第2話 一枚の桜

 次の年も、また次の年も、私は体調を(というより精神状態を)崩して、何度も入院していた。

 その度に、いつものメンバーに会った。



 その年は、珍しく2年ぶりの入院で、春の気温の変化についていけなくなった体と、義父の酷いモラハラで、また動けなくなってしまった時のことだった。


 いつものバタバタ走る音が聞こえない。

「西岡さん、退院したの?」

 沙良に聞く。

「いますよ。ほら、あそこ」

 彼女の指差す方を見て、驚いた。

「いつから?」

「去年の春くらいからかなあ。もう、うるさくなくて、こっちは助かってますけど」

 西岡さんは、車椅子に乗せられ、窓の外をボーッと眺めていた。


 きゅうっと、胸が締め付けられる気持ちがした。元々、認知症の気もあったのは知っていたのだが、今の彼女には、もう何もわからないのだろう。

「西岡さ〜ん、お外見ましょうか?」

 なんていう、看護師さんからの声で、その場所に車椅子ごと移動させられていた。

「お外」なんて何も無い。向こうの高い壁との間に、木が一本ずつ並んでいるだけだ。彼女は生気のない眼で、数十分、一体何を見ているのだろう……。



 私は時々、他の専門科の病院に行くことがあった。入院している病院からバスに乗って行くのだ。

 バスの窓から、様々な花が見えた。

「綺麗……」

 入院していては見られない綺麗な光景。そして……


「あっ、桜……」


 いつの間にか桜の季節になっていたのだ。

 涙がこぼれそうになった。

 桜の季節を忘れていただなんて……。


 帰り道、少しだけ遠回りして、近くの公園に立ち寄る。


 暖かな日差し。花々が我先にと咲き誇る。塀の上で猫が暖を取っている、長閑のどかな日常。でも、私は、まだここへは戻れない。この猫のように自由にはなれない。そう、あそこに居る人はみんな。

 それを辛いと思えるうちは、まだ普通の日常に戻る可能性があるのかもしれない。そう思った。


 木漏れ日のトンネルを抜けると、そこには桜が並んでいた。


 また涙が零れそうになる。日本人の血には、きっと桜の成分が含まれているに違いないとさえ思う。ずっと見ていたい光景……。


 私はスマホをバッグから取り出すと、桜をカメラに収めた。

 時間を気にしながらも、コンビニで、数枚をプリントアウトする。

 この桜を、入院している仲間に見せてあげたかったのだ。


 皆、とても喜んで見ていた。

 自分たちが経験してきた花見のことを楽しそうに話している。



 ふと、ホールの一番向こうで、相変わらず何も無い外を見せられている西岡さんを見る。

 私は、一番綺麗に撮れた一枚の桜の写真を、彼女に見せに行った。

「桜がね、咲いていたの」

 写真を見せながら話しかける。私から彼女に話しかけたのは、多分、それが初めてだった。

「さくら? ホントだ……桜だねえ……」

 そう言って、写真を手に持ち、ずっと眺めている。

「それ、あげる」

「いいの?」

「どうぞ」

「ありがとう……」

 交わした言葉はそれだけだった。


「患者同士で物のやり取りをしてはいけない」というルールを破った私は、当然のように看護師さんに叱られた。そんなことは正直どうでもよかった。

 それでも、西岡さんが、その写真を何度も何度も幸せそうに見ているので、「今回だけよ」と許可をもらったのだった。



 彼女は、毎日、その桜を見ていた。ある日は手元で、ある日は窓から降り注ぐ日差しにかざして。

 端っこが折れてクシャクシャになってきていた。きっと、ぎゅうっと握っているからだろう。


「ねぇ、夏樹さんって、西岡さんのこと嫌いでしたよね?」

 沙良が聞いてくる。

「そうだね」

「なんで急に?」

 私は少し考えてから言った。

「沙良も、あと10年もすればわかるよ」



 咲き誇って皆に愛でられ、散っては皆に感動を与える桜。

 孤独に咲き、散る間際にすら誰も見に来ることもない彼女はな


 精神を病んで、こんなところに放り込まれ、誰も会いに来ることもなく、病気ゆえの行動で皆に疎ましがられ、もう車椅子で自力で動くこともできないのだ。

 同情しては失礼だと思いながら、彼女の最後の生活を哀れに思った。



 一枚の桜が、彼女を少しでも幸せにしますように……。

 目を閉じて、そっと、そう願った。

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一枚の桜 緋雪 @hiyuki0714

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