何も起こらなかった世界 〜And he loves his son.〜
我ながら、ニヤニヤが収まらない。
ホテルのレストランの事務室で、刹那は兄から「ここにいる以上はこれくらいの仕事しろ」と命令されたデータ入力をしながら、ずっとワイヤレスイヤホンから、伊吹と伊吹の義理の兄の会話を聞いていた。
だから、ちゃんと聞いていた。
伊吹の腹違いの兄が、父親を独占していて、父親が大変な時に手も出させてもらえない伊吹が、啜り泣いているのを、刹那はちゃんと聞いていた。
「……千秋」
『おい、行くなよ。伊吹は勘がいい。お前はここにいない事になってるんだから、現れたら不審がられるだろ』
インカムマイクを付けている千秋が刹那のことを先回りしてそんな事を言ってくる。それに、刹那は頬を膨らませた。
「千秋ばっかりズルい。俺も、伊吹と会いたい」
『ウェイターできないだろお前。何言ってんだ』
「……俺は、伊吹の為ならなんだって頑張る」
伊吹と出会ってから、口癖になった言葉を口にする。
伊吹と刹那が出会ったのは、数ヶ月前だった。
何でも、兄には結婚を考えている女性がいる、というので、その式の準備の一環で「もしかしたら式に出たがらない刹那の結婚式での世話係」として、刹那に伊吹を紹介したのだ。
伊吹は、刹那に優しかった。
頭を撫でてくれた。
ニコニコと笑ってくれた。
兄を抜きにして、一緒に遊びに出掛けてくれた。
刹那を、たくさん褒めてくれた。
頬に、口付けをしたのも、許してくれた。
共に寄り添って同じベッドで、眠った。
だから、刹那は兄の伊吹に抱いている野望を手伝うと決めたのである。伊吹が側にいてくれるならなんだってする、と決めたのである。
『お前は絶対に笑顔も作れなかったくせに何を言うんだよ』
しかし、刹那のそんな決意もよそに、兄はため息混じりだった。
このホテルは、次期社長である兄自ら手がけたホテルだった。うちの会社の本業は旅行業なのだから、ホテルもやればいい。ようは、そんなある意味順当な発想の元、事業計画を立てたホテルだった。
兄は、次期社長という立場ではあるが、自分が手がけたホテルなのもあって、人手が足りないと分かれば兄自ら何でもする。ベッドメイクも、フロントも、事務仕事も、ウェイターも。父も、「社長だからこそいつでも現場に出られる様にしておけ」とか言っていた。父も、昔は社長になった後も、「勘を鈍らせたくない」と客前に出ていたらしい。
そして今日、兄の親友であり、刹那の初恋の人である籤浜伊吹が、勇気を出して自分の父と兄と話したい、と持ち掛けた時、兄は快くホテルのレストランの個室を格安で提供したのだった。そして、自らウェイターを務めたのだ。伊吹には、知った顔がいれば心強いだろ、とか言っていたが、刹那には、兄の思惑がよく分かっている。
でも。
「なんか、千秋が出る幕じゃなかったな」
「そうだな」
イヤホンからではなく、直に兄の声が聞こえて、刹那は振り向いた。そこには、ウェイター姿の兄がいた。インカムマイクを外しながら、刹那の座る机まで歩み寄ってきた。
「千秋、伊吹は?」
「親友として、声が掛かるまでそっとしておく、というてい」
兄は、にやり、と笑っている。
「……直ぐに慰めに行くよりは、落ち込ませるだけ落ち込ませたほうが、付け入る隙が出る?」
「分かっているじゃないか。そう言う事だよ」
兄は、刹那の隣の机に備え付けの椅子にどかりと座った。
「ま、少し拍子抜けだけどね。エントランスの監視カメラで見た時、直ぐに踵を返したと思ったらスーツ着てきたし、俺には丁寧に接したし、伊吹との話し合いもなんか落ち着いて話してたし」
「俺も、もっと、こう、駄目なやつかと思ってた、伊吹のクソ兄」
「そうだね。ま、歳食えば、変わるやつは変わるか」
千秋は、そういいながらデスクの上の監視カメラを操作する。程なく、伊吹がいる個室の中を映し出してきた。
伊吹は、椅子に座って、俯いていた。悲しいほど、落ち込んでいた。
頼りにして欲しい、と思った人間は、頼りにしてくれず、セッティングした場にすら現れなかった。それどころか、信用すらされず、具体的な居場所も教えてもらえなかった。そもそも、ずっとその人間に不義理をし続けていただろう、と指摘されて、伊吹は、何も言えなかった。
チャンスだった。
伊吹は、育ちが育ちだから、身内というものの憧れが強いのは千秋も刹那も分かっていた。千秋の伊吹に対する野望と、刹那の夢を叶えるには、その憧れをどうにかしなければならなかったのだ。でも、その憧れは他ならぬ伊吹のクソ兄のお陰で、どうにかなりそうだ。伊吹が、身内というものへの憧れを、完全に諦めてくれれば。人の繋がりなら、千秋が、刹那がいる、と、思ってくれれば、今の仕事を辞めて、犀陵で、働いてくれるかもしれない。千秋と刹那の側に、いてくれるかもしれない。
それを思うと心が躍る。兄も、得意げな顔で、画面の中の伊吹を眺めていたのだった。
*
電話の向こうの叔父は、驚いた様に、腹違いの兄の名前を出した。
『和樹が、そう言ってたのか』
「……うん。親父は、和樹に粉飾のこと、打ち明けたんだって」
少人数で食事をするための個室。
早くでなければ、と思うのに、伊吹は、この部屋から出られなかった。親友から、「使っていい」と言ってくれた時間は、まだ残ってる。まだ、ここにいれば、父が来てくれるのでは、なんて思っていた。我ながら、女々しいのは分かっていた。
『和樹は、なんて』
「親父に、辞めてくれって頼んだんだって。自由に、生きて欲しいって」
電話の向こうの叔父は、唸っていた。
「……後、和樹、家建てるんだって」
『家?』
「そう。同居だって、親父と」
電話の向こうの叔父は、また、唸った。
『どこで』
「……教えてもらえなかった」
叔父の、重苦しいため息が聞こえる。
『まあ、和樹とお前の仲だから、その、俺からも兄さんに聞いてみるが』
「……うん。頼んだよ、おじさん。和樹、俺が今接触してきたのは、なんか、他の親族の差金だと思ってて」
『俺も親族だが』
「なんか、光政おじさんとか、明子おばさんの名前、出してたけど」
伊吹も、ため息をついた。
どちらも、名前を聞いても顔すらも思い浮かばない程の親戚だった。
『確かに、その2人はな……。和樹が警戒するのも分かるが』
「おじさん、大丈夫なのかな、親父。そんなさ、金を集るような親族、放っておいて」
『……まあ、ただでさえ本家は取り壊しの真っ最中で、会社もなくなれば、厄介な親族もいい加減、現実を見ると思うが』
そう、叔父は言うが、その言葉に力はない。随分と曖昧な言い方だった。それに、伊吹のスマホを握る手に、力が入る。
和樹は、父に苦労してほしくないと言っていたが、和樹1人で、厄介な親族達をどうにかできるものだろうか。
「……そういえば、おじさん」
『ん?』
「俺が就職する時にさ、俺とその……結婚しようとしてた親族がいたって、本当?」
伊吹のその問いに、一瞬、叔父からの返答に間があった。
『和樹が言ってたのか?』
「……うん。その、おじさんも知ってた筈だって。親父は、その時、俺の事守ろうとしてたって」
『兄さんが? いや、確か兄さんは、いきなりお前の就職先反対してきておかしいな、とは思っていたが』
叔父のその発言に、伊吹の瞳が険しくなった。
叔父も、その時のあらましは知らないのだ。もしも、和樹も叔父も嘘を吐いていないのなら、父は、和樹にだけ思惑を打ち明けた事になる。
なぜ、自分のことなのに、父は自分に――実の息子に、打ち明けてくれなかったのか。
そんなに、当時の自分は、子供に見えたのか。
『とにかく、俺はお前ともきちんと話すよう、兄さんに言うよ』
「……うん。ありがとう、おじさん」
『ああ。まあ、お前も気を落とすな。まだ、チャンスはあるよ』
昔と変わらない、叔父の優しい声に、伊吹は「ありがとう」と礼を言う。そして、またな、と言い合って、電話が切れた。
