何も起こらなかった世界〜He didn't cause the accident〜

 急いで買った吊るしのスーツは、体が落ち着かなかった。


 なんとか見つけた紳士服量販店で、今財布の中の手持ちだけで購入できるスーツを見つけて店で慌てて着替えた。着替える前まで来ていたTシャツにジーンズが入った紙袋を持って、自分は慌てて相手から指定されたホテルに急ぐ。


 普段、自分はスーツなんて着ない。仕事では汚れてもいい作業着で機械油や汗の匂いと一緒に仕事をしているのだ。父やあんなホテルに呼び出してきたあいつとは違う。全く、「普段の格好でいい」なんていうあいつの言葉を信じるのではなかった。ホテルと言ってもビジネスホテルだろうから、仕事帰りの私服でも大丈夫か、なんて思うんじゃなかった。あいつは、自分を憎んでいるのだから、嫌がらせとかマウンティングで、自分に似合わない高級ホテルを指定するくらい、そりゃするだろうに。


「お一人でしょうか」


 ホテルのレストランで待ち構えていたウェイターに話しかけられて、自分は首を振った。


「待ち合わせです。遅れてしまって申し訳ありません」


 そう言って、この高級ホテルのレストランを指定してきた奴の名前を言うと、ウェイターは笑みを濃くして「お待ちしておりました、籤浜和樹様」と言って一礼してきた。ウェイターの顔をじっとみる。どうやらハーフっぽい顔立ちで、面がもしかしたら父よりも整っていて、セットされた髪がよく似合う男だった。まだ若そうだ。あいつと同じくらいの年齢だろうか。


 案内をするウェイターの後に続きながら、スマホで時計を見る。待ち合わせの時間から1時間ほど遅れてしまった。それもこれも、あいつが明らかにTシャツとジーンズなら絶対に入れなさそうな場所を待ち合わせ場所として指定してくるからいけないのだ。スーツ量販店を見つけてスーツを買って着替えて、なんてやっていたから、遅くなってしまった。遅刻の文句は確実に言われるだろうが、こちらだって嫌がらせの連絡不備への文句を言う権利くらいあるだろう。


 あいつと顔を合わせたのは、もう6年ほど前だった。あいつが――腹違いの弟が大学を順当に卒業して社会人になる時。そういえば、あいつはその時に起こったすったもんだについて知っているのだろうか。


 ま、知っていても今更どうでもいいことか、なんて思っているうちに、どうやら目的の部屋に着いたらしい。先導していたウェイターは個室の扉をノックすると、程なく、ほとんど忘れかけていた腹違いの弟の――籤浜伊吹の声が聞こえてきた。


「どうぞ」


 その声に開かれた狭い個室。

 でも、椅子とかテーブルとかの調度は高いんだろうな、と思わせてくる室内だった。


 上座の方には、2人分の綺麗に並べられた食器類とナプキンが置かれた席がある。そして下座の方には、伊吹が座っていた。


「その」


 口を開いた伊吹は、スーツを着ていた。やはり、自分に私服でいいと言ったのは嫌がらせだったのだ。ホテルの外観を見て、直ぐに紳士服量販店を探した自分の判断は間違いではなかった。財布の中は寂しくなったが。


 ウェイターに促されるまま席に着く。ウェイターはニコニコと作った笑みを浮かべている。伊吹とアイコンタクトをしたウェイターは、軽く頷いた後に「お飲み物はいかがなさいますか」と自分に聞いてきた。


「……水で。バイクなので、アルコールはちょっと」

「かしこまりました」


 ウェイターは、個室から出て行き、自分は伊吹と2人きりになる。私服を着てきた義兄を嘲笑おうとしていた義弟は、その目論見が外れたのがそんなにショックなのか、なんでか落ち着かないように見えた。


