老人とパンドラの箱

ジャック(JTW)

悔恨と紫煙

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 ビリーは、静かな部屋の中で寝台に横たわっていた。彼の老いた体は病気との戦いに疲れ果て、生命の炎はもうすぐ消えてしまうだろうという予感が漂っていた。窓の外では風がそよそよと吹き、枯葉が揺れていた。

 彼は何とか上半身を起こすと、震える手で葉巻を取りだし、紫煙を燻らせながら古いテレビを見つめていた。


 彼の老いた姿とは裏腹に、若い頃のビリーは様々なスパイ行為に手を染めていた。その過去の出来事は、彼の心に深い傷を残し、今もなお彼を苦しめていた。


 ビリーはテレビの画面を見つめながら、過去の出来事を思い出していた。彼が行ったスパイ行為は、自国のためという名目で行われたものだったが、その裏には様々な葛藤や苦悩があった。彼はその過去を振り返りながら、自分がどれだけ多くの罪を犯してきたのかを痛感していた。

 情報を奪った。金を奪った。命を奪った。そして……。


 やがて、紫煙が部屋を満たした。嗅ぎ慣れた葉巻の匂いを肺に吸い込みながら、ビリーは自分の人生について考えを巡らせていた。彼は若い頃の自分に戻り、もう一度選択をすることができたら、違う道を選ぶだろうか。それとも、同じ道を選ぶだろうか。老いたビリーの心には、まだ閉じ込められたパンドラの箱があるようだった。


 *


 若きビリーは、敵国の女性クララとの出会いが彼の人生に大きな変化をもたらすことになるとは、最初はまったく気づいていなかった。

 彼は彼女を利用するつもりで近づき、情報を得るために彼女の心を探ろうとした。しかし、クララの優しさや純粋な愛情に触れるうちに、彼の心は次第に彼女に惹かれていった。そして、クララとの間に息子アイザックが生まれたとき、彼の心は完全に彼らに奪われてしまった。


 しかし、彼の任務期間が終わり、自国に帰還しなければならなくなったとき、彼は自らの気持ちと葛藤した。愛するクララと息子アイザックを捨ててまで、自国の利益のために戻らなければならないのか。


 ──彼は最終的に自分の使命を果たすことを選び、クララとアイザックを置いて自国に戻ることになった。その決断は彼の心に深い傷を残した。


 *


 ビリーは自国の栄光と名誉を手に入れたが、その栄光の裏には彼の心に残る深い空虚感があった。彼は孤独な老後を過ごし、新たな伴侶を求めることはなかった。彼の心はいつもクララとアイザックと共にあり、彼の心に出来た大きな欠落が埋まることはなかったのだ。


 自国のために尽力したことに誇りを持ちながらも、ビリーの心の奥底には常に遠い過去の愛が残り続けた。彼は孤独な老人として、自分の選んだ道に対する苦悩と後悔と向き合いながら、最期を迎えることになるだろう。


 *


 ──速報です。隣国の大統領選挙の結果を──


 ザザッ、と歪なノイズが走る。

 ふと、ビリーは古ぼけたテレビ画面を見詰め、そして彼は自らの眼を疑った。


 ──滲んだテレビ画面に映る姿に見覚えがあった。立派な青年に成長したアイザックと、年を経ながらも微笑みの美しさが変わらないクララが映っている。


 隣国のアイザックは演説を始める。

 ──彼は母子家庭で育った。身元不明のが彼らを捨てた後も苦難に立ち向かい、努力と勇気で一国の大統領にまで上り詰めたのだ。


 アイザックは、自分の母であるクララがどれほど苦労して自分を育ててくれたかを語った。どんな生まれであろうと自国にいる子供を大切に育てる社会を作ると語るアイザックの眼差しには、温かな光が宿っている。

 クララの母親としての愛情と、アイザックの持つ力強い意志が、彼をそこまで導いたのだと理解した。


 同時にビリーは、自分が隣国を揺るがす情報を人知れず握ってしまったことに気づき、ゴホゴホと重い咳をした。アイザックやクララは預かり知らぬ事ではあるが、アイザックの父親ビリーは間諜スパイだった。


 隣国でアイザック新大統領の出生の秘密が知られれば、どうなるかは火を見るより明らかだ。

 アイザック新大統領やその母クララは何のスパイ行為にも関与していない。そうだとしてもそれを証明することは最早誰にもできない。

 一度露見すれば、父親ビリーのせいで疑いの眼差しは生涯続き、その猜疑心は、ようやく栄光を掴んだアイザックのみならずクララも苦しめることとなるだろう。


 暗い部屋の中で、ビリーはざらついたテレビ画面に映るアイザックとクララの笑顔を見つめていた。彼らの幸せそうな姿が、彼の心を苦しめるばかりだった。彼は手を伸ばし、戸棚から拳銃を取り出して手に取る。彼の手は震え、心臓の鼓動が耳を支配した。


 彼は拳銃を握り、冷たい金属が彼の唇に触れるのを感じながら、苦悩に満ちた表情を浮かべた。過去の出来事が彼の心を侵し、彼の選択を決定づけていた。


 テレビの中でクラッカーが鳴らされる音と同時に、パンという乾いた音が鳴り、薬莢が転がった。

 ビリーは、今際の際に、自分が最も大切にすべきものは何だったのかようやく気づいたのだ。


 命あるものが誰もいなくなった部屋の中で、映りの悪いテレビだけが、ジリジリとノイズを鳴らしていた。


 ──ビリーは、パンドラの箱を開けずに逝った。


 紫煙が、彼の残り香のように漂う。

 それもまた、やがて掻き消えていった。



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