探検家ロカテリアと峠鬼【KAC20243】
竹部 月子
探検家ロカテリアと峠鬼
探検家ロカテリアは、申請窓口の役人の大声に顔をしかめた。
「これだけ騒ぎを起こしておいて、皇印旅券なんか発行できるわけなかろう!」
片耳をふさいでやりすごしたロカテリアは、
「この一カ月の滞在で、何軒の酒場を出禁になったと思ってる!」
「たった五軒だよ。それもこっちが仕掛けたわけじゃない、売られた喧嘩を買っただけさ」
入国早々に酒の飲み比べに付き合った男が生意気だったので、掛け金を巻き上げて、つぶしてパンツ一丁で店の前にさらした。
それが運悪く、夜の街の顔役だったらしい。
以後どこの店でも、蛇の紋章が入った指輪をつけた男たちに絡まれるようになり、喧嘩になるとロカテリアだけが捕まって一晩牢屋に入れられる。
後半は牢を宿代わりにさせてもらっていたくらいだ。
しかし、皇印旅券が出してもらえないとなれば、少々困ったことになる。
この国は大陸を南北に分ける険しい山脈の途中にあって、整備された街道が一本しかない。
皇印旅券が無い者は、街道を使えず、そうなれば当然馬車にも乗れず、出国することすらままならなくなる。
まるで閉じられた箱のような国なのだ。
肌にまとわりつく蒸し暑さと、どこでも好き勝手タバコが吸えない規則。
そして、みんな同じようにみえる糸目の民族に飽きて、出国を決めたロカテリアにとっては、かなり深刻な問題でもあった。
「しかも婆さん、この国は二度目だよな。前回誰が旅券を出してやったのか忘れてるってのも、恩知らずで気にくわないぜ」
確かに彼女は、六年ほど前にもこの国を通過している。
だからみんな同じ顔に見えるんだよ、という言葉は、さすがのロカテリアも呑み込んだ。
「その時も七十歳って書いてただろう、俺の目はごまかせないぞ、この申請書は無効だ!」
おやまぁ、と老婆は驚いた。どうやら本当にこの役人は自分を記憶しているらしい。
いつぞや無礼な若者に「ババアの六十も七十も同じだよ」と言われたことがある。
それもそうかと納得したものだから、六十歳のうちから七十歳だと言いはり、たとえ七十を過ぎてもそこから先は数えないと決めているのだ。
ロカテリアは愛用のトランクの上にヒジをつき、指を組んであごをのせる。
そうして、旅人の自分を記憶してくれていた役人に向かって、全力で愛くるしい笑みをうかべた。
「じゃあお役人さん、アタシがいくつに見える?」
交渉は決裂した。冗談のわからない役人だ。
ブツクサ言いながら役場を出るロカテリアに、一人の男が駆け寄ってくる。
指にはめられた蛇の指輪に一瞬ロカテリアは警戒するが、男の方は彼女のことをまるで知らない様子で話しかけてきた。
「婆ちゃん、皇印旅券を断られたんだろ、大変だったなぁ。急ぐ旅かい?」
「……そうだね、ちょっと途方にくれているところさ」
男が路地へ誘導してきたので、ロカテリアは面白がってついていく。
「街道が通れないとなると、裏道を行くしかないぜ」
準備のいいことに、木箱の上に羊皮紙の地図が広げられていて、街道とは別に点線で裏道が示されている。
「北と南どっちに抜けるとしても、渓谷を渡る橋を越える必要があるんだ」
馬車に乗れない以上、面倒ではあるがその道を徒歩で行くしか方法が無さそうだ。
「だが近頃、この橋の手前の峠に
「ほぅ」
瞳を細めた仕草を、老婆がビビったと思ったのか、男は気安く彼女の肩に手を伸ばした。
「心配すんな……って?」
何故か空振りになった手に驚いている男に「続けておくれ」とロカテリアは促す。
「ああ……うん。でもな、そのオーガには弱点がある。それがこの『人魚の箱』だ」
男が取り出してきたのは、手のひらに乗るくらいの大きさの、かなり頑丈そうな箱だ。
「ってことは、中身は……?」
ロカテリアが合いの手を入れてやると、男は嬉しそうに囁く。
「もちろん人魚の歌声だよ。おっと、今は開けちゃいけないぜ? オーガが現れたらこの箱を開くと人魚の歌声が流れ出す、すると狂暴な鬼があっというまに眠っちまうんだ。その隙に橋を渡ればいいってわけさ」