「親父、は」


 伊吹はそう言った後その親父そっくりの黒い目を、遠慮した様子で自分に向けてくる。それに、ため息をついた。


「来ねえよ。行かなくていいって俺が言った」

「……なんで。親父がいなきゃ、話ができないだろ」

「はあ? お前、親父と何話すって言うんだよ。何もないだろ、お前が親父と話すことなんて」

 

 自分のその発言に、伊吹の眉間のシワがよった。


「あるよ。あるから、呼び出したんだろ」

「ねえよ。お前が知りたいことなら俺の口からで十分だしな」


 自分のその発言に、伊吹は思い切り自分を睨んできた。でも、母方似だろう、若く見える顔立ちのせいであまり怖さを感じなかった。


「会社の事、親父の口からじゃないと仕方がないだろ」

「……お前さぁ」


 自分は、思い切りため息をついてやった。


「今うちの会社、大変なの分かんないのかよ。親父だって本当に忙しいんだよ。なのにいきなりこんなホテルに呼び出してさ話聞かせてくれって。お前債権者かよ」


 しかも、と自分からも義弟を睨んでやる。


「俺に恥かかせようとして。何が私服のままで大丈夫、だよ。おかげでスーツ急いで買う羽目になったんだからな」

「それは、その」


 自分の発言に、伊吹は目を泳がせた。


「友達に相談したら、うちのホテル使えって、言ってくれて。ついでに食事もどうだって」

「何、人脈自慢かよ。彰兄ちゃんといい、今更人脈自慢してきてどうするつもりだ?」

「ち、違うって! 嫌がらせのつもりは、全くなくって! その、でも、確かに配慮が足りなかったよ、ごめん。俺は行き帰りはスーツだけど、和樹は違うのに」


 伊吹はそうやって謝ってきたが、自分は不快になるだけだった。


 確かに、自分の仕事である自動車の整備士という仕事は、下に見られがちというのは自覚していた。スーツなんて滅多に着ない仕事だ。こいつのような、オフィスの中の設計の仕事とは違う。でも、だからと言って職業差別のような嫌がらせをしてくるなんて、こいつも本当に性格が悪くなったものだ。まあ、大元の原因が自分なのは、自覚しているが。


「失礼します」


 部屋の外から声がして、またあのお綺麗な顔のウェイターが入ってきた。

 自分は水だが、伊吹の方はレストランの手前、食前酒を注文していた。それぞれの飲み物がグラスに入っていて、提供される。変わらずのお綺麗な顔と和かな笑み。なんだか、馴れ馴れしさすら感じる笑みだった。嫌な笑い方だ、と思う。まあ、どうせ直ぐ出るのだから、短時間ぐらい、我慢できる。自分だって変わったのだから。


「……申し訳ないですが、まだ食事は出さないでください。父が、来てなくて」

「かしこまりました」


 伊吹の発言に、自分はまたため息をついてしまった。


 ウェイターが出て行くのを見計らってから、自分もグラスに手を伸ばす。一体、この水にどれほどの値が付けられているのだろう。


「親父は来ないって言ったよな」


 一口、喉を潤してから自分はグラスを置いて伊吹を睨む。伊吹は、負けじと睨み返してきた。


「……呼び出してくれよ」

「じゃあ、お前が呼べよ。それなら、応じるかどうかは親父次第だから」


 伊吹は、ぐ、と推し黙る。


 伊吹は、そもそも父の連絡先を知っているのだろうか。少なくとも、自分は伊吹の連絡先を知らない。向こうもそうだ。

 今日の呼び出しだって、父の末の弟で、伊吹の事をよく可愛がっていた瀬川彰経由で、だった。彰兄ちゃん、と自分も呼んでいる叔父には、自分も世話になった。父の事を親族の中では気にかけている方だというのも認める。彰が絡んでいるから、自分だってこの仲の悪い義弟と今こうして向き合っているのだ。


