私が知っているのは、自分が何も知らないということだけだ。

 白雪に似た樹液の結晶に覆い隠されていたのは、何もない地平に聳え立つ巨木の影だった。その樹容はセイヨウヒイラギガシに似ており、天高く葉群はむらを四方に広げている。空を二つにわかつ樹影は、仰いでも頂上が霞んで視認できず、およそ十キロもの高さに及んでいるだろうことが推測できるだけだ。

 ただ、雲を裂いて下向きに弧を描く突出した枝先が、あたかも空のキャンパスにクエスチョンマークを描いているかのようだった。

「科学の地平線に突き立てられた、疑問の杖……」

 白いまだら模様がまぶされた褐色の髪の少年が呟く。裾が擦り切れた、枯れ葉色のモッズコートは雪化粧が施され、すっかり凍りついた木の葉にも見える。左目を覆い隠した包帯の端を棚引かせ、鳶色をした右の瞳で収まり切らない大樹を映していた。

「あれ、木なの?」

 同じく白い結晶を全身に張りつかせて、金色の髪をした少女が言った。その華奢きゃしゃな体を包む黒いケープの裾には赤い斑点と白い帯状の模様があしらわれていたものの、今は不揃いな白斑が散らばって優美さが失われていた。少年と手を結び、もう片方の肩には革袋を担いでいた。

 赤いリボンを蝶々結びにして髪を結い、秀でたおでこから飛び出た二本の前髪が風になぶられながら、真っ直ぐ前方を指している。

「あれは世界樹だよ、ローズ」

「コノハ、あんた知ってるの」

 ローズとコノハという子供たちが言葉を交わした。樹液の結晶にまみれた少年はかすかに頷く。

「ああ、ぼくらの信仰の対象だった……」

 彼は膝から崩れ落ちる。以前から体調が優れなかったコノハが、ここまでの強行軍で余力を使い果たしたようでも、恭しく頭を垂れているようでもあった。

 その深刻な様子に慌てて、ローズが少年のそばにしゃがみこむ。

「コノハ、しっかりして」

「きみも知っているはずだよ、ローズ」

 自分を心配する声さえも無視して、金髪の少女に語りかける。

「他ならぬ、きみが世界樹を目指しているんだから」

 その言葉にローズは困惑した。

「あたしが?」

「そうだよ。きっと、忘れているだけさ」

 少女に肩を借りながら、おぼろげな瞳を前に向けた。

「さあ、行こう。もうすぐだ」

 もうすぐ、という一言が何を指すのか。ローズは大きな不安に駆られた。世界樹と呼ばれた巨木が、地べたを這いずる二頭の小さな生物を見下ろしている。



 さらに何時間もかけて世界樹に近づくにしたがって、改めてその巨大さに畏怖の念を抱いた。幹の太さだけで、大規模な町の大きさに匹敵するだろう。樹肌に刻まれた深いしわはもはや峡谷の溝に近い。

 靴底で地表を覆う白銀の結晶を踏み砕きながら、ふたりは少しずつ大樹の根元へと近づいていく。さぞかし丘陵のごとく根が隆起しているかと思えば、まっさらな大地を真っ直ぐ穿って伸びている。

 少女の助けを借りて歩みを進めながら、少年は言った。

「世界樹とは言ったけれど、あれは幹そのものじゃないんだよ。地下茎のように広がった、枝の先端に過ぎない」

「あれが枝?」

 ローズは仰天した。この断崖絶壁のような大きさで枝だというなら、樹幹はどれほどの規模なのだろう。眩暈めまいがする思いだった。

「この大地の奥底で、ずっと眠っていたんだ。末梢まっしょう神経のように隅々まで樹枝と根を張り巡らせながら、地表に果実が実るまで」

「果実?」

「禁断の果実だよ。ぼくらはそう呼んでいた」

 鳶色の瞳で問いかける。

「きみは、本当に忘れてしまったのかい?」

 彼女には心当たりがなかった。自分は、大事な何かを忘れているのだろうか。

 思い悩むローズの様子を観察しながら、やがて力なく笑う。

「まあいいさ。もう終わった話だ」

 そう結んで、押し黙る。ローズは聞きたいことがたくさんあるはずだった。世界樹と呼ばれる存在、禁断の果実、地表を蹂躙した虫たちとの関係性。どうして、彼はそんなことを知っているのか。

 どんなに強がっていても、彼女は臆病だった。秘密の含有量がつまびらかにされてしまえば、たらいから水から溢れてしまうだろう。もう二度と元に戻ることはない。

 それよりも今は一刻も早く、あの大樹の元へ急がなければならなかった。あそこへ行けば、きっと何もかもが上手く行く。ある種の霊感がそう告げていた。

 だってほら、世界樹が呼んでる。

 その青色の瞳はどこか熱に浮かされ、雄大な樹容を映していた。ダウジングに使う棒のように痙攣する二本の髪の先端を、隻眼の少年は視野にとらえていた。

 大気に舞う白い結晶を通した陽光は淡泊で、ほとんど熱を帯びていなかった。陽が楕円軌道の式を描いて移り変わり、巨大な樹影の位置も追随する。上空を覆い隠す木陰に足を踏み入れる頃には、よく熟したリンゴのごとく太陽がとろけつつあった。

 霜が下りた荒野に樹液の白雪が舞い散り、ほぼ視界は壮厳な樹肌の絶壁に塞がれていた。太古から途方もない年月を重ねてきたに違いなく、樹皮に刻まれた皺の一つでさえ踏破することは困難だろう。

 地面に直角に突き立った世界樹の枝を目前にして、微小な生き物たちは立ち尽くす他なかった。雲を突き抜けた梢に繁茂する樹冠が広大な木陰を作っている。その根元に、明らかに人の手による建造物が建てられていた。

