駈込み訴え

泉 京助

星・光・道標

ある男

あの方は私を捨てたのです。私が全てを投げ打ってお仕えしてきたというのに、あっさりと。他の使用人と同じだけの手切金と、暇を出すの一言で私を捨てたのです。私はあの方に出会って以来それまで大切にしてきたものも、忌み嫌ってきたものも真っさらに均して、あの方に役立つものだけを持って生きてきたのです。あの方のためだけに私の全てが存在していたのです。あの方のためならば酒宴の余興に人を殺めることもしました。地へ這いつくばることもしました。寝屋に侍ることもしました。あの方が望むことは全て叶えてきました。あの方が死ねと言うのなら、私は喜んで首を括ります。腹を切ります。あの方が無邪気に笑って生きてゆく、その一助となるのならどんなことも苦ではありません。そう思って生きてきたのです。だというのに、今日、あの方は私を捨てました。他の使用人と変わらぬ金と、飽いたものへと向ける、あのつまらなそうな声が最後に私に与えられたものです。あんまりにも惨めです。まだ元服も済ませていない頃にあの方に出会い、これまでずっとあの方のためだけに生きてきたというのに。まるで遊び飽きた玩具がごとく、私は捨てられたのです。あの方の声音に特別な響きはほんの少しもありませんでした。気に入りの玩具であろうと飽きればなんの躊躇もなく捨てる方です。ああ、私もまた簡単に捨てられる玩具の一つだったのだ。そう思うと酷く悔しく、口惜しく、私はあの方が憎らしいとさえ思ってしまうのです。あの方がいつまでも無邪気に、残酷に笑っていられればそれでいいのだと何度も言い聞かせました。それだけを願って生きてきたのだろうと。けれど駄目なのです。私は、その隣にいたかったのです。あの方が虫の羽を毟る幼子のように、無垢な悪意で人を傷つけ喜ぶ横に、私の姿があってほしかったのです。なんと傲慢なことでしょう。あの方が真に望むことだけを叶えることができれば、それが幸福なのだと。そう信じていた頃の私はあの方のお側にいたからそんな風に思えていたのです。私は、あの方と共にいたかった。あの屋敷であの方に仕え、あの方のためだけに生きていたかった。あの方の幸福に、私が必要であるとそう言われたかった。あの方の人生に私が欠けてはならぬ唯一無二のものでありたかったのです。ああ、ああ、なんという高望み。不遜なこと甚だしい。私は、たといあの方のお側にいられなくともあの方が今日も無邪気に笑っていることを信じそれを幸福として生きていきたかった。最初はそうだった筈なのに。だというのに、私はあの方のお側にいるうちに増長し、あの方の欠くことのできぬ一部になりたいなどと思うようになってしまった。ああ恥ずかしい。今もあの方に仕える人間への愚かで醜い嫉妬心すら、あってはならぬものだというのに。このような有様ではあの方のお側にいるにも相応しくない。ああ、だから私は捨てられたのだ。あの方への怨嗟を吐き出してしまうような醜悪な存在があの方のお側に侍ろうなどと、烏滸がましいにも程がある。ああ、私は決してそうはならぬようにと思い見てきた人間と同じになってしまった。あの方の特別になりたいと言って狂い喚いていた人間と同じに。

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