歪な風華さんは生き辛い

たまぞう

歪にした箱

 それはひとりの人間が堕ちていく物語であった。この話もそんなひとつでしかない。


 なぜ、なに、どうして。


 その子の周りにはそんなものが溢れていて、それらがその子を孤独にさせ、歪にしていく。


「えーっと、ご連絡いただいた蹉跌さてつですけど」

「蹉跌さん……? ご用件は?」

「──、────」

「あちらで──」


 この日、警察署の窓口を訪れたのは齢三十になる女性である。


(免許証の住所変更くらいしか縁もない場所だと思ってたんだけど……)


 どことなく気の抜けた顔の女性は、前日に警察を名乗る人物から携帯電話に連絡を受け、その内容に半信半疑でもあり、そういう結末だとしても今さらだと思いながらもこうして訪れ、要件が通っていることに少なくとも嘘では無かったのだと知る。


「蹉跌さんはおひとりで?」

「ええ、結婚はまだ……」

「あー……いえ、ご兄弟やその、お母さまなどは……」

「ああ……」


 この蹉跌風華はどこにでもいるOLで、それだけにどこにでもある、ありきたりで、自身の何かしらの期限を知らせるような質問をしばしば受けるために、見知らぬ公僕からされた質問の意図を読み違えてしまった。


 今日、彼女が会社に有給を申請してまで訪れることになった要件からして、血のつながった家族の話であることは明白であるのに、いつ結婚するのかと問いかけられることに慣れたテンプレートな返事をしたのだ。


 それほどに、彼女にとってこの話は今さらすぎたのだ。


 連絡を受けて、事実を飲み込むのに疑問を挟む余地もなく、ほかに誰もいないのなら自分が行くしかないなと、ぼんやり考えてから会社には「私用につき」とだけ記した有給休暇取得申請書なるものを提出して休みを取得した。


 彼女をして驚くほどに感情が波立たないことに、いよいよと自嘲めいた笑みがこぼれたのは、昨夜に冷えた体を温める湯船の中でのことだった。


「デスクトップ汚くねえか」

「ああ、ここのところ立て込んでてな……」

「そうでなくても普段からだろ」

「まあな、ちゃんと整理するからよ」

「これとか、もう要らねえんじゃ?」


 蹉跌風華は係の案内でついて行く途中に見たそれだけのやり取りに、内勤はどこも変わらないなと思い一瞥しただけで、すぐに視線は前を向く。


 右手の人差し指が、何もないところでひとつ叩き、しばらくして離れた。


 案内に任せて歩いて行く彼女が、腕の振りを止めるわけでもなく、手の先だけで行われる動きに気づく者がいるわけもなく、彼女自身無意識のものである。


 無意識に、ずっと繰り返してきた行いの表面化された行動。


 彼女の頭の中で、歳を経るごとにそれは形を変えてきたのかも知れない。


 業務でパソコンを使うことが日常の彼女らしい行いであり、彼女の歪さを如実に表すものであった。


(どこにも、無かったのはさすがに落ち込んだけどね)


 いよいよ、間も無く本題に入るにあたり、彼女は昨夜からずっと付きまとう思いに現在進行形で落ち込んでいる。


 ただそれを人が見ても気づくことはないだろう。


 心と体の間に、彼女は隙間を作っているから。


 溢れて、溢れた心のカケラは、隙間に堕ちてしまうだけで、表に出ることは滅多とない。あるとすれば、隙間を埋め尽くして決壊するときだけだ。


「こちらへどうぞ」

「ああ、蹉跌さんですね。昨日お電話を差し上げました永田です。どうぞお掛けになってください」

「よろしく、お願いします」


 蹉跌風華が案内されたのは小さな暗い部屋で、ドラマでなら取調室にでも使われそうな簡素としたものだが、デスクライトもなければカツ丼も出てきそうにはない。


「他のかたは来られなかったのですね」

「平日、ですから……」

「……まあ、そうですね」


 背広姿の永田は活力みなぎるタイプではなく、髪の毛には白いものが多く混じっており、深い顔の皺も相まってそれほど遠くない未来に定年であろうことを思わせる見た目だが、かといってくたびれた情け無いタイプでもない。ただこういった案件に思うところもあるのだろう。