 半月型に反り返った白亜の施設だった。背面に幾重にも半円型の屋根が重なり、基部には入り口らしい箇所はあるものの、窓は一つもない。遠近感が狂って小さく見えてしまうが、かなり大規模な建物だった。

「……どうやら、人類社会が滅びる前に世界樹を研究していたようだね」

 コノハは吐き捨てた。

「おこがましい」

 彼らしからぬ悪罵あくばも、ローズの耳には届かなかった。滑らかな曲線を描く独特な研究所に、強い既視感を覚えた。

 自分はこの場所を知っている。

 本来は巨木を囲って有刺鉄線と塀が築かれ、監視塔が設けられていたのだろう。それらは跡形もなく破壊されるか、凝固した樹液に白く覆い尽くされていた。

 広大な敷地の中には、複数の長方形をした塊が盛り上がっていた。いくつもあって、モッズコートの少年はその一つに近づく。手で軽く払うと、陽光を乱反射する粉が舞った。その下には透明な窓ガラスがあり、向こう側に彼らが運んできた乗り物とよく似た構造の車内が覗いていた。煙草入れに吸い殻が残されており、当時の状態をそのまま保存したかのように劣化が見受けられない。

 世界樹から滲み出る樹液によるものだろうか。琥珀に閉じこめられた虫の化石のごとく、そのまま時間が停まっている。

 彼女がスバルと呼んでいたあの車も、ここに保存されていたのだろうか。古い車種にも関わらず、これまでの旅に耐えられたのはそのためかもしれない。

 彼が思案していると、袖が引っ張られた。振り返ると、ローズが上方を指差していた。

「変な虫がくっついてる。それも、たくさん」

 コノハが目を凝らすと、高い枝の表面に夥しい白い点々が寄り集まっているのがかろうじてわかった。あるいは樹木に付着する地衣類にも見えて、彼は気難しい顔のまま質問した。

「よくわからないよ。どんな形?」

「えっと、下に長く伸びてるの。虫のくせに、立派な外套を引きずってるみたい」

 少女の秀でた視力が描写した特徴が、即座に少年の知識で照らし合わされる。彼は驚いた。

「まさか、ハカマカイガラムシ?」

「そんな名前の虫なの」

「信仰者たちだ。どうして、あんなことを……」

 少年少女は遥か上方にある樹枝を仰ぐ。その眼差しが行き着く先に、純白の衣装を纏った虫が大勢集まっていた。楕円形をした体節に六本の肢、二本の触覚。何ら変哲のない昆虫の特徴をそなえながら、何よりも奇異なのは、体表を覆う蝋状物質の虫体被覆物ちゅうたいひふくぶつだった。

 その上着には縦四列の房があしらわれ、あいだにも細かな房が横に平行して施されている。さらに縁に十本の房飾りが放射状に飾りつけられ、下方向に向かって聖職者の胴衣が引きずる裾を体長の三倍以上も伸ばしている。

 食樹の茎に住みついて樹液を吸う半翅目はんしもくの昆虫だ。コノハは驚愕しながら、同時にこの舞い散る白雪の謎が解けた。彼女たちが樹皮に口吻こうふんで穴を空け、滲み出た樹液が結晶化して荒野全体を覆っているのだ。

 次に彼らの目に留まったのは、世界樹の根元にすがりつくヨーロッパミヤマクワガタの雄だった。雪を被った鎧兜の角飾りを思わせる、内側に鋸歯を具えた長い大腮おおあごを掲げて、上肢と中肢を伸ばして樹枝を引っ掻いている。何かを訴えかける眼差しで振り仰ぎながら、硬化した前翅の合わせ目に沿って裂け目が走っていた。

 遠目からでは実感は湧かないものの、その体格は以前に遭遇したオウシュウサイカブトにもするだろう。コノハは言った。

「彼は守護者だった」

 シンコウシャだとかシュゴシャという言葉は、ローズにはよくわからなかった。ただ必死になって大樹に身を寄せるその姿は、憎さや恐ろしさよりも、哀れさが勝った。

「きっと、たくさんのことが起きたんだ。ぼくらが知らない、悲しい出来事が」

 彼はにわかによろめく。その体を少女は慌てて支える。

「コノハ、平気?」

「大丈夫だよ。さあ、次は、どうする?」

 コノハの言葉に困惑しながら、その碧眼の眼差しはあの半月型の研究施設に向けられていた。巨木の根元で背を反らせるさまは、奇しくもチョウの蛹を連想させた。



 その研究所に足を踏み入れると、想像よりもずっと広い空間が出迎えた。白い結晶が一面に降り積もった床の面積は、人の足で歩き回るには時間がかかりすぎるだろう。出入口は玄関というよりも、搬入口というおもむきが強かった。車両ごと人間が出入りしていたのかもしれない。

 規模こそ大きかったものの、完全に密閉された建物ではなかった。世界樹の樹肌が眼前に聳え、さまざまな研究機器が取り巻いていた。足場が設けられ、大型のモニターと計測機器、未知の植物を採取するためか先端に鋭いアームが接続された掘削機さえあった。

「随分と悪趣味だね」

 嫌悪感を隠さず、コノハが顔をしかめた。彼の目には冒涜的な行為に映るらしい。

 革袋から取り出した、オウシュウツキヨタケの角灯ランタンを手に提げたローズは、いよいよ既視感が強まった。足場を行き来する白衣の研究員たちと、急に現れた自分に注がれる驚きの視線。銃口を向ける者がいる中で、初老の男性がゆったりとした足取りで歩み出てきた。一糸纏わぬ姿だった彼女に自分の白衣を被せ、優しい声音で尋ねた。

