『相棒』と、良き別れを【C.C1795.03.16】

     ◆


 空港の待合室の一角で並んだベンチに座り、透明加工の鉄鋼岩で張られた開放感のある屋根を見上げて、ラヴァルはたそがれていた。昼下がりの空港では、定期便のアナウンスが淡々と飛び交い、それに応じた人々が慌ただしくタイル張りの床を叩く。


 そんな雑踏に耳を澄ませるように、落ち着いた心地で目を閉じていると。


「ラヴァ」


 弾んだ声が、ラヴァルを呼んだ。ラヴァルは目を開けてゆっくり立ち上がると、その無邪気さの見え隠れする声音の持ち主に振り返った。

 中性的な顔立ちにぱっちりとした目元。口元に笑みを宿したその表情は、純真さと溌溂さを放っている。


 可憐なままのジェニスは、インナースーツに学生服のまま笑顔でラヴァルに向かっていた。


「は」と息を呑んで。

「あぁ……」と。


 呆れと、諦観と、疑惑を滲ませた吐息の後で。


「なんだい? その複雑そうなため息は」


 ゆるく笑んだジェニスに、ラヴァルは言った。


「やっぱ、戻ってねぇんだなって」


 言われて、ジェニスは自身の体を見渡す。

 豊満な双丘、相なすような細い腰に、スカートから伸びるしなやかな脚。

 ジェニス・ギールは、しかし依然として蠱惑的な女性の姿を保ったままだった。


「結局原因はわからずじまいのままか」


 首に手をやりながら、腹の奥にある懸念を重く吐き出す。アルドレスの間抜けの語った誤解が、旅立つ彼の胃に重りを乗っけているようだった。


 衰弱から回復したジェニスは、これまで以上に狩猟競技で好成績を残している。当然、その影に迷いから吹っ切れたラヴァルの活躍があったことは自明であるとして、彼にとって心配なのは、ジェニスの問題の完全な解決を見ないまま、彼女の離れなければならないことだった。


 だが当のジェニスは、最近覚えたらしい化粧を施した艶のある唇に、指を当てて、天井を見やってから、思いもよらないことを口にした。


「もしかしたら、わかるかもしれない」


 あっけなく放たれた言葉に、ラヴァルはぽかんと口を開けた数秒、固まる。


「本当か?」

「うん」と首肯して。

「感覚的なことだから、うまく説明できるかわからないけど」

「あぁー……いや、いい。聞かせてくれ」


 ラヴァルはベンチを指差さすジェニスに頷いて、端から二番目に座る。ジェニスは喜び滲みだしたような、自然な笑みを見せながら、空いた席に座った。


「まず、バベルが残した力……えっと、エス、構造……体? を作り変える力は、まだボクのなかに残っている」

「まぁ……そうじゃなかったら、いつまでも女のままなわけねぇもんな」


 ラヴァルは先のアルドレスのセリフを思い出しながら続きを促す。


「ボクの性格の問題で、それはラヴァの望みを反映させるようになってしまって……それで、ラヴァはボクから別れたく……まぁ、いろいろやってくれたんだよね」


 曖昧に言葉を濁すジェニスに、ラヴァは首を傾げる。


 ラヴァル・ギールは相棒を救うために、自分が彼女から離れる決心をするきっかけを作った竜に、誰も成し遂げたことのない超長距離狙撃によって、天才の隣に立つ自信――その技量そのものは、逃避の成果だと彼自身否定してはいるが――を得た。


 しかし、その挑戦の成否を問わず、彼女の心を変える要因が別にあったことを、ラヴァルは知らない。


 ともすれば、彼は徒労の末に目的が勝手に果たされたと言えるが、それはさして重要じゃない。


 肝要なのは障害の克服ではなく、人物の動きそのものだからだ。


「あの時の大喧嘩を経て……ボクのなかにも、他人任せにできない……信念、って、言えばいいのかな……があることに、気付いたんだ。それは……ラヴァのボクに対する感情への反感……みたいなものがあったりして……今思えば、それもボクが弱る結果にもなったのかも」


