灰音小箱のプラチナルール

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第1話



 桃風もふう羊一よういち灰音はいね小箱こばこが笑った理由を知りたかった。

 羊一は自室のベッドで一人、思い返す。

 放課後の教室で、たまたま一緒にゲームを遊んだだけなのに、灰音小箱が笑っているところを初めて見た。

 ゲームに負けたのに。

 まずは思い出そう。今日の朝から、放課後に灰音小箱と出会うまでを。





 季節は春。4月半ば。満開の桜並木の下を新品のブレザーを着た男女が歩いている。

 男子の名前は桃風もふう羊一よういち。高校一年生になって二週間が経つ。髪が羊みたいにくる毛だ。片耳だけにイヤホンをして、蛍光色の緑のイヤホンコードが紺色のブレザーから浮いていた。スマホを片手にゲームをしている。

 隣を歩く女子の名前は茶々原ささはら公子きみこ。小学生みたいな背丈と顔立ちだが、羊一の幼馴染で同級生だ。ショートカットの髪に桜の花びらがくっついているのも気づかず、両手持ちしたスマホとにらめっこして……、ニコニコ笑顔を上げた。

「あたしの勝ち! あれれ〜、もふくん三連敗だよ〜?」

 その上、口に手を添えて「プークスクス」と悪そうに言う。

 もふくん(?)と呼ばれた羊一は立ち止まり、

「……ハム子」

 人を小馬鹿にしたような公子の頭をわしづかみにする。

「うにゃ!」

 奇声を上げたが、幸いにも周りには誰もいない。

「もふくん、この手を離すんだよ〜!」

 小動物みたいにジタバタし始める。

「赤信号だぞ」

 羊一の指摘したとおり、国道を横切る横断歩道は赤信号で、大型トラックが猛獣みたいな唸り声を上げて公子の目の前を通り過ぎていった。

「うにゃにゃ!」

 公子は退いて羊一の胸に後頭部をぶつける。

「ハム子に歩きスマホは無理だな。一度集中すると何も聞こえない病だし」

 空を仰ぐように羊一を見上げて、今度はかわいらしい笑顔を浮かべた。

「いいもん。もふくんがいるから事故とか遭わないし〜」

「はいはいよ。仕方ない奴だな」

 公子は羊一の横に立って、乱れた髪を手ぐしで直す。

「あーあ。せっかく寝癖を直したのに、髪がくるくる……あ」

 公子は口をパッと手で隠した。

「な、なにも言ってないよ。誰ももふくんの髪がくる毛で羊みたいだって……ああっ」

 このまま地上で窒息死しそうなほど口を必死で押さえる。

 羊一のくるくるした毛が燃えるスチールウールみたいにチリチリと丸まって、パンチな感じになっていった。

「誰の髪が羊だってぇ!?」

 仕舞いには叫びとともにガシッと公子の頭を掴んで、彼女を国道へ投げ飛ばす。

「うにゃああああ!!?」

 地面と平行に飛んで、大型トラックや乗用車の間をスレスレで通り過ぎ、自動車販売店の生け垣にダイブした。

 そうこうしているうちに信号が青に変わる。

 羊一は肩で息をして、パンチな髪は元のゆるふわなパーマに戻った。

「はぁっ……はぁっ……。またやってしまった……。って、あれ、ハム子!?」

 吹き飛ばされた少女の足だけが生け垣から出ている。

「も〜ふ〜く〜ん、こ〜こ〜だ〜よ〜!」

「ご、ごめん、ハム子」

 横断歩道を渡りきり、羊一は公子を引っ張り出す。

「もふくんったら! 高校生になったんだからその癖、直した方がいいよ〜!」

 公子は生け垣の葉っぱを落としながら、何事もなかったかのように忠告する。

「そ、そうだよな……。気がついたら意識なくて周りに人が血だらけで倒れてたなんて、普通じゃないし……」

「そうだよ〜。ゲームじゃないんだから、その性格って無意味だもん」

 ナチュラルに辛辣な言葉を掛けられた羊一は肩を落としながらも通学を再開する。

 二人の通う学校が見えてきた。通学路にはチラホラと高校生が歩いていて、その誰もが背中に大きなエナメルバッグを背負っている。公子もそうだ。

 彼ら彼女らはみんな運動部の朝練に向かっている。時間は早朝の6時半。

「ハム子。今日は何部に行くんだ?」

「えーっとね。朝は居合術同好会、昼は純新聞部、放課後は生活研究会とダーツ部かな」

「いつ聞いてもびっくりするなぁ。いったいどれだけ体験入部するつもりなんだ?」

 公子は高校のありとあらゆる運動部、文化部、同好会に体験入部を繰り返していた。驚きなのは、どの部活動からも入部を期待されているってこと。

 それにしても聞きなれない部ばかりだ。それも当然で、入学前から二週間、めぼしい部活動にはほとんど手を出したせいか、残っているのは零細ドマイナー部だけらしい。

「どれかけかぁ。ん〜、ピンとくる部活が決まるまで?」

「まともそうな部なさそうだし、ピンとくる部活なんて見つからないんじゃないか?」

「むう! 見つかるの! そのために部活がいっぱいある学校を選んだんだもん!」

 羊一の腕にしがみついて、上下に揺さぶる。

「わか、わかった、わかったから揺らすな」

 公子の本気さを羊一はよく分かっていた。県内で部活動が最も盛んな高校選びをするために、県内ほぼすべての高校に体験入学するほどだ。時には羊一の名義を借りて男子校に忍び込み、一発でバレたこともあった。

「やりたいこと、見つかるといいな?」

「うん。……もふくんも見つかるといいねぇ」

 羊一の顔が少し引きつる。彼女は思ったことを口に出しちゃうタイプなので、何気ない一言が相手を傷つけてしまうことが多々あった。例えば、今とか。

「そうだな……」

「もう、どうしたの? 中学生の時は『何かの最前線に立ちたい!』って意気込んでて、すっごく格好よかったのに〜」

「うぐっ……」

 思ったことを口に出しちゃうタイプじゃない! 人の傷に塩を塗りたくるタイプだ!

「そういうところだぞ、ハム子……」



 放課後の教室で一人、羊一は公子を待っていた。机の上であぐらをかく。

「『何かの最前線に立ちたい』か……」

 ふと呟いた言葉だからこそ切実だ。羊一には夢がない。人生の目標もない。

 片手に持ったスマホにはバイトアプリの画面が表示されている。

 夢や目標がない人間は、とりあえず金を稼ぐべきだ。いつか夢や目標が見つかった時、資金はスタートラインを切るための大事な役割を果たしてくれる。

 どこからともなく聞こえる管楽器の音。校庭では運動部が走り回っている。体育館のそばでダンボールハウスを作っているところに公子が見えた。……生活研究会かな?

