水の滴る音がしました。

 それまで何をしていたのかは分かりません。どうにも記憶が曖昧なのです。足元に溜まった水に滴の落ちる音で、引き戻されました。眠りから醒めるような覚醒です。辺りは暗く、小さな灯りが一つあるばかりだったので目が慣れるまではほとんど何も見えませんでした。手が生暖かく濡れていました。それから足も。

 次第にはっきりとしてきた視界は赤黒い血で埋め尽くされていました。私が聴いた水の滴る音、あれは水ではなく血が、血液が滴る音だったのです。両の手を濡らし、足元に溜まるほどの血です。随分な量になるでしょう。私はの体にはなんの痛みもなかったので、誰か違う人間のものだろうと思いました。そうして、この血を流した人間は死んでいるだろうとも。

 ええ、ええ、私は何も覚えていませんでした。なぜ己の手が血塗れになっているのか疑問を持つこともしませんでした。ただ、足元に倒れ伏した人があの方だと気付いて叫ぶことすらできず時でも止まったように固まってしまったのです。

 あの方は腹を真っ赤に染めて床に転がっていました。私を映して欲しいと願った瞳は薄く濁り、私に語りかけてくださる様を幾度も夢見た口は苦悶に歪んでいました。あの方が私の名を呼んでくださることに勝る幸福はないと、そう思って生きてきたというのに、私はその機会を永遠に失ってしまったのです。自らの手で無くしてしまったのです。

 腹に添えられた手は強張り、私の手と同じように赤く濡れていました。まだ僅かに血が流れ出ています。血色の良かった白い頬が青褪めていくのが見えて、私まで血の気が引きました。

 あの方はもう生きていませんでした。そこにあったのはあの人の形をした血と骨と肉の塊でしかなかったのです。私の愛した魂はもうどこにもありませんでした。

 人形のように突っ立って、指の一本も動かせないままあの方の死体を見つめているうちに、私の脳裏にあの方を刺し殺した記憶が蘇ってきました。濡れた手が冷えていくのと一緒に私の体まで凍りついていくようでした。なぜこんなことをしてしまったのか。過去の己のことが理解できませんでした。ほんの少し、十数分前の己の思考すら理解不能なものでした。

 決して、あの方を害する気など、まして殺す気などなかったのです。私にはあの方しかいません。あの方だけが私の全てでした。あの方は私が愛し尊ぶ唯一のものです。私の中にある尊敬と崇拝と情愛と、そういう名のつく感情全てがあの方だけのものでした。

 ああ、でも、そう、私はじっとりと汗の滲んだ手でナイフを握っていたのです。それが殺意故でなければなんだと言うのでしょう。

 分かっております。

 確かにナイフを手にした瞬間、私の内にあった衝動は殺意だったのです。けれど、私はあの方を殺そうとは思っていなかったのです。行き場のない激情が私の思考を狂わせたのです。無意識に握ったものがナイフだった。それだけです。そうでなければおかしいのです。

 私があの方を殺す筈がありません。だから、これは何かの間違いなのです。

 夢、そう、それです。これは夢なんです。ああ、きっとそうだ。ぜんぶ、全部私の見た夢です。あの方のことを私が殺すだなんて、そんなことをする筈がないのですから。

 これは夢です。愚かにもこのままならぬ想いを殺意という形で発露してしまった愚かな私の夢です。可能性の一つです。有り得べからざる未来です。

 すべて、私の見た夢なのです。

 今こうして喋っている私も、それを聴く貴方も全てが私の脳が作り出した幻です。そうに違いありません。私は朝日が昇るのと一緒に起きて、これからもあの方にお仕えするのです。

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