「親父からの伝言、言っておくよ。『お前には迷惑をかけない』ってさ」


 それを伝えた途端、伊吹の顔が歪んだ。喜べばいいのに、なんだろうかその顔は。


「会社、もうヤバいんだろ」

「だから、お前には迷惑をかけないって親父が言ってたよ」

「迷惑とか……。その、親父は大丈夫なのかよ」

「なんだよその漠然とした質問。どう答えろって言うんだよ」


 大丈夫じゃないといえば、大丈夫ではない。

 大丈夫といえば、大丈夫。


 父の現状は、こうとしか言えなかった。


 父は、長年続いてきた会社を自分の代で畳むことを決意した。だから、はっきり言って今はその事で手一杯で大変忙しそうだった。


 でも、それさえ終われば。


「言っておくけどさ、お前には言わないから、会社の事。彰兄ちゃんにも言っておいてくれよ。なんか彰兄ちゃん根掘り葉掘り聞こうとしてたけど、守秘義務とかあるんだよ。教えられねえよ部外者に」

「和樹は、知ってるのかよ、会社の事。会社で働いてないだろ」

「そりゃあな。俺は親父と同居してる息子だし」

「俺だって息子だよ」

「ずっと親父と縁を切ってたくせに、何が息子だよ」


 流石に、その発言はカチンとくる。

 対する伊吹は、目を見開いて、テーブルの上の拳が震えていた。


「そんな、俺は別に、縁切りなんて……!」

「はあ? 盆も正月も何年も本家に来なくて親父と顔も合わせなかったくせに何が縁切ってないだよ。お前あれだろ? お前の婆ちゃんが死んだ時に葬式で会った以来なんだろ、親父とは」

「それ、は」

「それで、会社がもう無くなるって彰兄ちゃんに聞いて、自分になにか降りかからないか心配になって今更連絡とってきたんだろ。分かってるよ、こっちだって」


 小賢しくて白々しい義弟に、自分は怒りすらわかなかった。親父に依存して搾取してきた親族達に比べたらマシだったから、そうならなかったのは、こいつの祖母のおかげなのかもな、とか思っていた。


「俺は、ただ親父の事が心配で……」

「親父の事は俺がどうにかするから、お前は何も気にする事はねえよ。相続に関しては、親父も色々考えてるよ。俺だって親父の決定に口を挟む気はねえし」

「和樹!」


 伊吹は、大声を出すといきなり立ち上がった。がたん、と、椅子が倒れる。


「俺だって親父の事を気にかけちゃ悪いのかよ!」

「だから、お前が気にする必要はないって言ってんだよこっちは」

「は、はあ!?」


 伊吹は、大袈裟に目を剥いた。


「い、いい加減にしろよ! 会社が倒産するって聞いて、心配になってこっちは連絡取ったのに!」

「だから、親父も俺も、お前と彰兄ちゃんには迷惑かけないって」

「なにが迷惑をかけないだよ! 俺だって話を聞く権利くらい、」

「ないよ。お前には、全くない」


 自分は、興奮している義弟を思い切り睨んでやった。


「さっきも言ったろ。守秘義務があるって。それと、お前が誰とどう繋がってるのかも分からないのに話をするわけがないだろ。お前、信頼できねえんだよ。だから、親父じゃ無くて俺が来たんだろ」


 伊吹は、自分の発言にたじろいだ様に一瞬怯んだが、また直ぐに自分を睨んできた。大人になった、と思う。こいつも自分もまだ幼い頃――自分がこいつをいじめていた時は、涙目で自分を見上げるだけだった。こんなに、こいつも我を張るようになったとは。


 でも、残念ながらこっちだって大人になった。守るべき物も増えた。父は、自分を頼ってくれている。なら、もうその信頼を裏切れない。


「どういう意味だよ、和樹」

「まず座れよ」


 自分の言葉に、伊吹は椅子を直して素直に座った。それを見て思う。もしかしたら、親族達に騙されているのかもしれない、と。

 もしそうなら、僅かばかり同情する。でも、それだけだった。今のこいつと同じ年、自分は子供が生まれたばかりだった。妻とはまた違う、守るものが増えた歳だった。それを思えば、同情はしたが、それと同じくらい、無知なこいつに愚かしさしか感じなかった。


