金木犀の見える家

藤咲 沙久

引っ越し


 子供の頃、思い描いていた理想の家があった。本当に小さかったので、水回りだの収納だの、リアルで細かい点など気にしちゃいない。知識がないだけでなく、そんなことどうでもよかったのだ。

 二階の窓から見える、庭の金木犀キンモクセイ

 壁一面本棚で図書館のような書斎。

 写真をめいっぱい飾ったリビング。

 特に金木犀は大好きな香りだったので、想像するだけでワクワクした。大きくなれば叶えられると思っていた。大人はみな結婚し、家を持ち、なりたい職業に就ける。そう信じて疑わなかったあの頃。

(……そして、これが現実だ)

 格安の社員寮に住んでいられるのも来月末まで。五年勤めた会社で人員整理の対象となった今、私は早急に次の住処すみかを探す必要があった。幸い、選り好みしなかったお陰で転職先は確保できている。それが唯一の救いだ。

 寮だって、決して広くなかった。会社名義で借りられているだけのアパートだ。オートロックなし、エレベーターなし、壁の薄いワンルーム。そんなところでも会社から家賃補助を受けながら住んでいたのに、今後は全額自己負担になると思うとさらに質が落ちる可能性がある。

 寮付きの仕事が見つからなかったのだから仕方がないが、ついため息が溢れた。

「──前田まえださん。聞いてますか、前田さん?」

「へ。……っあ、すみません、ぼんやりしていて……何でしたか」

「お疲れですねぇ。いやね、次の物件なんですけど、このすぐ近くなんですよ。ここに車停めたまま歩いて行っちゃえるかと。寒いのって耐えれます?」

「あ、はい。大丈夫です。むしろ何軒も見せてもらって……すみません」

 担当者である秋本あきもとさんは「構いませんよぉ」とのんびり返事をしてくれた。正直、住宅の内見自体が初めてで、不動産屋との会話なんて緊張していけない。当然社員寮に選択肢などなかったし、その前は実家だ。家を決めるという作業の大変さを、今更ながら思い知らされていた。

 秋本さんと並んで並木道を歩く。肌を刺すような風がビュッと吹き、私は思わずマフラーへあごを埋めた。それをうつむいたと捉えたのだろうか、秋本さんが眉を下げながら言った。

「あんまり気に入らなかったですか、さっきのとこ」

「いえ、いや、はい、えっと。他のところも一通り確認しておきたいというか、やっぱりバストイレは別がいいかな、とか……」

「なるほどですねぇ。元々ご希望はご予算内であることのみって感じでしたけど、実際行って気づいたことがあるならそれは良いことです。しっくりくるまでジャンジャン悩みましょう。お付き合いしますよぉ」

 糸目の秋本さんがさらに目を細めると、漫画で見るようなニッコリ顔になった。営業トークだとしても親切な印象を受ける。最初こそやや軽い口調に不安を覚えたが、案外ベテランなのかもしれない。若いとも若くないともとれる顔立ちは年齢不詳だった。

「ありがとう、ございます。助かります」

 サクサクと足元の落ち葉を鳴らしながら、その音に紛れて小さくお礼を口にする。追い討ちをかけるようにまた強く風が通り過ぎ、秋本さんに聞こえたかどうかわからなかった。近づいてくる冬の気配に追い付かれないよう、私たちは少しだけ足を速めた。

「そういえばね。もう今年は時期終わっちゃったみたいですけど、いつも秋になると良い香りがするんですよ次のとこ。僕の密かな推しポイントです。大家さんの趣味で敷地に……おっと行き過ぎるとこだった、こちらです」

 二歩戻ってから改めて建物を見上げる。聞いていた築年数の割に綺麗な外観のアパートだった。小さな自転車が停まっているのを見るに、どうやら子供連れも住んでいるらしい。響く足音に気を付けながら階段を上がると、二階にある端の部屋へ案内された。

 間取りはこれまでの候補と同じくワンルームだ。独立した風呂場はやはり落ち着く。一番いいのは、先ほど歩いてきた並木道がベランダから見えることだった。家の中から景色で季節を感じられるのは、案外貴重なことである。

「あ、下も見てください、下。花ついて無いけどわかります? さっきこれを言おうとしたんですよ、金木犀!」

「え……わ、ホントだ」

 素直に視線を落とせば、常緑樹の頭が三つ並んでいた。よく見知った葉の形、確かに金木犀だ。先ほど思い出していた幼い夢が頭を過り、愛おしさと切なさが胸に迫る。ほんの少しだけ歪に、頬が綻んだ。

「おや、お気に召しましたか?」

「あ……はは、何て言うか……幼少期の夢だったんです。二階の窓から、大好きな樹を見下ろせる家って。なんか、思いがけずに出会うものですね。まあ、えっと、叶ったというには情けない、ですかね……?」

 勢いで話し始めたものの徐々に言葉がしぼんでいく。こんなこと言われても困るだろうし、“部屋が二階にある”だけでそもそも持ち家でもない。そこに私の努力は何も無い。偶然のくせにと恥ずかしくなってきた。

 対して秋本さんはというと、再びニッコリ笑顔を浮かべていた。

「マジ激熱げきあつじゃないっすかたぎりますね」

「……へ?」

 呆気にとられて間抜けな声が出た。今ノンブレスだった気がする。急な早口でうまく聞き取れなかった。

「失礼、私語でした。夢って自分で叶えにいくだけじゃない、と僕は思いますよ。むしろ運ならなおすごい。掴まなきゃ嘘です」

「叶えにいくだけじゃない……ですか」

「この風景で前田さんが夢のことを連想出来たのなら、それは決して、間違ってないんじゃないかなと。情けないとか気後れする必要ないんです」

 前向きな思考が不得手な私にとって、少し不慣れな考え方だった。運だなんて、叶ったなんて言っていいのか自信を持てない。おだてられているのかもしれないし、これこそ営業トークなのかも。

(……でも、さっき私は)

 確かに笑った。どこか苦くも感じつつ、それでも一瞬、嬉しくなってしまった。夢を連想した。その気持ちは否定しなくていいと言われているのだろうか。確認する勇気はないが、そうならいいな……なんて思った。

「あ! だからって金木犀だけで物件を決めるのはいただけませんよぉ、さあ細かい点もチェックしましょう!」

「さ、さすがにそこまで浅はかでは……」

「前田さんほら、コンロ見てくださいコンロ。お好みにあいます?」

 隅々まで見て回り、結局私はこの部屋を選んだ。最終的な決め手は大家の人柄がたいへん良かったことだ。さっそく手続きを進めましょうと喜ぶ秋本さんと再び並木道を戻り、不動産屋へ向かうべく車に乗り込んだ。

 運転席から鼻唄が聞こえてくる。私はバックミラー越しに秋本さんをチラと見て、そのまま景色に目線を遣った。エンジン音に隠れてそっとお礼を言う。もしかしたら、今度は聞こえていたかもしれなかった。



 二ヶ月後、荷物の少ない引っ越しはすぐに終わった。窓の側には小さな本棚、マスキングテープで貼った写真。ベランダから見下ろせば三本の金木犀がある。ドアの向こうからは楽しそうな子供の声が聞こえた。穏やかな休日だ。

 カツカツの生活で過ごす賃貸の部屋、子供の頃の自分が知ったらガッカリするだろうか。それでも私は伝えたいと思った。あなたが描いた未来に近づけたよ、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金木犀の見える家 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