アウトサイダー ノット フレンド/コラボレーター ブラザー

 その男と目が合った時、私は血の気が引く思いだった。


「さ、犀陵さん……」


 季節の変わり目で、気温の寒暖差が激しい時期だった。

 

 暑くなったから脱いでいたジャケットだが、日も傾いてきてそろそろ肌寒くなってきた。それと、おべっかばかりの周囲もうんざりだったので、私が行きます、いや私が、という数々の手を振り払って、荷物が置いてある部屋にあるジャケットを私自ら取りに行った。


 そこで、私は、私のジャケットを漁り、革でできた折り畳みの小さなフォトフレームを取り出して眺めていた男と目が合ったのだった。


 男――確か、どこぞの企業の役員だった――は、私の姿を見て真っ青になっていた。


 それはそうだ。人のジャケットの内ポケットを勝手に漁って、その中身を見るなんて、人倫にもとる行為だ。だから、私は何かを考える前に、男に大股で近寄ると、男の手の中のフォトフレームと私のジャケットを奪い返した。


 男が、あ、と情けない声をこぼす。私は、思い切り男を睨んでやった。


 へへ、と、男が、空気の読めない、愛想笑いを浮かべた。


「さ、犀陵さん、意外ですね、”そのような”趣味がおありとは」

「は……?」


 私は、男の言っている事の意味が分からなかった。


「だって。その写真の中の少年、息子さんでもお孫さんでも、ありませんよね?」


 ニヤニヤと、男は醜悪な笑みを浮かべている。私は、フォトフレームの中身をこれ以上男に見せたくなくて、男から中を隠すように胸に押し当てた。


 その行動に、男は何を勘違いしたのか、私の肩に手を伸ばしてくる。私は、男を睨んだまま、その手を避けた。


「犀陵さん、ジャケットを見たことを謝ります。私のものと間違えてしまって」


 嘘だ、と、すぐにわかった。


 この男は、ずっと私に媚を売っていた。なんでも、海外進出の足掛かりに、私の人脈がどうしても必要なのだという。あまりにも鬱陶しかったから、少しくらい紹介してもいいか、と思っていた所だったのに。


 小狡い男だから、私の弱みや付け入る隙がないか探そうと、ジャケットを漁っていたのだろう。ジャケットから――フォトフレームから目を離していたのが悔やまれる。こんな、品性も何もない男に、大切な写真を見られるなんて。


「いやあ、随分と顔立ちの整った少年で。彼のようなタイプがお好きですか」

「君は、何を言いたいのかね」


 私の声が震えている。


「ご紹介、できますよ」


 男は、にやり、と笑った。吐き気がするくらい、嫌な笑みだった。


「写真を持ち歩くくらい、彼がお気に入りなのでしょう?」


 男は、完全に主導権を握ったかのように、勘違いをしている。


「少年趣味の同士の集まり、知っていますよ。お互い、お気に入りを連れて行って、交換したり、具合を確かめあったり、アリバイを作り合ったり」


 男の口が、止まらない。


「犀陵さんほどの人なら、彼らも歓迎します。その写真の少年もきっと、歓迎して、彼らは可愛がってくれますよ」


 男の言葉に、私の体が震えた。


「あまり、表に出すことのできない趣味ですからねぇ。同好の士は多ければ多いほどよい。犀陵さんは、海外にも強いコネクションをお持ちだ。それを、少し私どもに使わせてくれませんか? そうすれば、犀陵さんも、」


