断片
夜の章
夜の足どり
彼女を思うとき、背景はいつも夜だった。
夜回りは彼の日課だ。ここの住人は、基本的に個々人で自由な時間を過ごすが、夜はほとんどの住人が静かに部屋で過ごすものだった。
「足りないな」
ふむ、と皇帝ペンギンの雛の姿をした彼は、ぐるりとロビーを見渡して呟いた。
ソファに座っていた黒髪の青年が、その声に顔を上げる。
「夜ノちゃんかな?」
「見たのか?」
「鈴の音がしたから、出かけるのか、て聞いたら、その辺を散歩してくるって」
ここには盲目の女性がいる。
彼女の杖の手元には、小さな鈴が付いていた。皆が彼女に気が付けるように、犬の獣人が無邪気に括りつけたのだった。
思うところは無いわけでは無かったが、無邪気な彼に他意はない。きっと、彼が、盲目の彼女のことを気にかけたいのだ。
彼女は気分を悪くすることもなく、「可愛いわ」とニコニコと笑っていた。
「夜ノちゃんなら、大丈夫だよ」
思案するような様子を見せるペンギンの彼に、青年は笑いかけた。
「ジンくんやみんなが思っているよりも、彼女は一人でどこへでも行ける」
レディファーストの文化圏である彼をして、そう言わしめる彼女は。
その姿を思い浮かべるとき、背景はいつも夜空だった。
どこか、彼女には夜のイメージがあり(名前のせいだろうか)、暗い道も少しも迷う素振りのない足取りで歩いていく。
「夜のほうが好きだわ」
本人がそう言うように、彼女は夜との親和性が高かった。
「そうは言ってもな」
ペンギンの彼は背丈の低くされたコートハンガーから、外套を取るとふわりと羽織る。
それから、ソファに掛けてあったブランケットを。
「もう夜も寒いからな」
「そうだな。行ってらっしゃい。
温かいものを用意しておくよ」
ひらひら、と青年は手を振って、にこやかにペンギンの彼を送り出した。
ここの夜は、星の瞬きが聞こえそうなほど、とても静かだった。
住人が増えるたびに拡がるフィールドには、緩やかな丘が続いていた。するりと伸びる一本道は、歩き続けると見慣れたホームが見えてくるのだから、不思議な場所である。
彼女の歩幅は、その和服のために狭い。ペンギンの彼が少し急ぎ足で歩けば追い越してしまう程度だ。
ふと、聞き覚えのある高い綺麗な音とともに、気品ある花の香りが緩やかな風に運ばれてきた。
─── 夜の香り ───
ぱ、と脳裏に浮かんだ言葉だった。どこでそれを聞いたのだったか。
いや、そうだ。
「夜ノ」
月明かりに青く照らされた背中へ、彼は声を掛けた。
ぴたり、とその足が止まり、彼女がくるりと振り返る。「どなたかしら」
「モェルガイスだ」
「あら、親分さん。こんばんわ」
「散歩をするならもう少し着込め」
彼は彼女の元まで向かうと、その白く細い手を取り、ブランケットを広げて持たせた。代わりに、杖を受け取る。
「ちっとも寒くないのよ」
「寒くなる前に暖かくしておけ」
「ふふ、やっぱりお父さんね」
「なんだそれは」
いたずらっぽく笑う彼女に、彼は呆れたような、驚いたような、どちらともつきかねる声で尋ねた。
「みんなに言っているの。
親分さんはお父さんみたいな人だわ、て」
ぱたぱた、とその言葉に、彼はつぶらな瞳を瞬かせた。
ペンギンの、雛、である。(そして、もう一つの姿もまた、『お父さん』には程遠い)
彼の戸惑いが伝わったのか、彼女はブランケットを羽織りながら、
「みんな、目が見えなくなってしまえばいいのに」
とんでもないことを言った。
ふむ、と息を吐くように、ペンギンの彼は返す。
「…… 外見に惑わされないから、か」
「そうよ。あなたの声って、とても静かですてきね。まるで夜のようだわ」
ふふ、と彼女は笑う。
ふわり、と緩やかに風が吹いた。「ああ、綺麗な香り」
どこかから、沈丁花の香りが吹き込んでくる。
「夜の香り、だ」
ふと、彼が呟いた。その言葉に、彼女が反応する。
そこで、彼も気付いた。これは、いつか彼女が言っていた言葉だったのだ。
何も見えない。まっくらな世界の中で、彼女は、音と香りと、肌に触れる一切で、世界を見ていた。
「親分さん、わたし、もう少し歩くわ」
夜は彼女の庭だった。
「俺も一緒にいいか」
「あら、すてきね。ご一緒しましょう。お喋りは控えめに。
きっとみんな眠っているわ。それにね」
物知りな彼女は、そう言って小さく笑う。
「夜は静かだから、大きな声で笑うと、星が散ってしまうのよ」
「それは大変だな」
きっと、彼女には、星の小さな瞬きが聞こえているのだろう。
それでも夜は、彼女と、ペンギンの彼の間をそっと埋めて、彼は、いま、彼女の世界に近いところを歩いているのだ。
『花筐荘』 もちもち @tico_tico
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