「初めまして、きみはどこから来たんだい?」

 名前を呼ぶ声で我に返る。顔色の悪いコノハが、逆に自分を心配していた。

「ぼうっとして、どうしたの。気分でも悪いのかい」

 ローズは頭を振る。研究機器が並ぶ足場を見上げて言った。

「あたし、ここを知ってる」

「そうかい」

 予想の範疇はんちゅうだったのか、彼は頷く。隣に並んで同じく見上げた。

「ここがきみの始まりだったんだね」

 モッズコートの少年は頭上を振り仰ぐ。その先は吹き抜けの大広間になっており、中央には大きなエレベーターシャフトが施設の中心線を貫いていた。当然稼働することもなく、ただの長大な円柱と化している。

 彼らが居る場所を最下層とするなら、上層に上がる手段はもう一つあった。殺風景な内壁の中で、幾重にも折り返す手すりがついたエスカレーターがずっと上方まで延びていた。無論、これらの機能も停止して久しい。ただ階段としてなら使用できるだろう。

「まだ、上へ向かうんだろう?」

 直線が組み合わさって、結果として螺旋を描くエスカレーターの軌道を眺めながら、コノハが言った。問われて、金髪の少女は口ごもった。その広いおでこから飛び出た前髪は、上に跳ね上がって揺らめいている。

「……そうね。これだけ大きな建物なら、きっと使える薬の一つや二つあるはずよ」

 所詮は後付けの理由に過ぎなかった。できる限り高所に上らなければならないという本能的な衝動が先行して、どこか欺瞞ぎまん的だ。

「でもコノハ、本当に平気なの」

「毒を食らわば、ってね。最後まで付き合うさ」

 彼女の懸念を払拭ふっしょくするために、わざとおどけてみせる。自分にはもう残された時間が少ない。顔に巻かれた包帯の下で起こっている変化を感じて、コノハはとうに覚悟を決めていた。

 ローズは角灯のかすかな灯火を掲げた。光明は吸いこまれて、奈落の底へと続いている矛盾した感覚に見舞われた。何だか頭がくらくらする。

「もし天が落ちてくれば、すべてのヒバリはつかまるであろう」

 コノハは歌うように言った。きっと、意味などないのだろう。



 エスカレーターに降り積もった樹液の結晶を踏み砕き、少年の鈍った足取りに合わせて黒いケープの少女が手を引いて先行する。革袋を提げ、オウシュウツキヨタケが傘を広げた角灯で暗がりを切り開くさまは、さながら洞窟を探検する冒険者だった。

 長いエスカレーターを上るにつれ、どんどん地上が遠のく。研究施設の外側から見た円形の屋根の連なりは採光の役割を果たしていたらしく、中途半端に機能を停止した開閉部分から暮れゆく夕日の朱が差していた。

 研究所の構造は多層になっており、樹幹だと思っていたであろう巨木の樹肌に沿って構築され、外周の通路とさまざまな施設が配されていた。おそらくは研究員の居住区や研究室などがあるのだろう。探せば、医務室などもあるかもしれない。

 ただ、金髪の少女は直感に従って動いており、途中で足を止めることはなかった。弱々しい様子の少年も弱音を吐くことはなく、彼女の手を左手で握って足を進めていた。

 エレベーターの昇降路がどこまでも続いており、その周囲には階層ごとに折り返したエスカレーターが取り巻いている。まるで乾喉ディプソディー国だ、とコノハはかつての古巣を思い出した。そこは深淵においてなおくらく、弱肉強食がまかり通る場所だった。

 ただ、あそこには生と死が満ちていた。白々しらじらとした粉塵が舞い降りるここには、何もない。あらゆる魂が飛び去った後の、空っぽの世界だ。

 特殊な構造の研究所を半ばほど上った頃だろうか、不意にローズが立ち止まった。とある通路の前で、他の階層と比べて扉がほとんどなかった。ただ、半開きになった大きな両開きの扉がある。カードキーを通すスリットと何らかの認証を確認する機械が設けられている。厳重に管理されていた部屋らしい。

「ローズ?」

 その後ろ姿に声をかけても反応はなく、宙を舞うチョウのごとく、自分の指をすり抜けて彼女は先に進んでしまう。呼び止めることはしなかった。ここに至り、ローズが忘我に陥ることは珍しくなくなっていたからだ。だから好きにやらせることにしていた。

 時々、彼女がふたりいると感じることがある。一つの蛹に二つの魂が混ざり合い、溶けていって正しい形を取り戻そうとしているのだ。

 朱色の瞳に見送られ、ローズは夢遊病に近い足取りで通路を歩く。硬質な床に、自分の靴音が響いた。機械的に制御されていた扉は人間が通れるだけの隙間を残し、完全に停止している。

 彼女は身を滑りこませる。入り口で見上げたその部屋は広く、空虚だった。円形の天井と平面の床は全面ハニカム構造で区切られ、暗い色を映している。一歩足を踏み出すと、一瞬で視界が切り替わり、緑に覆われた。草木が生い茂り、真夏の木漏れ日が落ちている。カンカンゼミの鳴き声がした。

 隣には白衣の男性が立っていた。白髪頭をした、あの男性だった。白い患者衣を着た自分が彼と手を繋ぎ、眼前の光景を眺めている。

「ほら、ごらん」

 彼が指差す。トネリコの幹の表面に、土にまみれた茶色の抜け殻があった。指でつまめそうなほど小さな、セミの抜け殻だった。

「あれ、なに」

 たどたどしい言葉遣いで尋ねる。初老の男性が優しい声音で答えた。

「あれはセミの抜け殻だよ。土の下で何年も暮らして、時期が来たら地上に出てくるんだ。古い皮を脱ぎ捨てて、新しい自分に生まれ変わるんだよ」

 そこで夢は覚めた。元の殺風景な部屋に戻っており、彼女は独りだった。部屋全体がパネルで包まれており、疑似的な自然の風景を作り出す装置だったことを思い出す。

 そうだ、あたしはここで暮らしていたんだ。

 誘われるように奥へと足を踏み出すと、大きな部屋の中央にぽつんと木の椅子が置かれていた。何の意匠も施されていない簡素なものなのに、がらんどうの室内で存在感を際立たせている。