 私は、頭が真っ白になって、男の胸ぐらを掴んだ。


 ひっ、と、男が情けない声をこぼす。でも、ニヤニヤが止まらない。私を少年趣味だと誤解している。写真の少年を――私の親友を、男は、不埒な目で、ずっと見ていたのだ。


 許せなかった。


 親友を汚す奴らは、みんな、許せなかった。


「さ、犀陵さん、お、落ち着いて、ね?」


 男は、引き攣りながら笑っている。


「誰だって最初は受け入れ難いものです。でもね、一度素直になってしまえば、簡単なものです。犀陵さんも、一度体験してみれば、きっと、」


 潰す。


 私は、無意識にそんな言葉を発していた。


「もしも、君が我が身を可愛いと思うのなら」


 後悔させてやる。


 親友を、苦しめた奴ら。

 苦労をさせた奴ら。

 自殺に追い込んだ奴ら。

 みんな、みんな。


「口を閉じろ。これ以上、何もいうな」


 ぐ、と私は両手に力を加え続ける。私の勢いに、男は完全に笑みを消している。


 ――潰してやる。


 男は、慌てて私の手から逃れた。

 床にへたり込んで、ヒィヒィ言っている。情けない事だ。でも、私には関係ない。男の広げた足の間、急所ギリギリのあたりに、だん、と音を立てて足を下ろした。


「忘れろ。君が見たもの、全て忘れなさい」


 男は、顔を真っ青にして立ち上がった。そして、逃げる様に荷物置き場になっている部屋から出ていく。


 私は、それを見送ると床に落ちたジャケットとフォトフレームを拾い上げた。


 紺色の、革でできたフォトフレームだった。二つ折りに閉じたそれを、開く。


 中にいたのは、端正な顔立ちの少年だった。学生服を着て、作り笑いをしていた。何十年も昔に撮った、卒業アルバムの中の一枚を、店に頼んで最近撮った写真の様に手を加えてもらった写真だった。だから、この写真の少年は、もう少年ではない。私と同い年だ。同い年、だった。


 大志。


 少年の名前を呼ぶ。


 大志は、もう歳を取らない。死んでしまったから。自分から死を選び、1人で死んでしまったから。


 

 私が死なせてしまったから。








  私の人生は、後悔が少ない人生だった。


 人生を振り返って、思い当たる後悔はそう多くない。でも、その幾つかの後悔が、私にはとても大きなものだった。


 大不況の最中、大変なことになっていた親友の事を、助けなかった。

 ――せめて、愚痴くらい聞いてやれば。何でもいいから助けてやれば。あの時既に私が社長だったのだから、誰にも文句は言わせなかったのに。


 息子達が、親友の会社を潰そうとした時、止めなかった。

 ――いくら粉飾をしていた会社とはいえ、会社を潰すなんて真似、止めるべきだった。働いている従業員もいるだろう。倒産したら、社長が大変な事になるのは、知っていたはずだろう。


 親友を、いつまでも助けず、1人にしてしまった。

 ――親友が抱え込みがちな性格なの、私は知っていたのに。あいつを1人にしては、いけなかったのに。私の事を、親友は恨んでいるに違いないからって、怖気ついている場合ではなかったのに。ストーカーのように、定期的に動向を調べていただけで、なんで「大丈夫」なんて思ってしまったのか。


 親友を、自殺させてしまった。


 憧れの親友だったのに。親友に見合う男になるんだって私は努力していた筈だったのに。親友、だったのに。


 私は、私の臆病さで、親友を殺してしまったのだ。


 悔やんでも、悔やみきれない後悔だった。


「会長、到着しました」

「……ああ」


 私は、運転手に声をかけられて俯いていた顔を上げた。

 広い車内の中には、私と運転手以外誰もいない。運転手もプロだから、私の様子をよく見ている。私が何も話したくないのをすぐ察して走行中、何も話さなかった。自宅から数時間かかる、この寺までの道中、車内はとても静かだった。


 運転手に開けられたドアから車外に出ると、私は日光の眩しさに目を細めた。


 後部座席の窓ガラスにはカーテンがつけられていたし、薄暗い方が考え事や記憶の整理がしやすいから、車内灯もつけなかった。それに、昨夜は睡眠薬を飲んでもよく眠れず、寝不足気味だから尚更光が辛い。


 雨とか、せめて、曇りならば、まだマシだったのに。


 でも、外は晴天だった。私の胸中とは、打って変わって、良い天気だった。


 思い返せば、大志が自殺をしたのを知ってから、心が晴れやかになった日なんて一日もなかった。孫が生まれても、確かに嬉しかったし誕生を祝福していたが、でも、私の心の中には常に大志の姿があった。事実、私の服のポケットには、いつも大志の写真が入った紺色のフォトフレームが入っていた。


