弁別

山猫拳

 橙色だいだいいろの光がデスクトップパソコンのディスプレイ下から長く伸びて、兵頭ひょうどうせわしなくタイピングしている丸々とした指先を照らす。


 物件情報を更新する手を止めて、店の入口、自動ドア脇の壁に掛けてある時計を見上げる。カンカンカンと鳴り続ける踏切の音が遠くから聞こえる。やっと閉店準備に取り掛かる時間になったと、ふうっと息を吐いた。


 パツパツに突き出したお腹をさすりながら、よっこらせと言って立ち上がる。某有名国立大学近くに構える優良会社、田貫たぬき不動産大学前店。


 兵頭がこの店舗てんぽの営業主任になって三年が経つ。丸々とした体に七福神の恵比寿そっくりの垂れ眉。兵頭は福を呼ぶ名物営業おじさんとして社内では知られている。


 県内に10店舗ほど展開する田貫不動産。大学前店は立地のせいか、三月はそれこそ猫の手を借りても足りないくらいの忙しさだ。中期日程の合格発表も終わり二十五日を過ぎるとようやく社員たちは休みが取れるようになる。

 

 今日はほとんどの社員がフレックスや半休を申請したため閉店間際まで残っているのは兵頭だけだった。


 主任は年俸制になる代わりに残業が付かない。昨今の有給奨励や働き方改革のひずみは残業し放題……通称、残業ホーダイの主任に押し寄せてくる。


 窓のブラインドを下ろし、店舗てんぽ入口の自動ドアに再び目をると、ガラスの向こうに一人の少年が立っていた。少年はうつむいたまま、店の中をうかがうように頭を左右に動かす。


 ほっそりとした体躯たいくに、黒縁の眼鏡。ニットにジーンズの出で立ちから、この春から大学生になる少年だろうと、兵頭は思った。兵頭が自動ドアの前に歩み寄ると、音を立ててドアが開く。大きな兵頭の影に、少年はびくりと肩を動かした。


「いらっしゃいませ、一人暮らしのお部屋をお探しですか?」

「あ……は、はい。その、まだ学生向けで残っているところがあれば、見に行きたいんですが」

 少年は俯いたまま早口でそう喋った。


「春から大学生ですね? 私、営業主任の兵頭と申します。大丈夫ですよ。ウチは地元密着型の不動産屋でしてね、扱っている物件の数は全国チェーンの不動産なんかよりずっと多いんですよ。きっと気に入る物件に出会えます」


「本当ですか? 良かった」

 少年は、はにかんだ様に笑って兵頭を見上げる。兵頭は口角こうかくを上げて笑顔を作ったまま少年をじぃっと見つめた。


今日きょうはご両親は、ご一緒ではないのですか?」

 兵頭の質問に、少年は笑顔から真顔にすっと表情を変える。


「あの、親には自宅から通えって言われてて……でも僕は一人暮らしがしたいんです。だから……先に僕が一人で探して、ぼくの決意を分かってもらおうと思ってて……」


 兵頭はふむと言ってあごなのか首なのか、もはや境目さかいめの分からない顔の下の部分をさすりながら思案する。


「自立したいって気持ち、わかりますよ。そうですね、今すぐ見に行ける物件が一つあります。きっと条件に合うと思うのですが……」

「えっ? 本当ですか? 色んな所を廻って来たんだけど、こんな風に話をちゃんと聞いてくれたのは、ここが初めてです。ぜひ見に行きたいです」

 少年は上気じょうきしたほおで兵頭に詰め寄る。


「そうですか……ただ、一つ条件がありまして。それを承諾しょうだくいただけるのでしたら、すぐに支度したくしますよ」

「条件……?」


 急に少年の顔は強張こわばって、もとより青白い顔がますます青白くなる。

「いやいや、そんな怖い条件じゃありません。シェアハウスなんです。一人先に住んでましてね。一軒家なんですが、一階と二階で行き来できる構造なんですよ。彼もそこの大学の学生……いや、もう講師になったんだっけかな? まぁ、もし絶対に一人が良いと言う場合には受け入れられないかもしれませんが、親御さんが一人暮らしを不安に思われているのであれば、先輩と一緒に住めると言うのは、説得材料の一つになるかもしれませんしね。そういう意味できっと条件に合うかと」

 少年の顔は色を取り戻す。


「ぜひ、お願いします! 見に行きたいです」

 兵頭は先方に連絡を入れるのでお待ちくださいと言って、にっこり笑った。



「うちの営業所と大学の中間地点くらいにある家でしてね。車だと十分じゅっぷんもかからないんです。何か困ったとき……鍵を失くしたとか、水が漏れたとか……そういう時は電話いただければ、大抵のことは対応できますよ」