 その椅子に近づくと、座面の部分を白い糸の膜が覆っていた。まるで大事に守られた繭だ。彼女は躊躇なく手を伸ばし、密に編まれた絹糸を指先でほどいていく。揺籃ようらんの中で大事に守られていたものを取り出した。

 あえて呼ぶなら、それは絵本だった。四角く切り取られて、紙としての体裁をつくろっているものの、白く枯れた色をしていて表面には葉脈が浮き出ている。どうやら大きな葉を切り抜いて製紙されたものらしい。

 端で糊づけされた絵本には、子供が描いたらしいつたない絵が描かれていた。金色の髪をした少女と、どこか愛嬌のあるイモムシの表紙。どちらも笑顔を浮かべている。

 地球上のどの言語とも一致していない文字で、題名にこう書かれていた。

『むしのちかおうこく』

 ローズは疑問を持つこともなく床に座り、そばにオウシュウツキヨタケの角灯を置いて、乾いた手触りのページをめくる。書き出しにはこうあった。

『わたしたちがくらしてるせかいのずっと下には、たくさんのむしたちがくらす国がありました』

 ローズは、自分が文字の読み書きができないことを知っているはずだった。なのに、不可思議な文字は青い瞳を通して、彼女の脳内にまざまざとその情景を浮かび上がらせた。

 葉脈が張り巡らされた頁を進める。

『ある日、その国にきんだんのかじつとよばれるものが落ちてきました』

 挿絵さしえには、明らかに少女の形をしたものが真っ逆さまに落ちていく様子が描かれていた。


『そこにはふしぎなむしたちがいっぱいいました。わたしたちとおなじぐらいに大きくて、わたしたちのようにことばをしゃべるのです。そしてにんげんとおなじように国をつくっていました』


『上と下に根をはった、せかいじゅとよばれるとっても大きな木(ほんとうはえだらしいです、すごい!)に見おろされ、あさにはてんじょうに生えたきのこが光り、ちかおうこくを広くてらしていました』


『わたしがであったのは、王さまをまもる小さなキイロテントウのスバル、シロオビアゲハのようちゅうのベイツ、インクこうじょう長のハエのムッシュー、マツノヒゲコガネのきしにこいをするオオクジャクヤママユのパンタグリュエル、そのおとものマツノギョウレツケムシたちなどでした』


『かぶとの王さまにおさめられ、たくさんのむしたちがへいわに暮らしていました。そこはこんちゅうのらくえんでした』


『わたしはベイツによみかきを教わって、絵本をかくことにしました。はずかしがりやのハシバミオトシブミから葉っぱでつくった本をもらい、きむずかしいムッシューからキノコをとかしたインクをもらいました』


『ミノタウロスセンチコガネのふうふ、フィレモンとバウキスにであいました。びんぼうだけどとても仲がよく、わたしにもやさしくしてくれました。このひとたちがほんとうのおとうさんとおかあさんだったらよかったのに、とおもいました』


『ある日、したてやのベイツがぬってくれたミノムシのふくを着て、いちばにつれていってもらいました。とてもにぎわっていて、カオジロキリギリスをだんちょうとして、ツユムシやイナカコオロギ、セミたちがうたっていました。むかしせんそうがあって、トノサマバッタのピクロコルがぐんぜいをひきいて攻めてきて、それをかぶとの王さまがみごとにしりぞけたというお話でした』


『たのしかったいちばのことも、いじわるなパンタグリュエルにであったことでだいなしになりました。わたしはつきとばされ、ミノムシの女の子はおとなになれない、といわれました。ベイツはいっしょうけんめいかばってくれました』


『やっぱりおとうさんが言うとおり、ありふれたばらのわたしは、おとなにはなれないのかな』


 その内容は、絵本というよりも絵日記に近いものだった。拙い絵と文字が連ねられているだけなのに、ローズは胸が締めつけられる思いだった。

「違う。違うよ」

 唇を噛み締めながら、彼女はさらに頁を繰る。


『やがてむしたちの国で、せんそうが起きました』


『きんだんのかじつをめぐって、ディプソディー国のナガコガネグモの王さまがぐんぜいといっしょに攻めてきたのです。それはむしたちをきょうぼうにさせ、わたしたちがよくしっているけれど、ずっとずっと大きなむしのすがたにかえるものでした。目が赤くそまり、その体からながれる血もまわりのむしたちをかいぶつにかえるのでした』


『ナガコガネグモの王さまは、きんだんのかじつを手にいれて何かをたくらんでいたのでした。オオヒョウタンゴミムシのしょうぐんがひきいるぐんぜいにおそわれ、多くのさけびごえが上がるまちで、大きなかぶとの王さまとナガコガネグモの王さまはにらみ合いました』


『ぼうしょくの王よ。なぜつみのない民をきずつける』

『かぶとの王よ。みつをなめ、草をはむおまえたちにはわかるまい。ひめいをかてとして、だんまつまをちにくにかえるわれらのことなど』


『きんだんのかじつをよこせ。われらはこのいまいましいてんがいをやぶる。ちじょうにあるすべてのかじつをむさぼり、口のないりそうきょうへとびたつのだ』


『……ぜんぶぜんぶ、わたしのせいなのに、スバルとベイツはわたしをにがしてくれました。へいわなまちが、うそのようなじごくに変わり、ひめいから耳をふさぎながら国をあとにしました』


『せかいじゅへにげようと、ふたりは言いました。せかいじゅの枝をつたえば、上のせかいにつながっていて、きっとそこから帰れるはずだと。スバルはおってきたマツノヒゲコガネのジャルナックからわたしたちをかばい、ベイツとふたりっきりでせかいじゅをめざすことになりました』