 たどたどしく喋るジェニスの合間を縫ってラヴァルは口を挟む。


「それは、俺の弱さに嫉妬してるって言ってたやつか?」

「そうかも、しれない」


 でも、と組んだしなやかな指に、視線を落としながら、悩ましげに唸る。

 しばらくの無言のあとに、意を決したように、ジェニスは顔を上げた。


「そう。ここが、うまく言えないんだけど……さっき言った嫉妬も、消えてなくなってるわけじゃない……けど、心の優先度って言えばいいのかな……今はキミへの嫉妬なんかより、大事にしたい感情があるんだ。それはきっと、ボクが弱る前にもずっと前にあって……だからボクは、この女の子の体が、最初からこうだったみたいに、しっくり来てたのかなって」


 今でも彼女のなかには、ラヴァル・ギールへの弱さに対する嫉妬心は燻っている。


 それが衰弱という形で出てこないのは、それを勝る感情が、彼女を体現しているからだ。


「つまり別な感情が、俺への嫉妬心よりも先にあって……それが女体化の原因ってことか?」


「たぶん、ね」


 ラヴァルは神妙な面持ちで顎に手をやり、真剣に悩む。

 隣で、頬をうっすらと染めながら、所在なさげにする彼女を置いたまま。


「なぁ、その……」まとまらない様子で口火を切った。

「結局、女体化の原因になった、別の感情ってなんだ? いや、待て……もしかして、俺が望んでるから、とか……そういうわけじゃねぇよな……別にお前に、女になって欲しいなんて思ったことねぇし……」


 疑問が脳内を占め、ショート寸前の真顔で、ラヴァルは尋ねる。


 その不躾極まりない質問に、ジェニスは一瞬で澄んだ面持ちとなった。


 なぜ、ジェニス・ギールが女体化していたのか。


 ヨランドは、ラヴァルがジェニスに恋慕を抱いていたのではないかと邪推したが、彼にそんな感情はまったくない。


 そう、まったく。微塵も。

 不憫な話で、それはそれで愉快だった。


 ジェニスは、なお純真な表情を見せるラヴァルに、視線を彷徨わせる。


 そして。


「なぁ、ラヴァ」


 質問に答える代わりに、口元を覆うほうとは逆の行き場のなくなった手を取り、頬に当てた。


「キミは初めから、ボクのことをジェナと呼んでくれたね。あれ、本当はとても嬉しかったんだ……どんな姿になっても、キミはボクを見つけてくれるってね」


 ラヴァルは無言のまま、添えられた手に灯るほのかな体温に、緊張を走らせた。


「でもわからないんだ。キミはどうして……ボクを見つけることができるんだい?」

「んなの、見りゃあわかる」

「ボクが、怪物になっても?」

「ああ」


 まっすぐとジェニスを見つめ、ラヴァルは断言した。


「お前が、俺を相棒と呼んでくれるなら」


 頬に添える手から力が消え、薬指が顎の輪郭を撫でる。


「ん」無意識に、鼻から吐息が抜ける。

「まったく……最っ低な男だな、キミは」

「はぁ?」突然の非難に、ラヴァルは反駁しながらも訝る。

「意味わかんねぇよ、なんのことだ?」

「いや、なんでもない」


 純朴な表情を見せる彼に、顔が一瞬だけ寂しそうに陰るも、そう言って誤魔化すと。


「ところでラヴァ」

「なんだ」

「このやり取りは……ちょっと、さすがにボクも恥ずかしいかなって、思うんだけど……」

「あぁ……? あっ……!」


 言われて、ラヴァルは見渡す。

 周りではジェニスに気付いた乗客たちが、長椅子に座りながらも、彼女を中心に視線の環を作っていた。


 そんな環のなかで、猫をあやすように彼女の顎を撫でていることに気付き、ラヴァルは隣の席まで飛びのいた。


「ち、ちがっ! いやっ、元はといえばお前が――!……うぉあ!」


 共同不審になりながら、勢い余ってベンチに仰向けで倒れ込む。周りから控えめなどよめきが広がる。


 ラウス兄妹から続くジェニスの人気は、いったん落ち着きを見せたものの、その知名度はいまだ健在だった。空港内は立ち上がった彼女を中心に人の輪が出来上がっており、ウィスプカメラ越しでない彼女の姿を捉えようとしてる。