「誰か、お前に色々と吹き込んだ奴がいるんだろ。誰だ? 光政おじさん? それとも、明子おばさん? 誰でもいいけどさ、もうあんたら、会社から逃げたんだから口出すなって言っておけよ。あんたら、どうせ何も分かんないし知らないんだろうけどさ、こっちはすごいあんたらに対して大目に見てやったんだぞって」

「……和樹。本当にわからない。なんの話だよ」

「いやさ、お前は親族達に『自分たちは騙されて辞めさせられた』って言われたんだろ? だからこっちに接触してきたんだろ」


 伊吹は、じ、と自分を見つめてきた。なんだか、顔色が悪い。

 自分も伊吹の顔を伺うが、正直、何を考えているのかよく分からない。


「違う、俺はおじさん……彰おじさんに、会社が潰れるって言うのに、親父は何もおじさんに教えてくれないから、お前からも何か言ってくれって……。知らない内に、本家から親父いなくなってるしって……」

「……言っておいて。初めから彰兄ちゃんはうちの会社と距離を取っていたんだから、初めから口出す権利はないって。親父も、瀬川に迷惑かける真似はしねえよ」

「違う……! おじさんも俺も、親父が心配で! 力に、なりたくて! 会社の事とかさ!」


 伊吹のその言葉に、もう自分は呆れる、としか言えなかった。


「親父にこれ以上無理させんな」


 自分の言葉に、伊吹の顔が強張った。


「もう頼むから、彰兄ちゃんもさ、これ以上親父を会社に縛りつけようとしないでくれよ。元々、親父もさ長男だからって会社押し付けられて、ずっと頑張ってたんだぞ。ようやく、親父は自由の身になるんだぞ。もういいだろ。親父はもう、頑張ったよ。俺、これ以上親父に苦労してほしくねえんだよ」


 伊吹の顔色が、悪い。


「粉飾も、してたって、おじさんが……」

「そうだよ。それぐらい追い詰められてたんだよ、親父」


 父が、自分にその事を打ち明けてくれたのは、自分に子供が生まれて、しばらく経った頃だった。


 父の部屋に呼び出された時、父は珍しく酒に酔っていた。酔えない体に無理してアルコールを流し込んで、顔を真っ赤にして、ようやく、自分に、ずっと粉飾をしていたのだと打ち明けてくれた。


 その時の自分の気持ちが、こいつに分かるだろうか。


 自分がもっと早く自立していれば、父はもっと早く自分に打ち明けてくれたのだ。それだけ、父が苦しむ時間が短くて済んだのだ。会社のことも大変だったのに、昔の自分の悪さの後始末までしてくれて。本当に、自分は打ち明けてくれた父に、申し訳ない思いでいっぱいだった。


 父は、「こんな父親ですまない」なんて言っていたが、父は十分立派だった。自分は、長くそんな立派な父に見合う息子ではなかっただけだ。


「俺が言ったんだよ。もう辞めてもいいって。頼むから、自由になってくれ親父って」


 父が、自分を愛してくれた分、今度は自分が父を助けるから。

 もう、背負わなくてもいい。せめて、これからの人生、自由に生きてくれ、と。


 だから、父と自分は、手を組んだ。


 どうすれば、会社を誰にも邪魔せず畳めるか。色々と調べて、父の部下達にも協力してもらって、色々考えて、ようやく、今なのだ。クソ親族達に事実を突きつけて、会社から逃げるように仕向けて、取引先にも迷惑をかけないように、事業の継承先を見つけて。


