はじまりの部屋へ

浅里絋太

はじまりの部屋へ

 スーツ姿の暮野さんを追いかけ、俺はアパートの外階段を登る。ペールオレンジの外壁の内側に、コンクリートの階段が伸びていた。


 外は夕刻だった。


「こちら、おすすめの物件なんですよ、見ていただけて、よかったです!」


 と、暮野さんは振り返ってくる。俺は答える。


「へえ、そうなんですね」

「そうなんですよー! いや、まだ部屋が空いていて、運がよかったですよ!」


 そう言って暮野さんは笑顔でうなずく。


 そのとき、急に階段の下から声が聞こえた。


「ちょっと、何なの? ここから出て行ってよ!」


 そう言ったのは、白髪を後ろにひっつめた、いかめしい表情の老女だった。老女は額に皺を寄せてにらみつけてくるが、それ以上は近づいてこないようだった。


 暮野さんは焦った様子で、


「あー、まあ、いろんな方がいらっしゃいますからね……。刺激しないようにしましょう。とりあえず、部屋は見ましょうかね……」



 部屋は二階の通路の奥にあった。暮野さんは言った。


「築十八年ですが、そうは見えないでしょ? 1DKで、南向き。価格にしては、かなりいいほうです!」


 俺はその声にうながされるように、中へ入っていった。


 部屋は暮野さんの言うとおり悪くなかった。


 フローリングはぴかぴかとし、水回りも手入れが行き届いていた。


 そのとき、ふと俺の脳裏にある光景が思い出された。




「そろそろ、同棲してみないか?」


 俺は目の前の彼女にそう言った。付き合って二年になる彼女は、よく俺の家にやってきた。


 長い黒髪が美しい、おっとりとしたやつだ。


 彼女は戸惑った様子で目を丸くして、


「え? どうしたの、急に……。同棲?」

「イヤかな? なんだかさ。それもいいかな、って。そう思ったんだ」


 すると、彼女はしばらくうつむいてから、


「やなわけないじゃん。へへっ、うれしいよ……」


 そうして、恥ずかしそうに笑った。




「どうされました? なにか、考えごとでも?」


 暮野さんの声によって、俺は我に返った。たぶん、悲しげな顔をしていた。


「すみません。ちょっと、ね。――引越しとなると、いろいろ、思い出とか、ありますからね」


 暮野さんは同情するように微笑し、


「まあね。人生いろいろありますよ。そのためにも、新しい、よい出発点となる部屋を探しましょう!」




 しばらく部屋を見てから、俺は暮野さんに続いて、玄関にやってきた。


 暮野さんは玄関口に立って、振り返った。


「さて、これくらいでいいでしょうかね」


 俺はうなずいて、


「ええ。もう十分ですよ。ほんとに、いい部屋だなぁ。どうしようかな……」

「ありがとうございます。決めるなら、お早めのほうがいいですよ」

「そうですよね。でも、念のためもうちょっと、ほかを見てから……」


 すると暮野さんは首を振る。


「あー。まあこう言うのもなんですが。いい部屋があったら、すぐにおさえるのが一番ですよ。一瞬で決まってしまうので」

「なるほど。まあそれもわかりますけどね。でも、もうちょっとほかもね……」


 暮野さんは玄関を塞ぐように立っており、俺は外に出られなかった。暮野さんは言った。


「どうです? もう少しこの部屋を、見ておきます? もし、気になるところがあったら……」


 少しうざったくもあったが、暮野さんにうながされて、俺は部屋の中を見回した。


 そうやってあらためて見ると、やはり、この物件を逃すのが惜しい気がしてきた。


 夕刻のオレンジ色の光が、窓辺の床を染めていた。



 そこで俺は言った。


「まあ……。うん。ここにしようかな」


 すると、暮野さんはにやりと笑い、玄関を出るとこう言った。


「本当に、よかったです。よいお部屋が決まってね! それでは、失礼しますね」


 そうして暮野さんはアパートのドアに手をかけ、締めた。


 そのとき、暮野さんの姿は真っ黒な影のように見えた。


 俺は振り返って、再び部屋を見た。


 徐々に、俺は自分自身の状況を思い出していった。


 そうか。俺は、はじまりの部屋を探していたんだ。



 ――すべてが懐かしかった。


 に住んでいるとき、彼女に出会った。


 この部屋を出て、一緒に同棲をはじめて、結婚して。


 それから。


 新婚旅行に行く前に、俺は事故に遭った。


 それからだ。


 どうしようもなく、ふらふらと、街をさまよいはじめたのは。


 永遠の夕刻を。


 夜にもならず、だから朝も来ず、ずっと沈まない夕陽の街をさまよい続けた……。




 そういえば彼女は、すぐに死んだ俺から乗り換えた。


 浮気相手と、稲妻のような速さでくっついた。見事なもんだ。




 そうか。俺はこの、はじまりの部屋を探していたのだろう。


 幽霊として、この部屋にずっと居座るのもいいかもしれない。


 あの、一番幸せだったときを過ごした、この部屋に。




 そのとき、ドアが鳴った。


 トントントン……。


 ノックの音が続く。


 こんな、浮遊霊になんの用事だよ。


 そう思って俺はドアをすり抜けて、外に出た。



 すると、先ほどの老婆が立っていた。


 そして、老婆は思いがけず柔和な表情で言った。


「もう、お行きなさい……。あなたには、あなたの、行くべき世界がある。懐かしいのはわかるけれど……。どうか」


 そうして老婆は右手を俺に差し出してきた。


 俺はなんとなく、その手をとった。


 なぜか俺の体があたたかくなり、細かく震え出した。



 ――気がつくとあたりは、すっかり夜になっていた。


 暗闇に包まれていると、どこか安らいだ気持ちになる。


 思えばあいまいな夕刻には、安堵も絶望もなかった。ただ、終わらない薄明だけが続いていた。



 そして……。


 アパートの近くには、白く輝く、巨大な光の柱のようなものが見えた。それは闇を貫いて、はるか星空までそびえていた。


 老婆の声がした。


「どうかあなたに。次の扉を……」


 俺は静かな気持ちで、吸い寄せられるみたいに、アパートの廊下を歩き出した。


 くっきりとした夜へと。


 その先の、はじまりに向かって。

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