小箱と旅する男
蟹場たらば
箱いっぱいの悪夢
この日、私は列車の窓から外の景色を眺めていた。
溜まった有休を消化する関係で、まとまった休みを取ることができた。そのため、久しぶりに一人旅をしていたのだ。
牧歌的と言うには野山や田畑が少なく、かといって近代的と言うには背の高い建物が少ない。そんな地方都市にありがちな情景を見るともなしに見ながら、ぼんやりと物思いに
といっても、「日本の行く末はどうなるのか」というような、大それたことについて思案を巡らせていたわけではない。それどころか、「このまま今の仕事を続けていいのか」とか、「別れた彼女と復縁できないか」とか、個人的な問題で思い悩んでいたわけでもない。
私が考えていたのは、もっとこまごまとした下らないことだった。「見慣れない店をよく見るが、地方限定のチェーン店だろうか」とか、「テレビで見た盛りつけの派手な海鮮丼を出す店は、確かこの地域にあるんじゃなかったか」とか、そういう具合である。もっとも、忙しなく息苦しい日常を離れるために旅に出たのだから、これはむしろ計画通りだと言えるが。
そうして、私の頭の中での議題が、「ぎょかいるいは、なぜ魚貝類ではなく魚介類なのだろうか」といういっそう下らないものに移った、その時のことだった。
「お隣、失礼してもよろしいですか?」
「え? ええ、どうぞ」
二人掛けの席とはいえ、座っているのは明らかに一人だけである。それなのに、わざわざ一言断る彼の物腰の低さに私は驚いていた。
また、彼が絶世の美男子であることにも驚いていた。
私より少し年下、二十代前半くらいだろうか。艶めかしい長く黒い髪。対照的に儚げな白い肌。大きいのに切れ長の目が、可愛らしくも美しくもある。
今時ほとんど見かけない着物姿だったが、どういうわけか違和感はなかった。むしろ、妙なくらい様になっていて、雰囲気があったくらいである。私にその
網棚の上に荷物を置くと、彼は再び「失礼します」と断って、それからようやく私の隣の席に座った。
だが、彼の手にはまだ荷物が残ったままだった。
それは、箱だった。
漆器と言うのだろうか。
寸法はさほど大きなものではない。せいぜい縦横がそれぞれ20センチで、高さも5センチ程度というところではないか。これなら中身がなんであれ、重さの方もたかが知れているだろう。
だからか、その小さな箱を、彼は大切そうに膝の上に抱えていた。
あれだけ丁寧に扱っていて、安物ということはないだろう。箱自体が高額なのか。それとも中のものが高額なのか。後者だとすると、漆器で保管しそうなものといえば…… そんな風に、私の頭の中の議題は、すっかり彼の持つ箱に取って代わられていた。
その上、思考だけでなく目も奪われていたようだった。
視線に気づいた彼が、こちらを見つめ返してきたのである。
「小旅行というんですか。僕はこのあたりが地元なんです」
私が箱の価値を値踏みしているのを、彼は素性を気にしていると誤解したようだった。浮世離れした風貌だとは思っていたが、どうやら性格の方もそうだったらしい。私は箱について聞く機会を逃したことを残念に思う一方で、彼に俗物と思われずに済んだことに安堵も覚えていた。
「あなたはどこからお出でになられたんですか?」
「東京です」
「都会の方からすると、何もなくてつまらないでしょう?」
「まさか。よそ者の言う『何もない』というのは、『その土地について何も知らない』という意味ですよ」
彼に気に入られようとして、社交辞令を口にしたわけではなかった。就職を機に上京しただけで、大学時代は他の大都市で暮らしていたし、それ以前は――出身地はここよりもさらに田舎だった。その経験から言えば、どの地域にもそれぞれに違った魅力があったのである。それで今回の旅行先にも、あえて地方を選んだのだ。
この回答に、彼は大いに気をよくしたようだった。
「どこかおすすめの観光スポットはありますか?」
そう私が尋ねると、砂浜や公園、美術館、登山道など、彼はいくつも候補を挙げてくれた。また、「僕は行ったことがないのですが」と前置きして、美味しいイカ料理を出す店を教えてくれもした。それどころか、自分はこれから岬に行くつもりだという話さえしてくれたのだった。
そうした盛り上がりにも、一段落ついた時のことである。
「御手洗いに行く間、荷物を見てもらってもよろしいですか?」
「構いませんよ」
私が快諾するのを聞いて、彼はホッとした様子で立ち上がる。
だから、隣の席には、例の黒い小箱だけが残されることになったのだった。
言われた通りに箱を見張りながら、しかし私は彼の言動に違和感を覚えていた。荷物の番を頼むほど大切なものなら、一緒に持っていけばよかったのではないだろうか。