 そして人だかりの中には、ジェニス以外を追う視線も混じっていた。


「今倒れたのって」「『天弓』だよ! 半月前に五キロ先のリビルドを狙撃で撃墜したっていう伝説の!」「それ眉唾ものの噂でしょ? カメラの不調で記録も残ってないらしいし」「いやでも! 実際中継で狙撃が命中した場面を見た奴はいっぱいいるんだって!」「へー」「俺も見たかったなー!」


 ざわめく観衆に紛れた噂が耳を掠め、ラヴァルは歯の浮いた面持ちになる。

『天弓』とは、超長距離狙撃で『カエル顔』を討伐したラヴァルに名付けた二つ名だ。

 あの日ラヴァルの行った狩猟任務自体は、途中の経緯も相まって公式に残ることはなかった。ドラゴン商社としては、都市を脅かし、かつ自身の秘密に関わる存在を都市民に周知されるわけにはいかず、映像記録も消去されて見返すこともできない。


 しかしある日、非公式で任務内容を収録した記録媒体が流出したことにより、彼の偉業ともいえる神業が、ニッチな競技観戦者たちの間に広まることとなった。


 記録媒体の流出の犯人は見つかっていないが、それのおかげでラヴァルは『知る人ぞ知る隠れた棺持ち』として一目置かれる存在となっていた。


「あぁクソッ! いつまで見てんだてめぇら! ほら散れ散れ、こちとら見せもんじゃねぇんだよ!」


 ジェニスに手を引かれて立ち上がり、こちらに目を向けてくる乗客の群れを睨みつけて威嚇する。

 名残惜しそうに日常に戻っていく群衆を眺めながら、ジェニスは可笑しそうに微笑んだ。


「しっかりしてくれ。このボクが、せっかくキミの門出を見送りに来たんだから」

「あ、ああ……。わりぃな、早速みっともねぇとこ見せちまった」

「ヨリィが忙しくてよかった。いたら今頃大笑いだったろうに」

「まったくだ……」


 適当に雑談しながら、制服の埃を払うジェニス。


 ラヴァルが着ているのは、卒業した学園の緑の制服ではなく、ドラゴン商会が擁する軍事部門の、黒を下地に赤色のラインの入ったものだった。


 床に落とした制帽を手渡すと、ジェニスは自慢げに鼻を鳴らす。


「うん、似合ってる。かっこいいよ」

「やめろよ。どうせ二年くらいしか着ねぇんだから」


 自分のことのように喜ぶジェニスに、ラヴァルは照れくさそうにはにかんで制帽を被った。


 ラヴァルは、商社の軍事部門へ入職することにした。


「それが恥ずかしいなら、やっぱりボクと一緒にプロリーグに来るかい? キミ以外でボクについてこられる人材を探すなんてって、ヨリィも愚痴ってたよ?」

「そっちが目的じゃねぇって、前にも言われてただろうが」


 ジェニスはヨランドをリーダーとした開拓課に属する傍ら、狩猟競技のプロリーグで名声を稼ぐようだった。商会の下部組織とはいえ、経歴的には独立組織である開拓課において、未だ足りない予算を工面する目的と、世間のイド開拓の注目度を集める目算があるのだと、前にヨランドが言っていたことを、ラヴァルは思い出す。


