一枚の桜

緋雪

第1話 苦手な人

 西岡さんが嫌いだった。


 大声を出して、パタパタとスリッパで大きい音を立てて走り回る。人の部屋に勝手に入ってくる。いつ風呂に入ったのかわからない悪臭。70歳近いのに、若い男性患者を見ると、口紅をベッタリ塗って、ラブレターを持って行く。


 そんな西岡さんが大嫌いだった。



  

 薄いピンク色の壁、窓から差し込む光は柔らかで、色鉛筆で塗り絵をしながら眠ってしまいそうになる。夫に買ってきてもらったアールグレイの香りが、広いホールの中にいても、私一人の空間を作ってくれる。


 顔を上げ、周りを見渡す。

 広いホールには、4人がけのテーブル席が窓際に2つ。対面で6人ずつ座れるテーブル席が3つ。5人くらい座れるソファ席が3つ。大きなテレビやお茶を飲んだりコップを洗ったりするところなどがある。

 そして、それら全体を見渡せるナースステーションがそこにあるのだ。


 ホールでは、皆、それぞれに何かを見つけているらしい。ここに出てこられる人は、まだ体調がいい人だ。

 私のように、静かに絵を描いている人や、クロスワードをしている人、読書をしている人。

 または、仲良くなった人達でお喋りを楽しむグループもあれば、トランプやオセロゲームなどで歓声をあげているグループもある。そんな、賑やかさは、神経質な私でも特に気にならない。



 ホールに人が増えてきた。

 私は時計を見る。ああ、もう昼か。やりたいことを見つけてからは、時間が経つのも少し早くなった。私は席を立ち、自分の部屋のベッドへと戻った。

 四人部屋の壁際のベッド。薄い黄色のカーテンで、完全に仕切る。完全は言いすぎた。上も下も空いている。とにかく、自分一人の空間を確保すると、塗り絵の本と色鉛筆を棚に戻し、ベッドサイドのテーブルを用意した。

 もうすぐ昼食がくる。


「来たよー!!」


 パタパタとスリッパの音を立てて、走ってくる女の人の大声。西岡さんが、昼食のワゴンを先導しているのだ。勿論、そんなものは必用ない。


 ああ、まただ。


 ウンザリする。

 私はガサツな人が苦手だ。  

 わかっている。それが彼女の病気のせいであることは、重々承知なのだ。それでも、苦手なものはどうしようもない。

 彼女のいる病棟に入院している私だって、外の人から見れば同類なのに。


 食事の時には、8割位の人がホールに集まって食べる。私のように、食事の時だけ部屋で一人で摂る人の方がまれだ。でも、私には無理だ。何人か苦手な人が視野に入る場所での食事など、味もわからない。

 私はきっとワガママなのだと思う。



 人と話したくないわけではない。ホールで塗り絵をしていれば、自然と誰かが寄ってくる。

 私の前の席に座って、絵以外のことも話しかけてくる。相手が3人以内なら大丈夫。それを超えると急にドキドキしてきて、適当な理由を作って、部屋に逃げ込んでしまう。

 コミュニケーション障害もあるのでしょう。先生にそう言われたし、そうなのだろう。



「ねえねえ、夏樹なつきさん、あれ、どう思います?」

 私より10歳くらい若い女の子、沙良さらが耳打ちするように言ってきた。

 私は塗り絵の手を止めて、向こうの端のテーブル席を見る。4人掛けのテーブル席。ここに入院している男性が、こちらを向いて座っていて、その前には、その人の両親だろうか、親戚だろうか、二人で座って、その男性に話しかけている。そして、男性の隣には、まさかの西岡さん!

「えっ? 何あれ? どういう状態?」

 沙良に小声で尋ねる。

「さっき、小森さんが、面会者が来たからって、あの席に3人で座ってたんですよ。そしたら西岡さんが、あとからすうっと寄って行って、あそこに座っちゃって。小森さんも家族の方も何も言えなくて困ってるみたいです」

 それはいかんだろうと、ナースステーションに声をかけ、沙良と一緒に状況説明をした。

「はいはい、西岡さん、お部屋に戻ろうか〜」

 看護師さんが、西岡さんを小森さんから引き離して部屋に連れて行った。小森さんは、こちらを見て、申し訳無さそうに笑う。こちらも、ちょっと会釈をして、元の席に戻った。



 次の入院の時には、中村さん。この人は、神経が細いというか、感受性が強すぎるというか……。いつも仏様のように優しそうに笑っているのだけれど、一旦ダメージを食らうと、もう部屋から出られなくなってしまう人だ。

 

 そんな中村さんが珍しくダメージを食らったまま、ホールに出てきている。調子が悪そうだ。

「中村さん、調子が悪いんでしたら、看護師さんを呼んできましょうか?」

 ここでは、患者同士の助け合いは禁止だ。部屋まで車椅子を押していくこともかなわない。


「いやなの」

 中村さんは、私の手を掴んだ。

「あの部屋は嫌」

 彼女には珍しく我が儘なことを言う。

「西岡さんが、私のいる部屋に入ったの」

「えっ?」

 まあ、時々、どういう理由なのか、ベッドを引っ越される人もいた。

 そうか……繊細な中村さんには、西岡さんのガシャガシャした感じは辛いよなあ。そう思っていると、

「違うの……」

「音がうるさいとかではないんですか?」

「違うの……。においがね、酷いの」


 思えば、西岡さんは、服を沢山持ってきているお洒落さん(?)で、毎日とっかえひっかえ、滅茶苦茶なコーディネートを見せてくれているのだが……

「そう言えば、西岡さんって洗濯してるの見たことありませんよね」

 私の言葉に、中村さんは大きく頷いた。

「お風呂で会ったこともないでしょ?」

「……ないですね」

 それは、とんでもない臭いに違いない。


 看護師さんに見つからないように、中村さんの部屋に入って、「うわっ!」と思った。

 これ、服は家族がちゃんと管理しないとダメだし、お風呂は看護師さんが入るよう促さないとダメでしょう。

 ふと、気付いた。

「西岡さんの家族って来てるの見たことないですよね?」

「そうねえ……」


 家族に見放されている状態なのか……?


 そんなことは他人事ひとごとだ。私は、中村さんには、先生に相談するように言った。

 そのうち、西岡さんは、おばあちゃんばかりの部屋に移されていった。



 私は私のことを考えよう。

 早く、この牢屋みたいな病棟から出たい。


 なるべく自分の治療に専念しても、一回の入院で3ヶ月かかっていた。

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