それとも、行き先が行き先だからということだろうか。つまり、トイレのような不衛生な空間には持ち込みたくないくらい、大切なものということなのだろうか。
あの箱はいったい何なのか。どれほどの価値があるのか。一度疑問に思い始めるともう止まらない。観光地の話に気を取られて薄れかけていた好奇心が、再び頭をもたげてしまう。
彼の頼みを聞いたのである。こっちにだって、中を見る権利くらいあるんじゃないか。いや、目を離した隙に、中身だけ盗られたりしていないか確認するだけのことだ。そう自分に都合のいい理屈を並べ立てて、私はとうとう箱を手に取る。
しかし、好奇心はすぐに後悔に変わった。
体の震えをなんとか押さえ込んで
あまりのことに、ほんの一瞬しか直視できなかった。だが、それでも鮮明に思い出せてしまう。
切り刻まれた肉片。
剥ぎ取られた耳。
抉りだされた眼球……
箱の中に入っていたのは、バラバラにされた人間の死体だったのだ。
真っ先に頭をよぎったのは、「死体の隠蔽」という言葉だった。彼の正体は、未発覚の殺人事件の犯人だった。それで、どこか見つかりにくい場所に、死体を捨てに行くところだったのではないか。
けれど、先の通り、箱はそれほど大きなものではない。とてもではないが、あれでは全身は入りきらないだろう。
一応、死体を小さく分けて、少しずつ捨てるつもりだという可能性も考えられなくはない。しかし、仮にそうだとしても、まだ説明のつかない点があった。
バラバラ死体は、箱の中に綺麗に並べられていたのである。
二つの眼球は隣り合うように置いてあった。二つの耳は上下に重ねてあった。
指に関しては、親指と薬指、中指と小指、そして両手の人差し指という組み合わせで縦に並べてあった。おかげで、各々の長さが概ね揃う形になっていた。
また、先程は細かな肉をすべて肉片と一言で言い表したが、この表現は正確なものではない。実際には、それぞれに微妙な色味の違いがあったからである。おそらく腕や腹、尻、脚など、体の各部から少しずつ切り出したのではないだろうか。
その上、部位だけでなく切り方にも違いがあった。大まかに切ったり、逆に細切れにしたり、さらにはミンチ状にまでしたり、さまざまな変化がつけてあったのである。
ただ死体を捨てるだけなら、こんな手間をかける必要はまったくないだろう。執念というのか、こだわりというのか。いや、いっそ情熱や愛情と言ってしまってもいいくらいかもしれない。死体の詰め方から、私はそういった感情を読み取っていたのだった。
自分だって聖人君子には程遠いから、「他人を殺したい」「その上で捕まりたくない」という衝動を覚えたことくらいはある。だから、実行に移してしまう人間の心理自体は理解できる。
しかし、「死体を解体して、箱の中に綺麗に並べたい」などと考えたことは一度たりともなかった。まったくもって理解不能な行動で、どれだけ動機を考えても彼が異常者であるという以外の結論が出てこない。
そのため、私は単に殺人の証拠を見つけてしまったという以上の恐怖を感じていた。警察に通報したり車掌に知らせたりするという、常識的な対応はまったく頭に浮かんでこず、吐き気と悪寒をこらえるのがせいいっぱいだったのである。
そして、まずはこの場から逃げ出そうと、ようやく思い立った時には、彼が戻ってきてしまったのだった。
「どうもご迷惑をおかけしました」
「……いえ」
緊張で粘つく喉でなんとかそう絞り出す。
だが、視線までは誤魔化しきれなかったようだ。
「この箱が気になりますか?」
「え、ええ、随分丁寧に扱っていらっしゃるので」
中を見たことがバレてしまったのだろうか。まさか、口封じに自分のことも殺す気になったのだろうか。
しかし、それにしては、彼の態度にはあまりに変化がなさ過ぎた。逮捕されるかもしれないというのに、
だから、いっそこちらから探りを入れてみることにした。
「大切なものなんですか?」
「まあ、そうですね」
「高価な箱とか? ……それとも中に貴重品が入っているとか?」
「いやぁ、僕にとっては確かに大切なものですけどね。他の人には大した価値はないと思いますよ」
彼はそう言ってはにかむ。とても死体を切り刻んだ上、綺麗に箱詰めまでした人間のものとは思えない反応である。
「一体、どういう箱なんですか?」
私がやぶれかぶれにそう尋ねると、彼はこともなげにこう答えた。
「ただの弁当箱ですよ」
(了)
小箱と旅する男 蟹場たらば @kanibataraba
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