 そこから何頁が空白があり、たった一文だけ記されていた。

『せかいじゅがよんでる。行かなきゃ』


 その言葉を最後に、絵本は途絶えていた。夢中になっていたローズは、葉でできた紙面をめくり続ける。

「この先はどうなったの」

 どんなに頁を繰っても、白紙ばかりだらけだ。自分でもよくわからない焦燥に駆られる。この逃避行の結末は、どうなったのか。

 とうとう最後の頁に辿り着いた。そこには待ち望んでいた文字があり、だれかに宛てた言葉が綴られていた。


『ベイツ、あなたはわるくない。生きて』

 

 碧眼にその一文を映し、金髪の少女は目尻から一筋の涙を流した。とめどなく溢れる涙の粒が絵本の紙面を濡らす。透き通った葉脈がよりくっきりと映し出された。

「何のことよ……わけわかんない」

 暗い円屋根の部屋に嗚咽が響く。この溢れ出る感情の正体がわからなかった。ただ無性に切なくて、涙を止められなかった。

「きっと、たくさんのことが起きたんだ。ぼくらが知らない、悲しい出来事が」

 先刻聞いた言葉が耳の奥で蘇る。穏やかな鳶色の瞳を思い出し、彼女は濡れた面を上げる。

「そうだ、コノハ……」

 自分はこんなところで何をやっているのだろう。弱った少年をどこかに置き去りにして、今この瞬間にもあの怪物が襲来するかもしれないのに。

 早く、彼と合流しなければ。彼女はゆっくりと立ち上がった。

「……あたしはローズ。ありふれた、ローズ」

 呟きながら荷物を担ぎ、オウシュウツキヨタケが青ざめた光を発する角灯を前に掲げた。部屋を立ち去ろうとして、ローズは後ろを振り返る。金髪の少女とシロオビアゲハの幼虫が笑い合う表紙が椅子の上で、自分を見送っていた。

 後ろ髪を引かれる思いで、その部屋を出た。エスカレーターがアルキメデスの螺旋を描く吹き抜けの施設で、彼の名前を呼ぶ。

「コノハ」

 こだまが返ってくるばかりで、返事はない。少女は焦燥に駆られる。もし、どこかで倒れていたら、と自らの愚かさを呪いたくなった。

 必死に施設内に目を配ったローズは、不思議な痕跡を見出した。空中に何かが漂っている。淡く、キノコの胞子にも似ていた。角灯の灯りが届く範囲の外でも察知でき、エスカレーターの上層を目指して尾を引いていた。

 暗闇でも認識できるということは、視覚以外の感覚器官でとらえているということを意味していた。手がかりのない少女は、二本の前髪を揺らしてそのたゆたう粒子を追うことにした。

 文明が存在していた時代であれば、その発散物をフェロモンと呼んでいただろう。

 道しるべを辿っていくと、エスカレーターを何度か折り返し、ある部屋へと続いていた。樫でできた立派な両開きの扉で、今は開け放たれている。仰々ぎょうぎょうしい雰囲気のあるプレートが掲げられた部屋の中から、その粒子が漏れ出ていた。

 ローズはおっかなびっくり、扉から室内を覗く。角灯を向けなくても、そこに見慣れたモッズコートの背中が確認できた。淡い光の粒に取り巻かれ、輪郭が浮き出ている。その手には何かの書類があった。

 黒いケープの少女が声をかける前に、彼の声が響いた。

「あなた方は虫の腹を裂いておられる。だがわたしは生きた虫を研究しているのです。あなた方は虫を残酷な目に遭わせ、嫌な、忌むべきものにしておられる。わたしは虫を愛すべきものにしてやるのです。

 あなた方は研究室で虫を拷問にかけて、細切れにしておられるが、わたしは青空の下で、セミの歌を聞きながら観察しています。

 あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、わたしは本能の、もっとも高度な現われ方を研究しています。

 あなた方は死を詮索しておられるが、わたしは生を探っているのです」

 呆気に取られた少女に、隻眼の少年は振り返って肩をすくめてみせる。

「これじゃあ嘆願書というより、抗議文だ」

 血のように赤い片目が細められる。

「この研究所の所長が変人で良かったね、ローズ」

 何と言うべきか、ローズは言葉に迷った。やや間があって、口を開く。

「コノハ、元気になったの?」

「ああ……だいぶ安定したよ。やっと準備が整ってきたのかな」

 準備とは何のことだろう。暗闇に覆われた所長室で、少女は考える。壁を背にして、長方形の机の上には大量の書類が年月とともに風化しつつあった。もはや無意味な調度品と絵画が配された空疎くうそな部屋で、ふたりはわずかな距離を隔てて向き合っている。

「ねえローズ。まだ虫は嫌いかい?」

 脈絡のない質問だった。その真意を測りかねて、ローズは問い返した。

「こんなときに何よ」

「大事なことなんだ、答えてほしい」

 その真剣な声音に彼女は答えに詰まる。今までの旅を思い返して、金髪の少女は答えた。

「そりゃあ、あのキイロテントウの抜け殻の中でくつろいだりはしたけれど……それでも虫は嫌いよ。だって、あいつらのせいで、もうあたしたちしかいないじゃない」

 その答えを聞いて、朱色の目をした少年はやや顔を伏せる。次に面を上げたとき、苦笑いを浮かべていた。

「そうかい。だったら、やっぱり……」

 大きな衝撃が室内を、いや研究施設全体を襲った。少年少女が体勢を崩し、それぞれ床や机に手をつく。細かな塵が降ってくる部屋で、コノハは目を眇めた。

「――彼が来た」

 姿勢を低くしたローズが問いかける。

「彼って」

「兜の王」

 その名を聞いて、少女の碧眼から困惑が消える。初めて生きた虫と遭遇したときと同じ、生存本能に支配された状態だった。

 モッズコートの少年に駆け寄り、彼の手を取る。そのまま部屋を出て、状況を確認する。世界樹を取り巻く外壁の一部が剥落はくらくし、吹き抜けの底へと落下していく。彼女はエスカレーターを下ろうとして、施設の外殻を突き破ってきた巨大な肢が足元を薙ぎ払うのを目撃した。