 私が、大志を助けていれば大志にも孫がいたのかな、なんて、そんな事を私の孫を抱き上げながら思っていた。


 運転手を駐車場に残して、私は1人、線香が入った小さな紙袋を片手に、陽の光を浴びながら長い石階段をのぼっていた。膝が正直きついし、陽の光も辛い。妻ならば、少なくとも帽子と日傘は忘れていなかった陽気だ。


 そういえば、妻が、私も着いて行こうか、と珍しくそんな事を私に言ってくれた。でも、私は断った。妻は大志の事をよく知らないし、私も特に大志の事は妻に言ってなかった。でも、妻は聡い女だし、大志がアパートで一人暮らしをするようになってから、定期的に興信所に頼んで様子を見てもらっていたのを気がついていない訳がないから、大志の事を全く知らない訳ではないだろう。


 でも、私は大志への思いを誰にも共有したくなかった。


 共有したら、悲しみが癒えてしまう様な気がして。気持ちが、楽になる気がして。罪の意識を、忘れてしまいそうで。大志が、私の中から消えてしまいそうで。


 だから、私は1人で、大志が眠る寺にやってきたのだった。


 籤浜の先祖代々の墓は、この寺に纏めて永代供養されていた。先祖代々の墓も、以前はもっと籤浜の本家に近い寺に立派な墓があった。しかし、大志が自殺する前に、大志自身が墓じまいをして、霊園の中の籤浜家の墓を引き払い、墓所を更地にして、中にあった遺骨は全て、この寺に移したのだ。そして、この寺に永代供養を頼んだのだ。――大志自身の事も。


 大志の実子である、伊吹くんに迷惑をかけない様に、と。


 私は、今更気がついた。

 

 大志は、死ぬ前にどういう契約を霊園側と交わしたのだろう。


 今、私は大志の墓参りをしようとこの長い階段を登っているわけだが、きちんと、大志に私は会えるのだろうか。


 有象無象の遺骨と大志の遺骨が一緒に埋葬されていたらどうしよう。赤の他人と一緒に合祀されていたら、嫌だ。自分が死んだ後なんて、遺骨の行方なんてどうでもいい、と大志が思っていたら、どうしよう。私は大志に謝りたくてここまで来たのに。


 私は、大志の葬式には行けなかった。


 大志が死んだのを聞かされたのは、大志の葬儀が済んだ後だった。


 息子達の側には伊吹くんがいたから、それで、大志が亡くなった事も直ぐに知っていた。でも、息子達は私に教えてくれなかった。当然だ。だって、息子達は私と大志の関係なんて知らないから。同居もしていないから、興信所が撮った、沢山の大志の写真の事も知らない。


 私が大志の死を知ったのは、「そろそろまた頼むか」と連絡を取った興信所の担当者の口からだった。


「あの人、亡くなりましたよ。良かったですね」なんて言われ、私は大志の死を知ったのだった。


 だから、私は大志の墓の場所も知らなかった。ようやく最近、大志が埋葬されている寺を知って、私はやっと大志の墓参りをしようとこの都内から離れた寺までやってきたのだった。


 全部、今更なのは分かっていた。

 遅すぎるのは、分かっていた。


 でも、どうしても謝りたかった。親友に、ごめん、と一言言いたかった。


 でも、墓も遺骨も位牌もないとしたら、私はどうしたらいいんだろう。


 後悔だった。

 

 大志の事を、もっと私が、よく見ておくんだった。










 ようやく階段を登り切った時、私は息絶え絶えだった。


 大志も、この階段を登った筈だ。大志は痩せ型だから、この階段も難なく登ったのか、それとも、私と同じく息絶え絶えだったのだろうか。それすらも、私は知らない。


 本当に、大志はなんでこの寺に頼んだのだろうか。


 そんな事を思いながら、俯いていた頭を上げた。そして、私は目を見開いた。


「大志……」


 大志が、いた。


 平日の昼間だから、境内はがらんとしている。だから、誰かがいれば、すぐに目立つ。


 よく掃除された境内の中、階段から離れた場所のベンチに座って俯いていたその人は、間違いなく籤浜大志だった。


 はは、と、私は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。


 ――全て、悪い夢だったのだ。


 大志は死んでない。だって、ここにいる。


 ベンチの上の大志は、40代くらいだった。ああ、じゃあきっと私も同じ年齢だ。私には孫がいる気がしたが、それは気のせいだ。


 40代くらいというと、長男の千秋が小等部から中等部に進学したくらいだろう。

 