伊吹は、スマホをテーブルに置くと、はあ、とため息を吐いた。
目の前の二席は、空だ。予定なら、今3人で食事の真っ最中だったというのに。
腕時計を見ると、だいぶ時間が過ぎていた。いくら親友が「今日は空いてるから」と格安で貸してくれた個室でも、いい加減出るべきだった。結局、食事も無駄にしてしまった事も謝らなくては。
でも、足が動かない。
――籤浜もさ、親は大事にしろよ。
そう言ってきた先輩の言葉に、他の、伊吹が祖母に育てられたのを知っている同僚達はギョッとしていた。
彼らは、伊吹には父親がいないと思っているのだ。祖母が亡くなり、もう、天涯孤独だと。
親を大事にしろ、と言ってきた先輩は、異動組で、伊吹の家庭事情なんて全く知らない。ただ、その先輩は、30代になって直ぐに、親を相次いで亡くして、親孝行をできなかったのを悔やんでいる、と。
その先輩の言葉がなくても、世の中、『親』がいるのは当然の事だ。伊吹のような関係は、そうそういない。
伊吹には、母も、父もいる。
でも、父は、和樹が独占している。自分がセッティングした食事会すら来なかった。せっかく勇気を出したのに。あの冷たい印象の父の、付け入る隙がようやくできたと思ったのに。
母は――。
伊吹は、俯いていた頭を、のろのろと上げた。
本当なら、父が座っていただろう席を見てから、和樹が座っていただろう席を、睨む。
――こいつが、いなければ。
伊吹の中に、そんな言葉が浮かんできた。
自分を虐めてきたくせに。受験に失敗したくせに。父に迷惑をかけたくせに。父に認められていなかったくせに。なんで、長男というだけで、共に住んでいただけで、あいつが父と同居なのだ。なんで、父は粉飾の事を打ち明けたのだろう。伊吹の方が、絶対に役に立つのに。なんで、こいつばかりが、伊吹の欲しいものを持っているのだ。
父も父でなんだ。
いくらなんでも、実の息子が勇気を振り絞った食事会に来ないなんて有り得ない。伊吹が学生の頃の食事会に、伊吹は来なかった時があっただろうか。確かに、社会人になる直前の食事会で「もう食事会は終わりにしよう」と言われた。その少し前に、父の会社に入るように、という命令を蹴ったから、だから、父からもう見限られたのだと思っていた。それに、あの時の自分は、まさか祖母があんなにあっという間に死ぬとは思わなかったのだ。まさか、あんなに早く1人になるなんて。父も盆や正月くらい、顔を見せろと一言言ってくれれば、自分も。そもそも、伊吹は和樹のスペアではなく、息子と認めていたのなら、そう言ってくれれば。
伊吹の視界に、また、涙が滲む。
和樹は、父と伊吹を会わす気があるのだろうか。伊吹と父は、ちゃんと会えるだろうか。
信用が、できない。
どうにかして、和樹から父を引き剥がさなければ。そうしないと、自分は父とはもう一生会えない気がする。それは、ダメだと思う。絶対に。
伊吹の胸の中で、チリチリと炎が燃える。
祖母は、遺言で、「真っ当に生きろ」と言ってくれた。そうだ、これは真っ当なことだ。親子間でのすれ違いを正そうとしているのだから、真っ当な道だ。
そもそも、和樹が先に真っ当でないことをしているのだから、立ち向かう自分も堂々と手段を選ばずにいれる、と言うものだ。伊吹は、それなりの社会人経験で、いろんな手段を知ったのだから。時として、目的のために手段を選ばない事もまた真っ当な道だと知った。昔とは違う。和樹よりも自分が優れていることを、父に思い知らせなければ。
もしも、和樹の言うことに嘘がないなら。
父は、伊吹のことも愛していたのなら。
ならば、いい加減、父は自分の方を見てくれても、いいはずだった。
和樹に言われた結婚しろ、という言葉を聞かなかったふりをしているわけじゃない。でも、そのためには、家族を。
父を、手中に、収めなくては。
換えのきく、いつでも捨てられるスペアではなく、きちんと、自分自身を見てもらわねば。
そうでなくては、自分は、前に進めない。
父は、自分の初めての我儘を、聞いてくれてもいいはずだ。
和樹よりも、優先するべきだ。
伊吹は、今、ちゃんと真っ当な事を考えているはずだ。父と仲良くなろうとすることの、どこが真っ当でないと言うのだろう。祖母もきっと応援してくれる。そうだ、そうに違いない。手段を選ばなくても、「仕方がないわね」って言ってくれる。ちゃんと、合法的な手段を取ればいいだけなのだから。
その為には、どこから布石を打てばいいだろうか。そう、腕を組んで考える。その時だった。
「大志いぃ!!!!」
ドアが開く音と、大声で父の名前を呼ぶ声が聞こえて、伊吹は思い切り振り返った。
「……あれ? 大志、じゃない?」
そこにいたのは、恰幅のいい体格に、豪快な雰囲気の、父と似た年代の中年男性だった。
*
『え? お義父さん今日夕飯いらないの?』
私は、電話の向こうの長男の妻――私にとっては義理の娘にあたる――に向かって、電話をかけていた。
「ええ。知り合いに飲みに誘われて」
『いつ頃帰るの?』
「そう、ですね」
私は、チラリと横を見た。
「まあ、日付が変わる前ぐらいには」
『結構飲む気なんだ、お義父さん。分かりました! 和樹と子供には言っておくから』
そうして、じゃあね、と電話が切れる。私のスマホを見下ろすと、あの明るく竹の割ったような性格の義理の娘の声が聞こえてくるようだった。
「上手くやっているみたいだな、大志」
声が聞こえて、私はええ、と返事をしながら、スマホを鞄にしまう。そして、横を見ると、中高と、学生時代に同級生だった、犀陵時次が座っていた。
「気立てが良くて、明るくて。……できた嫁です」
犀陵時次の顔の後ろの車窓から、どんどん景色が過ぎていく。前を見ると、帽子を被った運転手が、黙々とハンドルを握り、安全運転で走行している。
「そうか、息子の嫁とも上手くやってるなら何よりだよ、大志」
犀陵時次は、そう言って笑っていた。
会社を出た後、私は駐車場の出入り口で待ち構えていた犀陵時次に、飲みに誘われたのだ。なんでも、私の事が気になって、との事だった。
まあ、元同級生の会社が無くなると聞いて、気になる気持ちはわかる。私も、自分の人生の区切りに、まあいいか、と思って、犀陵時次に促されるまま、彼の車に乗ったのだった。私の車は、会社に残されたままだ。今日は金曜日で、土日を挟む事になるが、土日は車を使う予定はないし、月曜日は公共交通機関を使えばいいだろう。残り少ない、会社への出勤だ。たまには、きっといいものだ。
「会社、手放した後はどうする気なんだ」
「まだ身体を悪くしているわけではありませんから。どこかに拾っていただこうかと」
「うちはどうだ。口利きするぞ」
「お気持ちだけいただきます」
私は、犀陵時次の言葉に苦笑した。
冗談だと思ったのだが、犀陵時次は私の返答に、何でか不服そうだった。なぜだろうか。会社を手放した元社長なんて、自分の下で働かせるなんて扱いにくくて仕方がないと思うのだが。
まあ、それを差し引いても。
「すでに目星を付けているところがありまして」
私の言葉に、犀陵時次の眉間に皺が寄った。
信用していないのだろうか。嘘ではないし、向こうも悪い感触ではないのだが。まあ、それでも別に、もう構わないが。
再就職先としての大本命は、私が持っているアパートの管理を任せていた会社で、アパートを建てた時からの付き合いだった。元々、アパート管理は手を掛けたら掛けるだけちゃんと見返りがくるから、我ながら会社経営の合間に頑張っていたのだ。その見返りで、私が建てたアパートは今に至るまで、収益をあげている。それが、再就職先が、私を評価してくれた、大きな要因だった。
単純に、他人に自分が積み上げてきたものを評価されるのは嬉しい。
その事を思い出しながら笑っていると、犀陵時次が、「大志」と私の名前を呼んできた。そちらを向くと、真剣味のある顔で犀陵時次が、私を見つめている。