 田貫不動産のステッカーがでかでかと貼られた社用車に少年を乗せて、お腹をハンドルにこすりつけるように操作しながらカーブを曲がる。少年は先方に電話すると言った兵頭の会話を少し聞いていたが、兵頭は相手のことをウエチャマと呼んで随分ずいぶんと親し気な様子だった。


「少し、学校のこと、聞いても良いですか? 高校生なんて僕はもう十年以上前のことだから何だかうらやましくって。文化祭とかそういうクラス皆で協力してやる行事って楽しいでしょう?」


 兵頭がにこにこと笑いながら話しかける。少年は、少し答えるのを躊躇ためらった。だが、自分は高校を卒業したら変わるのだと言う決意があった。


「いえ、僕はそういうクラス皆でやる行事ってのはあんまり好きじゃなくって。友達もほとんどいなかったし……。そんなにいいとこじゃないですよ高校なんて、通過点ですから」


「そうですね、人それぞれだ。長い人生からみたら高校生活なんてたったの三年間ですからねぇ。あの大学に受かったんですから、これからですよ」

 少年は大きく何度もうなずく。

「そうですよ、あんな奴ら全員すぐに見返してやるんだ」


「そういえば、ご両親はどうして自宅から通うようにと、おっしゃっているんですか?」

 兵頭の質問に少年は少しの間沈黙した。少年はその理由の一つにお金の問題があると知っていた。だが、経済的な理由を言うと、軽くあしらわれるかもしれない。


「僕のことをいつまでも子ども扱いするんです。まだ親元を離れるのは早いって……」

「親にとっては、いくつになっても子供は子供なんですよ。まぁ、若い間はなかなか分からないし、不服に思うこともあるでしょうけど、ご両親の愛情ですよ」

 少年は、はぁと曖昧あいまいな返事をしてそのまま会話は終わった。


 ――――――

 インターホンを押すと、不機嫌そうな低い声がする。

「勝手に開けて入っていいですよ」

 ぶっきらぼうに一言だけ言うともう何も聞こえない。兵頭は慣れたように一階の玄関を開けて中に入る。


「先住人は田上たのうえさんっていう人でね、ちょっと素っ気ないけど、不機嫌なわけじゃないから」


「たのうえ……ウエチャマってそういうことか……」

 少年は兵頭の後ろを歩きながらぽつりと呟く。おそらく田上様が変化してそう呼ばれるようになったのだろう。一階の風呂やトイレを案内された。ここは共同で使うらしい。トイレも風呂も実家のものよりも古い感じだったが、目立つ汚れはなく綺麗だと思った。少年の住居は二階部分の二部屋と説明された。


 2つともフローリングの広々とした作りで、ベランダも広い。二部屋合わせて三十帖はあるらしい。すでに一階に住んでいる田上は二階を使っていないようで、荷物や家具はなく伽藍洞がらんどうだった。


「すごく、いいとこですね……あの、家賃はどれくらいなんでしょうか……」

 少年はちらりと兵頭ひょうどうの方を見て、田貫不動産の店舗外に張り出されていた、物件紹介のチラシの金額を思い浮かべる。


 1LDKや1Kの部屋が多く、二万~六万円まで開きがあった。ここはシェアハウスとはいえ、一人で二部屋も使えるのだからもしかしたらあのチラシの最高額の二倍くらいするのではないだろうかと思い、こぶしを握った。

「いやぁ、お値打ち物件でしてね。三万円です」

「えっ?」

 少年は、あまりの安さに拍子抜けした。


「あ! あともう一つ条件が。駐車場がないので、もし免許を取るつもりでしたら別で探していただくことになります」

「特に免許を取る予定はないので……今のところ別に問題はないです」

 少年がそう漏らすと、兵頭はうふふと笑う。


「では、先住人せんじゅうにんの田上さんを紹介しますね。ちょっととっつきにくいですけど、男前おとこまえですし、根は優しい方なので」

 少年は頷く。兵頭の先導に従って階段を降り、一階の廊下奥のダイニングに通じる扉を開けて中に入る。


「先住人のウエチャ……田上さんです。田上さん、こちら内見希望された……ええと、そういえばお名前まだでしたね」

 くるりと少年の方に向き直って兵頭が少年に問いかける。

「あ、あの……モモセソウスケです」

 ダイニングの中央には、黒いローテブルがありその向こうにグレーのL字型ソファがあった。ソファの真ん中に座って本を読んでいた田上は、本を閉じて二人を見る。


 モスグリーンのスウェットに黒い細身のスラックス。長い足を組んで肘掛けに腕を置き、背中をゆったりとソファに預けている。ゆるくウェーブがかかった前髪の間から、鋭い眼光が少年に向けられる。威圧感というか、威厳いげんのある人だと少年は思った。