 妻が私に教えてくれた。千秋の担任教師が「籤浜伊吹」という名前の少年と千秋は仲が良いと言っていた、と。籤浜、という名前に私は嬉しくなった。


 大志の息子だとすぐに分かった。

  

 血は争えないな、と思ったのだ。私と大志の様に、千秋も大志の息子と仲良くなるなんて、運命だと思った。私も大志の息子と仲良くなりたくて、千秋に伊吹くんを家に連れてこい、と言ったが、千秋は伊吹くんを家に連れてこなかった。


 ……後年、千秋に「父さんの勢いに、伊吹が絶対に引くと思って、家に連れてきたくなかった」とか言われた気がしたが、これは気のせいだ。刹那が、「父さんのせいで、俺と伊吹の出会いが遅れた」とか恨み言を言っていた気もしたが、これも気のせいだ。千秋が中等部の時、刹那はまだ小学生の筈だ。人見知りで友人なんて全くできなかった息子だ。


 息子達の事はいい。今は、久々に大志と色々話したい。偶然だな、元気にしてたかって、肩を叩いて話したい。


 私は、久しぶりに感じる感覚のまま、大志に歩み寄る。そして、気がついた。


 大志は、泣いていた。


 俯いて、履いている真っ黒なスーツのスラックスの膝の上に涙を落としていた。私は、たじろいでその場に立ち止まってしまった。


 大志が泣いている姿なんて、初めて見た。


 学生の時も、大志が泣いている姿は見た事がない。大人になってからの大志は、あまり表情が変わらなくなったから、尚更、私は衝撃だった。


 そうだ、と私は思い出した。


 ――籤浜の会社は、大不況で大変な事になっていたらしい。

 ――担当の銀行員は阿漕な奴で、業績が悪い会社の融資の金利をすぐに引き上げようとしてくる奴らしい。

 

 そうだ、大志はそれで泣いているに違いない。それはいけない。私が、親友として大志を助けなくては。大志に、1人じゃないぞって、伝えに行かないと。


 手遅れになる前に、私が大志をこの世に繋ぎ止めなくては!


 私は走った。膝や階段登りで疲れた体の事なんて忘れて、ベンチに座る大志に駆け寄った。体が重い。妻の言うことを聞いて、ダイエットしておくんだった。これは筋肉だ、とか骨太とか言い訳するんじゃなかった。


 でも、大志は直ぐ近くにいる。私の手が届く場所にいる。やっと、助けが間に合う。やっと、私は大志の親友として胸を張れる。


 大志に、見合う男になれる!


 砂利の中を走る、走る。そして、私の声が届く位置まで大志に近寄れて、私は大声で、大志の名前を呼ぼうとした時だった。


 黒い影が、私の目の前に現れた。


 その黒い影は、まるで私と大志を阻む様に突如私の目の前に現れた。私が、どけ、と叫ぼうとしたよりも先に、その黒い影は口を開いた。




 ――私の弟に、一体何の御用か。




 私の足が、止まってしまった。


 黒い影から発せられたその声は、まさしく大志の声だった。


「た、大志……」

 

 そこにいたのは、真っ黒なスーツを着た、大志だった。

 白髪混じりの頭、年相応に老けた顔。40代ではない。還暦ほどの、籤浜大志の姿だった。


 ――私や伊吹に飽き足らず、貴方方犀陵は、彰にまで手を出そうというのですか。


 大志の声が、脳に直接響く様に聞こえる。


 ――どうして、貴方は私をそこまで憎む。私が死ぬだけでは、まだ足りませんか。


 大志が、私を睨んでいる。

 冷たい顔。嫌悪の瞳。そんな目で、親友だった私を睨んでいる。


 ―― 貴方の私への憎しみを、私は侮っていました。


 ――付き纏って、私の事を嘲笑うぐらいならと、放っておくのではなかった。


 ―― 本当に、後悔してもしきれない。


「ちが、ちがうよ、大志……」


 付き纏ってなんかない。憎んでなんかない。嘲笑うなんて、する筈がない。

 

