箱のなかの箱―煉獄―

笛吹ヒサコ

女もまた箱を開けられないでいる

 真っ黒な部屋に、真っ白な箱がひとつ。

 男は、なぜか箱に何が入っているのか知っていた。箱の中には【妻】が入っていると、なぜか確信していた。




 妻は美しい人だった。美しいだけでなく賢い人だった。凡人の男にはもったいないと、誰もが言うほどに。他人がなんと言おうと、どうでもいいことだ。

 美しく賢い妻は朴訥な男を愛していたし、男もありったけの愛を捧げていた。


「最後に残った『希望』にすがって生きていかなきゃいけないって解釈、わたしは好きじゃないな」

「けど、あながち間違ってないんじゃないかな。パンドラが開けた箱の中にはあらゆる災いが入ってた。……ってことは、『希望』も災いの一つじゃないか」


 男は、希望の価値がわからなかった。希望というものは、苦難や絶望の中でこそすがりつくものだろう。けれども、満たされた環境下では身の丈にあわない高望みでしかない。そう訥々と考えを話した。つまらない男のつまらない話だと自覚していた。けれども、自分にはない考えが妻にとっては新鮮で面白いのだという。きっと一生新鮮で飽きることはないだろうと、幸せそうに笑うのだった。

 そもそも、なぜそんな話になったのか。はっきり覚えていない。一緒に鑑賞したNetflixにパンドラの箱のエピソードがあったとか、そんなところだろう。


「『希望』も災いの一つかぁ。叶わないのにすがりつくのは、確かに災いかもね。でも、やっぱりわたしは希望は夢のあるいいものだと思うな」


 楽しそうにそういう妻を愛していた。

 幸せだった。満ち足りていた。

 思い返せば、あの頃にはすでに、病魔という名の災いは妻の体に巣食っていたのだけれども、幸せだった。

 病魔は、始めこそは緩やかに穏やかに妻を蝕んでいた。何度も医者から今後の見通しを聞かされていたけれども、実感が伴わないせいで深刻に考えなかった。日常生活に少々支障はあるけれども、男の支えが必須なほどではない。もちろん、できることはするし、していくつもりだった。妻を愛しているのだから、当たり前のこと。男も妻も楽観しすぎていたのだった。

 病魔は確実に妻を蝕んでいた。

 寝たきりになる頃には、心までも蝕んでいた。

 妻は、男に心ない言葉を浴びせるようになった。

 愛の言葉は、口汚い罵詈雑言に。

 美しさは、見る影もない。

 それでも、男は妻を愛し続けた。男の献身に、妻は理不尽に当たることに後悔する


 希望はあった。

 リスクのほうが圧倒的に大きい上に苦痛を伴う治療法があるにはあったのだ。完治する見込みは数パーセント。完治しても元の妻に戻ると限らなくても、可能性はゼロではなかった。

 男は希望にすがりつくべきだったのかもしれない。


 悩みに悩みんだ結果、男は妻にリスクが大きすぎる治療法は諦めようと話した。


「そう、わかった。……ありがとう」


 きっとまた罵られるだろうと思っていたのに、妻は穏やかに彼の意思を受け入れた。

 そのときの顔が忘れられない。美貌はそのなわれていたはずなのに、そのときの妻が一番美しく愛おしく思えたのだ。


 ほどなくして妻は死んだ。

 男は残りの長い人生、妻を想い後悔しない日はなかった。

 あのとき、希望にすがりついていれば、明るい未来もあったかもしれない。その未来を選ばなかったのは、男だ。それはつまり、妻を見殺しにしたということではないか。妻は、本当は諦めたくなかったのではないか。

 男は、希望の価値をわかっていなかった。




 真っ黒な部屋に真っ白な箱がひとつ。

 男は、なぜか箱に何が入っているのか知っていた。箱の中には【妻】が入っていると、なぜか確信していた。

 ただし、どんな【妻】が入っているかまではわからない。美しく賢い妻だろうか、病魔に体も心も蝕まれた妻だろうか、それとも物言わぬ妻だろうか――どんな妻だろうと、男は受け入れ愛するだろう。

 開けなくてはならない。

 出入り口はおろか窓すらない真っ黒な部屋から出るには、箱を開けなくてはならない。それもなぜか知っていた。

 けれども、男は箱を開けられないでいる。

 どんな【妻】でも構わない。それは問題ではない。

 問題は、箱を開けた途端【妻】がいなくなってしまうかもしれないこと。

 たとえ『希望』が残っても【妻】が残らなかったら、想像するだに恐ろしい。


 だから、男は箱を開けられないでいる。

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