終談 変身し続けること

 劇場版では、王子様に憧れたウテナは車へと変身し、アンシーはその操縦者として「外の世界」へと抜けだそうとする。そのためには、もとの学園の世界=成熟という目標を象徴する城の妨害を潜り抜ける。最後にウテナは人間の姿に戻り、こう述べる。「僕たちは王子様を殺した共犯者だったんだね」と。

 王子様という成熟モデルを私たちは既に殺してしまっている。この物語はモデルとなるべき存在を予め殺してしまったことによって新たな成熟のモデルを示すことはできなかった者たちを描いているのである。


 その展開が明らかにされるのは従属ではなく、操縦者としてのアンシーが学園の世界と決別したときである。私たちは物語に縛られざるを得ない。既にしてそのモデルとなるべき成熟像を破壊していることを理解しなければ「大きな物語」に捕らわれたがってしまう。

 歴史の転換点にい続けるしかない私たちは「成熟という仮構やモデルはなくなった」という認識ではなく、「成熟という仮構、またはモデルを破壊した」という認識をもって社会に挑まなければならないのである。なくなってしまった仮構を嘆けば暁生の立場に追い込まれるだけである。逆に意味がなかったと一気に個人と世界の関係の中に閉じてしまえば、それは学園の中に居続けることと変わりがない。


 そのために必要なことは、成熟に拒絶された者が成熟を熱望するという状況の中で、成熟を拒否するという作法である。

 それは、「私たちで、既に、成熟するモデルを破壊した(王子様を殺した共犯者)」ということを受け止める姿勢である。

 この拒否の作法は、拒絶ではなく拒絶のふりに過ぎない。


 モデルにとって内容は重要ではない。一つの物語に参入するという振る舞いによってそれが達成されるのであり、だとすれば、「〜に参入しない(できない)」という否定の構文による物語にさえ私たちは捕えられてしまうからである。私たちはこれによって一つのアイデンティティに捕えられてしまうことになる。


 では、この「破壊した」という言葉によって私たちはどのようなアイデンティティを確立するに至るのか。


 私たちは「大きな物語」に回収されることによって一つのアイデンティティを確立するが、それは自分自身を檻に閉じ込めるかのような振る舞いである。それは大きな物語の崩壊後も機能してしまう。「私は〜である」「〜ではない」という物語に回収されることによって私たちは一つの立場に追い込まれる。私たちは大きな物語が崩壊したあとの世界にいる、といったように。それは私たちを鳳暁生のような存在として規定するのである。


 しかし、私たちは、「私たちで、成熟モデルを破壊した」、「私たちが大きな物語を崩壊させた」と言い換えの言葉遊びによって、一つの転換を得ることができる。「〜する存在」に変化することになる。

 それは、1人の人を一つの述語で固定するのではなく、行為の度に「〜し、……する存在」へと、それはさらなる行為によって「〜し、……し、——する存在」と追加される。

 そして、それはさらに1人ではなくとも成立するという意味で「私たちは〜する存在」として、その度ごと作り出される。

 行為の連鎖は首尾一貫という意味で論理的な破綻を生み出す。

 この破綻が「王子様になりたいという欲望」を差し止める。統御された「何者か」になることによって私たちをつなぎとめる物語から離脱することができるのである。


 ウテナとアンシーの物語は、単一の時点に固定された個人を規定する王子様型のアイデンティティの確定を拒絶する。拒絶しながら、様々な時間の中で複数の人たちとともに行う行為の中で規定されたものから逃れながらその場その場でアイデンティティを形成していく道を探っていくのである。

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【アニメ評】いかにして成熟を断念するか アニメ『少女革命ウテナ』のこと とり @takuma2323

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