 兵頭がウエチャマと呼ぶのは、この雰囲気もあってのことかもしれない。時代劇のように上様と言ってかしずく兵頭を想像した。


「それで、ここに住むのか?」

 田上は開口一番にそう聞いた。

「まだ検討中。この子はご両親に相談する前に、自分の力で物件を探したいってことで、田貫不動産を訪れてくれた、感心な子なんだよ」

 少年が答えるより早く、兵頭がニコニコと嬉しそうに田上に話す。田上は少年をじっと見ている。


「まだ、分からないですが……住みたいなぁと……」

「希望を言う前に両親に話すべきだな。一人暮らしは金がかかる。家賃のては両親のつもりだろう?」

 少年は返す言葉もなく、端正な田上の顔を見つめる。


「自宅から通えるのだったら、入学後にバイトをして、ある程度金ができてからでも遅くはない。まずは両親と話し合うことだ」


 少年は急に自分のしていることが恥ずかしくなって俯いた。田上の言うことはもっともで、自分は独りよがりな自立心に酔っているに過ぎないのだ。


「ウエチャマ! いいじゃないの、一人暮らしを検討するくらい。まったく、綺麗なお顔なのに正論しか言わないんだから、正論のバーサーカーなんて呼ばれちゃうんだよ」

 兵頭は田上の言葉を一向に気にしていない様子で、うふふと笑う。


 少年は先に両親に会って、了承りょうしょうを得るべきだったのだと、自分の行いを後悔した。それは黒くて重い渦となって少年の腹の中を廻る。家に帰って、二人に伝えなくてはならない。


「誰がそんなこと言ったんだ……とにかく、両親としっかり話すことだ」

 田上は立ち上がって少年のそばに寄って、そっと肩に手を置く。その瞬間、田上は兵頭の方を見て驚いた様な表情をした。


「今日は、ありがとうございました。あの、田上さんの言う通りなので、親に話してからもう一度検討します」

 少年はぺこりと頭を下げると、玄関に向かう。兵頭も慌ててその後ろを追いかけた。


 ――――――

 帰りの車の中で、兵頭は色々と田上との笑い話をしてくれた。話の途切れに、兵頭が思い出したようにハンドルをポンと軽く叩いた。


「もしも、ご両親と来れるようでしたら、合格を証明するものを持ってきてください。契約時の学割がききます。持っていますか?」

 少年は、その言葉を聞いて、少し不安げな表情で前方を見つめる。もう目的地の最寄もより駅はすぐだった。踏切の向こうにある駅のホームが視界に入る。少年はとっさに声を上げた。


「ここで、ここで下ろしてください」

「え? 電車に乗るなら踏切を渡った方がいいよ。改札は踏切の向こう側だし」

「あ、いえ……僕、さっきから何かを忘れちゃってる気がして。ここでとても大切なものを落としてしまったはずなんです。だから少し考えたくて」


 兵頭は少年の顔をじっと見る。

「思い出したら、必ずご両親のところへ帰るんですよ」

 少年はうなずくと車を降り、踏切脇の植え込みに腰をおろす。


 車を発進させた兵頭がミラー越しに姿を確認すると、薄闇うすやみに溶け込んでしまって、少年はすぐに見えなくなってしまった。社用車を営業所まで走らせ、キーをボックスに仕舞う。シャツの胸ポケットに入れていたスマホが振動した。田上からの着信だった。


「兵頭さん、さっき連れて来た子どういうことですか?」

 田上は挨拶もなしに問いかける。彼は喋り始めの決まり事や礼句をはぶく癖がある。

「私も途中で気づきましてねぇ。あんまりはっきりしてたから、分からなくって。うっかり物件なんか紹介しちゃった」


「死んでる人間にウチを紹介して、居ついたらどうするつもりだったんですか?」

 兵頭はうふふと笑って続ける。


「ウエチャマに正論ぶつけられたら大抵逃げ出しちゃうから大丈夫」

 兵頭はふくよかな頬に右手を当てて、ほうっと溜息を吐いて続ける。


「なんだか、切なくてねぇ。健気じゃない? 大学生になるのを楽しみにしていたんだよ、きっと。それに、言ってたじゃない? 事故物件に興味あるって」

 今度は田上が短い溜息ためいきを吐く。ウチを事故物件にしたいってことじゃないでしょと小言をらす。


「はじめっから気づいてて連れて来たんでしょ? 兵頭さんは優しすぎるんですよ。僕は彼に触ろうとして、それができなかったから分かったんですが、兵頭さんはどこで見分けたんです? 見た目はまったく普通でしたよ?」


「そうか、まだまだ修行が足りないなぁ……ふふ。目が、違うんだよ。じっと、よーく見るとね白目がないの。全部黒いの」


 了

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弁別 山猫拳 @Yamaneco-Ken

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