「金は、大丈夫なのか」
その言葉に、私は自分の懐状況をどう伝えようか少し悩んでから、頷いた。
「……ええ、なんとか。いくつかの財産を売れば、私が背負う債務も完済できそうです」
事業の売却と、私と和樹達で住んでいた、本家の土地家屋を中心とした財産。そして、何より、和樹や私の部下たちのおかげだ。私の部下たちは、私が粉飾をしていた事も責めずに、会社のことを。和樹は、私が動くと目立つから、と、本家や私が受け継いだり所有していた財産の事を。
私のこれからの為に、とたくさん動いて、助けてくれた。
本当に、いい息子と部下達を持った。それだけで、苦労の多かった私の社長経験が救われる。
私の言葉と様子に、犀陵時次の顔から緊張が抜ける。そして、ほっとした様に、犀陵時次は私に笑いかけた。昔を思い出す様な、あどけないとも言える笑みだった。
「そうか。まあ、お前は、昔から真面目で堅実だったものな」
そして、犀陵時次は黙った。私も、黙る。
そっと、犀陵時次を伺う。学生の頃よりも老け、顔も体も大きくなったが確かに昔の面影がある。私も、あの頃よりも色々と変わっただろうか。でも、その中でも変わらないものもあるのだろうか。
結局、私の代で会社は無くなる。本業の事業自体は知り合いの同業が引き取ってくれて、雇用も維持してくれるという。取引先にも長年、真面目に働いてくれた社員達にもなるべくいい形で事業継承ができた筈だ。
寂しさはあった。どこか、先祖に対する申し訳なさも。
でも、どちらかというよりも、開放感の方が大きい。粉飾をした時から休まらなかった神経が、ようやく落ち着いてきて、寝苦しさを感じる事も無くなった。
既に私の会社はうろだらけの古木だ。後は、畳めばいいだけの、伽藍堂だった。社屋のある土地も何社か、欲しいと手を挙げてくれた企業もあり、そちらと、廃業の為の手続きが済めば、もう、私は完全に社長では無くなる。
温泉に行こう、と私が同居している長男夫妻が言ってくれた。
私の、新たな門出のお祝い、だと。それもいいな、と私はその提案に、久方ぶりに心から笑うことが出来た。本当に、会社がなくなった後、こんなに心穏やかでいられるなんて、昔は思わなかった。
「息子達とは」
その言葉に、私は犀陵時次を見つめた。
「長男の方はともかく、次男の方とは上手くやっているのか。確か、うちの千秋と仲がよかっただろう」
私は、その問いに答えられなかった。
伊吹とは、もう何年も会っていない。
彰は伊吹も付き合いがあるから、たまに会うと伊吹の近況を教えてくれた。でも、それだけで私は、伊吹の連絡先も知らないのだ。向こうもそうだ。
伊吹は、昔から私を嫌っていた。
幼い頃の月一回の食事会では、明らかに顔が引き攣っていた。長じてからも固い顔ばかりで、深い話をした事なんて全くない。それだけ、私は伊吹から信用されていない。
私は伊吹にとって、金を運ぶだけの人間と自覚するのは早かった。寂しかったが、でも、伊吹の生まれを考えれば当然だった。
最近、伊吹から「会社について色々と聞きたい」と彰経由で話が来た。その時、私は躊躇ってしまった。ただでさえ私を嫌っている伊吹だ。彰を通じて粉飾の事も知っているだろう。
伊吹は、出来がいい息子だった。
昔から勉強ができて、素行も良くて、難関中学もあっさりと合格して成績も学年でトップクラスで、大学だって有名な大学だ。就職先も大手企業で順風満帆な人生を送っている。――私とは違って。
そんな出来が良く優秀な息子に、私はどんな目をされるか。それが、怖かった。
だから、長男の「親父は行かなくていいよ」という言葉に甘えてしまったのだ。確かに、私が言ってもあの食事会の時は言えない事も多く、ろくに話ができなかっただろう。迷惑をかけないと言っておきながらの曖昧な言い方に、伊吹がまた、不快になる可能性があった。なら、和樹に任せた方が伝えられる事も伝わるだろう、と私は和樹に任せてしまったのだ。
でも、これでよかったのだろうか。
私の口から、伊吹には絶対に迷惑をかけない、と伝えた方が、よかったのでは。
そうした方が、伊吹は安心して、私のことなんか気にしない、自由な人生を歩めるのではないか。
伊吹には、なるべく口出しせず、見守る、と決めたのはいつの頃からだろう。でも、伝える事も伝えなくて、それでよかったのだろうか。
――会社の事は、ほとんどケリが付いた。
なら、彰に頼んで、私自ら伊吹に説明をする場を、作った方が、いいだろうか。
そんな事を腕を組みつつ考えていると、肩を叩かれた。振り向くと、犀陵時次が、困ったような笑みを浮かべている。
「着いたぞ。なんか、考え事中、悪いな」
「……いえ」
私は首を振った。促されるがまま車を降りると、そこには広く立派な家があった。見上げていると、犀陵時次から「私の家だ」と伝えられる。
どこかの店に連れて行かれるかとばっかり思っていたから意外だ。元同級生とはいえ、いきなり自宅に連れてくるとは。まあ、もう直ぐ社長ですら無くなる私だから、自宅の住所が割れても構わないと思っているのかもしれない。それは、正しい。私も今日限りの犀陵時次の自宅の場所を知ったからといってどうこうしようとも思っていないのだ。犀陵時次と2人で飲むのも今夜限りだし、もう周囲は陽が落ちている。具体的な道順も分からない。
私は、犀陵時次に促されるがまま、家に入った。
広い玄関を通り、そして通された部屋。私は、その室内にいた人間の姿に、目を見開いた。
「親父」
伊吹だった。
がちゃんと、音が聞こえる。見ると、犀陵時次が扉の前に立っていて、ちょうど部屋の鍵を閉めたところだった。じゃり、と鍵を見せられる。
「騙し討ちのような真似をしてすまないな、大志」
犀陵時次の、固い顔。伊吹の真剣な顔に、私は全てを理解したのだった。
*
すまなかった。
私が第一声、伊吹と向かい合って座り、最初にしたのは謝罪だった。
「お前が、こんな事をする前に私から話しておくべきだった」
本当にすまない、と私は、伊吹に深々と謝った。
「親父」
頭を下げているから、伊吹がどんな顔をしているのか分からないが、声の調子には困った色が乗っている。
「お前には、絶対に迷惑をかけないと誓う。私が抱える借金も、ちゃんとこちらで完済できる。詳しく聞きたいのなら和樹も交えて、」
肩を掴まれた。
強い力だった。ぐい、と両肩を掴まれて、頭を上げさせられる。そこには、どこか、遠くを見るかのような伊吹がいた。
「和樹の事はどうでもいいんだよ、親父」
変わらず、私の両肩を掴む伊吹の手の力が、強い。
「俺と2人で話そう、親父」
私は、明らかな作り笑いの伊吹の様子に、息を呑んだ。
以前、伊吹に呼び出された時、私は和樹に任せて伊吹とは会わなかった。思っていたよりも随分と早く帰ってきた和樹は、なぜか普段はなかなか着ないスーツを着ていた。私が後で「どうだった」と聞いても、「大丈夫」と言われたきりだった。
私は、頭を抱えた。
和樹と伊吹は、仲が悪い。
私のせいだ。ただでさえ複雑な兄弟関係なのに、私が和樹を優先してしまったから。彰にばかり2人の仲裁を任せてしまったから。
「本当に、すまなかった。お前からの呼び出し、私が行けばよかったな」
全て、私が発端なのだから。
粉飾をしてしまった事。いじめを止められなかった事。孫が産まれてから、とうとう罪悪感に耐えきれなかった事。和樹の、辞めていい、という言葉に甘えてしまった事。
全て、私が選んだ結果だった。
きっと、伊吹に呼び出されたホテルで、2人の間は、険悪な雰囲気に満ちていたのだろう。そんな雰囲気では、伝えられるものも伝えられない。やはり、私は伊吹から逃げてはいけなかったのだ。私が責任を持って、伊吹に説明しに行くべきだった。
「和樹のことは、許してほしい。私が、きちんとお前と向き合わなかったから」
「親父」