「本当の、本当にお前と彰兄ちゃんには迷惑をかけねえよ。こっちだって何年も前から散々準備したんだよ。本業の引き取り先は決まってる。他の事業も、なんとか売却先を見つけて、残った負債なら、うちの財産を売れば完済できる。邪魔しないでくれよ、本当に」

「……」


 伊吹は、こちらの本気が伝わったのか、真顔で、自分の顔を見つめていた。


「親父の奥さんは、逃げたって……」

「いいんだよ、あの人は。親父の事、親族と一緒になってずっと寄生し続けてたんだから。あの人が逃げるのも織り込み済みだよ」

「そ、それでいいのかよ」

「……親父は複雑そうにしてたけど、引き留めなかった。それが答えだろ」

「違う。お前は、和樹は、母親の事、どう……」

「どうとも思ってねえよ。俺は、親父がもう苦労しないのならそれでいい。俺、あの人に母親らしい事一つもしてもらった事ないから、あの人が今更どうなろうが、もうどうでもいいよ」


 伊吹は、唖然としていた。


「俺、俺さ、お前がずっと羨ましかったよ」


 いつのまにか、自分の視界が滲んでいた。


「母親はいないけど、その代わり優しい婆ちゃんがいてさ、親父にもお前なら大丈夫って認められててさ、彰兄ちゃんもお前の事、可愛がってて。ずっと、出来のいいお前が羨ましかったよ」


 俺は、と、一呼吸してから、初めて義弟に自分の妬み嫉みを告白をする。


「母親はいたけど、あの人は俺のこと無視してたし、親父以外、頼りになる大人はいなかった。本家じゃちょくちょく親父に金の無心の親族が出入りしていて、お前と比べられてさ……」

「……親父、俺の事、認めてたのか……?」

「はあ? そりゃそうだろ。認めてなくちゃ自分の母校に受験させたりしないだろ。それに、お前なら大丈夫だと思ってたから、何も言わず、そっとしてたんだろ」

「母校?」

「お前、中学受験しただろ。そこ、親父の母校。知らなかったのか?」


 伊吹は、呆然としたように頷いた。知らなかった、と、うわ言のように呟いている。


「お前は、それだけ親父に認められてたのに、社会人になってからずっと親父の事、無視してただろ。なのに、今更なんだよ」

「だ、だって……」


 伊吹は、もう30歳に近い。


 なのに、今目の前で顔を真っ青にしている義弟は、子供のように見えた。


「お、おれ、就職の時、親父の命令を、逆らって……」

「……お前、彰兄ちゃんから何も聞いてねえの」

「な、なに」

「お前、就職先、大手の設計職って聞いてさ、自分の娘と結婚させようとした親族がいたんだよ。まだ20そこそこのお前に、寄生しようとしてた親族がいたんだよ」


 あの時の事を思い出す。


 父は、その話を聞いた時、顔を真っ青にしていた。どうして私のみならず伊吹まで! と大声で苛立っていた。


「だから、親父はお前に無茶言ったんだよ。お前が思いっきり反抗するの見越して、お前にうちの会社入るように命令したんだよ」

「……」

「お前の事、守ろうとしてたんだよ。やり方は不器用だったかもしれないけど、いつか、分かってくれるだろうからって」


 彰兄ちゃん、知ってたと思うけど、と言えば、伊吹は、首を振った。「聞いてない」と呟くように言っていた。


「で? そんな、何年も前のこと持ち出してどうするつもりだよ、伊吹」

 

 自分の言葉に、伊吹はのろのろと、俯いていた首を上げた。


「お前、もう29歳だろ。で、だからずっと親父と連絡とってなかったとか言うつもりか?」

「だって、親父は、大学卒業する時、もう食事会はいいって……」

「そりゃ、お前が就職したら、お前の監督責任は無くなるからな。でもさ、だからと言って、今まで親父の事、無視していいと思ってたのか」


 自分は、思い切りこの白々しい義弟を睨んだ。


「彰兄ちゃんはさ、あの人、親族達にいい思い出ないけど、ちゃんと盆と正月には親父に顔見せてたよ。それに引き換え、お前はどうだよ。盆も正月も親父に顔見せなくて、今更自分に迷惑が掛かりそうって思った途端、白々しく連絡とってきて」


