祖父の箱庭。
夕藤さわな
第1話
祖父が死んだ。
母方の祖父だ。父方の祖父母は私が生まれる前に死んだ。母方の祖母は私が幼稚園の頃に病気で、両親は私が小学校に上がってすぐに船の事故で死んだ。
それからずっと、私が高校三年生になり祖父が突然倒れてそのまま死んでしまうその日まで祖父と私の二人暮らしだった。
祖父は箱師だった。
箱庭と、箱庭にアクセスするための小さな――赤ちゃんの拳ほどの大きさしかない小さな箱を作る職人。
かつては地続きにあちこち行けたらしいけど温暖化で水位が上がり、陸地はほとんど海の下に沈んでしまった。人間は狭い土地に高い高いビルを建て、その中を細かく区切って暮らすしかなくなった。
ビルからビルへの移動は富裕層なら小型の飛行機をチャーターするところだけど私たちみたいな庶民は基本は船だ。
高い高いビルの中に学校や会社を作るだけのスペースはない。だから、箱庭と呼ばれる仮想世界を作ってそこに集まることにした。
子供が生まれたら小・中学校の箱庭にアクセスするための箱を強制的に買わされる。だって、義務教育だから。
子供を預けるなら幼稚園や保育園の箱を買わないといけないし、高校や大学に進学するときにも、就職するときにもその場所の箱庭にアクセスするための箱を買わないといけない。
プライベートな空間を持つにも箱が必要だ。
細かく区切られた六畳一間のひと部屋にひと家族が押し込められている。現実世界に自室なんて物を持っている人はとんでもない金持ちだけ。庶民はみんな、箱を買って箱庭に自分の部屋を作る。
娯楽施設に行くにも箱が必要だ。
クラゲやイルカ、巨大水槽の箱を並べて置けば水族館。メリーゴーランドや観覧車、ジェットコースターの箱を並べて置けば遊園地。友達と一緒に訪れる近所の公園にアクセスするためにも箱が必要。
いろいろなジャンル、種類の箱がある中で祖父が作っていたのは森や草原、川といった自然を題材にした箱だ。
例えば、草原の箱庭。
踏みしめた青草の感触。匂い。
空、雲、頬を撫でる風。湿度。
現実世界で草原を見たことがある人、行ったことがある人なんていない。それでも本能が訴えるのだと言う。これは本物だ。走れ。駆け出せ、と。
本物以上に本物。
箱師としては、そんな感じのご大層な評価をされていた祖父だから初めて会った人は必ず驚いた。当の祖父はガサツでテキトー。
私が悩んでいても――。
「悩め、悩め。大丈夫。いくら悩んだって死にゃあしない。ゆっくり悩め」
なんて言ってガハハと笑っているような人だったから。
だから、祖父が死んで遺品整理のために初めて祖父の作った箱庭にアクセスした私は目を丸くした。
ガサツでテキトーな上に頑固で、妙なところで恥ずかしがり屋な祖父は私に一度も自分が作った箱を使わせてくれなかった。祖父お手製の祖父の自室に入ったこともなかった。
初めて入った祖父の部屋はゆったりとした畳の部屋で、真ん中に掘りこたつがあって――。
「……あら」
「あらら!」
「いらっしゃい!」
その掘りこたつには母方の祖母と母と父が座っていた。
「そう、あの人……死んでしまったのね」
母方の祖母は私が幼稚園の頃に病気で死んだ。
「絶対に塩分の取り過ぎが原因だって。お父さん、昔から醤油かけ過ぎるところあったじゃん」
「きちんとご飯を食べて、寝てる? お祖父ちゃんが死んで辛いだろうけど、でも、ちゃんと食事と睡眠を取るんだよ」
両親は私が小学校に上がってすぐに船の事故で死んだ。
物心がつくかつかないかの頃の話だ。祖母のことも両親のこともぼんやりとしか覚えていない。覚えていると思っている記憶も写真や、祖父から聞かされた思い出話を自分の記憶と思い込んでいるだけかもしれない。
この
確かに〝こう〟だった、と――。
三人とも箱師だった祖父が作り出した箱庭の一部。仮想世界に作られたデータでしかない。わかっているつもりなのにまるで本物のように感じてしまう。
「お祖父ちゃん、ガサツでテキトーだから一緒に暮らしてるとイライラすること、多かったでしょー」
ニヤリと笑う母につられてニヤリと笑ってしまう。
「でも、あれでものすごく気にしいでね。陰でこっそりああするべきだったんじゃないか、こうするべきだったんじゃないかってうじうじ悩むのよ」
おっとりと微笑む祖母の言葉に苦笑いする。
「だから、何を言わなくても何をしなくてもいい。ただ、そばで見守っていてあげてくださいっていつもお願いしていたんだよ」
メガネの奥の目を細めて言う父に目を丸くする。
私が悩んでいても〝悩め、悩め〟と言ってガハハと笑っているような人だった。だけど、思い返してみれば必ずそばにいて、私が顔を上げればニカッと笑顔を見せてくれた。
「お祖父ちゃんってばこんなところで育児相談してたんだ」
ガサツでテキトーで、悩みなんて少しもないと思っていたのに。悩んで迷って、こんなところで背中を押してもらいながら私のことを育てていたらしい。
育ててくれていたらしい。
「ほら、ティッシュ」
泣き出す私に父がティッシュ箱を差し出す。
「そういう涙もろいところ、お祖父ちゃんソックリ」
「あら、やだ。あなただって相当に涙もろいわよ? お祖父ちゃんソックリのお母さんにソックリなのよ」
「やめてよ、お父さんにソックリとか!」
ティッシュで勢いよく鼻をかみ、母と祖母のやりとりにくすりと笑っているうちに現実世界に引き戻された。初めてアクセスする箱庭だ。念のためにと十分で強制的にログアウトするように設定しておいたのだ。
明かりも点いていない六畳一間の部屋に私一人きり。そう思っていた。でも、祖父が家族を残してくれた。祖父の記憶に残る家族の姿を。
「お祖父ちゃん、私……箱師になろうかな」
まだぼんやりとした思いを呟いて、売り物の箱とは違って何の絵も描かれていない、ただ白いだけの箱を胸に抱きしめる。
「あら、素敵」
「お祖父ちゃんと一緒ぉ? もうちょっと考えたら?」
「お父さんはいいと思うけどな」
祖母と母、父の声が聞こえた気がした。
それから――。
「悩め、悩め」
そう言ってガハハと笑う祖父の声も。
祖父の箱庭。 夕藤さわな @sawana
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