「和樹も、守るものが増えたから、ついムキになってしまったんだろう。だから、伊吹、」
「和樹の事はどうでもいいって言ったよな、親父」
その言葉と共に力が加えられた肩に、私は思わず顔を顰めてしまった。
「今目の前にいる息子は誰だ? 和樹じゃないよな。俺だよな、親父」
伊吹の瞳が、遠くを見ている。
確かに伊吹は今、私を見ているのに、その瞳は遠い。なんとなくわかった。伊吹には、何か、強い目的がある。きっと、伊吹はその目的のためならなんでもやる。どんなことでも。
いつの間に、伊吹はそんな風になったのか。いや、元からだったのか。私に、伊吹がようやくその一面を見せてくれただけで。
「まあ落ち着け、伊吹くん」
隣から聞こえてきたその声に、私はそちらの方に顔を向けた。
「そんなに強く迫っちゃ、大志も話し辛いだろう」
伊吹は、私の正面の席に座っている。そして、隣に座っているのは、私の学生時代の同級生で、この家の家主である、犀陵時次だった。
「……すみません、時次さん」
伊吹は、そっと私の肩から手を離した。
「その」
私は、ちらりと横の、何やらニコニコと笑っている犀陵時次の姿を見ながら口を開いた。
「一つ聞いても良いでしょうか、犀陵さん」
「なんだ、大志」
「……」
なぜ伊吹に協力しているのですか。
伊吹とどこで知り合ったのですか。
なぜそんなに笑っているのですか。
息子さん達も伊吹に協力しているのですか。
というか、先ほどからのその、馴れ馴れしい口調はなんですか。息子の前なので、呼び捨てはやめてください。
つい、場の雰囲気で、一つ、と私から言ってしまったから、一つしか質問ができない。しかし、犀陵時次に聞きたい事、要求したい事はたくさん出てくる。
伊吹の方を向くと、伊吹は笑っているが、先ほどと同じような、手段を選ばなそうな遠い目をしている。私の一挙手一投足を見逃すまい、という雰囲気で私を見ている。
「……どこで、伊吹と」
「ああ。前に伊吹くんがセッティングしたホテルな、あれ、うちのホテルなんだ。息子達がなんかやってたから誰が来るんだと気になって予約見てみたら、お前の名前があってな」
犀陵の会社の本業は旅行業だった。しかし、とうとうホテルまで進出していたのか。ホテルの名前だけでは判断できなかった。
なるほど。確かに、犀陵時次の息子と伊吹は、学生時代仲が良かった、と伊吹自身から聞いたことがある。私なんかは学生時代の交友関係はほぼ残っていないが、伊吹は学生時代の付き合いもしっかりと維持していたらしい。やはり、伊吹はできる息子だ。私の子供とは、思えないくらい。ちゃんとDNA鑑定もしたから、確かに私の子供なのだが。
「いやでも、お前どうかと思うぞ。せっかく息子がセッティングした場だというのに来ないなんて」
「それは、その」
私は、伊吹を見つめた。
伊吹は、見るからに憮然としていた。怒っていた。それは、そうだと思う。自分に迷惑がかかるかもしれないのに、肝心の私が行かないなんて。だから伊吹は、犀陵時次を頼ってまで、私と和樹を引き剥がして確認しにきたのだろう。本当に、申し訳なかった。私が、伊吹の親として相応しくないから。
「伊吹。その、本当に、すまなか、」
「親父」
伊吹は、私の言葉を遮った。
「一つ、確認したいんだけどさ」
「な、なんだ、伊吹」
「親父が来なかったのって、和樹のせい?」
私は、息を呑んだ。
伊吹は、怖いくらいの笑みを顔に浮かべている。
「そうだよな。みんな、和樹が悪いんだよな。俺を殴ったし、地下の座敷牢に閉じ込めたし、受験に失敗したし、学校は退学になったし、高校卒業後はプラプラしてたし、俺が彰おじさん以外の親族と繋がってると親父に吹き込んでるし、勝手に親父と同居しようとしてるし、なんか親父の理解者面してるし、親父独占してるし」
呼吸は大丈夫か、とつい言いたくなるくらい、伊吹は話している。
「それに引き換え、俺は何か問題起こした事あったか? ないよな? 誰かを殴った事あるか? ないよな? 中学受験は、親父の母校、ちゃんと合格したよな? 勉強、すごく頑張ってたよな? 大学もストレートで合格したよな? 成績、めっちゃよかったよな? 就職先は和樹のちっさい整備工場とは違う、誰もが名前を知っている大手企業だよな? 親父」
その、と、私は口を開くが、伊吹は止まらない。
「なあ、おかしいよな、おかしいよ。なんで和樹ばっかり親父は頼ってるんだ? なんで和樹が親父と同居なんだ? 俺の方がよっぽど優秀だろ? 役に立つだろ? 出来がいいだろ? 俺、すごく頑張っていただろ? いい加減、俺を優先してもいいだろ? 俺のことだって愛していたんだよな? なあ、親父」
伊吹は、何を言っているのだろうか。
伊吹の望みが見えてこない。目的が分からない。ただ、伊吹の勢いに呑まれて、私は声を出すことすらできなかった。
「親父、たまには、俺の我儘を聞いてくれよ。俺の家族になってよ、親父」
そうして、伊吹は鞄を取り出すと、その中から、一枚の紙を私に出してきた。
「これ。サインして、親父」
親子間で、あまり聞きたくない類の言葉が出てきた。
おかしいな。先ほど、「家族になって」という、つい嬉しさに胸が高鳴りそうな事を伊吹から言われた気がしたのだが。
隣の、犀陵時次からの強い視線を感じる。伊吹は、変わらず私を遠い目で見つめている。4つの、有無を言わさぬような視線。私は、伊吹の勢いに呑まれて、微かに震える手でテーブルの上の紙を持ち上げた。
そして、私は目を見開いた。
「い、伊吹」
私の声が震えている。伊吹は、ん? と笑いながら、首を傾げている。
「これ、は、その」
「……ちゃんと、公的な書類だよ。大丈夫だから。サインして、親父」
「あの、」
「ペンはここだ、大志」
とん、と私の目の前に金が掛かっていそうな万年筆が置かれる。隣を見ると、犀陵時次が、深く、奥底が燃えている瞳で、私を見つめている。
「さ、犀陵さん」
「おいおい、いい加減、時次って昔みたいに呼んでくれよ大志。照れくさいのか?」
「い、いや、貴方、この書類が何か、分かっているのですか」
「……親父は、分かるの。これ」
伊吹は、残念そうに言った。しかし、私は伊吹を直視できない。
「伊吹、これは、駄目だ。書けない。本当に、駄目だ」
私の頭が、冷えるのが分かる。きっと、私の顔色が悪くなっている。
私は、テーブルにその紙を置いた。そして、伊吹に向かって首を振った。
テーブルに戻された紙。そこには、「推定相続人廃除の審判申立書」と書いてあった。
「犀陵さん! 貴方、本当にこの書類が何か分かっているのですか!」
私は、犀陵時次に向かって叫ぶしかなかった。
推定相続人廃除、とはようは、家庭裁判所を通じて、相続権を奪うことができる制度である。
例えば、遺産欲しさの殺人をした子、過去に非行などで親に大きな損害を与えた子に、親の財産を継がせないようにできるのだ。
現代日本には、親子関係を法的に完璧に切る方法など存在しない。だが、子から親の財産の相続権を奪う事、これを、縁切りと言わずなんと言おう。
伊吹は、そんな、絶縁書、ともいえる書類を私に出してきたのだ。そして、縁切りする相手の名前は、既にその書類に書いてあった。籤浜和樹。私の長男で、伊吹の腹違いの兄だ。今、すっかりと更生して、立派に働いている、頼りになる、私と同居をしてくれている息子だった。
その和樹の過去の事が、かなりの悪意と脚色で、私と縁切りする理由として書かれていた。
「……親父」
「い、伊吹。落ち着きない。本当に、落ち着きなさい」
私は、真っ青な顔のまま、伊吹の肩を掴んだ。
「お前と和樹の仲が悪くなったのは、私のせいだ。私が、和樹がショックを受ける顔を見たくなくて、お前への虐めを止められなかった。全て、私が悪いんだ」
私の元妻は、私の目から見ても和樹を愛している様子はなかった。体型が崩れるのが嫌だ、と乳をあげている姿も見た事がない。和樹の世話は、ベビーシッターや家政婦に任せっぱなしだった。