 黒板には進路希望調査表の〆切日が掲示されている。いい大学に入って、いい会社に入るっていうのは、資金集めの堅実な道だ。羊一はその道から抜け出したかった。

「あの悪癖さえなけりゃ、どこにでも体験入部するんだけどな……」

 ため息を吐きながら天井を仰ぐ。

「いいや、悪癖がなんだ。公子も頑張ってる。俺も……っと、うわっ」

 がラガラガシャン! と盛大な音を立てて、羊一は背中から転げ落ちた。机の上に座っているから悪い。自業自得だ。

「いでっ、背中になんか固いものがっ」

 机の上に乗ったままの足を床に下ろして、背中に手を回してそれを取る。

「なんだこれ?」

 大きめの六面ダイスを半分に切ったみたいな厚さの木片には、これまたダイスのような『目』がプリントされていた。

 立ち上がって、床の惨状を眺める。ダイスの目がプリントされた木片がいくつも散らばっており、傍らにはチャックが開いたリュックがあった。中には、リバーシみたいな仕切りの付いたボードが入っているのが見える。

「つーことは、これは駒か?」

 よく見ればダイスの目は1から5まである。他にも変わったマークが何枚か混ざっていた。ダイスの目の駒の素材は何かの木だが、それとは別にコルク素材のものもある。

 羊一がふと顔を上げると、教室の入口に誰かいた。

「あ、灰音さん」

 灰音小箱。羊一や公子と同じクラスの女子、ということしか羊一は知らなかった。今まで特に接点がなかったが、モデルみたいに整った顔をしているということで、名前と顔はしっかり覚えている。

 ラッキー。それが羊一の脳裏に浮かんだ最初の言葉だ。将来の夢とか勉強とか以前に、この良い機会をものにして彼女を作ってみるのもいいかもしれない。

「ど、どうしたの? 灰音さん? えっと、こんな何もない教室に……」

 何もない教室もあるか。ここは灰音小箱の教室でもある。おおかた忘れ物を取りに来ただけなのだろう。しかし、今、悲しむべきは羊一の対人スキルの無さだ。

 要領を得ない言葉をつらつら並べていると、灰音はグングンと羊一に近づいて、床に散らばったそれを見つける。

「あっ、これは、転んじゃって、そしたら誰かのリュックにぶつかったみたいで――」

 羊一は事態を理解できないまま、床に背中を打ち付けた。

「いっ……でぇっ! な、殴られた? なんで!?」

 赤く腫れ上がった頬を押さえながら、羊一はその場に座る。座ったまま、灰音に目を向けた羊一はギクリと肩を震わせた。なぜなら灰音の顔は鬼のように険しかったから。

「お、怒ってる? 俺、何かしたかな……」

「踏んでた……」

「え?」

「私のゲーム……踏んでた!」

 どうやら羊一は床に散らばっていた駒の一つを踏んづけていたらしい。

「ゲームって、どれが?」

「……っ!」

 灰音の顔が青くなる。

「ど、どうしたんだよ……? 赤くなったり青くなったり忙しい奴だな……」

「……、この駒……、とボード……」

「え?」

「この駒とボードがゲームなの!」

 リュックに入っていた仕切りのあるボードと駒を取って、灰音が怒鳴る。

 羊一はまだピンときていない。少し考えた後、手槌を打つ。

「将棋とか囲碁みたいなゲームか!」

 ゲームの中でも古いもの。アナログゲームという電源を使わない昔ながらの遊びだ。

「そういうことか。ごめん! 踏んでたのは謝るよ。この通り!」

 羊一はその場で頭を下げる。あぐらのままだから、土下座というわけではない。

 灰音は羊一の天パ頭をまじまじと見つめて、蚊が鳴くような小さな声でぽつりと、

「……ひつじ」

 と呟いた。

 羊一はピクリと震えた後、くるくるの毛がパンチパーマに変わっていく。

「誰の髪が……」

 それを見て灰音は「すごい」とこぼし、迷いなく髪に手を突っ込んだ。

「……え?」

「もふもふ……」

 灰音は羊一の髪を触り続ける。羊一は突然の振る舞いに呆気に取られ、いつの間にか怒りがどこかへすっ飛んでしまったようだ。

「もふもふ……、もふもふだ……」

 このままだと顔まで埋めてきそうな勢いで髪を撫でられている。

 羊一は勢い良く立ち上がった。

「なっ、何なんだお前!」

 驚くのも無理はない。悪癖に悩まされて、どの部にも体験入部できなかった。登下校は人の少ない早朝を選び、放課後は人に会わないように時間をずらす。ノイズキャンセリング機能付きのイヤホンがなければ迂闊に外も歩けない。そんな羊一の悪癖が、

「なんで俺の意識がなくならない!?」

 灰音に頭を撫でられただけで出てこなかった。

「きゅ……急に……、何……?」

 当の彼女は羊一の突然の挙動に不審そうな目を向けている。灰音は羊一が「羊」とか「天パ」とか言われると我を忘れて暴れだすのを知らないから当然の反応だ。

 羊一もそれが分かっていたので、ひとまずその場に座り込む。

 散らばったままの駒を一つ手に取った。

「これ、どんなゲームなんだ?」

 灰音は姿勢で警戒しながらも、どこか期待の込もった声色で尋ねる。

「遊んで……みる?」





 駒をすべて拾い終えた後、机を挟んで羊一と灰音は向かい合った。灰音のあまりの美しさに息を呑む。整った目鼻立ちはまるで絵の中から出てきたよう。あまり背は高くない上にスレンダーな体躯のせいか中学生くらいにも見えるが、ニーソックスで強調される肉感のある太ももを見る限り、女性らしく成長していることが窺える。

 他に気になるのは全身おがくずまみれなことくらい。

 羊一は公子を待つ間、灰音の持っていた謎のゲームで遊ぶことにした。クラス一番の女子とお近づきになりたい、というよりは、自分の悪癖をどうやって鎮めたのか知りたいから、という意味合いでだ。

「準備……おわった。インスト、する……」

「……インスト?」

 聞きなれない言葉を聞き返す。

「えっと……、これはこの駒を取るゲームなの」

「あの、インストって何……?」

「今……してる」

 灰音小箱という人物はいちいち三点リーダーの多い女の子だった。話ベタなのだろう。羊一は灰音のマイペースなローテンションに少しばかり親近感を覚えた。

 たぶん、インストっていうのは、インストラクターに関係する語なんだろう。

 灰音のとぎれとぎれに話に耳を傾ける。そこで得たこのゲームのルールはこうだ。36個の駒があり、それを交互に取っていく。駒に書かれた数字、というのはダイスの目の数のことだ。この数字を足して、一番高い点数だった人が勝つというゲーム。