 ふつふつと、怒りが湧いてきた。


「親父の気持ち考えろよ! お前の事だって息子と認めて金も十分かけてたのに、当のお前は親父の事を無視してさ! 息子に自分の情けなさを告白するの、どれだけ辛いか分からないのかよ! それであれだろ! 自分には何も降りかからないと思ったら、また親父を無視するんだろ! こんな一時の事のために、親父にまた負担かけようとするんじゃねえよ!」


 しかも、と自分はまた沸いてきた怒りのまま、自分は義弟を指差した。


「さっきから聞いていれば、彰兄ちゃんが教えなかったから、とか、親父が何も言ってなかったからって、誰かのせいばかりじゃねえか! お前本当にいくつだよ! もう30歳近い癖に、いつまでも他人のせいにしてるんじゃねえよ!」


 イライラする気持ちのまま、自分は席をたった。


 私服が入った紙袋を持って、入り口へ行く。


「ま、待てよ、和樹! どこ行くんだよ!」

「帰る。もうお前に話す事はねえよ」


 伊吹は、立ち上がって自分の肩を掴んできた。


「親父の事、聞いてねえよ! おじさんが、本家がもう無くなるって言っててさ! 親父は今どこに住んでるんだよ!」

「……親父は、俺が建てた家で同居する事が決まってるから。今俺名義で家を建ててる」

「は!? なんで、勝手に!」

「お前は、親父が自分に迷惑かけなければそれでいいんだろ」


 振り向きざまに、義弟の手を振り払う。


「違う! おじさんも、俺も、親父に、俺たちの事頼って欲しくて……!」

「まだ分からないのか? 親父はそっちに迷惑をかける気はねえんだよ」

「違う! 迷惑とかじゃなくて、」

「お前、ずっと親父と連絡取ってなかったのに、なんの役に立つ気だよ」


 その言葉に、伊吹は息を呑んだ。


「何もできねえだろ。お前が会社をどうにかする気だったのか? 無理だよな、できねえよな。愚痴ぐらい聞いてやるって? お前が誰と繋がってるのか分からないのに愚痴も言えるわけねえだろ。親父に頼って欲しいって遅すぎるんだよ。今更だよ。もう、そういう段階じゃねえんだよ」


 自分は、伊吹に掴まれてシワのよったジャケットを羽織り直した。


「親父さ、会社終わった後の事、楽しみにしてるよ。なんか、自分で自分のこと決める経験、全然なかったらしくて、次の仕事、楽しそうに決めてる」

「……」

「孫の――俺の子供の事も可愛がってくれてる。俺の嫁も親父とうまくやってくれてる。頼むからさ、手を出さないでくれよ。やっと親父、自分の人生、歩めそうなんだから。親父にこれ以上負担かけないでくれ」