 瓦礫と化した足場が落ちていくのを尻目に、金髪の少女は機械的な識別力で上のエスカレーターへと逃走する。逃げ場のない上方を目指してどうするのか、何か考えがあるわけではない。理性のない生存本能の限界だった。

 コノハは手を引かれながら、このままではつまらないな、と考えていた。今のローズが本来の姿だったとしても、自分が慣れ親しんだ少女ではない。

 何よりも、まだ伝えたいことがある。

「ねえローズ。きみにずっと言いたかったことがあるんだ」

 崩落しつつある施設の中で、長いエスカレーターを少年少女は上る。進む方向だけを見つめる彼女は、コノハの言葉に反応しなかった。

 彼は告げた。

「きみは、性格が悪い」

 無表情だったローズの足がわずかに鈍り、変化があった。碧眼に理性の光が戻り、同時に頬に朱が差す。少年は続けた。

「きみにはいつも振り回されっぱなしだ。わがままで頑固で、何というか情緒がない」

「ねえ、それって今言わなくちゃいけないこと?」

 とうとう金髪の少女が前髪を逆立てて後ろを振り返る。見慣れた怒り顔を目にして、コノハの口元が緩む。

「あたしだってねえ、あんたの突拍子のない行動にうんざりしてたのよ。いっつも勝手なことばっかりして……」

 言い争う子供たちに目がけて、凄まじい破壊音とともに大船の舳先へさきじみた角が向かってきた。彼らのそばを圧倒的な質量が通り過ぎ、いとも容易たやすくエレベーターシャフトの芯を刺し貫く。その風圧で小さな体が吹き飛ばされそうになり、手すりに掴まって何とか踏み止まったものの、手にしていたオウシュウツキヨタケの角灯は宙を舞って青ざめた光とともに施設の底へ消えていった。

 巨人の槍が震動とともに引き抜かれ、無残に引き裂かれた外壁の隙間から赤い複眼が覗いた。翅鞘ししょうの大鎧が発する擦過さっか音を重々しく反響させながら、血の色をした大きな瞳が足が竦んだふたりを直視している。

 恐怖心を振り払うように、金髪の少女が革袋を担ぎ直して毒づく。

「ちくしょう、あたしたちなんか食ったって腹の足しにもならないだろ」

 下層への道は粉砕され、どちらにしろ活路は上層にしかなかった。唯一の光源を失って、轟音とともにエレベーターシャフトの太い円柱が傾いでいく施設内で、子供たちは目の前のエスカレーターを走った。

 少年の手を引きながら、ローズは頭上を仰ぐ。この絶望的な状況下で、生存するための手がかりを必死に探った。どうにか身を隠してやり過ごす方法はないか。

 すると、研究施設に沿って高く聳える樹肌の上方に、赤い光点が密集しているのが視認できた。あれは何だろう。まるで赤色発光をする星雲を思わせる。

 黒いケープの少女はあの光を目指すことにした。暗闇では目が利かず、他に目印になるものもなかった。コノハの手を強く握りながら、決して離さないようにする。

「ローズ」

「何、また減らず口を叩く気なの。生き延びたら、一発引っ叩いてやるんだから」

「楽しかったよ」

 一瞬息が止まった。別れの挨拶に聞こえたからだ。

「少なくとも……退屈はしなかった。町を独りで彷徨っていたときよりも、その前よりもずっと、ぼくは生きていた」

 ありがとう。白い結晶が舞い散り、瓦礫と塵が降りそそぐ施設のエスカレーターを上りながら、彼は礼を述べた。

「何よそれ」

 研究施設が揺るがされる崩壊音にかき消されそうな、弱々しい呟きだった。

「まるで、全部終わるみたいじゃない。あたしたちの旅はまだ続くんだから」

「そうだよ、これからも旅は続く」

 彼女の言葉を引き取って、少年は言った。

「だけど……ぼくらはこのままではいられない。もう子供のままではいられないんだ」

 その意味を咀嚼そしゃくする前に、少女の碧眼にあの赤い光点が映った。世界樹の表面に張りついていたのは、鮮紅色の果実のようだった。丸みを帯びて、半透明で中身が透けている。その中でさまざまな形の物体が浮かんでいた。

「ケルメスタマカイガラムシ……」

 隻眼の少年が呟く。施設の外で目撃したハカマカイガラムシと同じ半翅目の昆虫だった。樹の汁液を吸い、表皮は硬化して液果のようになる。本来は黒玉のようで、とても節足動物とは思えない姿形をしていた。

 虫が何百何千と寄り集まった樹皮は眩しく、一帯を明るく照らしていた。ローズはその体内に、さまざまな生命の鋳型いがたを見出した。四足歩行をする形をしたもの、羽を生やしたもの、ヒレと尻尾を有する流線形のもの、手足さえない細長いものがとぐろを巻いている。

 その中には自分たちとよく似ていて、未発達の手足を縮めた生き物が浮かんでいた。彼女に知識があれば、それを胎児と呼んだだろう。

 また繰り返すために。ローズは以前耳にした台詞をふと思い出した。

 エスカレーターを上って辿り着いた先は、最上階の展望台だった。広く何もない部屋に計測機器の画面と大きな望遠鏡が中心に据えられている。見上げると、白い天井に設けられた隙間から先端が突き出し、丸いレンズが世界樹の樹上へと向けられている。雲を突き抜けた樹冠の観察を試みていたのだろう。

「ここは――」

 ローズは呟く。この研究施設で過ごしたであろう彼女にも見覚えのない場所だった。あまりにも静かで、大きな危険が迫っていることを一瞬だけ忘れた。

 次の瞬間には、破壊音とともに黒光りする角の先端が壁を吹き飛ばし、望遠鏡を真っ二つに引き裂いた。残骸の直撃は避けたものの、彼らは大きく転倒した。金髪の少女は革袋の中身をタイルの床にぶちまけて、食料と黒い革の日記帳を散乱させた。