 盤上は今、こんな感じ。


113042

022?30

040104

331000

022005

101050


 6×6の真ん中から駒を取っていくらしい。

「真ん中の0か1……1個取る」

 これも灰音なりの説明らしい。

 羊一は言われたとおり、真ん中……、たぶん上から2〜3行、左から2〜3列のところが真ん中と言うのだと思って、そこから1つ手に取る。

「取ったら……置く」

 机に指差す。

「……はい」

 あんまり顔が整いすぎていると、普通の指示のはずなのに怒っているように見える。


113042

022?30

040 04

331000

022005

101050


「いい……の? それ取ると……私、勝ちそう……」

「まだルール分からないから。いいよ、最初の勝ちは譲る」

 灰音がガタッと立ち上がる。

「うお、なんだ?」

「だめ……。本気でやって……」

 うつむき加減で肩を震わせながら言っている。

「わかったわかった。本気でやるから座れよ」

「……」

 無言で椅子に座りなおす。

 意味の分からない奴。それが羊一が灰音に抱いた一番の感想だった。

「私はこれ……取る」


113042

022 30

040 04

331000

022005

101050


 灰音は?マークの駒を取った。

「灰音さん、それどういう意味の駒なんだ?」

「取った0点の駒……ぜんぶ1点になる……」

「超強いじゃん」

 羊一の脳裏には、それは先に教えておくべきことなんじゃないのか? とよぎったが、マイペースな灰音には言っても通じなさそうだった。

「次は俺の番だが、どうすればいい?」

 灰音は身を乗り出して、自分が取った?マークのあった場所にコルクのキューブを置く。


113042

022⇔30

040 04

331000

022005

101050


「縦で取ったから……横」

「あー、2か3を取れる、と」

「ううん……0まで取れる」

「なるほど」

 つまり、駒を取る時に縦方向から移動して取ったら、次のプレイヤーは横方向に移動して取る、というのを繰り返していくようだ。

 それを繰り返した結果、羊一は負けた。

「も、もう一回やろう」

 要は高い数字を取れば良いということだと思っていたが、意外と奥が深いゲームだ。

 高い数字を取ると、相手により高い数字を取られる状態になってしまったりする。

 相手に高い数字を取らせないように動くと、やがては安地がなくなって高い数字を立て続けに取られてしまうところまで見えてきた。

 結果、3回やって3敗。

 最初は一プレイに15分もかかったけど、2回目、3回目は5分くらいで終了した。

 4回目にしてやっと僅差ではあるが勝利する。

「やった……、やっと勝てた」

 羊一は背もたれに体重を預け、背伸びする。

「は〜っ、おもしろかった……」

 スマホか据え置き機で毎日ゲームをしているが、こういう電源を使わないゲームをやったのは小学生ぶりのこと。羊一は程よい疲労感を覚えていると……

「え……」

 灰音小箱が満面の笑みを浮かべていた。

 この世で最も尊いものが何かと問われたら、間違いなくこの笑顔だと答えるだろう。

 それにくらいに羊一は灰音の笑顔に心惹かれた。

「笑ったところ、初めて見た……」

「……」

 灰音は耳まで真っ赤にして、駒が一つも残っていないボードで顔を隠した。

 笑ったところを見られたのがそんなに恥ずかしかったのだろうか? 羊一は灰音の横に回り込んで、顔を覗いてみる。横顔もすごく綺麗だ。

「ひょっとしてお前……」

 灰音が恐る恐ると言った感じで目だけを羊一によこす。

「恥ずかしがり屋さんか?」

「……違う!」

 もふっとボードが羊一の頭に刺さった。

 灰音は信じられないものを見たという表情で固まっている。

「すごい」

「すごくねーよ!」

 そう羊一がツッコミを入れた時、教室の後ろから「あああああっ!」という叫び声が飛んできた。

「ハム子?」

「もふくんのもふもふはあたしだけのものなんだから〜!」

 公子が羊一の元へ駆けつけると、頭に刺さったボードを引き抜いた。

「お前のじゃねーよ」

 灰音は常にテンションが高めな公子が来たことで、たじろいでしまったのか、暗い表情をしたまま「陽キャ……むり……」とぼそぼそ言っていた。

 羊一は「やれやれ」と肩をすくめる。

 その後、灰音は手早く片付けてを終えて、そそくさと教室を退散してしまった。

 残された羊一は、殴られて、ゲームして、めちゃくちゃかわいい笑顔を見たことを反芻して、一つ気がつく。

 なぜ灰音小箱が笑ったのか、ということだ。





 羊一と公子は下校の途中だ。西日もだいぶ落ちて、暮れ始めている。

「灰音さんが何者かって?」

 羊一は灰音がどんな人物か公子に尋ねていた。

「もふくんが誰かのことを知りたがるなんて珍しいね〜?」

「べ、別に……」

 ニヨニヨと悪い笑みを浮かべている。

「まあいいけど。灰音さんって言えば……『放課後のシンデレラ』じゃないかな〜」

「放課後のシンデレラ?」

 妙な名前が出てきた。羊一は、モデルばりの見た目で引っ込み思案な性格だからシンデレラなのだろうか、と心の中で考える。

「うん。放課後になると、なぜか粉かぶりになってるからね〜」

「ああ……。そういえばさっきも服におがくずがたくさん付いていたな」

 羊一は予想が外れて、少し気合が抜ける。

「他には?」

「ん〜とね〜。春に東京から引っ越してきたみたいだよ〜。同中いないんだって〜」

「東京から……」

 羊一の住む街は東京から新幹線で二時間かかる田舎だ。駅前よりも国道沿いの方が栄えている日本中どこにでもあるような田舎の風景を見ながら、軽くジェラシーを覚える。

「灰音さんを知りたければ友達になってみれば〜?」

「と、友達って。俺は……」

「暴れそうになったけど、灰音さんの前だと大丈夫だったんでしょ?」

 羊一は無言で肯定する。

「なら大丈夫だよ〜」

 公子のにへら〜とした柔和な笑みに、羊一は安堵をもらいながら、帰路につく。



 翌朝、羊一は灰音が教室へ来るなり、

「おはよう」

「……」

 灰音に無視された。

 それに気づいた人が察して、教室の温度が少し下がる。

 灰音は何事もなかったかのように机にリュックを置いて、机の中に教科書やノートを移していた。

 羊一は再びトライする。今度は満面の笑みで、

「おはよう」

「……」

 それでも無視された。

 今まで灰音に挑んだ男子生徒はいない。終始無言だし、話しかけてもぼんやりした答えしか返ってこないことから、男子からすれば難攻不落の要塞だと思われていた。

 男子から不満の気配がする。あの小動物チックでかわいらしい女子と幼馴染で、毎日のように登下校しているくせに、今度はクラス一番の美人に手を出そうとしているのだ。

 ちなみに公子は今朝も何らかの怪しい同好会へ朝練へ行った。

「無視すんなよ、灰音さん。昨日は一緒にゲー……ムッ!?」

 丸めた教科書で思い切り顔面を叩かれる。

 教室の空気はツンドラ並に冷え切った。男子も女子も、ゴクリとつばを飲み込んで、灰音が何を言い出すのか耳を澄ませる。

 灰音は羊一のネクタイを掴んで、顔と顔がかち合うレベルの距離まで詰め寄って、

「それ以上……しゃべったら……………………殺す」

 めちゃくちゃ低い声で脅した。

 羊一はそれ以上は灰音に話しかけることもなく、自分の机に戻ってため息を吐く。悪態をつくというよりは落ち着いた顔つき。それもそうで、羊一は内心では、普通に会話できて良かった、と安心しているくらいだった。