 俺、迷惑をかけたから、その分親孝行したいんだよ、と、本音を義弟に言う。


「俺は、親孝行しちゃ、いけないのかよ……」


 伊吹は、青い顔のまま、そう言った。

 それに、なんでか哀れになる。だから、自分はため息をついてから、「分かった」と妥協をした。


「……じゃあさ、今は手を出すな。何もするな。彰兄ちゃんにも言っておいて。会社の事が全部片付いたら、話聞きたければ話すから。それまで待てよ」

「い、いつまで」

「言えねえよ。事業の売却先の事も色々あるから」


 自分は、伊吹に完全に背を向けた。そして、カバンから、親父に託されていた封筒を出した。


「これ、金。親父がお前にばかり負担させるのはちょっとって。まあ、親父もこんなに高級ホテルとは思ってなかったみたいだから、これで足りるか知らないけど」

「い、いいって、そんな……」

「受け取っとけよ。親父にも面子があるんだから」


 それを言うと、伊吹は、渋々、と言った様子で受け取った。


「最後に、言っておくよ」


 自分の言葉に、伊吹はゆっくりと顔を上げた。


「俺、親父に散々迷惑かけたから、もう本当に親父に苦労してほしくねえんだ」


 伊吹は、封筒を強く握っていた。


「お前が俺を許せないのはそれでいい。俺だって、お前に許してもらえるとは思ってない」


 嫉妬のあまり、幼い頃のこいつを殴って、半ば本気で、死んでしまえ、と思って、冬場に地下の座敷牢に閉じ込めて。


「でも、親父と家族は絶対に巻き込むな。そっちに手を出したら、俺はお前を絶対に許さない。だから、絶対に、手を出すなよ、伊吹」


 向き合った伊吹は、途方に暮れたような顔をしていた。

 

 誰にも頼れないとも思っていそうな、そんな、ひとりぼっちだと思っているような顔をしていた。


 哀れだな、と、義弟と言っても30も近い男に思うのもおかしい事を思う。けれども、それだけだった。自分の肩には、道を正してくれて、夢も応援してくれた妻や、妻と結婚するきっかけをくれた子供や、散々迷惑をかけて、たくさんの苦労をかけてしまった父が乗っている。彼らが、自分を真っ当な道を歩めるようにしてくれている。


 その3人を傷つけるような事があれば、いくら義弟と言っても許さない。


 その思いを込めて、義弟の顔を睨む。


「……分かったよ」


 義弟は、そっと顔を逸らした。


「初めから、お前の奥さんや子供に手を出す気なんて、初めから、ないよ、本当に」

「どうだかな」

「本当に、本当に立派になったと、思ってるよ、和樹。――羨ましい、くらい」


 自分は、ため息をついた。


 亡くなったとはいえ優しい祖母に恵まれて、彰にも可愛がられ、父にも認められていて、仕事も大手企業。そんな順風満帆な人生を歩んでいる義弟が、自分に一体、何を羨ましがると言うのだろうか。


「お前も皮肉が上手くなったもんだな」

「皮肉じゃねえよ。お前、昔から俺が欲しいもの持ってる。家族が、いるじゃねえか」

「お前だって婆ちゃんがいたし、親父も月一で様子見に行ってたろ。家族が今欲しいのなら結婚したらいいだろ」

「婆ちゃんは、もう亡くなってるよ。結婚、は、俺……」


 伊吹が、小声で何か言う。


 一瞬聞き返そうかと思ったが、お互いそこまで踏み込むのは良くない、と考えて口を噤む。でも、なんでか「こわい」とか言っていた気がするが、きっと気のせいだろう。


「とにかく、俺はもう帰る」

「食事してけよ」

「お互い、話すこともないだろ」


 妻には、今日は遅くなる、としか言ってない。夕飯はいらないとは言ってない。


「じゃあな、馬鹿伊吹。クソ親族達にこれ以上騙されるなよ」

「……だから、彰おじさん以外、俺、連絡先も知らねえんだって」

「そうかよ。まあ、お前の事はもうどうでもいいけどな」


 お互いがお互いに抱えているだろう、「どうでもいい」という本音を、こちらから言ってやる。義弟が――伊吹がどんな顔をしているのかは、背を向けているこちらからは分からなかった。


 そして、自分は個室から出て行った。すれ違った、あのいけ好かないウェイターは「またご利用ください」と、確実に社交辞令だな、という言葉をかけてきた。


 それを無視して、自分はレストランから出て、ホテルから出る。


 スマホの画面の時計を見ると、レストランに通されてから1時間程だった。これから急いでバイクに乗って帰れば、家族の夕食に間に合うかもしれない。スーツを脱ぎ捨てる暇も惜しい。子供も最近遊んでやらなかったから、帰ったら遊んでやらないと。