和樹には、私しかいなかった。
だから、私は和樹を優先してしまったのだ。伊吹には、あの優しくて立派な祖母がいるから大丈夫、と甘えてしまった。彰も伊吹の方を明らかに可愛がっていたから、なおさら、私が、と。
「本当に、すまない。お前がこんな物を用意するくらい、お前を追い詰めてしまった。本当に、すまなかった」
私は、伊吹の肩から手を離し、深々と謝った。頭を下げた。この書類を仕舞ってくれるなら、土下座してもいいぐらいの気持ちで謝った。
「親父」
伊吹の声が、固い。
私は、それに尚更頭を上げられない。
「か、和樹の事は許して欲しい。あいつも更生したんだ。本当だ! もうお前に酷い事は、」
「俺と親父を引き剥がそうとしている時点で十分に酷い事をしているよ」
伊吹の、冷たい声に私は唇を噛んだ。
「なあ、親父。親父はさ、俺の事、認めてたんだろ?」
ぐい、と頭を上げさせられる。正面から私の両肩に伊吹は手を置いている。隣の犀陵時次は、私の背中に手を添えてる。その手に力が加えられている。逃げ場が、ない。
「嬉しいよ。遅すぎるけど、嬉しいよ、親父」
「い、伊吹」
「俺が就職する時も、守ろうとしてくれたんだよな。ありがとう。俺、恩を返したいんだよ。親父に、俺の立派になった姿を、すぐ側で見てもらいたいんだよ」
「時次さん」と伊吹は、犀陵時次に声をかける。そして、犀陵時次は頷くと、犀陵時次もまた、私に書類を差し出した。
「大志。お前は、昔から真面目で堅実で、責任感が強い奴だった。粉飾をしてしまった事、もしかしたら、ずっと悔やんでいるんじゃないか」
「あの」
「やり直してみないか? 俺の横で」
犀陵時次に差し出された書類。
そこには、入社誓約書、と書かれていた。
手に取らないまでも、頭が勝手に書かれた文字を追ってしまう。入社誓約書なんて、一般的には法的効力がないから、形式的な意味合いが強い筈なのに、その内容は、かなり、あった。法的拘束力が。
「お前が望むポジションを俺は用意できるぞ。誰にも文句を言わせない。望む人材は用意するぞ、大志。あんな血が繋がっているだけのクソ共とは、訳が違う」
犀陵時次が、私を深くて燃える瞳で見つめている。
「伊吹くんはな、お前に苦労して欲しくないんだそうだ。親孝行をしたいんだそうだ。その思いを汲んでやるのもさ、親じゃないか?」
「あの、その」
「長男に騙されていないか、伊吹くんは、とても心配していてな。俺もお前を親族達から守ってやって欲しいと。親友同士なら、きっとお前も安心だと俺に言ってくれてな」
私は、うまく動かない首を動かして、伊吹を見た。
伊吹は、笑っている。申立書を、私に差し出している。
「時次さん、親父の親友なんだろ? ならさ、その思いを汲んでやってくれよ、親父」
伊吹は、誤解している。
犀陵時次と私は、親友ではない。
犀陵時次にとっては、妥協の末の付き合いだったし、私の方は教師に逆らうのが面倒だったから犀陵時次と付き合っていただけだ。犀陵時次が仲良くなりたかったのは私ではなく、私とも質の違う優雅な金持ちの同級生だったはずだ。私では、ない。
それを伝えたくて、首を振る。
「遠慮するな、大志。長男からも守ってみせるぞ」
やめてくれ。
和樹は、本当に立派になったのだ。
自動車の整備という仕事を、人の命を守る仕事だ、と立派に働いているのだ。周囲の理解にも恵まれて、下の人間には面倒見が良く、上の人間からも可愛がられているのだ。毎日汗まみれになりながらも、生き生きと働く自慢の息子なのだ。
和樹は、私を搾取しようなんてしていない。本当なのだ。
「む、無理です。本当に、無理、です」
私は、なんとか首を振る。
しかし、伊吹も犀陵時次も、書類をしまわない。
「誤解です。ほ、本当に誤解なんです」
「誤解?」
犀陵時次の声に、私は頷いた。
「か、和樹は、私を、気にかけてくれて。更生もしていて、縁を切る、なんて、そんな」
「……可哀想に、親父」
伊吹は、まるで、心底から憐れむかのような声を出した。
「時次さん。親父は、ずっと親族に搾取されていたから、気がつけないんです。和樹も、そいつらと同じだって事に」
「伊吹!」
「だって、クソ共と同じじゃなかったら、俺と親父を引き剥がすような真似はしません。親父を孤立させて、自分に依存させて、親父から金を奪おうという算段なんです」
あまりの言い分に、私は言葉が出なくなった。その様子に、ほら、と伊吹は犀陵時次に語りかけた。
「心当たりがあるから、親父は何も言えないんです。親父には和樹しかいないと、和樹に信じ込まされているんです。あいつは、どうせ、親父にもし介護が必要になったら、親父を捨てます。殴ります。俺にしたみたいに」
「伊吹、止めなさい……!」
「そもそも、会社を潰したのは和樹です。親父を唆し、社会とのつながりを断ち、自分に依存させようとしたのです」
「違う、私が、自分から、」
「そうやって、自分のせいと信じ込まされているんです、親父は」
時次さん、と、伊吹は、犀陵時次を、じっと見ている。涙目を浮かべて、苦しそうに顔を歪めた。
「俺は、力不足です。親父を助け出すには、和樹から引き剥がすには、俺の力では足りません。時次さん」
伊吹は、頭を下げた。
「貴方だけが頼りです。親父を、和樹から助けてください……!」
「分かった!!!!」
私は、隣から聞こえてきた大声量に、「いい加減にしなさい!」と叫ぼうとした私の声は、かき消されてしまった。
「大志! 俺がお前を助けてやるからな! お前の親友として!!」
「犀陵さん! 話を聞いてください!」
「時次さん。親父の話は聞いてはいけません。洗脳されているのですから。親父の話は、何一つきいてはならないのです」
すかさず口を挟む伊吹の唆しに、犀陵時次は、しっかりと頷いた。頷きやがった、と私は愕然とした気持ちになった。
「大志!! 俺は今度こそお前を絶対に助けるからな!!」
「必要ありません!! 頼むから私を解放してください!」
「さあ、この書類にサインをしろ! 大志!」
「犀陵さん!!」
私はもう、絶望的な気持ちで叫ぶしかない。
私は頭を抱えるしか、無かったのだ。
*
かち、かち、と、時計の音が聞こえる。
そして、その音がかき消されるくらいの大きな音で、私の背後から腕が伸びてきて、だん! と、机を強い力で音を立てた。そして、カッ! と机上ライトで、私の顔が照らされた。
「おい、なにをぼうっとしているんだ、籤浜大志」
私は、記憶の中から意識を浮かび上がらせると、眩しさに細めた視界の中、机上ライトの向こうの、彫刻のように顔が整った青年を見つめた。
「それで? うちの父さんと伊吹がなぜか協力して、あんたを長男から引き剥がそうとした。その後は?」
「答えろ籤浜大志」
私は、その声に顔を見上げた。
そこにいたのは、まるで西洋人形の様な顔立ちの青年だった。その口から、私のフルネームが偉そうに呼ばれる。
「……その後、程なく、私は書類にサインをする事になった」
その過程を思い出すと、私は遠い目にならざる得ない。
私の話は一切聞いてもらえず、どんなに和樹は私を搾取なんかしていない、と庇っても、洗脳されている、と主張された。外と連絡を取りたくても、伊吹にスマホを奪われて取れなかった。そして、終いには伊吹が「親父が俺の言う事聞いてくれないなら自殺してやる!!」と言い出した。子供に先に死なれたくない私はサインをするしかなかったのだ。
「君のお父様はともかく、あんなに騒いで、お母様には申し訳ない事をした。謝っておいて欲しい」
「それに関しては、家の一室を何を言わずに貸し出した辺り母さんも納得済みだろうからいいけどさ」
私の正面に座るのは、犀陵時次の長男で、伊吹の親友だという、犀陵千秋くんである。そして、私が座る椅子の後ろで、憮然と腕を組んでいるのは、次男である犀陵刹那くんだった。