 私は、大志を、ずっと助けたくて。

 大志の事が、大好きで、共にいたくて。


 なのに、大志は私を嫌悪と軽蔑の色で睨んでいる。ベンチの上で、涙を流す、40代の大志を守る様に立ち塞がっている。  


 ――いつから彰も狙っていたのですか。伊吹の為に、彰が貴方と繋がった時からですか。死ぬ前に、せめて彰だけでも貴方と縁を切るように、伝えるべきだった。


 ――貴方の息子が伊吹にしているような事を、彰にしたいと言うのですか。


 ふと、思い出した。


 千秋の秘書で、私の元秘書である加賀美から、数日前、気になる連絡があった。今現在、千秋と刹那の側で働く、大志の息子の伊吹くんが、ずっと出社していない、と。刹那も会社を休みがちだと。千秋は、何か知っているようなそぶりだと。


 息子達は、伊吹くんに、何をしている?


 ――これ以上、私の大切な家族を、貴方方に傷つけられるわけにはいかない。これ以上、彰に近づけさせない。


 大志は、殺意に満ちた目で私を睨んだ。


 ――私だけならどうなってもよかったのに! どうして、息子と弟まで! そこまで、私が憎いか、犀陵時次!!


「あ、あ……!」


 私は、一歩、下がった。


 下がってしまった。大志を助ける為の腕を、下ろしてしまった。大志から、私は離れてしまった。


 もう、私はこれ以上、大志から逃げては、いけなかったのに。


「にい、さん?」


 大志とは、違う声が聞こえた。


 見ると、40代の大志が、こちらを見ていた。大志の背中を見て、大志そっくりのその黒い瞳を見開いていた。


「兄さん! 兄さん!」


 ――彰、そこにいなさい。


 大志は、40代の大志に、そう言った。


 ――私がお前を守る。だから、そこにいなさい。


「もう、もういいよ! もういいよ、兄さん!」


 彰と呼ばれた、40代の大志は、そうして、まるで子供のように泣き喚いた。


「俺、俺、馬鹿な弟だった!」


 ベンチがひっくり返るような勢いで立ち上がって、40代の大志は叫んだ。


「兄さんが手を差し出してくれるのを待ってるだけの、甘ったれだった! 俺、兄さんに沢山助けてもらったのに、俺は、兄さんを、助ける事もできず……」


 40代の大志は、そうして、大粒の涙を流していた。


「ごめん、ごめん、兄さん。兄さんを裏切っていて、本当にごめん。本当に……」


 40代の大志は、それ以上、何も言えずに砂利の上に崩れ落ちてしまった。


 目の前の大志の顔が歪んでいる。40代の大志――いや、弟である、瀬川彰の元に行きたいのだろう。でも、私がいるから、そちらに行けないのだ。弟を、大志は私から守りたいのだ。

 だって、私は、大志の会社を潰して。大志はそのせいで沢山の借金を背負って。いつまでも大志を助けなくて。大志が苦労するのを、人を使って、見ていただけで。


 ――私は、敵だ。

 

 私は、大志が苦労するのを、嘲笑って楽しみ、大志の息子すら傷つけて、今まさに弟まで手に掛けようとしている、卑劣で、最低最悪の、唾棄すべき、敵だ。


 私は、ゆっくりと大志から背を背けた。


 ふらふらと、力の入らない足を動かして、大志から離れた。先ほど、ようやく登り終えた階段に向かった。


 階段を降りる直前に、私は振り返った。大志は、まだそこにいてくれた。穏やかな笑みを浮かべながら、砂利の上にうずくまっている、弟である瀬川の背を、優しく撫でていた。


 そういえば、大志はああして笑うのだったな。

 冷たい印象を持たれがちな顔に、ああして、穏やかで優しい笑みを浮かべるのだったな。


 ずっと、忘れていた。


 階段を下る。


 後悔が、また増える。


 大志から、逃げてしまった。

 私が大志を憎んでいる、なんて、大志に思わせてしまった。

 