 そういえば、妻が会社の事にケリが付いたら、お祝いに父を含めた家族で旅行に行こう、なんて言ってくれた。温泉でゆっくりしよう、とか。


 いいな、と思う。

 親父も何も考えずにゆっくりするなんて久方ぶりだろうから、きっと喜んでくれる。帰ったら夕食の後、その相談を家族全員でしよう。


 やっと掴めた幸せなのだから、殊更、大事にしよう。

 

 バイクを停めた駐輪場に着くと、ふと思った。


 伊吹には、こんな家族全員で旅行の計画とかした事あるのだろうか。祖母は高齢だから遠くには行けなかっただろうし、もう亡くなっている。彰には、家族がいる。じゃあ、伊吹には?


 ――もしも、タイミングが合えば、あいつも旅行に誘うか?


 そんな事を思って、馬鹿な事を、と、自分は苦笑した。


 伊吹の関心は、自分に迷惑が掛かるかどうか、だ。仲の悪い義兄とその家族となんて旅行に行きたくないだろう。父とだって、あいつは今日ああだこうだと言っていたが、就職してから会おうとしなかったあたり、内心、父の事を鬱陶しがっていたのだろう。そんな義弟を家族旅行に誘おう、なんて自分も馬鹿な事を。


 でも、何でか別れ際に見たあいつの様子が思い出される。この世界に独りぼっち、とでも思っていそうな、所在なさげな、頼りのない姿。そんな事はないのに。彰もいるだろうし、あんなホテルのレストランの個室の伝手もある友人もいるらしい。なら、今更血の繋がりなどに、あいつも頓着しないだろう。恋人だってもしかしたらいるのかもしれない。


 あいつの事は、気にしなくていい。

 彰がいるのだから、きっと会社の事が完全にケリが付いたら向こうから連絡が来る。伊吹から連絡が来たら、その時に考えればいいのだ。


 そして、自分はバイクに跨った。


 ヘルメットをしっかりと被って、ここで死ぬ訳にはいかないから、安全運転を意識して、道路を走る。不思議と、昔から感じていた焦燥感は感じず、どれほど他の車両に追い抜かれても、走りやすそうな見通しのいい道でも、警察に褒められるくらいの安全運転で、帰路に着く。


 今、家族と父とで仮住まいをしているマンスリーマンションに着いて、バイクを降りた。

 

 元々住んでいた本家は、既に解体工事の真っ最中だから、自分名義の家が建つ間、このマンスリーマンションで仮住まいをしているのだ。父は、「中はこんな感じか」と感心した様子だった。父は自分も知らない内にアパートの大家になっていたから、色々と興味深そうにしていた。父が本家は手放しても断固として手放さなかったアパートと比べて、ああだこうだと言っていた。


 なんでも、今検討をつけている再就職先が、賃貸物件の管理の仕事らしい。再就職したら、まずは共用部分の清掃員からスタートだとか。あの父が清掃員になる、と聞いて、なんだかおかしくなったものだ。腰には気をつけろよ、と言っておいた。気の利く妻は、湿布を薬箱の中に補充していた。


 その時の事を思い出して、笑いながら、階段を登る。そしてたどり着いた扉の前に来て、ポケットから鍵を取り出して扉を開けた途端、子供の笑い声が聞こえてきた。父の声も聞こえる。幼稚園の話を、聞いてやっているらしい。妻の「おかえり」という玄関まで響く声も聞こえる。


 だから、自分は廊下を歩いて、リビングに続く扉を手にかけて開けた。思っていた通りの幸せな光景が広がっていた。


「ただいま」

 

 おかえり、という言葉に、自分は笑った。

 心から、幸せだなって、自分は思っていた。


 

  



 ――気が付けば、義弟の事なんて、完全に頭から消え去っていたのだった。

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