「……伊吹は、あんたを守ろうとしたのか?」
「……守る? まも……まも、る?」
刹那くんの言葉に、私の中の、守るの定義が、崩れそうになった。
「伊吹のクソ兄から、あんたを守ろうとしたんだろう?」
クソ兄、という言葉に、私の口の端が、ひくりと動いてしまった。
「その、本当に和樹は私を搾取なんかしようとしてなくて……」
「それは分かったよ。で? その後は?」
「……私は、君達の実家の一室に閉じ込められた」
曰く、「今ここで親父を自由にしたら、和樹の元に行くから」と言って、伊吹は犀陵時次に頼んでいた。そして、土日と犀陵時次と伊吹と過ごす事になった。
犀陵時次は、すっかりと伊吹の言うことを信じ込み、「長男から守ってやるぞ! 任せろ大志!」と傍迷惑な熱意で監禁に協力をしていた。月曜日になれば裁判所に申立書を提出して弁護士と打ち合わせをしたり、私の洗脳を解くために何やら施設に行くという事だった。私が会社に行かなくては仕事が、と主張しても、「私がなんとかする!」と本業はどうした、という勢いで、私の仕事を奪おうとしていた。
しかし、犀陵時次は私と同い年である。つまり、まだ30歳前の伊吹相手ならともかく、体力はそこまでない。なので、私はひとまず、犀陵時次と伊吹に従う振りをして、犀陵時次と伊吹を油断させた。頑張って記憶をひっくり返して犀陵時次の引くほど脚色が激しい思い出話にも付き合った。そして、伊吹が外出して、犀陵時次がある程度リラックスして、ソファでうたた寝をし始めたのを見計らい、部屋のトイレの窓から私は脱出したのである。
そして、靴下のまま昼間の路上を歩くわけにはいかず途中でタクシーを拾い、私は和樹とその家族と同居するマンスリーマンションに帰ったのだった。
私の顔を見た途端、和樹は本当に安心した顔をしていた。私が帰る事ができたのは日曜日の午後。つまり、和樹たちからしたら、私は帰ると言っていた金曜日に帰らず、土曜日も行方不明になっていたわけだ。親族たちに捕まってしまって酷い目にあっていたのではと心配だった、と和樹と和樹の妻に言われた。私は、視線を泳がせるしか無かった。
そして、私がなぜ帰ってこなかったのかを説明し終わった途端、和樹はマンスリーマンションの部屋から駆け出していった。
『あのクソ馬鹿伊吹め!!!!』
と、言う言葉だけ残して。
そして、私と和樹の妻は、バイクに飛び乗った和樹を追いかけて伊吹の祖母と伊吹がかつて暮らしていて、今は伊吹が一人で暮らしている家に向かった。
私達がたどり着いた時、既に人だかりができていた。警察官もいた。
そして、人だかりをかき分けた先で、和樹と伊吹が、玄関の扉が開いたまま、取っ組み合っていたのだった。
『親父に何してんだこのドラ息子!!』
と、和樹は伊吹を殴りながら罵っていた。
『ドラ息子はお前だこの不良息子!!』
と、伊吹も負けじと和樹を殴り返していた。
私が、止めなさい! と叫んでも無意味だった。警察官も止めたそうにしていたが、なぜか和樹と伊吹は「ここは私有地だ民事不介入だ!」と揃って主張し、警察官を立ち入らせなかった。私はその光景に頭がクラクラした。普段いがみ合っている癖に、私や会社に集る時だけ仲良く協力していた親族たちを思い出して、より頭がクラクラした。
私の手では到底二人を止められず、彰を呼び出したのは早かった。
彰と私でなんとか二人を引き離し、集まっていた近所の人々に謝りつつ玄関を閉めて、伊吹の家の居間で話し合う事にした。伊吹には、「絶対に犀陵時次を呼び出すな」と言い付けた。伊吹は、不服そうにしながらも頷いた。
そして、話し合いが始まって程なく、彰がこう言った。
『兄さんが、和樹ばっかり頼るのが悪い』
と。
そして、
『なんで、兄さんは俺を頼らない! 兄さんは、俺をまだ中学生だと思っているのか!! 今だって和樹に相談するよりも先に、冷静な第三者のこの俺に相談するべきじゃないか!?』
と、なぜか全く冷静でない彰に詰め寄られた。
そんな彰に、伊吹は『そうだそうだ!!』と同調し、和樹は、『彰兄ちゃんまで親父を責めて!!』とキレた。私が謝っても、『謝って欲しいわけじゃない迷惑とかどうでもいい! 兄さんは、俺の気持ちが分かってない!』とまた怒られた。伊吹も『やっぱり和樹ばっかり!』と和樹と一触即発となり、和樹は、また私を庇ってくれた。
程なく、彰の妻の加奈子さんがやってきた。もう、男4人では解決できない、という義娘の判断だった。そして、男女大人6人で、すったもんだをしていると、玄関先からチャイムの音が聞こえた。
まだ冷静な女性二人に応対を任せていたら、女性二人の「きゃー!」という声に、「まさか、犀陵時次がやって来て何かしでかした!?」と玄関に行ったら、伊吹の家の近所のご婦人と髪も顔も服も全てが泥だらけの少女二人――私の孫である和樹の娘と、姪である彰の娘がいた。
私の孫と姪は、まだ一人で留守番も難しい年齢で、色々と急過ぎたので預け先が見つからず、二人とも伊吹の家に連れてきていたのだ。
そして、大人達のすったもんだから二人で隠れる様に、家の裏に辿り着き、そこで二人で泥遊びをする事にしたらしい。子供心に、家の敷地内から出たら迷子になっちゃうからいけない、と思って、敷地内にいたのは不幸中の幸いだった。泥遊びで家の裏を水浸しにして、汚して、服も体も泥だらけにしてしまった事は、子供二人を放置していた大人達は、責める事が出来なかった。
そして、子供達を風呂に入れたり、着替えを急いで買いに行ったり、家の裏を掃除したり、色々うるさくしすぎたので近所に謝りに行ったり、子供達がお腹空いた、と言ったことで、もう夕飯の時間だ、と気がついて出前を取ったり、食べたりしているうちに、みんな冷静になってきた。
そして、夕飯が済んで、疲れた子供達がすやすやと眠った後、ようやく私達は落ち着いて話す事が出来たのである。
「まあ、それでようやく、私は伊吹と落ち着いて話し合えた」
「伊吹はなんで言っていたんだ? 籤浜大志」
「……それも言わなくてはならないのかね」
私は、刹那くんを見上げた。
刹那くんは、ああ、としっかりと頷く。
犀陵刹那というと、社内では出来損ないの次男という評判だった。なんでも、就活に失敗し、父と兄にお情けで拾ってもらった、との事らしい。とうの犀陵時次も「困った息子でな」と言っていたので、もっとこう、部下育成のしがいがあるような自信なさげな青年かと思っていた。
しかし、今、背後から私に尋問している刹那くんは、やたらと堂々としている。部下育成の必要は無さそうで、少し残念だ。部下育成は、徐々に成長していく部下たちの姿にやりがいがあるから私は好きな仕事だったので、困っているようなら私が刹那くんを育成しようかと思っていたのだが。
前評判が間違っていたのか、もしくは、何か大きく成長するきっかけがあったのか。
「俺も聞きたいな、伊吹の親友として」
私の前の席に座る千秋くんは、身を乗り出した。
なんというか、大昔の刑事ドラマの警察の事情聴取シーンに今の現状が似ている気がする。パワハラを想起させる、冤罪を生む、とかでドラマの中からも消えて久しいシーンだ。なぜこんな状況になってしまったのか。それが分からない。
「……伊吹はね、ずっと寂しかったと」
伊吹は、ずっと私に愛されていないと思っていた、と告白してくれた。
月一でしか会えず、私も緊張から硬い顔ばかりだった。親族たちに有る事無い事色々と吹き込まれていて、和樹のスペアとしか思われていないのでは、とずっと誤解していたのだという。
「伊吹はね、昔から出来のいい子だった。……私は粉飾をしてしまった時から、伊吹の父親としてふさわしくないと、思い込んでいた」
伊吹には、私がいなくてもいい、なんて、私は伊吹の父親だというのに伊吹から逃げていたのだ。伊吹の優秀さや出来の良さに気後れしていたのだ。