「わかってるよ。ボクがお金と名声を集めて、キミは兵役期間の二年でイド開拓に必要な知識を学びながら鍛える。そのあと、開拓課に来るんだよね」


 各天球都市に存在する企業の軍部は、王権時代にあった国軍が、古代の制服時代や革命時代以降外敵の脅威が消えたことで縮小を始めており、現在ではイドで遭難した棺持ちや柱守の救助部隊としての側面が大きい。そこでは、コフィンを用いた危険地帯へのサバイバル技術や、リビルドの研究や対策にも力を入れており、イドに関する現場の対処法は警備課よりも抜きんでていた。


「二年……か」物憂げに、ジェニスは呟く。

「寂しくなるね」

「バーカ。たった二年だよ」とラヴァルは言って。

「心配すんな。もう逃げねぇ……お前の隣に、胸張って立ってられるような男になってやるさ」

「ラヴァ……」

「それまで、別の相棒で満足すんなよ?」


 ラヴァルとしては軽口のつもりで吐いたその台詞に、ジェニスは心外そうに丸い目を細めて顔を逸らした。


「ラヴァこそ」横目で睨みながら。

「軍にお似合いの人がいても、そっちに逃げるなよ」

「んなことねぇって。お前以外に、俺と釣り合うやつがいるもんかよ」


 ほんのわずかに不機嫌さを醸し出したジェニスに気付かないまま、ラヴァルははははっ、と笑いながら彼女の肩を叩く。


 ポーンという音が、二人の頭上に鳴る。


 続けて定期便の発車を告げる案内が流れると、ラヴァルは床のバッグを肩にかけ直した。


「時間だな」

「……ああ」


 言葉をこぼすジェニスの煮え切らない様子に気付くと、ラヴァルはもう一度、手を首にやる。


 そしてやぶれかぶれに、拳を突き出した。


「ほら」


 怪訝そうなジェニスに向かって、ラヴァルは顎をしゃくって催促する。その仕草にクスリと笑みを漏らすと、彼女も小さな拳を作り、ラヴァルに合わせた。


「なんだい、これ?」

「俺もよくわかんねぇけど、こういうまじないがあるんだと」

「まじない?」首を傾げながら。

「また、キミらしくないね」


 拳同士を押し合わせたまま微笑み合うと、差し合わせるでもなくお互いに腕を下げた。


「またな、相棒」

「うん、待ってる」


 ラヴァルはゆっくりと身を翻して、受付に向かう。思い出したかのように、耳元へ雑踏が飛び込んで、現実に引き戻されたような感覚共と共に、これからの二年間を想像した。


 ジェニスのいない二年。隣に相棒のいない二年。

 その空虚な不安を誤魔化すようにカバンを背負いなおした時だった。


「ラヴァ」


 雑踏のなかで、その声は鮮明に届いた。

 無邪気さと、溌溂さを混ぜた、純粋な声音。


 ふと、振り返る。


 ラヴァルには、振り返ってすぐにジェニスの顔があっただろう。


 ジェニスは胸を合わせられるまでラヴァルに近づく。

 その距離に気付いたラヴァルの瞳が見開いて、固まる。


 床に落ちたカバンの音が、遠く響く。


 凍る頭、指先、足元……。


 その中で、重なった唇だけが、熱を持っているかのようだった。


 至近距離で、二人は視線を結ばせる。


 互いの瞳を合わせ鏡にしたまま、十数秒。


 ぷは、と。呼吸を求める小さな鳴き声を合図に、唇が離れる。


 ラヴァルは未だ、凍り付いたまま。

 目の前の少女の火照った顔と、ついさっきまで結び合った唇に人差し指が立つ。


「再会の……まじない、だ」


 精一杯の笑顔を作ったジェニスは最後に辛うじてその言葉を残して、ジェニスは走り去った。


 それから何分経っただろうか。

 すでに予定の定期便が過ぎ去り、次の便の案内が流れる頃。


「……は?」


 ようやく、解凍し始めた少年の指先が、熱の灯った唇に触れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はぐるまバディに性転のララバイを 葛猫サユ @kazuraneko_sayu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