ちなみに人魚の歌声は人間の耳には聞こえないらしいが、箱を開いて鬼につきつければ、絶対に効くから心配するなと自信満々に男は言った。
「なるほど、そいつは
そうだろう、と男はニヤリと笑った。
「婆さん、若い頃は美人だった気がするから、特別に皇印旅券と同じ金額で売ってやるよ」
そうしてロカテリアは箱を買い取って出国し、険しい獣道を歩きはじめた。
問題の峠の
ずんずんとロカテリアが接近していくと「グォア、ボワアア!」と威嚇するようにオーガは咆哮した。
滞在していた国の男たちより頭ふたつは背が高く、横幅も倍あるオーガは、赤毛を逆立てている。
ぼろきれのような布を腰に巻いており、胸はもじゃもじゃの毛に覆われていた。
「えぇと、オーガに出会ったら、この箱を……?」
ポケットから箱を取り出すのにまごついている老婆に、オーガの動きが止まる。
「投げる?」
フリをしたロカテリアに、オーガはブンブンと首を横に振った。
「あー、違った違った。この箱をオーガの耳元で開けるんだったね」
今度はウンウンと全力で首を縦に振っている。
ロカテリアは乾いた草の上に、そっとトランクを置くと、人魚の箱を握りしめてオーガに接近した。
そうして目の前に来た老婆は、半歩足を引いて、オーガに差し出していた箱をスッと自分の背に隠す。
瞬間、身震いするような殺気が鬼の背を駆け抜け、重い風切り音が鳴った。
「ハゴォッ!」
オーガの体は、悲鳴と共に宙を舞い、背中から落ちた。
胸の前に垂れてきた白銀の三つ編みを後方へ流すと、ロカテリアはオーガの上に馬乗りになる。
「ま、待っ……」
制止の声は、箱を握りしめたままのロカテリアの殴打で途切れた。
鬼の耳に蛇の紋章の輪がはめられているのを確認して、とりあえずもう一発殴る。
「アンタ、南方諸島の人間だね?」
ビクリと目を見開いた鬼に、ロカテリアは口の端をつりあげて、いくつかの国の言葉で「クソガキにはお仕置きだよ」と言った。
面白い事に、どんなに簡易な言語で話す民族にも、このテの脅し文句だけは存在しているのだ。
そのうちの一つに聞き覚えがあったのか、オーガはガクガクと震えはじめた。
その間にも重い老婆の拳は振り下ろされ続ける。
「だいたいにして名前がナンセンスなんだよ、こんな山の中で人魚の箱なんて、干物の歌でも詰まってんのかい?」
皇印旅券の発行をしぶる役人、人喰いオーガの噂を流して人魚の箱を売る組織、赤毛でバカでかい図体の外国人。
並べてみれば単純明快な商売だ。
「さて、四十秒やろう。アンタを許してやりたくなるようなエピソードを語ってごらん?」
ロカテリアの慈悲に、オーガは必死でしゃべりはじめる。
オーガのフリは蛇の組織に脅されてやっただけで、やりたくてやったわけじゃない。
実は故郷で、嫁と子どもが仕送りを待っている。
しかし鬼のどんな泣き言にも、ロカテリアの拳は止まらない。
「あと十秒」
無情な宣告に、山のどこかから狼の遠吠えが重なった。
「このあたりには人を襲う狼が出る。だから、か弱い女や子どもの旅人は、ボスに内緒でふもとへ抜けるまで、そっと後ろから護衛していたんだ!」
「おや、それはいい話だね。じゃあこれで勘弁してやろう」
ロカテリアはオーガから降りると、立ち上がるために手を貸してやった。
「……信じるのか、
意外そうに言って、ボコボコに腫らした顔で鬼は背中を丸める。
「嘘だったら何回でも戻ってきて、またブン殴るだけだよ」
「ヒィ」
小さく悲鳴をあげた様子に笑って、トランクを回収し、これはもう要らないねと『人魚の箱』を鬼に投げ渡した。
橋を渡り始めたロカテリアを、オーガが呆然と見送っていると、彼女はクルリと振り返って顔をしかめた。
「か弱い女には、ふもとまで護衛が付くんじゃなかったかい?」
どう考えても、ここで異議を唱えるのは得策ではない。
峠の鬼は老婆の背中を追いかけて、よたよたと走っていった。
探検家ロカテリアと峠鬼【KAC20243】 竹部 月子 @tukiko-t
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