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恭子の爪は伸び続けていました。

爪先の白い部分は一センチほどになっていました。これほどの長さになったのは初めてでした。

恭子は、爪が伸びすぎると、生活のさまざまな部分に変化が生じることを知りました。

まず、鉛筆や箸の持ち方が変わります。細長い棒を握った時に、親指と人差しの指の爪同士がぶつかり合ってしまうので、これまでよりも親指の位置を下にしなくてはなりませんでした。

そして、髪の洗い方も変わりました。これまでは指先を少し曲げて洗っていましたが、爪に髪が引っかかるようになったので、指の腹で撫でるような洗い方をするようになりました。ドライヤーをするときも同様です。

また、教室で、前の席から回されたプリントを受け取る時は、爪で相手の手を引っ掻かないように注意しなくてはなりませんでした。教科書やノートのページをめくるのに手間取り、家族共用のパソコンで調べ物をする時のタイプミスが増えました。

最近では、恭子は爪の裏をほじくる癖がついてしまいました。

家で宿題をやりながら、芯をしまったシャーペンの先端で爪の裏に溜まった細かなゴミをほじくり出しました。たまに学校でも、つい鉛筆でほじくってしまい、爪が黒鉛の粒で灰色になりました。恭子はその度に、学校の手洗い場で石鹸を泡立てなくてはなりませんでした。

恭子の爪の先端は少しギザギザしていました。爪の表面には、白い縦の筋が数本入っていました。数日前から、右手の人差し指と左手の親指が二枚爪になり、表面が薄くめくれていました。

恭子は最近、ネイルケアをしていませんでした。

あれほど情熱とお金をかけて集めた大量のネイルケアグッズは、ビニール袋にひとまとめにされ、引き出しの奥に突っ込んでありました。

周囲の人は、そうした恭子の変化に気づいていないようでした。お母さんも里穂ちゃんも紗奈ちゃんも、恭子の爪は視界に入っていたはずですが、特に何も言いませんでした。もしかすると、初めから恭子の爪に対して、誰も何とも思っていなかったのかもしれません。

恭子は、自分の爪をどうしたらいいのかわからなくなっていました。

切るべきか伸ばすべきか、整えるべきか放置すべきか。切るとするならばどれくらい切るべきなのか、整えるならばどの程度まで整えるのか。

恭子は、自分が目指し、維持すべき爪を見失っていたのでした。

細長く、左右対称にカーブし、潤んだような艶のある爪は、恭子にとって、もはや正解でも理想でもありませんでした。しかしだからといって、丸く短い、平坦で貧相な爪に魅力を感じていたわけでもなかったのでした。

恭子の中で、従来の爪に関する価値観が崩壊していました。恭子は毎日、迷子のまま授業を受け、ご飯を食べ、トイレに行きました。

でも流石に、もうそろそろ限界かもしれません。

恭子がいくら石鹸で洗っても、爪が汚れているような気がしてなりませんでした。いつの間にか、こびりついて取れなくなった黒鉛で、爪裏が全体的に灰色を帯びていました。指の腹でしか洗えない髪は、いつも油ぎっているような気がしました。夜中にふと目が覚めて、指先がなんだかもじもじして、気になって眠れなくなることが何度かありました。

学校から帰ってきた恭子は、部屋で一人、勉強机の前に座って爪を眺めていました。時間は十六時を回ったところです。もうかなり日が傾いてきていて、部屋は薄暗くなっていました。一階から包丁の音が響き、お母さんが夕飯の準備をしているのだとわかりました。

明かりもつけず、恭子は座っています。

恭子は引き出しを開け、しわくちゃのビニール袋の中身をかき回して、爪切りを探し出しました。遠い昔に、恭子がお小遣いをはたいて買った、テコ型の爪切りです。上部をくるりと回転させると、裏側のヤスリが使えるような仕組みなっています。

恭子は恐る恐る、左手の人差し指の先端を、少しだけ爪切りの口に入れました。ぴちん、と密やかで可愛らしい音がして、左手の人差し指はわずかに短くなりました。

恭子はもう一度、もう少し奥まで爪を爪切りの口に差し込みました。今度はぶつん、と太い音がしました。

恭子はだんだん止まらなくなってきました。

ぶつんぶつんぶつんぶつんぶつんぶつん、と爪を切り続けます。爪切りから爪のかけらが溢れて、恭子の足元に散らばりました。

爪の白い部分がなくなりました。

恭子はまた爪を切りました。今度は、ぶ、と鈍い音がしました。

ぶ、ぶ、ぶ、ぶ。爪と肉の間に赤い血が滲んできました。心臓の鼓動と連動して、指先も伸縮しているような感覚がありました。

恭子は手を止め、人差し指に顔を近づけました。ぼんやりとした空間の中で、爪のふちの赤色だけが鮮やかでした。

新しい恭子の爪は、歪で、痛々しく、妖艶で、息を呑むほどの美しさを放っていました。

恭子は人差し指を口に含むと、舌で爪をなぞりました。じんわりと広がる鉄の香りを、いつまでも味わっていました。

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