 そのまま頭角を振り上げ、高い天井を崩落させる。コノハはローズに覆い被さり、瓦礫から守った。夜空に煌々と輝く月を、王の剣が一直線に断ち切る。

 打ち砕かれてできた穴の縁を、三本の爪が掴む。無数の戦いの傷痕を残した前胸背板を盛り上がらせて、オウシュウサイカブトは大きく身を乗り出した。朱色をした一対の複眼がちっぽけな二頭の生き物を映す。彼らからは、角の根元にある口器の構造がよく見えた。上唇と下唇のあいだに大腮があり、口髭に似た下唇鬚かしんしゅが獲物を探して揺らめいている。

 口器の奥から、小腮が変化した橙色の刷毛はけ状の毛の束が伸びてきて、腰を抜かした少女の目前に迫る。本来は樹液を舐めるための器官だが、彼女の脳裏にさまざまな自身の末路が駆け巡った。あの毛に絡め取られて、そのまま大口に呑みこまれるのだろうか。それとも全身を締めつけられ、全ての体液を吸われるのだろうか。

 逃げることさえできずにいたローズの視界に、枯れ葉色をしたコートの破れた裾がひらめく。コノハが自分の前に立ち、自分より遥かに強大な兜の王と対峙していた。

「コノハ、だめ」

 黒いケープの少女の制止を聞かず、彼は一歩足を踏み出した。その行動に応じて、触手のごとく迫っていた小腮鬚しょうさいしゅが後退する。呆気に取られるローズの目前で、隻眼の少年は包帯の結び目に手をやる。

「ありがとう、兜の王よ。乾喉国の間者かんじゃだったぼくでさえも、気遣ってくれるんだね」

 コノハの口から紡がれた言語は、人類文明のものではなかった。およそ人間の声帯から発する音ではなかったが、ローズにはどうしてか理解できた。

 くたびれた包帯をほどき、その下の顔面を晒す。少女からは後頭部しか見えず、その表情は窺い知れない。

「だけど、ぼくらはもう大丈夫だ」

 棚引く包帯を手から離すと、風に乗って秘密を覆い隠してきた包帯が飛んでいく。そのさまを見下ろしていたオウシュウサイカブトの赤い目は、次第に青く落ち着いた色をたたえていった。長く伸ばしていた小腮鬚を静かに口元へと引き戻す。

 あ、とローズが声を上げる間もなく、兜の王は展望台の縁からふ節を離し、その巨体ごと滑り落ちて視界から消えた。何が起きたのか把握する前に、北風ミストラルにも匹敵する羽音とともに彼は上空へ羽ばたいていった。

 風の奔流が巻き起こり、子供たちは顔を覆う。崩落した天井に押し潰されずに済んだ革の日記帳が、激しくめくられていく。

 飛び去っていく巨人の王を仰ぎながら、金髪の少女はへたりこんだまま呆然としていた。あのオウシュウサイカブトがなぜ自分たちを見逃したのかわからなかった。

「あたしたち、助かったの……?」

 その呟きに応じたのは、背中を見せたままのモッズコートの少年だった。

「兜の王はね、きっと責任を感じていたんだ。二つの世界を救えなかったから」

 静謐せいひつな声音だった。あの未知の発声から普段の言語に戻っても、ローズは意味がわからず困惑した。

「コノハ、何を言ってるの」

「だからせめて、地底の民たちが地上に置いていかれないようにうながしていたんだ。禁断の果実に侵されて、正気と狂気のあいだを行き来しながら、自分が最後の一頭になるまで」

「あたし、馬鹿だからわかんないよ。ねえ」

 彼女は叫ぶ。焦燥感が胸の奥を焦がしていた。もう少しで、決定的な何かが終わる。そんな予感がした。

 コノハは振り返る。月の光を受けて、その左半分の顔面があらわになっていた。見慣れた右の顔とはまるで相容れない。無残に皮膚が破けて、そこにあったのは人間の眼球ではなく、肥大化した昆虫の赤い複眼だった。

 愕然とする少女を見下ろし、全く不釣り合いな顔面で言った。

「騙しててごめん、ローズ」

 秘密をさらけ出した少年の視界に、あの黒い革の日記帳が映った。彼があえて読まなかった、残りの頁が開かれていた。几帳面だった文字が酷く乱れている。



  月 日


 私はこのことをあの世に持っていくつもりでいた。妻のマリーに知られるわけにはいかず、彼女が亡くなってからも、あの日の出来事を書き記すのは苦痛でしかなかった。今でも思い出すと、悔恨と悲痛のあまり胸を掻き毟りたくなるのだ。

 だが、自分の死期を悟り、考えを改めた。これからもこの荒廃した世界を生きていく人類が残っているのなら、彼らに伝えなければならない。

 隣人を疑い、決して信じるな。


 忌まわしい九月十四日、私は仲間を連れて食料の調達にシェルターを出た。あの怪物どもは恐るべき嗅覚を持って我々の居場所を突き止め、あっという間に同士たちを皆殺しにした。残されたのは、私一人だった。

 人食い巨人たちに囲まれ、死を覚悟した。ティフォンタマオシコガネを模した怪物が前肢を振り上げ、こちらに振り下ろした。そのとき、あれが現れたのだ。

 私を突き飛ばしたのは、我が息子だと思った。不甲斐ない父親の代わりに巨人の棍棒の一撃を顔面に受け、吹き飛ばされた。私は最愛の子の名を叫んだ。逼迫した状況など忘れ、彼の元へ駆け寄った。そのあいだ、どうしてか化け物たちは私たちに襲いかかることはなかった。