 コミュ障もこじらせすぎれば自分を見失う。

 クラスメイトの男子が羊一の肩に手を置いて、何か分かった風の顔で声を掛けた。

「お前……、男だぜ。灰音にあれほど嫌われてるのになぁ……」

「何見てたんだよ、お前は。会話してただろうが」

「か、会話してたか……?」

 そこへ公子が「おっはよ〜!」と飛び込んできて、この件はウヤムヤに流れた。



 転機は昼休みに訪れる。

 学校じゅうに舌足らずの幼女みたいな声で、

「いちねんいちくみ、はいねこばこさん! せいとしどうしちゅっ……せいとしちょうしちゅっ……、しぇっ……」

 呼び出しの放送があった。後半ほとんど聞き取れなかったけど。

「ハム子。新手のエイプリルフールかな?」

青鳥あとり先生だよ〜。美魔女の」

「美魔女っていうか合法ロリでしょ」

 珍しく教室にいた公子は、羊一と一緒に弁当箱を突きながらのんびりと会話する。その横を灰音がイラついた顔で出ていった。

「灰音さん、なんかあったのかな?」

「もぐ……、ごく。灰音さんのロッカーから刃物が見つかったらしいよ〜」

 卵焼きを一口で飲み込んで、公子は物騒な情報を提供した。

「は、刃物って」

「あたしもそれ以上のことはな〜にも」

 さすが学校中を走り回っているだけはある。情報が早い。

 ジジジ、と校内放送特有のノイズが入る。また舌足らずな青鳥先生の声だ。

「あとも〜ひとぉり! いちねんいちくみ、もふうよういちさん! しぇっ……」

 噛んだ。

「ううっ……」

 うめき声が漏れて、今にも泣きそうだ。

 一同が固唾を呑んで見守る中、

「しぇーとしどーしちゅにきなさい!」

 キィィィンッとハウリングするくらいの電波ボイスが学校中に響き渡った。

 咄嗟に押さえた耳から手を離す。

「今呼ばれたのってもふくんだよね〜? なにしたの〜!」

 フォークで頬をザクザクされながら、羊一は「ハム子やめろ」と短く叱った。

 いったいなぜ? 刃物を持った灰音と一緒に呼び出されたのだろうか。まさか自分を、なんて不安な想像を腹の底に抱えたまま羊一は教室を出た。





「わかってるんですか! よーいちくん!」

 生徒指導室で幼女に怒られている。フリル付きのワンピースで、低い鼻やくりくりの目、りんごみたいな髪型の彼女だが、羊一たちのクラス担任を務める青鳥あとり雪々ゆゆ先生なのだ。自称美魔女、実質魔法少女。

 羊一は隣りに座る灰音に助けを求める視線を送ってみたが、ものの見事に無視された。

「はぁ……。青鳥センセ、俺はなんで怒られてるんですか……?」

「はいねさんとなかよしだからです!」

 ビシィッと指をつきつけられた。

「ええ……?」

 なぜそれが怒られる理由に? と思った羊一は青鳥の行動で口をつぐむ。

 青鳥が自分の上半身ほどの刃渡りがあるノコギリを取り出したからだ。

「これでもおなじことがいえますか?」

「うっ……。せめて利き手じゃない方でお願いします……っ」

 情状酌量の余地なし……、この世で一番重い実刑……!