 とりわけ、呼び出した相手の反応に。


「身分証の確認は済まされているということで……はじめにこちらを」

「これらは?」


 永田が小さな段ボール箱から取り出したものを机に並べると、それが何であるかを分かってはいるものの、問いかけて確認したくなるのが彼女、蹉跌風華だ。


 確認して、返ってきた言葉のほうが、信用できるだろうから。


「遺品、ですよ。通帳に印鑑、ライターに免許証、ですね」

「免許証……」

「こちらですでに身元は割り出せていますし、ご本人のもので間違いありませんが──」


 蹉跌風華は、手元に引き寄せ、それでも手には取らず、そこにあるものを、写っているものを凝視する。


 懐かしい名前に住所、そして──。


「蹉跌風華さんのお父様で間違いありませんね」


 ──記憶に残っていない顔写真。


「はい、間違いありません」


 それでも蹉跌風華は肯定する。記憶に残っていないというのは不正確で、見ればぼんやりと、確証を得られないが、そうであったかと思えるくらいには一致する。


(こんな顔してたんだ……)


 だからこそ、蹉跌風華は改めて絶望した。


 彼女の両親が離婚し、親子が離れ離れになったのは彼女が中学二年生の春のことだ。


 一学期の初めですらなく、中途半端な時期に転校して、友だちの全てがリセットされたことも、転校初日にちやほやされた割に、蹉跌風華の閉ざした心がすぐさま孤独を招いたことも覚えているのに、彼女は父親の顔を覚えていなかったのだ。


 幼子ならいざ知らず、すでに大人に近くなっていたはずの人間の記憶力にしてはお粗末すぎると、蹉跌風華は思わずにはいられない。


 あまりにも無知で、愚かで、存在すら許していいものではない。蹉跌風華は過去を振り返るたびにそう思い、結果としてこの日は彼女の人生において最も暗く深い澱みに堕ちた日のひとつといえる。


「通帳は、息子さんの名義ですかね」

「兄の名前……ですね」

「残高はゼロですが──」


 両親が別れたあとの父親の足跡を蹉跌風華は知らない。母親が頑なに隠し通し、時には嘘をつき距離を置かせたからだ。


 その結果、母親の思い通りになったのだろう。蹉跌風華はすっかり父親の顔を忘れ、好きなタバコの銘柄も忘れ、整髪料のブランドも、好みのツマミがなんだったかも、片手で余るほどしかない、遊園地に連れて行ってもらった記憶さえも、失くしていた。


 失くしていたことに、娘が絶望することまでが母親の思い通りではないことだけを、せめて蹉跌風華は祈り、永田の見えないところで手を固く握った。


「兄の名前、なんでなんでしょうかね……」

「……恐らくは、貯金していたんじゃあないでしょうかね。親ってのはそういうものですから」

「四人、なんですけどね」


 四人兄妹に生まれ、少なくとも蹉跌風華の名義の通帳はここにはない。一連のことにいかな蹉跌風華とて心が揺れるのを感じないわけもない。


「──遺品は、これだけなんでしょうか」


 あまり私物を増やさない蹉跌風華もその数には無用な思いを巡らせずにはいられない。


(ひとが生きた証というには少なすぎる……)


 家庭の事情から、彼女はお金を稼ぐということに普通のひととは違う感覚を持っている。


 単純に働くのが嫌いな、苦手な、不得手なひとはきっと──そんな感覚を、彼女は昔から見て植え付けられている。


「ええ。借りてたアパートは市営住宅で、生活保護を受けてたようで荷物もほとんど無い状態、でしたね」

「市営住宅……」

「市役所から聞いた話でなんですが……」


 蹉跌風華の様子を窺いながらも永田はそう切り出して語る。


「市役所のひとが最初にお父様を見つけたのは、寂れた港町でもう動かなくなった軽バンに住んでいたところだったとの話です」

「──っ」


 蹉跌風華はそれでも全て失くしたわけではなかった。


 昔から車酔いの絶えない彼女は、父親の運転する車の記憶がどうにか残っていたのだろう。


 息子の学資貯金だったのかもしれない、そんな通帳を生活のために空にしても持ち歩いてたのは、それが数少ない残された繋がりだと、心の拠り所にしていたのだろうか。


 ひとが、終わりを迎えるのに、こんな寂しいことがあるかと、蹉跌風華は心の隙間が急速に埋まっていくのを感じる。


 埋まって、埋め尽くされて、じきに決壊するのをひしひしと感じる。


 彼女は強い。永田の前ではきっと涙を流しもしないだろう。


 彼女は弱い。家に帰れば涙は止められないだろう。


(ずっと、ずっと昔に閉じ込めたはずなのに。心の中にある箱の中に、閉じ込めて、鍵をかけて、奥にしまい込んだはずなのに──)


