第29話
「他人に暴力はダメなんでしょ? 親と子も血は繋がってますけど、同一人物ではないですよね。じゃあ他人とちゃうんですか?」
笹原は一歩踏み出した。私はまた後退したが、風に膨らんだカーテンが背中を撫でた。笹原は私との距離を詰めて、左手を振り上げた。目を瞑ると首が伸びたのではないかと思うほど衝撃が走った。さっきとは逆の頬が熱を持った。
「痛い!」私は笹原を睨めつけてやった。「このこと、教頭に言うから。こんなんただで済まされると思うなよ」
「じゃあ私は今から教頭と児相に安中先生が子どもに虐待をしてること言いますね」
では、と言い私に背を向けて教室を出ようとする笹原の手首をつかんだ。笹原は腕に力を入れることなく私を振り返った。特に何も言う様子はない。私は笹原を非難する言葉を探した。言語化した言葉は喉に装てんしているのに、一向にその銃弾が飛び出す見込みがない。
「わかったから」
「何がですか?」
笹原は頭を傾げた。露骨な態度に腹が立つが、非難すれば私自身がどういう運命をたどるかということは脳が理解している。
「私を叩いたこと言わへんって」
「わかりました。でも息子さんを叩いてますから、それは児相に言いますね」
笹原は機械の操作でそうなっているように、口角が上がった。屈託のない笑顔はこの状況と調和しておらず、加えて窓から冷風がどんどん入ってきて、私は一刻も早くこの会話を終わらせたかった。
「息子も叩かんから。頼むから言わんといて」
「自己保身のために言われてもねえ。やっぱり私は安中先生の息子さんがかわいそうやと思うから言おうと思います」
「直人は、受験直前やねん。今は勉強のやる気なくしてるけど、ほんまやったらいける子やねん。私が見たらなあかんねん。あの子は何考えてるかわからんとこもあるし、私のことも嫌いなんやろうけど、ちゃんとやったらいい子に育つはずやねん。頼むて」
笹原は私の掴んでいた腕に力を入れて、胸元で腕を組んだ。
「まあ今回は見逃してあげますね。この前アドバイスしてくださった一件もありますし」
では失礼します、と言って笹原は教室を出て行った。私が笹原の姿を追うとすでに階段を下りていく足音だけが響いていた。両頬をたわしで強く挟まれているような痛みが継続している。直人も同じ痛みを抱えていたことになる。しかもまだ十二歳。
脚の力が抜け、階段に座り込んだ。なぜか直人が四歳や五歳の頃の映像が頭に思い浮かぶ。直人は昔から嘘がつけないタイプで、好きな女の子と遊んだことや友達と喧嘩して泣かせてしまったことまでよく私に話してくれていた。
私は立ち上がって、教室に戻り、荷物をまとめてドアの鍵を閉めた。今日は残業しないで家に帰る。久しぶりに直人の好きなハンバーグをつくろう。最近手間がかかる料理はしてこなかったから、たまには時間をかけるのも良いだろう。じんわりと刺す痛みが残る頬に手を当てて、ハンバーグの手順を頭に思い起こした。
私のキョウイク 佐々井 サイジ @sasaisaiji
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