「ふぇぇっ!? せんせいそういうつもりでっ、わっ!?」

 バランスを崩した青鳥は、あろうことか手にしていたノコギリを滑り落としてしまい、羊一が座っていた方に向かってノコギリは宙を舞いながら落下する。

 ドン! と羊一の椅子に突き刺さった。ノコギリは反動でブルルルルと震えているが、大股を開いたことで間一髪セーフだった羊一自身もブルルルルと震えている。

「ひゃぁぁぁっ、だいじょーぶですかっ、よーいちくんっ!?」

 あわてふためきながら青鳥が近寄る。

「どうでしょう、青鳥センセ……。俺の股間はまだつながってますか?」

「たっ、たぶんだいじょーぶだとおもいますけど……」

「自分で見るのが怖いので確認してもらえませんかっ!?」

「はっ、はい! で、でもどうすれば……」

 青鳥はオロオロとし始める。

「そうですね……、まずはチャックを下ろしてもらえますか……?」

「わっ、わかりましたっ、ええと、チャックチャック……、あれぇ?」

 青鳥がズボンのチャックに手を掛けたところで、途端に動きが止まる。

「せんせぇこれかくじつにアウトなかんじするのですが……」

「大丈夫ですよ、青鳥センセ大人ですし!」

「お、おとなですかぁっ?」

「はい! 青鳥センセは大人の女です!」

「やります!」

 青鳥が目をキラキラさせてチャックを下ろした瞬間、羊一の頭にチョップが刺さる。チョップの主は隣で一部始終を黙って眺めていた灰音だ。

「……やりすぎ」

 青鳥は灰音に首根っこを掴まれて、強制的に羊一から引き離される。

「せんせいにやってだめなことですよ! くびねっこをつかむのは!」

「……首根っこを……掴まれる先生……いない」

 ごもっともである。

 灰音は椅子に刺さったままのノコギリを勢い良く抜いた。椅子はジグザグの痕が残っている。羊一は肝を冷やしたのか、長く息を吐いて硬直していた体を弛緩させた。

「はぁ、まあ、俺の股間は無事だからいいとして、青鳥センセ。どうして俺は呼ばれたんですか?」

「はいねさんがこれをかくしもってました! なにかしっていることをはくのです」

 妙に脅迫されながら、羊一は状況を整理する。

 灰音がノコギリを持っていたことが先生にバレたが、何も喋ってくれないから、何か事情を知っていそうな人物として羊一が呼ばれた、ということらしい。

 羊一としては、灰音とそこまで仲良くできた覚えはない。

「知っていることって言ってもな……」

 何も知らないし、仲良しでもない。かと言ってここで灰音を見捨てるような言い方をするのもかわいそうだと思っていた。

「青鳥センセ……」

「はい」

「正直、灰音さんがノコギリを持っていた理由は知らないです」

 灰音がスカートの裾をぎゅっと握る。

「でも、灰音さんには俺から事情を聞いておきます!」

 青鳥は羊一をまじまじと見つめた後、にこりと微笑んだ。

「わかりました。では、ほーかご、またここにきてください」



 放課後、教室にて、羊一は公子を見送る。また違う部活動に仮入部するのだ。羊一と灰音は約束通り生徒指導室へ行かなければならない、のだが。

「で、結局なんでノコギリなんて持ってたんだ?」

「……」

 だんまりを決め込む。

 灰音の前の席に通常とは後ろ向きで腰掛けて、羊一は彼女に目線を合わせたが、すぐに目をそらされた。

「こんにちはー? ハロー? ボンジュール? シェイシェイー?」

「……シェイシェイは……ありがとう」

「お、やっと返事した」

「……ぬ……カマかけた……」

 うらめしそうに睨んでくる。

「に、睨むなよ。悪いけど、理由を話してくれるまで俺はお前に絡むからな?」

「…………なにが」

「え?」

 あんまりぼそっと話すものだから、羊一は聞き取れなかった。

「なにが……目的……? 私の……弱み……握ってる……」

「弱み? ああ、ゲームのことか? ……って、睨むなよ。今は教室だれもいないだろ」

 ぎろりとした三白眼を普通の目に戻す。

「見返り……なに……?」

 灰音がやっと喋ったのは羊一からすれば心底残念な内容だった。

「あのなぁ、見返りって。俺がそんなの要求するような奴に見えるか?」

「……男は……みんな……狼……」

「はぁ……」

 灰音ほどの美少女ともなれば、男が放っておく訳がない。それを先回りして家族や周りの人が放っておかなかったわけだ。それでこんな箱入り娘に……。

「灰音さん。むしろ俺は狼とは真逆の……」

 そこまで言いかけて、羊一は危険を察知した獣のように身を固まらせる。

「……ひつじ」

 羊一の髪がチリチリと音を立てて縮れていく。

「どういう……仕組み……?」

 灰音が首を傾げ、まだ残っているもふもふ部分の髪に両手を突っ込んだ。

「もふ……」

 羊一は激昂が収まって、しまいには唖然とした顔のまま立ち尽くすだけになる。なすがまま、いじられていた。

「さすが……もふくん……」

「そのあだ名、俺の苗字が桃風もふうから来てるんだよ」

 しばらく髪をもふったあと、

「……いや……ぜったい……こっち……」

 確信めいた口調で言った。

 羊一は観念したようにため息をつく。

「俺、この髪型について何か言われると、気を失って暴れてしまうんだよ」

 灰音は手を止めて、羊一の告白に耳を傾けた。

「でも、お前にこうされるとなぜか気を失わない。か、勘違いするなよ。俺は見返りを期待してかばったわけじゃないからな」

「……見返り……期待してた……」

 羊一はバッサリ断言される。灰音から距離を取って、腕を組んでそっぽを向いた。本当なら「放っておけないから」という格好いい理由でもあればよかったのだが、残念ながら羊一は格好悪い理由で灰音をかばっている。今は少しだけ素直になれなかっただけだ。

 心なしかこわばった灰音の表情がゆるんだ気がする。

「……いいよ」

「え?」

「その方が……気が楽……」

 灰音は腕組みした羊一の指をつまんだ。

 その意図はきっと一緒に生徒指導室にいる青鳥に会いに行こうという意味なのだ。





 生徒指導室に戻ってきた灰音は青鳥にすべてを打ち明けた。

「はいねさんはこれをつくるためにのこぎりをもっていた、と?」

 コク。小さく頷く。

 灰音が持っているのは羊一が昨日遊んだゲームだ。踏んづけても壊れないくらい頑丈な木製の駒だから、ノコギリで切った木を材料にしたのだろう。

 駒を切り出した後はヤスリがけをしたらしい。

「あ、それで『放課後のシンデレラ』か」

 公子が言っていた粉まみれの灰音の姿は、すべてゲームの駒を作るために行っていたことが原因だと判明した。角の面取りもヤスリで行ったという。

「あー、はいねさんはぼーどげーむぶにはいってましたねぇ。そっかぁ、じぶんでつくったりもするんですねぇ」

 青鳥は青鳥で理解したらしい。

 この学校にはぼーどげーむ部という馴染みのない部活動が存在することも分かった。

 灰音が説明で青鳥は納得する。こうして二人は生徒指導室から解放された。

 のだったが……、

「もふ……」

 教室に戻ろうとした羊一は制服のそでを掴まれた。

「ハム子を待つ予定なんだけど」

「……秘密……知ったから」

 灰音は重たげな表情をしながら羊一を引っ張り出す。意外と力はあるようだ。

「付いて来いって言いたいのか?」

「……」

 コクリ。

 この少女は必要最低限のことしか喋ってくれない。羊一は諦めて引っ張られる。そうして渡り廊下を過ぎ、旧校舎に連行されたのだった。

「文科系の部活動や同好会は旧校舎が部室棟になってたのか」

 これを部室棟と言っていいものか悩ましいところだが。

 一言で言えば、魔窟。旧校舎の木造建築は吹き抜けが特徴の三階建てなのだが、どこもかしこもものと人にあふれて騒がしい。

「部活動が盛んな高校とは知ってたけど、まさかここまでとは……」

 羊一が感嘆を漏らしていると、怒号が聞こえた。

 一階の部屋から白衣姿の生徒が部屋から飛び出し、「少しは静かにしたまえ!」と上の階に怒鳴り散らす。上の階は騒がしいまま。

 灰音に連れられて二階へ上がる途中、階段の踊り場を占領してマンドリンを弾く男子生徒がいた。壁には『弾き語りの会』とわら半紙が貼ってある。圧倒的に部室数が足りないらしく、階段に仕切りを設けてそこを部室にしているようだった。

「俺はいったいどこに連れてかれるんだ……」

 不安と場違い感を覚える羊一は肩身を狭そうにして、灰音の後ろを付いていく。

「……ここ」

 羊一は少しほっとする。部室はちゃんとあるらしい。古めかしい扉にはかわいらしい字体で『ボードゲーム部』と書かれた札が下がっていた。

「ボードゲーム部?」

 質問をスルーして灰音は扉を開ける。

「おお」

 机を6つ並べただけでいっぱいの狭い部屋は、明らかに教室を2つに分けた痕跡のある新しめの壁がある。灰音が扉を閉めると、外の喧騒が聞こえなくなった。

「あれ? 静かになった」

「ここ……元音楽室だから……」

 なるほど、防音対策がされているということだ。

 新しめの壁の反対側には扉があり、灰音は何も言わずにそこを開けて中へ入る。羊一は部室に取り残された。

「部室をまたいだ先が本当の部室ってことなのか? ……ありうる」

 階段の踊り場でさえ部室にするほどだ。まったくありえない話ではないと考えた羊一は、『音楽準備室』と書かれた扉を開ける。

「灰音さ……え?」

 羊一は目を疑う。はじめに目に飛び込んできたのはメロン……いや、スイカ? と思ってしまうほどの巨乳だった。ブラジャーをしている。男にとって魅惑のフルーツが2つ。

 その少女は羊一と目が合った。

「えっと……、だれカナ?」

 灰音でも公子でもない胸の大きな女子がスカートのチャックを下げたところで、碧い瞳をまんまるにさせて硬直していた。

 羊一も固まる。肩からバッグが滑り、ぼむ、と床に落ちた瞬間、

「キャ――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!」

 警告音とでも言うような悲鳴を上げて、巨乳の女子がその場にうずくまった。

 その奥から平たい胸の灰音がジロリを睨む。口には髪用のゴムを咥えた状態だ。どうやらこの部屋は女子が着替えをするために使っていることを羊一は理解し、息をする間もなく部屋を飛び出た。