 憧れの人なのにな。

 大好きなのにな。


 でも、その思いは、全部、私の自分勝手だったのだと、私はようやく気がついた。


 大志が、初めから私の事を親友なんて思ってもいない事に、私は、ようやく、思い知った。


 空を見上げる。

 でも、それでも耐えきれなかった後悔が、何粒も、石段の上に跡になって続いていく。


 その跡は、いつまでも深い傷跡のように、私の胸を蝕んでいったのだった。













 見上げた兄の顔は、記憶の中のままだった。


 穏やかで、優しい笑み。

 久々だった。俺が、まだ中学生だった頃、俺にむけてくれた顔そのままの顔を、兄は――籤浜大志は、俺に向けていた。


 嬉しかった。

 俺の背中をさするその手は体温なんて感じられないほど冷たいけど、手つきは優しくて、俺は嬉しくて、悲しかった。


 どうして、俺は伊吹に、兄さんの優しさを伝えられなかったのだろう。


 どうして、親子がすれ違っているのを、そのままにしてしまったのだろう。


 どうして、兄さんが首を吊ろうとした時、俺は何もせず、ただ拗ねていただけだったのだろう。


 どうして、兄さんの裁判の後に話した時、兄さんの話をただ聞いていただけだったのだろう。


 どうして、兄さんが黙って持って行った、話した場のレストランの会計伝票を、俺は奪えなかったんだろう。


 どうして、どうして。

 

 ――どうして。

 

 数々の後悔に、視界が滲む。兄さん、と俺は、ぐしゃぐしゃの顔で、兄を呼んだ。


「ごめん、ごめん、俺、兄さんをずっと、」


 兄は、微笑みながら頷いた。

 

 ――ありがとう、彰。


 兄さんの言葉に、俺は目を見開いた。


 ――知ってるから。伊吹の事、ずっと助けてくれてんだろう。


 ――ありがとう、彰。伊吹を、私に縛り付けずにすんだ。お前は、いつも正しい。


 俺は、歯を食いしばって、首を振った。

 ありがとう、なんて、俺には言われる筋合いがない。俺が兄さんを1人にしたから、兄さんは死んだのに。

 兄さんを裏切って、1人で死なせてしまった俺の、どこが正しいか。どうして、兄さんが俺に感謝するのか。俺のせいあんたは死んだのに、正しいなんて、なんで言えるんだ。


 ――和樹の事も。お前のおかげだよ、本当にありがとう。


 兄さんは、優しく笑っている。

 でも、俺はその笑みに余計胸が苦しくなった。

 

 罵って欲しかった。許さないって言って欲しかった。


 でも、この人は俺を許してしまう。この人を顧みなかった俺を、いいんだって、言ってしまう。


 この人が助けてくれたから、俺は生きているのに。

 この人を死なせてしまった俺を、兄は許している。

 

 俺は、どこかで気がついていた。


 兄さんが素直になれば、みんな、うまくいくって。


 兄さんは不器用なのも知っていたから、俺が、兄さんに本音を喋らせておけば、その手助けをしてやれば、きっと、伊吹も兄さんと和解できた。もしかしたら、伊吹は会社を継いでくれて、上手い事立て直していたのかもしれない。そんな未来があったのかもしれない。俺が、兄さんと向き合っていれば。味方に、なってやれば。


 なのに、俺はそれをしなかった。俺の記憶の中の兄さんが崩れるのが嫌で、俺は目の前の現実の兄さんと向き合うことから逃げた。兄弟なのに。俺にとっては、たった1人の兄なのに。


 家族、だったのに。


 兄さんのことを、俺は、依存して、消費して、踏み躙っていたのに。

 兄の優しさに、許された気になってしまう卑劣な自分が、もう嫌で嫌で、たまらなかった。


 兄は、優しく、初めて会った時のように、俺に寄り添っていた。俺は、母が亡くなった時のように兄を見上げるしかない。兄の顔が、眩しい。


 兄さん。

 俺さ、最近、すごく考えるよ。

 兄さんが俺にしてくれた様なこと、俺はできるかなって。


 母親を失った子供に、味方なんて誰もいない、なんて拗ねている難しい年頃の、振ってわいた腹違いの弟に、あれだけ優しくできたかなって。父がもう病床で、兄さんは会社の事も忙しかっただろうに、和樹の事も兄さんが1人で色々しなくちゃいけなかったのに、俺の事まで、抱え込んでさ。