彰に対してもそうだった。勤勉家でしっかりもので優秀な弟。きっと立派な道を歩くと思っていた。だから、私はその邪魔をしないように、と、2人には迷惑を掛けないことを誓った。しかし、それが2人からしたら、「愛されていないのではないか」「頼りにされていないのではないか」と思わせていた原因だったのだ。
「……あんた、不器用だな」
背後から、刹那くんの呆れた声が聞こえる。伊吹よりも若い青年に呆れられているが、私はもう頷くしかなかった。
「ああ。老婆心ながら、まだ若い君たちに言っておくよ。家族には、素直になるべきだ。複雑な関係なら、尚更ね」
「ご忠告どうも。で? 伊吹とはその後は?」
「……とりあえず、私は週一回、伊吹の家に泊まることになった。あの申立書も引っ込めてくれたよ」
千秋くんの問いに答えると、千秋くんは眉間に皺を寄せていた。
正直、週一回でもだいぶ多いと思うのだが、伊吹は妥協しなかった。「完全同居じゃないだけ、親父に懐いている和樹の娘さんを気遣ってる」と言われた。和樹も嫌そうな顔をしていたが、義娘と私の説得の甲斐あって、認めてくれた。義娘は、頭を抱えつつ、「今なんとかしないとお義父さんが介護の時に……」と呟いていて、物凄く申し訳ない気持ちになった。加奈子さんは、同情した目を義娘に向けた後、彰に何か言いたげな目をじっと向けて、彰はたじろいでいた。
「……」
千秋くんは、顔を顰めて椅子の背もたれに思い切り体を寄りかかり、腕を組んだ。何か、納得し難いような雰囲気が出ている。
後ろの刹那くんも同じだった。ため息の声に、私は困ってしまった。視線が彷徨う。ふと、千秋くんの胸元を見ると、汚いわけではないがやはり年月が感じられる名札があった。プラスチックのプレートに、今の千秋くんの役職と、名前がフルネームで書いてある。
私の背後に立つ刹那くんの名札も見上げる。千秋くんと同じく所属している部署とフルネームが書いてある名札である。
私は、私の胸元を見下ろした。
そこには、真新しく輝くプラスチックのプレートに、私のフルネームが書いてあった。役職も書いてあった。社長秘書、と。
私は、あまり直視したくない現実に、ため息をこぼしそうになった。
「その、一つ、いいかね」
「なんだよ、籤浜大志」
千秋くんは面倒くさそうに私への敬意が全く感じられない口調だった。目も合わせず、いまだに何か考え事をしている。
「その、私が君のお父さんの秘書として働くことになったあらましは聞かなくていいのかね」
「え? ああ、話したいのなら話していいよ。興味ないけど」
「きょ、興味が、ない?」
私の言葉に、うん、と千秋くんが頷いた。
「いや、その。君にも関係があることだろう」
「どこが? いや多少の人事の変更があったけど、大した事なかっただろう」
「加賀美が父さんの秘書から千秋の秘書になったな。それだけじゃないか?」
刹那くんも同調する。それに私は困惑して、椅子の上で腰が引けてしまった。
「加賀美さんは、なんと」
あの、優しくてしっかりしていて、常に丁寧な口調を崩さず、私にも丁寧に秘書の仕事を教えてくれていた、あの犀陵時次の元秘書で、現在、息子の千秋くんの秘書を務めている女性の事を思い浮かべる。
「別に加賀美さんに変わった様子はないけど?」
「千秋の部署にもすんなり馴染んでるな、加賀美は。流石だ」
「い、いやいや……! 私が彼女の立場を奪った形だろう!? 何か、こう、打ち明けたりとかは……」
「別に元々決まっていた予定が早まっただけだよ。代替わり後、彼女が俺の秘書も務めることは半ば決まっていて、俺も納得してたんだから。そろそろ、俺も秘書が欲しかったし」
えぇ、と私は、より困惑するしか無かった。
「どうせ、父さんに連絡をしたら父さんは引っこんでくれなかったんだろ。で、そのままあんたが折れる形で父さんの下で働く事になった。そういう事なんだろ」
軽い調子で、千秋くんがそんな事を言う。
その通りだった。
伊吹と何とか和解した後、私は伊吹に「犀陵時次をどうにかしてくれ」と頼んだのだ。
きちんと、私と奴は親友なんかではない、というのも主張した。伊吹は、バツが悪そうな顔で「薄々そんな気はしてたけど、あの人、使えそうだったからスルーしてた」と打ち明けられた。
伊吹のその発言に、彰は、ん? という顔をして、和樹は舌打ちをした。私に、「昔からいつか何かやらかすと思ってたんだよ、こいつ」と囁いて、伊吹に睨まれていた。
まあ、それはそれとして、伊吹が犀陵時次と連絡を取り、私と和解し、私と週一で過ごすことになった、と伝えられた犀陵時次は、通話中、伊吹のスマホをスピーカー状態にしていないのに、私にも聞こえる声量でこう言った。
『伊吹くんばっかりずるい!!!!』と。
そして、『人をこれだけ巻き込んでおいてこれで終われると思うのか』とか、『俺は伊吹くんの会社の社長とも知り合いだぞ』とか『息子たちに何も言われたくないだろ』とか『もうこっちは大志がうちに来る前提で動いていたんだぞ。伊吹くんが大志の代わりになるとでも言うのか』と脅しのようなことを伊吹は言われていた。
目が怖くなった伊吹の代わりに私が電話の対応すると、待ってましたとばかりに、犀陵時次は『伊吹くん、随分と今の会社で活躍しているみたいだな? 家族思いのお前の事だ。伊吹くんのキャリア、無駄にしたくないだろう』と明確に脅された。
私の中の、監禁された時から低くなっていた犀陵時次への好感度がまた下がった瞬間だった。親族たちをすごく思い出した。嫌としか言いようがなかった。人間の好感度ってここまで下がるんだ、としたくもなかった新しい発見をした。
私が『何がお望みですか』と尋ねれば、犀陵時次は、電話の向こうで憎たらしげな笑みが見えてくるくらいの声音でこう言った。
『うちの会社に入って、俺の横にいろ、大志』
と。
これが、私が犀陵時次の会社に入ることになった理由である。
監禁されている時、伊吹から仕事の話も聞いた。社内でも信用されて、後輩からも慕われて、とてもやりがいがある、と。とてもキラキラと話していた。私は、伊吹のそんな人生を、守りたかったのだ。
犀陵時次は、「大志か伊吹くん、どっちかうちの会社に入れ」と譲らなかった。卑劣な脅しではあったが、犀陵時次の力は本物で、私がその要求を拒絶して、私の代わりに伊吹が責任を取って犀陵の会社に行くなんて、考えられなかった。
その場にいた和樹は、顔を真っ赤にして、伊吹に『馬鹿伊吹! お前こそ親父と縁を切れ!!』と詰め寄っていたが、伊吹が犀陵時次と手を組んでしまったのは私の責任だった。だから私は和樹から伊吹を庇って、犀陵時次への脅しに屈した。伊吹が犀陵時次との通話記録をしっかりとスマホの通話録音アプリに記録しながら、「俺のことを親父が庇ってくれて、許してくれて、和樹よりも優先してくれた……!」とか呟いて嬉しそうにしていたのは、和樹と伊吹の仲を思って、私は気が付かないふりをしたのだった。
「……」
「……」
「まあ、少し安心したよ。君達はお父さんの事を冷静な目で見てくれて。社内ではすっかりと職に困っていた私を、お父さんが助けてくれた、という事になっているからね」
私は、何やら唖然とした様子の二人の兄弟へ安堵の息をついた。
確かに、考えてみれば加賀美さんも急な人事に何も言わなかったのはわかる。社長秘書から外されたとはいえ、異動先は次期社長の下だ。ある意味で上司からの信頼の証、と解釈していてもおかしくない。あの優しさが嘘でなくてよかった。
犀陵時次は、あまりズラズラと人を引き連れて歩くのが好きでないらしく、奴の秘書は私一人である。あんな経緯があったのに私の親友面の犀陵時次が非常に鬱陶しいが、与えられた役割はちゃんとしたい。でも、同僚との仲が悪くなればそれもできなくて、よりストレスが溜まる。加賀美さんは私に仕事を教えてくれた人の上に、社内事情にもよく精通してとても頼りにしているので、私に悪感情を持っていなくて良かった、本当に。いや、あの監禁男の親友と思われているのは本当に嫌だが。あいつの学生時代の話なんて、結構碌でもない話が多いのに、雑談の一環でよくその話を振られるし。