「す、すすす、すいませんッ!」

 羊一は謝りながらも、先程の光景が脳裏から焼き付いて離れなかった。巨乳の女子は碧い瞳だけでなく、金髪でもあったと思い出す。田舎には珍しい外国人だ。

 ついでに灰音の下着姿も思い出した。悲しいほどに平べったい胸だったが、それはそれで彼女の人形チックな美しさに拍車をかけただけだとも感じられる。

「着替えを覗かせるために連れてこられたんじゃねーよな……。ひとまず退散……あ」

 肩に提げていたカバンは準備室の中に落としたままだ。

「しまった、財布もスマホもカバンの中だ……」

 羊一はあきらめて、扉に背中を預ける。

 扉越しの背後からは金髪巨乳女子が灰音を怒る声が聞こえた。

「小箱! 誰か呼んだら呼んだって言ってよね!!」

「…………」

「ちょっ、何今さら恥ずかしがってるのよ!」

「……まさか……入ってくるとは……」

「おおかたアンタが待ってても何も言わないから付いてきたんでしょ……」

「ふつう……察して……入ってこない……」

 それは無理があるだろう、と内心で羊一は突っ込んだ。

「こーばーこー? 罰ゲームしよっか?」

「……それは……む、むり……」

 扉に衝撃が来る。羊一は驚いて扉から離れた。

「いいのかな? 今その格好で外に出たら見られちゃうよ?」

「で……でも……それは……むり……っにゃんっ!?」

 灰音のかわいらしい悲鳴が聞こえてきたかと思うと、続いて荒い息、抵抗する衣擦れの音、うめきにも似た短い喘ぎ声までも……。

「小箱たん……ハァハァ。おとなチャレンジ、しよっか……」

 羊一は口元がゆるむのを手で隠しながら、「おとなチャレンジとは一体……」と邪な興味を隠しきれずにいたが、

「って何してる俺は。いかんいかん……」

 ふと気がついて、扉から距離を置いて中の様子が聞こえないように配慮する。

 ちょっと準備室からドタバタと嬌声(!)が聞こえるくらいだが、改めて静けさを取り戻した部室を見回してみると、狭さや調度品の様子から純喫茶を想像させた。明治時代な感じというか、欧風レトロなのだ。

「これでメイドでもいたら完璧だな……」

 くだらない呟きをしていたら、準備室の扉がゆっくりと開く。

 そこに立っていたのは、

「メッ……メイドッ!?」

 メイド姿の灰音だった。しかもネコ耳ネコしっぽ付きというドンキで売ってるような床用感のあるチープさと、顔を真っ赤にして短すぎるミニスカートの裾を引っ張っている様子は実にマッチしている。

「灰音さん? そのお姿は……?」

 話しかけたらビクッとして、灰音のしっぽに付いた鈴がリーンと鳴った。

「にゃっ……うぅっ……。ば……罰……、ゲーム……」

 顔を赤くして涙目になっている。

 灰音の後ろから「ふっふっふっー」と変わった笑い声を漏らしながら、先程の巨乳で金髪の女子がやってきた。こちらもメイド服。首にはベル付きのチョーカーだ。

「なんで……ロッテも……着てるの……?」

 ロッテと呼ばれた女子は赤宇シャルロッテという。羊一は男子の中でも背が高い方ではあるが、ロッテは羊一とほとんど同じくらいの背丈だった。そして胸も大きい。形の良いお椀型のふくらみが吊りスカートの紐部分を両脇に押しのけている。

 小柄な灰音の隣に並ぶと姉妹にも見える。

 ロッテは灰音のやわらかそうな頬をつついて、小さな笑いをこぼした。

「おそろいよ♪」

「……」

 無言の返事。つつかれた頬がほんのりと赤くなっている。まんざらでもないらしい。

 羊一は少女二人がイチャイチャしているのをずっと見ていた。

 ロッテがそんな羊一に振り返り、さきほどまでの無邪気さと比べると一転、

「あなた、もふくんって言ったかしら……。変なところに連れてきたことは謝るわ。ごめんなさい。お詫びに特製のハーブティをごちそうしたいのだけど、いかがかしら?」

 深窓の令嬢みたいな口調で提案し、小首を傾げる。首のベルがリンリンと鳴った。





 羊一は椅子に座って二人の女子生徒をまじまじと眺める。

 灰音もロッテも肩出しタイプのメイド服で、ネコ耳や首のベルなど装飾品に違いはあれど、どちらも田舎生まれ田舎育ちの羊一には見たことのない美少女だった。

 特にロッテが良い。羊一には刺激が強すぎるグラマーなボディライン、とうもろこしのひげみたいに輝くブロンド、春晴れの空ほどに明るい碧眼はもとより、

「ハーブティができましたわ」

 やわらかな物腰と自信ありげな立ち振る舞いは、あきらかに欧風レトロなこの部屋にぴったりで、タイムスリップしてしまったのかと勘違いしてしまいそうだった。

 羊一はお高そうなカップを口に近づける。ハーブティの鼻を抜けるような香りがして、やや熱いそれをあまり音を立てないようにすすった。

「あ。おいしい」

 喫茶店など行ったことがない羊一だが、これは喫茶店レベルの味なんだと思った。

 ロッテが嬉しそうに微笑む。

 それだけでほっとして、体じゅうに張り付いていた緊張が解れていく感触を覚えた。

 灰音も横で安心した表情をしている。

「ロッテの……お茶は……世界一……」

 灰音は、ふんす、と鼻を鳴らす。

「なんでアンタが誇らしげなのよ。……ふふっ、まあいっか」

 軽くツッコミを入れながら灰音の前にもハーブティーを差し出した。

 灰音がせっせとふーふーしている間、

「何してるんですか?」

 ロッテが小さな紙片にマジックペンでキュッキュッと何か書いていた。

「ネームホルダーよ」

 彼女が紙を両手で挟むように持つ。かわいらしい丸文字で『もふくん』と書いてあり、ピンク色のもこもこ模様でフチが装飾されていた。

「これは小箱の」

 灰音の前にもネームホルダーが置かれる。デフォルメされた猫のシルエットと『灰猫』とかわいらしい丸文字で書かれていた。灰音小箱だから、灰猫ということなのだろう。

「これが私の」

 ロッテはネームホルダーを首に下げる。後ろ髪を手の甲で払うと、金の稲穂が風に揺れるみたいにブロンドが波打った。ネームホルダーは彼女の谷間に乗っかっていて、羊一は目のやり場に困りながらそれを確認すると、赤い丸文字で『ロッテ』と書いてある。

