揺さぶった。
色ガラスでできたビンが海に捨てられ、岩礁で砕けて破片になって、砂に、波に洗われて角が落ち、粉砂糖がまぶされたキャンディのように見えるようになったもの。それがシーグラスだ。
手帳をバッグから取り出したらいっしょに転がり出てきたのだ。スマホケースにでも引っ掛かっていたのか、それともバッグの底から弾き飛ばされて出てきたのか。
昨年、彼女は一人で海に出かけた。シーグラスはその時に彼女自身が拾ったものだった。その時の彼女の爪のマニキュアは淡いブルーで爪の根本にかけて紫色になる繊細なグラデーションがかかっていた。
夏の終わりの海は学生がちらほらいる程度だった。
その海は彼女が通っていた高校の近くの海だった。高校の卒業、大学生活、就職。取り立てて困難もなく今の彼女がある。
おそらく来年か再来年には付き合っている相手と結婚もするだろう。
全てが、完璧に、正しかった。
なのに。
彼女は一人で海に来ていた。
漠然とした不安の蓄積が溢れだしそうだったのだ。かといって人影のある浜辺で大声で叫ぶようなことは彼女の柄ではなかった。
足元に波が。
引いて、寄せる。引いて、寄せる。
波間に貝や小石とは違う人工の色を見つけて拾い上げると、それは粉砂糖をまぶしたような緑色のシーグラスだった。いったん気づけば、砂浜のあちらこちらにシーグラスが見えてきた。
彼女はシーグラスを拾い始めた。無心に拾い集めて小一時間ほど、片手のひら一杯にシーグラスが集まった。
彼女はしげしげと手のひらに集まったシーグラスを見て、眉をひそめた。
これではまるで自分が満たされていない不完全な存在のようだ。
彼女は手のひらを返して拾ったシーグラスすべてを波打ち際に落とした。
満ち始めた波に転がり、シーグラスは浜から海へ戻っていく。
途端に彼女は喪失感に襲われて、同時に喪失感を覚える自分に満足した。心の底から。
ささくれが治まり滑らかに、曇りが取れて透明に。滑らかな爪の表面を傷つける可能性があるものは、欲しくない。
カフェで彼女は自分の爪のマニキュアをうっとりと眺めた。完璧だった。
気に入っている色、気に入っているブランド、そしてお気に入りのネイリストに仕上げてもらった芸術的な爪先。
爪を眺めながら彼女は思う。
――今この手の平にあるものすべてを放り出したなら、私はきっと満足することができる。
彼女はふたたび予定を煉瓦色の革の手帳に書き込み始めた。
長い年月大切にしてきたものはそろそろ手放してあるべきところに還そう。良くないものが付いてささくれになってしまう前に。
――古いものだけでなく、すべてを捨てたらどうなるかしら
彼女は心から幸せそうな笑みを浮かべ、ひとつひとつ、煉瓦色の革の手帳に大事なものと、ひとつひとつ、それらを手放す日付を書き込み続けた。
とても大事で大切で、彼女にはまったく必要がないものを失う日付を。丁寧に。
バニラアイスが溶けかけたクリームソーダのような色のシーグラスは 葛西 秋 @gonnozui0123
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