非事故物件
蟹場たらば
誰も死んでいない事故物件
遠方への転勤が決まったので、引っ越し先について検討する必要があった。
ちょっとしたトラブルが起きたために、私が不動産業者の事務所に着いた時にはすでに営業時間は過ぎてしまっていたが、今後のことを考えると予定を先延ばしにはしたくなかった。すると、担当者が融通を利かせてくれて、今から彼の車で内見に向かうことになったのだった。
「一つ確認しておきたいことがあるんですが……」
候補のマンションに到着する前に、私は意を決して口を開いた。
「これから見に行く部屋は、事故物件ではないんですよね?」
「ええ、近くに刑務所や暴力団事務所の類はありませんよ」
彼の言う通り、いわゆる嫌厭施設の存在も、事故物件の要件(心理的瑕疵)には違いなかった。しかし、私が聞きたかったのは、それとは別の要件についてだった。
「過去に自殺や殺人事件が起きたりしていませんか?」
「はい、そういった問題もありません」
「何か痛ましい事故が起きたりとかは?」
「確かに、火災のような日常的ではない事故で死者が出たり、病死でも死体の発見が遅れて特殊清掃が必要になったりした場合は事故物件に認定されますが、それらに該当するということもありません」
心理的瑕疵を始め、物件に何かしらの問題(物理的瑕疵、法律的瑕疵など)が存在する場合、貸主には借主にあらかじめ告知する義務が生じる。そのため、業界では最初から情報誌やサイトに、「告知事項あり」などと記載することが一般的になっているという。けれど、候補のマンションに関してはそのような注釈はなかった。
ただし、この話にも抜け道があるらしかった。
「売買契約と違って、賃貸契約では事件から三年経つと告知義務はなくなるんですよね? ただ、その場合も質問された場合は答えなくてはいけないと聞いたんですが」
「もちろん、建築当初から今日まで一度も事件は起きていませんよ」
約束の時間に遅れてきた挙句、営業時間の延長を頼み込んできて、その上しつこく事故物件かどうかの確認までしてくるあたり、私はさぞや面倒な客であることだろう。にもかかわらず、彼は紳士然とした態度を崩すことはなかった。
「何度もすみませんでした。いい年した男のくせにと思われるかもしれませんが、どうしても幽霊の類が苦手なもので」
部屋や廊下の電気をつけないと夜中にトイレに行けない。少しの物音にもびくついてしまう。寝る時は夏場でも足を布団で覆いたくなる…… 子供の頃からずっと、私はそういう性分の人間だった。実家を出るのは今回が初めてだが、一人で生活できるのかという不安よりも、一人だと幽霊に狙われやすいのではないかという恐怖心の方が大きかったくらいである。
しかし、そんな情けない私に対しても、「正直、私も事故物件は怖いので担当したくないんですよね」「これから暮らすお部屋のことなんですから、なんでも気軽に聞いてください」と彼はやはり紳士的に対応してくれたのだった。
中心街から少し遠いのが欠点だと、出発の前に説明を受けた。その話通り、マンションに着く頃には、もうどっぷりと夜は更けてしまっていた。
ネットの内見動画を視聴済みだから、これはただの最終チェックだ。ここまで迷惑をかけ通しだし、ちゃっちゃと終わらせて契約してしまおう。そんなことを考えながら、私は彼に続いて部屋の中へ入っていく。
「こちらがリビングですね」
暗いせいでマンションの外観を見た時にはピンとこなかったが、明るい室内を目にしてようやく実感が湧いてきた。なるほど、確かに彼の言う通りらしい。「建物自体が比較的新しい上に、部屋を最近リフォームしたばかりなので、新築かと思うほどなんですよ」という言葉はセールストークではなかったようだ。
「よければキッチンの方もご確認ください」
私が候補に選んだ部屋は、1LDKでコンロつきのものだった。実家にいた頃からちょくちょく料理はしていたが、節約や栄養バランスのことを考えて、引っ越し後は本格的に自炊を始めるつもりだったのである。
動画で見た通り、コンロは二口のガスコンロだった。一口で十分だという話も聞くが、料理をするなら口数はやはり多い方が便利なようである。また、ガスとIHでは――
そこまで考えたところで、私は思わず背後を振り返っていた。
だが、そこにはやはり彼の姿があった。
それなら、今リビングの方から聞こえてきた、何かが走るような音は一体なんだったのだろうか。
「どうかされましたか?」
黙ったまま視線だけを向けてくる私を訝しんで、彼はそう尋ねてきた。決して、「さっきのは何だったんでしょうね?」などと言ったりはしない。
どうやら足音がしたというのは、私の気のせいに過ぎなかったようだ。もしくは、家鳴りや隣室の生活音を誤認してしまったのかもしれない。疑心暗鬼を生ずというか、幽霊の正体見たり枯れ尾花というか、こういう勘違いは私のような怖がりにはよくあることだった。
「次は洋室を」
そう言いながら、彼は平気な顔でリビングを横切っていく。やはり足音は私の勘違いだったようで、何事もなくドアの前までたどり着くことができた。
しかし、彼がノブに手を掛けた、まさにその時のことだった。
中から声が響いてきたのだった。
それも普通の人間の声ではない。悲鳴や金切り声とでも言えばいいのだろうか。妙なほどに甲高い、異様なものだったのである。
「……今、声がしませんでした?」
「いえ、私には聞こえませんでしたけど」
では、どうしてノブを回すのを途中で止めたのか。そんな私の疑問を払拭するように、彼はすぐにドアを開けた。
洋室の中には――誰もいなかった。付帯するウォークインクローゼットも同様である。「声なんて聞こえないと言ったでしょう?」とばかりに彼はすまし顔をした。
けれど、不法侵入者でもいた方がまだよかったのに、というのが私の正直な感想だった。本当に部屋に誰もいないのだとしたら、先程の奇妙な声はこの世のものではないということになってしまうからである。
そうして青くなる私をよそに、彼は部屋の案内を続けていった。洋室の次は洗面所へ。さらに洗面所の次は浴室へと向かう。
「!」
ドアを開けた瞬間、私も彼も思わず息を呑む。
浴室というよりも、まるで屠殺場だった。
壁や床のあちこちに、血飛沫が飛び散っていたのだ。
「赤錆ですかねぇ。よりにもよって、内見の時に参ったなぁ。あとで業者に見てもらいますから、そう心配しないでください」
大したことではない、心霊現象なんかではない、というアピールだろう。彼は微苦笑を浮かべながら素手で血に触る。だが、今までのものと違って、ぎこちない不自然な笑顔だった。
「謝ってほしいとは言いませんから、せめて本当のことを教えてもらえませんか?」
「本当のことってなんですか?」
「事故物件なんでしょう?」
「…………」
これまでの足音や悲鳴とは違って、今回は血というはっきりとした証拠が残っているのである。もはや言い逃れはできないだろう。
しかし、この期に及んで、彼はまだ疑惑を認めようとしなかった。
「事故物件がどんなものかはご存じですか?」
「ですから、自殺や殺人があった物件のことでしょう?」
「その定義で言えば、この部屋は事故物件ではないんですよ」
いつの間にか、例の紳士的な態度を取り戻していたらしい。彼は平然とこう説明した。
「殺されたのは猫ですから」
(了)
非事故物件 蟹場たらば @kanibataraba
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