 自己紹介の一つなのだろうか。羊一は「はぁ」と胡乱な返事をして、ふと気づく。

「あの……、ここってどこなんですか?」

 ロッテはまだふーふーしている灰音にじっとりとした目を向けた。

 灰音は気づかない。

「はぁ……。小箱、何も説明しないで連れてきたのね?」

 窘めるように言った。

「……聞かれ……なかった」

 たしかに聞いてなかったが、連れ出したのは灰音の方である。

 ロッテがじとーとした目で灰音を見ると、灰音は追いつめられた小動物みたいに身を縮こまらせて、羊一の後ろに隠れようとしていた。

「小箱……。加害者が被害者の背中に隠れてどうするのよ……」

「むしろ……わたしが……被害者の方……」

 ジト目の矛先が羊一に向く。

「なっ、なに言ってるんだよ小箱さんっ! 俺がなにかし……」

 思い出せるだけで2回。『羊』と呼ばれたせいで我を忘れて襲いかかろうとしたことがあった。灰音が羊一の怒りを鎮める魔法の手を持っていなければ、何をしていたか想像するだけで顔が青ざめる。

 ロッテは身を乗り出して羊一に碧い瞳をぶつけた。

 目をそらしたら余計に疑われる!

 ルドヴィコ療法ばりに顔の向きもまぶたも固定したおかげか、ロッテに羊一の必死さが伝わったようで、彼女はあきらめて席に戻った。

 腕組みして、立派なそれを乗せる。

「まあいいわ。小箱がこの部に人を連れてくること自体、初めてなんだから。少しはあなたのこと、信じなきゃね?」

「部ってことは、ここは何かの部室なんですか?」

「ええ。何も教えないで連れてきた小箱にはきっちり注意しておくけど……」

 手をワキワキと蠢かせた。

「っ!」

 灰音がビクッと震えて羊一の腕にしがみついた。

 いや、本当にあの準備室ではいったい何が行われていたんだろう……。

「……これからは……ちゃんと説明……する……。でも今は……ロッテが……して」

 ぽそぽそと言葉を紡ぐ。

「はぁ、しょうがないわね。それじゃあ、もふくん」

 今まで公子しか呼んでなかったあだ名が定着してしまった。

「ここはボードゲーム部の部室よ」

「ああ。入口にも書いてありましたね。ってことは、ボードゲームを遊ぶんですか?」

「まぁ、遊ぶわ。でもね、ここは遊ぶための部じゃない」

 一拍置いて、

「ボードゲームを作る部よ」

 と壁に掛かったカレンダーを指差す。

 月でめくるカレンダーが4月から12月まで壁に貼ってあり、5月と12月に大きな文字で『ゲムマ!』と書いてあった。



 ロッテはハーブティをすすっていた灰音に、

「小箱、参考になりそうなものをいくつか持ってきてよ」

 とお願いする。灰音はコクコクと頷いて、軽快な足取りで準備室へ行った。

「説明を続けるわ。もふくん、ボードゲームが何かは分かる?」

「……いや、言葉にできるほど分かってないですね」

「そう。なら説明するわ。端的にいうと電源を使わず、テーブルの上で遊べるゲームのことね。例えば、『すごろく』『かるた』『ふくわらい』あたりが日本ではポピュラーかしら?」

「『すごろく』と『かるた』はともかく、『ふくわらい』はやったことないですが」

 どれもお正月に遊ぶものだ。ロッテの日本への理解が偏っている気がした。

 羊一はしばし口ごもった後、聞きづらそうに問いかける。

「あの……、ロッテさんって何人なんですか?」

「日本人よ」

「え、でも……」

「なぁに? 金髪の日本人がいたらいけないの?」

 語気の強さに気圧される。

「す、すいません……」

 まずいことを聞いてしまった、と気まずい思いをしながら顔を伏せると、

「……ぷっ」

 とロッテが吹き出した。

「あはははっ……。ごめんなさい、半分冗談よ?」

「半分?」

「ええ。ママがドイツ人なの」

 半分日本人だから半分冗談ということらしい。

「髪や肌はママにもらったけど、目元なんてパパそっくりで子供っぽいわ。ほら」

 人差し指を目に当てる。たしかにぱっちり二重というより、奥二重という感じで大人っぽい体型とちぐはぐなあどけなさを残していてニンフェットのようだ。

 話し方こそ落ち着いているが、冗談を言ったり灰音とじゃれたり……、

「ロッテさんってかわいいですね」

 素直な感想がこぼれた。

「かわっ!?」

 人差し指を目の下に当てたまま、顔を赤くして硬直した。

 それを見て羊一も気がつく。自分が何を口走ってしまったのかを。

 ロッテはしゅるしゅると小さくなるみたいに椅子に座り直して、肩を内に丸め込んでいる。おかげで大きな胸が強調されていた。

「わ、私はキレイならよく言われるのよ……。でも、その……、かっ、かわいい、は初めてだったというか……」

 たしかに彼女はキレイと形容した方がしっくりくるところがあるかもしれない。だけど、今のしおらしい姿はどう見てもかわいかった。

 羊一は椅子から立ち上がり、

「す、すいませんっ。変なこと言って……!」

 頭を下げたところ、彼女のメイド服から溢れんばかりのなめらかな双丘が目に飛び込んできて、跳ねるように頭を上げた。

 視線がばっちり合ってしまう。

「……」

「……」

 ロッテが両手をパチンと叩く。

「はっ、ハーブティのおかわりはいかが?」

「も、もらいます……」

 ぎこちない動きでロッテは給湯台へ移動したが、ハーブティを淹れる姿はすっかり落ち着いている様子だった。

「そういえばもふくんは一年生よね?」

「はい。ロッテさんは何年生なんですか?」

「え?」

 お茶を淹れ終わった状態で彼女が固まる。

「……私も一年生よ」

「え?」

 ロッテは重たげな顔をしながら二杯目のお茶を淹れ始める。

 参考になりそうなものとやらを探しに行った灰音が準備室から戻ってきて、大きな箱をいくつも抱えてよろよろ歩いていた。

 この二人が同じ学年……。

 机の上に大きな箱を置いた灰音は羊一とロッテの間に横たわる沈黙もつゆ知らず、「ふ〜」と一仕事終えた風に額を拭う仕草をしてみせた。

「ロッテさん……?」

 ロッテは淹れたてのお茶を羊一の前にやや乱暴に置いて、

「私は15歳よ! それに小箱の方が誕生日が早いんだからっ」

 二杯目を一気に飲み干して、小箱に「うわぁんっ」と泣きついた。一応彼女が飲んだのはハーブティで、アルコールはもちろん入っていない。

「わ……ロッテ……。よし……よし……」

 見た目中学生の灰音に見た目社会人のロッテがよしよしされていた。

「もふ……」

 視線を羊一に合わせる。

「じ、事故だ、不可抗力だぞ……」

 灰音が羊一の背中に隠れた時のロッテがそうしたみたいに、灰音もロッテのことが大切に違いない。事故とはいえ、今回は羊一に非がある。甘んじて非難は受けようと羊一は彼女の発言に身構えた。