 他の親族に虐められてた俺を庇ってくれてさ。

 母の形見の指輪も取り返してくれてさ。

 馴染めなかった本家から逃がしてくれて。

 高校からのアパートの家賃払ってくれて。

 俺の進路も一緒になって考えてくれて。


 自慢の弟だって、俺に言ってくれた事あったよな。嬉しかったよ。だから、俺はどんなに辛くても、道を踏み外さないって誓ったよ。兄さんの信頼を、裏切りたくなかったから。真っ当に生きるって誓ったよ。


 でも、俺は兄さんを裏切った。


 いつまでも、兄さんと向き合わなかった。

 兄さんを1人にして、兄さんを死なせてしまった。

 

 怒ってやるべきだった。


 なにがいいんだよって。

 俺も兄さんの事、気にしちゃ悪いのかよって。俺を頼ってくれよ、1人で抱え込むなよ馬鹿って、言わなくちゃいけなかったのに。


 でも、言わなかった。

 

 勇気を出して、初めての兄弟喧嘩を、しなくちゃいけなかったのに。

 チャンスは、いつだってあったのに。


 今更後悔しても、もう遅いのに。


「俺を、頼ってくれよ。そんなに俺、頼り甲斐なかったかよ。俺だって兄さんに恩を返したかったよ」

 

 ようやく出てきた本音は、なんて無意味な響きか。


「俺、俺、立派になったよ。兄さんを助けられるよ。兄さん、知ってるか、1人で出来ることってたかが知れてるんだぞ。そんな事も知らなかったかよ馬鹿。素直に言っていいんだよ。子供が死んだら誰だって悲しいよ。今ならすごく分かるよ、兄さんの気持ち。男だって泣いていいんだよ、兄さん」


 目の前の兄さんの姿が、薄れていく。俺は、ぐしゃぐしゃな顔で、それを否定したくて首を横に振った。


「自慢の弟だっていうなら、俺をもっと頼ってくれよ。あんな遺書遺すくらいなら、生きてる内に全部俺に打ち明けてくれよ。俺は、他の親族と違うよ。兄さんの事、俺、気にかけていたよ。本当の本当に、気にかけていたよ」


 気にかけていただけだった癖に、俺は何を。

 兄さんが、素直になるのを、俺は待っていただけだったのに。


 子供の頃と同じように、兄さんが手を差し出してくれるの、俺はただ、待っていただけなのに。


「馬鹿。馬鹿、馬鹿兄さん。ごめんよ、ごめん。伊吹、連れて来れなくてごめん、兄さん。2人で兄さんに謝らなくちゃいけなかったのに」

 

 伊吹と、ここ最近、連絡が取れない。


 犀陵の兄弟は、伊吹は体調が悪いのだ、とか言っていたが、これは本当だろうか。あの兄弟の伊吹への執着はよく知ってる。伊吹は、それのせいで、酷い目にあっていないだろうか。

 兄さんが建てたアパートの管理も、伊吹がしていたのに、最近は管理会社がしていた。――伊吹が、兄さんのアパートの管理を、誰かに任すような真似、するだろうか。


 ――彰。


 薄れていてもよく分かる兄さんの真剣な顔に、俺は息を呑んだ。


 ――お前に、頼みたい事がある。


 ――お前にばかり頼ってすまない。でも、お前しかいないんだ。


「な、なに」


 俺は、兄さんの言葉を聞き逃さないように、呼吸を止めて兄さんを見つめた。兄さんは、怖さすら感じる真剣な表情を、俺に向けている。


 ――伊吹は、ずっと犀陵の兄弟の下に監禁されている。


 やはりか、と俺は思った。


 ――ベッドに拘束されて、弟の方に悍ましい行為を強要されている。兄の方は止めず、弟に協力ばかりしている。伊吹は、そこから逃げ出すために、自殺すら考えている。


 自殺という言葉に、強いボディーブローを食らっているかのように俺は感じた。伊吹まで、自殺をすると?