 あれを抱き起こしたときの衝撃は、筆舌に尽くし難い。意識を失った右の顔面は、確かに我が息子のジュールのものだった。だが、鋭い爪によって剥ぎ取られた真の顔は、ああ――理性よ、私の目を潰せ。

 ジュールのあどけない顔の下には、醜い昆虫の複眼が隠されていた。他の化け物たちと同じく血の色をしており、否応なく直感した。最愛の息子は既に連れ去られ、この醜悪なゴブリンにすり替えられていたのだと。

 慟哭した。そして、これを決して妻に見せるわけにはいかないと思った。あれを抱えて、無我夢中で走った。自分を凝視する眼差しをずっと感じていた。なぜか襲われることはなく、町の外れにある墓地へと辿り着いた。イトスギの根元に放置されていた、錆びたシャベルを手にして、必死に墓穴を掘った。ジャッコ=ランタンの灯火に似た、青ざめた霊魂の灯火が私を取り巻いていた。

 深く掘った墓穴の底に、あれを投げこんだ。決して這い出てくることがないように、腕の感覚がなくなるまでシャベルを振り続けた。文字通り墓の下におぞましい秘密を埋めたのだ。

 その後は、ずっと以前に語った通りだ。シェルターが襲撃され、妻とともに逃れて、彼女を亡くした。私は世界を放浪した。


 この日記を読んでいるあなた方へ警告する。あれは我々の姿に擬態する。いつでもジャルナックの一撃をお見舞いする用意を怠らないことだ。



「――彼には悪いことをした」

 胸に手を当て、少年の姿をした昆虫は言った。

「卑しい種族だったぼくにできることは、模倣することだった。だから人間の子供を殺し、その子に成り代わった」

 打ちひしがれた少女が、揺れる瞳でその姿を映している。

「でも本末転倒だよね。擬態することばかりに執着して、本当にこの子の両親を慕っていた。だから父親を救わないと、って思ったんだ」

 本当に馬鹿みたいだね。彼は紛い物の口を歪めた。

「次に目覚めたのは、一筋の光もない暗闇の中だった。湿った土を掻きわけて、外を目指した。墓穴から這い出て、何十年かぶりに見上げた月は本当に眩しかった。セミの幼虫も、あんな気分なのかな?」

 半分に欠けた月を背にして、両肩をすくめてみせる。金髪の少女は沈黙していた。

「泥を洗い流した川の水に映る自分の顔を見て、隠さなければと思った。もう誰もいなくなっていたのに、これが本能なんだろうね。包帯を見つけて、顔半分を隠した。破壊されたシェルターには、この子が愛読していた昆虫図鑑があった。それを抱えて、ただ町を彷徨った」

 朱色の複眼が、俯く少女を映す。

「そこへきみが来た」

 人の形をした昆虫は続けた。

「不思議だとは思わなかったかい。きみが一所懸命に集めた食料が全く減らなかったこと。崩落に巻きこまれたぼくが平然としていたことを。あんな高さから落ちて、人間が生きているわけないじゃないか」

 右手に巻かれた包帯を見下ろし、自嘲する。その下には、破れた皮膚から節足動物の外骨格が覗いていることを知っていた。

 彼は告げた。

同物異名シノニムなんだよ。今はコノハ、その前はジュール、ぼくの本当の名前は――」

 告白は遮られた。

「そんなのどうだっていいよ!」

 突然胸にすがられて、彼は右目を見開いた。すぐ近くに、潤んだ碧眼があった。

「人だって虫だっていいよ、あんたはコノハだ。何でなんだよ、ずっとそばにいてよ。あたしをもう独りにしないでよ!」

 悲痛な叫びが月夜に響き渡る。これから起きることを知っているのだろう。

 口をつぐんだ少年の姿をしたものは、思わず苦笑いをした。

「きみは、本当に、わがままだね」

 その柔らかい髪に手を乗せ、優しく撫でる。

「心配、しなくていいよ。また、すぐに、会えるから」

 その口調がたどたどしくなる。剥き出しになった複眼から色が失われて、急速に人の皮が乾いていく。少年の体が、茶褐色に変わっていく。

「コノハ?」

 もうその呼び声に応じることはなく、代わりにその背中からくしゃくしゃに畳まれた白い翅が現われる。産毛に覆われた背胸部が盛り上がり、細長い触覚が飛び出る。一対の複眼が、ローズを見下ろす。

「だめ、行かないで」

 羽化を止めようと、彼女は少年の体を強く抱き締める。それでも脱皮は止まることはなく、枯れ葉に擬態した翅を広げる。昆虫にはあるはずの肢はなく、口器もない。ガの姿をしたそれは、最後に腹部を引き抜くと、完全に人の皮を脱ぎ捨てた。輝く鱗粉を撒きながら、大きな翅を広げて軽やかに夜空を舞う。

 少女は号泣した。大粒の涙が頬を濡らし、抜け殻になった少年の胸に顔を埋めた。だから、自分の体に起こっている変化に気づかなかった。露出した顔や手が透明になり、その背中に刻まれていた脱皮の前兆から、畳まれていた白い翅が伸びる。翅脈しみゃくに体液が行き渡り、完全に広がった翅の裾には、赤い斑点と帯状の模様があった。

 長い触覚を左右に広げて、シロオビアゲハに酷似した肢のないチョウは泣きじゃくる少女の姿を捨てた。大きな翅を羽ばたかせて、片割れの後を追って空高く舞い上がる。聳え立つ世界樹に沿って飛翔する彼女は、すぐに自分を待っていたガを見出した。二頭の小さな蝶蛾パピヨンは再会の喜びに戯れながら、遥か大樹が指し示す高みへと昇っていく。

 月明かりの下に残されたのは、瓦礫が散らばる展望台の上で泣いている透明な少女の脱皮殻と、微笑みながら金色の髪を撫でる少年の茶色い脱皮殻だけだ。

 そこは抜け殻の世界だった。

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同物異名 @ninomaehajime

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