信仰
予兆はありました。
ほんの些細なことです。あの人が窓の外を眺めるその視線の先にいつも同じ人間がいたのです。以前はただボンヤリと人の行き交う様を眺めているだけだったというのに、最近はたった一人を追って目線があちこちへ動いていました。
珍しいなと思いました。あまり特定の人間に興味を持つ人ではありませんでしたから。気になって私も同じ方を見てみれば、いつも同じ男がいるのです。異国風の豪奢な刺繍の施された不思議な形の服を纏っていました。腕や脚に重ねられた装身具が春の日差しを弾いてチラチラと輝くので、目を惹かれれたのを覚えています。手足の甲に入った墨も珍しく、きっとそういう風貌があの人に興味を持たせたのだろうと思いました。
あの人は毎日のように窓辺に座り、その男を一心に見つめていました。随分熱心な姿に驚きはあれど、そのうちに飽きるだろうという予想もつきます。幼い頃から側で見てきましたから、それなりにあの人のことは理解しているつもりです。それに、あの男もそう長くはこの街に留まらないだろうと考えていました。あの人が飽きずともあの男が先にここを去るのだから、なんの問題もありませんでした。その筈でした。
気づけば
私の中にうっすらとした不安が積もっていくのが分かりました。形容し難い不快感に臓腑が重くなるような、得体の知れない不安です。
あの男が屋敷に訪れてきたのは、さらに
あの男は砂漠の向こうから来た、ハラルという豪商の愛娘の供の一人でした。
日の暮れぬ内から始まった宴でした。あの人は月が昇る頃には宴を抜け、自室へ戻っていました。酒に強いわけでもありません。宴の喧騒に耳を傾けるあの人の頬は赤く色づいていました。銀杯に注いだ水を差し出せばその水面を
あの男の名はウシィムで、ハラルの娘の用心棒の一人だということ。生まれは砂漠の向こうのさらに南で放浪生活をしていたところを、腕を見込まれ雇われたということ。それ以外にもたくさんのことをあの人は話しました。初めてのことでした。あの人があんなに喋るのを聞いたのは。酒に酔っていたせいかもしれません。けれど、それだけが理由ではないのだと私にも分かっていました。分かっていても考えたくありませんでした。それはきっと私にとって最も残酷なことです。この世で一番に辛いことです。
「ねえ、どれぐらいの金を出せばウシィムは俺のものになる?」
こちらへ向けられたあの人の瞳には好奇以外の色が見えました。幼子のように無垢なあの人にある筈のない情が滲んでいるのです。
いえ、そんな筈がありません。あの人はいつだって美しく侵しがたい存在です。あんな男一人に気をかけて、まして、そんな俗人のような感情を抱くなどあり得ないことです。あの人は神にも等しいのです。全て私の思い違いなのです。
少しずつ私の内に積もっていた不快さが今になって私を許容量を超えたようで、酒の一滴も飲んでいないというのに喉元まで吐気が迫り上がってきました。額に滲んだ汗が気持ち悪くて、それすらも暑さのせいなのかこの吐気のせいなのか分かりません。これ以上あの人の言葉を聴いてはならないと脳が警鐘を鳴らしていました。頬を染め、恥じらうように口端を歪めるあの人の姿は、それじゃあまるで──。
あゝ、厭だ。聴きたくない。その先を、どうか口にしないでください。いつまでも無垢な人であって欲しいのです。貴方ほど無邪気で、美しくて、神聖な人はこの世にいません。貴方こそが私の神なのです。どうか、穢さないでください。お願いします。私には貴方だけなのです。──あゝ、どうか何もかも忘れてください。
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