 ――私では、伊吹を助けられない。すまない、頼む、彰。伊吹を、助けてくれ。


 兄さんの苦痛に満ちた言葉に、俺は考えるよりも先に頷いた。兄さんが、俺を頼ってくれた。ようやく、俺に助けを求めてくれた。なら、それを裏切る訳には、もういかなかった。


「分かった! 絶対に助ける! 兄さん! 絶対に!」


 兄さんの表情は、もう分からない。でも、僅かに見える口元が、笑ってくれた気がした。兄さんのその頬に、涙の跡が見えた、気がした。


 ――彰。


 兄さんの、低い、優しい声が聞こえる。




 ――お前は、本当に、私の唯一の、自慢の弟だよ。




 そう言って、兄さんの姿は。

 小さな風に流されて、完全に見えなくなった。


 俺は、風の方向を呆然と見つめる。兄さん、と俺の無意識に溢してしまった、兄さんに縋る声が、情けなく風と一緒に流される。

 

 これは、奇跡だったのだろうか。

 それとも、俺の願望が見せた幻覚だったのだろうか。


 そういえば、と俺は気がついた。兄さんが俺に話しかける直前に、誰かがいた気がする。俺は、長い石の階段の方に視線を向けると、俺でも知っている高級化粧品ブランドの名前が書いてある紙袋が境内の砂利の上に落ちていた。駆け寄ると、その中身は線香が1束と数珠と、なぜか未開封のラムネの瓶が2本入っていた。


 ラムネの瓶を持ち上げてラベルを読むと、長年、瓶ラムネを販売している会社のものだった。そういえば、兄さんは、口の中をスッキリする感じがいい、と炭酸飲料を好んで飲んでいた。俺にもよく奢ってくれて、一緒に飲んだ。


 ラムネの瓶はまだ冷えている。この辺りは自販機はあるがラムネの季節というと大分ズレているから、ペットボトルや缶のソーダはともかく、瓶のラムネは売ってない。これは、この袋の持ち主がわざわざ持ってきたのだろう。


 また袋の中を調べていると、紙袋の厚紙の中敷きの下に、メッセージカードがあるのを見つけた。それを取り出して、読む。


 犀陵玲奈様、とそのメッセージカードには書いてあった。長年のご愛顧の礼と今後ともご贔屓に、みたいな内容が手書きでメッセージカードに書いてあった。


 ――犀陵玲奈。

 ――犀陵。


 俺は、慌てて石階段を下った。犀陵なんて名字は珍しいから、俺の予想が当たれば、この紙袋は犀陵の人間の物だ。


 兄さんの頼み事を思い出す。伊吹は、あの犀陵の兄弟の下に監禁されていて、自殺も考えていると。助けてほしい、と兄さんは俺に頼んできた。ようやく、俺を頼ってきてくれた。俺を、認めてくれた。


 だから、俺はこの紙袋の持ち主を探す事にした。もしも、犀陵の兄弟のどちらかだったら、伊吹について追求しなくては。


 そうじゃないなら、一先ずどういうつもりでこの寺に来たのか聞いてから、伊吹を助け出す為の足掛かりにしないと。


 もう、絶対に俺は、兄さんを裏切れないのだから。


 

 だって、俺は、兄さんの、自慢の弟なんだから。










 









 瀬川彰は、急いで階段を駆け降りる。

 そして、見えてきた恰幅の良い体型の、白髪の多い頭の男性を見つける。ふらふらと、その男性は手ぶらで、不安定な足取りで階段を降りていた。そんな彼の肩を、瀬川彰は掴んで振り向かせた。


 そして、犀陵時次は、振り向いた。久々に会った瀬川彰の顔をよく見て、似ているけれど、親友と信じていた男ではないのだと、自分によく言い聞かせてから、挨拶をした。


 そして、2人は手を組んだ。


 

 

 犀陵千秋と刹那に囚われている、という籤浜伊吹の為に。


 親友だと思っていた、憧れていた男の為に。


 もう兄を裏切らない、唯一の、自慢の弟でいる為に。


 2人は、手を組んだ。


 



 陽に照らされた長い石階段の上。並んで座って、長く話す2人の背後には、2人の黒い影が落ちている。

 

 その影に紛れるように、籤浜大志は、複雑な面持ちで、犀陵時次と瀬川彰の背中を、見つめていたのだった。

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