「…………パス」

 あっけなくロッテを手放し、羊一の方へ押した。無論、彼女が羊一へ飛び込むわけもなく……、机に顔を伏せて「うわぁぁぁぁんっ」とギャン泣きし始める。

「灰音……。お前は血も涙もないのか……」

「……面倒…………無理」



 灰音のドライな一面を垣間見たところで午後五時を告げるチャイムが鳴る。

 ぐすぐす、と鼻を鳴らしながらロッテが起き上がり、

「……説明を続けるわ」

 健気で律儀に羊一への説明を続ける。

 灰音が持ってきた大きな箱がボードゲームの箱らしい。

「これがボードゲーム。特にこれを見て」

 指差したのはゲームのタイトルではなく、その下に書かれた誰かの名前。

「ゲームデザイナーの名前よ。ゲームデザイナーというのは、ゲームのルールや世界観を作った著作者ということね。よく思い出してみて、ゲームに個人の名前が書かれているのって思い当たる?」

「会社の名前があるのは思い出せるけど、個人ってなるとないかも……」

「そうなの。ボードゲームはゲームデザイナーの個性が重視されているから、箱の目立つところにその名を記すわ。ゲームの特徴は作家性の象徴になるの」

 その後、「もちろんすべて一人で作っているわけではないのだけれどね」と補足し、灰音が持ってきてくれたゲームを一つ一つかいつまんで説明した。

 一緒に遊べる人数は一人から二十人と幅広く、年齢も六歳から九十九歳までを対象にしているなど、ゲームによっててんでバラバラ、多様である。

「ボードゲームは何か遊んだことある?」

「名前が書いてあるものはないと思うけど、『トランプ』とか『将棋』とかかな……。それと灰音が持ってたゲーム……あっ」

 そこまで言って気がついた。ゲームのことを喋ったら殺されかけたのだ。

「ああ、遊んだのね。小箱のゲーム」

 口走ったが最期。灰音との暗黙の了解を破ってしまった。

 羊一は恐る恐る灰音の方に顔を向けると、灰音は借りてきた猫みたいにカチンコチンになっている。

「えっと……、灰音……さん?」

「……」

「もふくん気にしないで。緊張してるの、感想を言われるのが。ルールからコンポーネントまで自分で作れるのに、不思議よね」

 羊一は「ん?」と耳を疑う。

「コンポーネントは駒とかボードのことよ」

「そ、そうじゃなくて……」

 羊一が気になったのはそこではなく、

「ルールも作ったって?」

 すでにあるゲームの駒やボードをノコギリで自作したのではなく、そのゲームのルールから灰音が自分で一人で作ったということなのか?

「うん。もしかして駒やボードだけを作ったんだと思ってた? 違うわ、企画をしてルールを作るところからすべて! 小箱が作ったのよ」

 羊一はゴクリと生唾を飲み込んだ。

「それって……、すごくないか?」

 あのゲーム。1回やってルールを理解して、4回目で勝てるくらいになった。交互に駒を取り合うだけの簡単さで、取ったら取られる奥深さがあって、負けても次もまた遊びたくなるし、勝ったらもちろん達成感がある。それを一人で作ったというのか……?

「ええ、小箱はすごいわ。説明ベタだから出来上がるまでルールが全然分からなかったけど、遊んでみたらこれがとてもおもしろいんだから」

「うん。おもしろかった。これってもう世の中に出回ってるゲームなのか?」

 ロッテが灰音の肩を小突く。

「ね、どうなの? 小箱?」

「……」

 反応がない。

 それもそのはず、目をぐるぐるさせて顔が真っ赤になっていた。頭から湯気が出るほど熱くなっている。

 羊一が目を合わせると途端にぷるぷると震え始めて、灰音はロッテの胸に飛び込んだ。

「こ、小箱!?」

「…………だから……言いたく……なかった……」

 照れたのだ。で、赤くなった顔を見られるのが恥ずかしくなって、ロッテの豊かなふくらみに逃げ込んだ、と。

 羊一はその照れ隠しから察する。

「……そうか、誰にも見せてないゲームだったのか」

 たぶん、ロッテくらいしか遊んだことがないのだろうが、それを昨日の放課後、偶然から遊ぶことになった。

 ふと脳裏をよぎる公子の言葉。

「『何かの最前線になりたい』か……」

「どうかした? もふくん」

「いや、誰も体験していないことを自分で作るって、それは最前線に立ってるって言えるんじゃないか、と思って」

「そうね。小箱のルールは私の知る限り最前線よ」

 灰音が「もうやめて」と言わんばかりに、ぺちぺちとロッテの背中をはたく。

 羊一はロッテと目を合わせた。

「俺もゲームを作れるかな?」

 ロッテは少し考えて、

「小箱。どう思う?」

 と胸に埋もれた小さなアイディアマンに質問を投げかけた。

 灰音は顔の横半分を胸に預けながら羊一に振り向くと、うるんだ瞳を羊一の心を見透かすように目を合わせる。

「……」

「灰音。俺とゲームした昨日の放課後、負けたのに笑ったよな。あれの意味が今やっと分かった。『おもしろかった』って俺が言ったからだ。そして、灰音がそのゲームの作者だったからだ。……俺も灰音のように笑ってみたい。できるかな……?」

 灰音は逡巡し、こぼすように口を開いた。

「……もふ。…………きっとできる」

 確証なんて一つもない。でも、あのおもしろいゲームを作った灰音が、そう言ってくれたことそのものが羊一にとっては「できる」という確信に感じられた。

「俺、ゲームを作りたいです」

 ロッテが微笑む。

「どんなゲームを作りたい?」

 羊一は腕を組みしばらく考え込む。その間に灰音がロッテから離れて、女子二人で羊一が何かひらめくのを待った。

「……何もアイディアがない」

 ロッテがつまづいたみたいによろめく。

「まあ〜……、最初はそうよね。でも、ゲームは作れるってあなたは気づいた。それだけで無限の可能性が広がってる」

「無限の可能性……」

 羊一は何かの最前線に立つ方法すら分かっていなかった。何が最前線かもよく分かっていなかったからだ。しかし、最前線が何かについて分かった時、今の羊一が最前線からどれだけ離れたところにいるのかをはっきりと教えてくれた。

 羊一は灰音の姿をしかと目に焼き付ける。

「灰音が心の底から『おもしろい』って言ってくれるゲームを作りたい」

 ロッテが「あら」とつぶやき、口元を手で隠す。

 灰音は羊一がどうしてそんなことを言ったのかまだ理解できていない様子だったが、その視線を悪くないものだと思ったのか、くすぐったそうに笑みをこぼした。

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灰音小箱のプラチナルール etc @sait3110c

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