 父親の死を聞かされて、身元引受人として呼ばれてなお、思い出そうとしても思い出せない記憶に、自分の冷徹さに、無関心さに、湯船につかって体が温まるのとは反対に、心が冷え切っていくのを感じた夜を過ごした蹉跌風華は、すでに自分の人生とは縁のなくなったひとの死に心が引き裂かれそうになるほどに、弱い。


 生きていくうえで、彼女は記憶に蓋をすることを選んだ。


 もう会えない友だちの代わりに新しい友だちを作る気にはなれなかった。


 ひとつ蓋をすれば、次々と蓋をしていった。


 人の目が怖い。借金をこさえて別れた両親の子どもだと指を差されているのでは、と子どもながらに蹉跌風華は生きていることを許されない生き物だとして、幸せを放棄してきた。


 なにも欲しくてたまらない、手にして当たり前のものを涙ながらに捨てたわけじゃない。


 むしろそんな「普通」の可能性が手元にあるだなんて、恐ろしくて、申し訳なくて、遠ざけて捨てた。


 友だちも、学業も、バイトも、恋愛も。


 そんな「普通」を持っていない自分が、「普通」のひとの人生に関わって不幸を撒き散らすなんて許されない。


 だから、蓋をした。


 固く、見えない、手にも取れない箱に、蓋をして捨てて、忘れたはずなのに。


「お父様が死んでるのを見つけたのは、ご友人が生活保護費の支給日に現れないからと訴えかけたからだそうで」

「……父に友人が……?」


 そして綻び崩れそうな蹉跌風華の心は、そんなひとことに救われる。


(少なくとも、ひとりじゃなかった……)


 実際は孤独死。寝ている時に心の臓が、という高齢には珍しくもないことかも知れない死因。永田はその死に顔に苦悶の表情はなかったことから、苦しみなく死んだのだろうと告げる。


 少しだけ、蹉跌風華の心は父親がほんの少しの幸せを手にしていたのだと思うことでこの場での決壊を免れることに成功した。


 話もそこそこに場所は変わり、蹉跌風華は父親の遺体と対面する。


「冬場の割に腐敗が進んでいるのはエアコンがつきっぱなしだったからでね……少し見た目もあれだけど……あとにおいも」

「かまいません」


 覚悟とは程遠い。


 ここに弱い蹉跌風華はいない。


 強い蹉跌風華もいない。


 緑色に変色した父親は、体内に溜まった腐敗ガスのせいで膨れて免許証の写真とも似つかないものであったが、眉根にあるホクロがそうであると示している。


「──御遺体は引き取られますか?」

「……」

「役所に任せることも出来ますが」

「それで、お願いします」


 蹉跌風華はすでに物言わぬ骸となった父親を見ても特別な感慨もない。


 それほどに、引き離した母親の思惑は成功したのだろうし、遺体も遺品のひとつさえも持ち帰らない蹉跌風華という人間を壊してしまっていたのだろう。


 父親の遺体を前に、蹉跌風華の心はもう揺らがなかった。


 今さら、だからである。


 見なくなってから、どれほど経ったことか。死んでいる事実はすでに聞かされていて、目の前にしても事実の再確認でしか無かったからだ。


 泣いてすがれば良かっただろうか。遺品のひとつでも手にし、胸に抱きしめて見せればよかっただろうか。


 そんなことをしても、誰に対するアピールにもならない。


 肉親の死を言葉で説明され、心が波たち、いざ対面しても新たな事実もないからと更新されない心は歪でしかない。


 蹉跌風華は、蓋をしたのだ。


 人間らしさに。


 そつなく生きるために表面上こそ感情豊かで周りにも気の利く女性ではあるが、その実いまでも幼い頃からの呪縛は解けず、全てに蓋をすることで、人間を演じている。


 いまも、蹉跌風華は人間らしさを演じて死ねずにいる。




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