「……一つ、確認させてくれ、籤浜大志」
「何だね、千秋くん」
「あ、あんたが、うちに来なければ、伊吹がうちに、来ていたのか」
私は、そう震える声で私に尋ねる千秋くんを、じ、と見つめた。
顔が白い。元々の肌の色ではなく血の気がない、と言う意味で。流石に哀れになった。実の父親のアレさを知るのはそりゃあ嫌だろう。私も経験がある。いざ会社を継ぐにあたって、色々と会社の財務状況を調べた時のことを、思い出す。
「まあ、そういう言い分だったね、あいつは」
私がため息混じりでそれを認めると、だん!! と机が大きな音を立てた。
私の目の前には、ワイシャツに包まれた想像よりも太い腕。机の上に、大きく手を広げた、刹那くんの右手が乗っていた。
私は、心臓からドッドッドッ、と音を立てながら、いきなり机を叩いてきた刹那くんを見上げた。
「今すぐやめろ、籤浜大志」
「……は?」
「そうだ、今すぐ父さんに辞表出せ籤浜大志。そして伊吹をうちに連れてこい!」
「は!?」
私は、刹那くんと千秋くんの言葉が、全く分からなかった。
「くそっ!」と、目の前に向かい合う千秋くんが両手で頭を掻きむしっている。私の歳になると頭皮が心配だから、その分千秋くんの頭を気にしてしまう。どうした、と声を掛けるよりも前に、千秋くんが、とんでもないことを言い出した。
「部屋の中の盗聴器、父さんに見つからないようにもっとうまく隠しとくんだった!」
私は、盗聴器、という単語に頭が働かなくなった。
「テーブルの下は安直過ぎたな、千秋」
「うるさい愚弟! 時間なかったから急拵えしか用意できなかったんだよ!」
そもそも、父さんが現れる事自体、想定外だったろ! と千秋くんが叫んでいる。
「父さんも、あっさりテーブル下の盗聴器見つけて、自然な流れで潰してるし! 伊吹に何も言わなかったのは良かったけど、おかげで二人で何話してるか全然分からなかった!!」
「うまいこといけば、父さん使って伊吹をうちに連れてくる事ができたかもしれないのに……!」
悔しがる千秋くんと、刹那くんに、私は色んなことが分からなかった。
「おい籤浜大志!」
そして、千秋くんが私の顔を思い切り指差した。
「伊吹、今すぐうちに連れてこい」
「…………いやだ」
私は、8割方、状況がわかっていないながらも、半ば無意識に首を振った。
「はぁ!? 伊吹と一緒にうちで働けばいいだろ!」
「その、待ちなさい、君たち」
私は、2人を、というか私自身を落ち着かせるために深呼吸をした。。
「盗聴器って、なんだね」
「伊吹が予約したホテルレストランの個室に仕掛けておいた盗聴器のことか?」
「なんで、そんなもの」
「伊吹を俺の下に連れてくるのに役に立つかなって」
「下?」
「伊吹に、俺の側に、いてほしくて」
「側?」
私は、嫌な予感しかしなかった。
特に、下とか、側とか、横とか、こう、そういう表現、最近すごく聞き覚えがあった。
「その、違うなら違うと言って欲しいのだが」
「なんだよ、籤浜大志」
「君たちも、お父さんと同類かね」
私の問いに、2人の兄弟は、揃いの琥珀色の瞳を瞬かせた。
「止めてくれよ。俺は別に父さんみたく、一方的にあいつを親友と思ってないよ。ちゃんと伊吹も俺を親友と認めているさ」
「そうだそうだ。俺だって、伊吹と最近知り合ったばかりだが、ちゃんと弟分と思われてる! 相思相愛だ」
2人は胸を張ってそう主張してくるが、私が答えてほしいこととは少々ずれていた。私は、そうでなくて、と言いながら、生唾を飲み込んで勇気を出して、犀陵時次の息子たちと向き合った。
「君たち、もしかしてお父さんみたく、伊吹の意思に反して、伊吹を自分たちの近くにおこうとしているのかね」
「人聞きが悪いな、籤浜大志」
千秋くんが、私を睨んできた。
「責任をとって欲しいだけだよ。俺の人生を変えた責任をね!」
「……そう、だな、千秋。伊吹には、俺の人生を変えた責任を、一生かけてとってもらわないと」
私は、絶句した。
こいつら、親子だった。
見た目は似ていないが、犀陵時次とどっちもどっちの、親子だった。犀陵時次が私にしたみたいに、伊吹を自分たちの近くにおこうとしていた。伊吹の意思に反して!
「お、落ち着きなさい、君たち」
「まあ、父さんも父さんで見事あんたを横においたのは尊敬するけどね」
「そこは尊敬してはいけないところだ千秋くん!」
「……よくよく考えれば、あんたを足がかりにすれば、伊吹を誘き寄せられるかもしれないな。伊吹、話聞いている限り、ファザコンっぽいし」
「私を生き餌のように扱わないでくれ刹那くん!」
私は、頭を抱えるしかない。そんな私を、獲物を狙うような、あいつよりも密度がある深い瞳と燃える瞳が見つめている。私は、ぐ、と歯を食いしばると、それぞれ2人を見つめた。
「君たちが伊吹と仲良くしてくれることに関しては礼を言うが、伊吹の人生は伊吹のものだ。伊吹が自分で決めることなのだから、君たちが好きに決めていいわけはないんだ」
「千秋。とりあえず何から始めるべきだ?」
「そうだな、籤浜大志がうちでいじめられているとでも言うか? 心配になってうちにくるかもしれない」
「だから! 話を聞きなさい!!」
後、それしたら伊吹がなんかとんでもない事を考えて実行に移しそうな気がするから止めた方がいいと思う、絶対に。伊吹は結構怖い所があると私も流石に気がついた。まあ、なぜそんな事をしたのか、という理由の部分では、結構ささやかで可愛らしい理由が大半なので、いくつになっても私の息子は可愛いな、と親バカな事を私は思ってしまうが。
「まあ、とにかく伊吹の弱みはうちにいるのだから、こいつを使えばどうにか……」
千秋くんが私を見つめつつ全てを言い終える前に、私は席を立った。
刹那くんが私の肩を掴んで捕まえようとしてきたが、最近そういう肩に回される腕とか手を避けるのが得意になってしまった。彼らの父親のせいである。私は、そのまま兄弟に連れ込まれていた部屋を走り出た。
後ろを見るとあの兄弟が追ってくる気配はない。この建物は犀陵の会社の社内。どうせまた捕まえられると思っているのだろう。
今日は伊吹の家に泊まりに行く日だった。私は現在の私の職場である社長室に戻りながら、今日、伊吹に色々とどう伝えるべきかを考える。先週、伊吹はグローブと野球ボールを通販サイトで見つつ、私を期待の眼差しで見つめていた。私はゴルフなら取引先等の付き合いで、まだ、なのだがそっちは全然、和樹ともやった事はないので、暴投しないか、そもそもこの年齢で肩とか心配だが。先週からストレッチはするようにしたが。それはそれとして、タイミングを見て、友人との付き合い方はよく考えるように言わなくては。
社長室に戻ると、デスクにはすでに犀陵時次がいた。私をみて、嬉しそうにニコニコしながら、手を挙げている。呑気に息子たちと何を話してたんだ? と尋ねている。それに、なんだか力が抜けてしまう。
ーーもしものときは、こいつの手も借りることも、やむを得ないかもしれない。
私は、そんなことを考えて、ため息をついた。
犀陵時次の背後の窓。その向こうの青空に、私の大事な息子の顔を写し、私にはまだ安寧はないようだ、と、スーツのジャケットを羽織り直す。
まずは、犀陵時次に、息子たちへどう教育したのか尋ねるため、犀陵時次の座るデスクまで私は自分から歩いていくのだった。
【番外編】 お前の側にはいられない〜再会した弟分が立派に育ち過ぎてて辛いので逃げてやる〜 くぅちょ @19ayay91
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます