アゝ逃ゲ去ル年々ハ滑リ行ク
そこは黄金色をしたブナの木立だった。幹は真っ直ぐ伸び、無数の円柱が連なった自然の宮殿である。
厚いコケの絨毯を四輪のタイヤが踏み締め、落葉高木の太い根に生えたヨウナシの形をしたキノコが揺すられて、胞子を煙のように噴き出す。
木々の合間を縫って、どこか愛嬌のある黄色い車が吹きすさぶ風を受けながら、平坦でない林の中を徐行運転していく。その運転席にいる少女は飛び出た二本の前髪をへたれさせ、げんなりとした様子だった。
「死ぬかと思った」
ステアリングホイールを握る金髪の少女は明らかに背丈が足りず、外見は十代の半ばほど。後ろ髪を赤いリボンで蝶々結びにし、長い裾に赤い斑点と白い帯状の模様をあしらった黒のケープを羽織っている。白い足に履いた黒いシューズでこまめにフットブレーキを踏んでいた。
「近くに林があって助かったね、ローズ」
ローズという少女を
このブナ林は菌類の宝庫らしく、狼のすかしっ屁という不名誉な学名を名づけられた胞子を噴き出すホコリタケを始めとして、イグチの大きな傘やハラタケの
木立のあいだには、都市部とは異なる生物相の昆虫の抜け殻があった。キノコを齧るヒロズコガの幼虫、トリュフを主食とするずんぐりむっくりとしたフランスムネアカセンチコガネ。キノコをスープ状に溶かして啜るハエの幼虫たち。
観察の結果、どうやら本来の食性によって活動する場所が変わる傾向があることがわかってきた。たとえ、人類をたいらげた人食い鬼だとしても。
「コノハ、あんたってこんなときでも勉強熱心なのね」
金髪の少女は、嫌味な調子で少年の名を呼んだ。ブナの木々が防風林の役割をしてくれるとはいえ、吹きすさぶ風は人類社会が存続していたときから骨董品だった車体を容赦なく揺さぶっていた。
「無事だったんだからいいじゃないか。それに、ぼくはちゃんと雲行きが怪しいって伝えたはずだよ」
皮肉な言葉にもどこ吹く風で、コノハは前髪を弄ばれながら昆虫観察を続ける。警句を聞き流した自覚がある少女は強く言えず、ため息をついた。ステアリングホイールを握り、運転に集中する。風の影響は弱まったとはいえ、天然の
車中泊が当たり前となっているふたりが朝を迎えたとき、頭上に広がる空にはすでに兆候があった。雲が千切れ飛び、頬に当たる風は冷ややかで不穏なものを含んでいた。天を仰ぎながら少年は言った。
「ローズ、今日は天候が荒れそうだよ」
彼の忠告に、ぼんやりとした様子のローズがおざなりに答える。
「まあ、大丈夫でしょ」
最近はいつもこんな調子だった。心ここにあらずというか、どうにも気がかりがあるらしい。その正体が掴めないコノハは、彼女の横顔を見て、ただ肩をすくめた。
迂闊な旅人は風の神の怒りを買った。荒野を走っていた車を襲ったのは、
地べたを這いずる者たちも例外ではなく、嵐の大海に浮かぶ木の葉のごとく軽自動車は弄ばれた。ローズの必死な運転でどうにか横転をまぬがれ、このブナの林を発見して逃げこんだ次第である。
ふとコノハは尋ねた。
「ねえ、その上着って二着あったの?」
彼女が着ている黒いケープを一瞥する。彼の記憶が正しければ、以前その上着はクモの糸によって絡め取られたはずだった。
金髪の少女は不思議そうな表情をする。
「前に言わなかったっけ。自分で縫ったのよ」
「縫ったって、自分で、全く同じケープを?」
信じ難い眼差しで、黒絹で織られた滑らかな生地のケープを見つめる。把握している限り、荷物に糸玉や裁縫用の道具はない。何より素人が簡単に縫製できる代物だとは思えなかった。
ローズは自慢げに胸を張った。
「こう見えても、縫い仕事は得意なのよ」
そうかい、とコノハは早々にこの話題を打ち切った。疑問は尽きなかったが、追及しても彼女から正答を得られない予感がした。
頭上の樹冠は相変わらず騒がしかった。どうにか車が通れる隙間を探して徐行運転を心がける。枯れ葉が舞う視界の中で、ローズははっとした。強風に身を任せ、枝葉で揺れる物体に目を奪われた。
それは小枝の薪束でできた鞘で紡錘形をしていた。細く窄んだ上部が枝の一点に接着して、荒れ狂う天候にも耐えている。
「ミノガだね。幼虫かどうかは、外側からはわからないけれど」
いつの間にか同様に顎を上げていたコノハが言った。移動できる藁小屋に包まれた、ミノムシとも呼ばれる
「ミノガの雄は羽化すると鞘から飛び立つけれど、種類によって雌は幼虫とほとんど変わらない姿のまま鞘の中で一生を終えるんだ。いわゆる
「ねえ」
「うん、何だい?」
「あの子は、大人になれたかな?」
虫を嫌う彼女にしては感傷的な物言いだった。コノハは少し考え、静かに首を振る。
「わからないよ。それこそ、内側を観察してみないことには」
そっか、と呟いてローズは前に顔を戻す。頭の上を揺れる薪束の衣装が通り過ぎていく。抜け殻にしろ亡骸にしろ、その魂はとうに飛び去っているだろう。
車内を沈黙が満たしたまま、愛車はどこまでも続くブナの柱廊を進む。林は起伏こそあるものの、なかなか北風をやり過ごすのに適した場所が見つからなかった。何もない荒野よりはずっと条件が良いとはいえ、とうに老いた
ふたりが半ばその覚悟を決めたとき、くすんだ木立のあいだに不自然なほど浮いた色合いの物体が鎮座していた。遠目からでは見慣れた虫の抜け殻に思える。ただ奇妙なのは、それが透けていたことだ。
ローズはその方向へとステアリングホイールを切った。不安定な走行で盛り上がった木の根を乗り越えながら、不思議な存在へと接近する。片方のヘッドライトが割れた愛車が少し開けた場所に出た。沈んだ空を映す狭間では、雲の欠片が激しい気流によって押し流されている。
手前まで到達すると、止める間もなくコノハが助手席から飛び降りた。少年の勝手な行動に腹を立てながら、ローズもエンジンを切って車を降りる。後ろ髪が千切れそうなほどになびいて、彼女は金色の髪を押さえた。
少年少女の目前にあったのは、予想に違わず昆虫の脱皮殻だった。全長はおよそ五メートルほど。半円形を描く
要するにテントウムシの一種であったが、これまで目の当たりにした抜け殻との相違点は明らかだった。琥珀色を帯びた半透明で、その内部が透けている。何より驚愕したのは、人間の手によって運び入れられたとおぼしき家具が配置されていることだった。
外から観察すると、小さな机と本棚、シーツが敷かれた組み立て式の木製のベッドが確認できた。六本の肢の基節や内臓を有していた複雑な構造をした腹面には、動きやすいように柔らかそうな絨毯が敷かれている。
人類の天敵となった虫の抜け殻が居住空間へと様変わりしていることは、子供たちは絶句させた。今まで数多くの脱皮殻や死骸を目撃してきたが、空っぽとなった外骨格を利用して部屋にしているなど、常識の埒外だった。
「これはナナホシテントウ……いや、翅鞘の斑点がないから、ケブカヒメテントウか。それも違う……」
琥珀色の滑らかな手触りを確かめながら、コノハはぶつぶつと種類を考察している。二本の前髪を逆立てたローズが素っ頓狂な声を上げた。
「信じらんない。誰かがここに住んでたっての?」
「ああ、そうみたいだね。全く、コペルニクス的転回だよ。虫の抜け殻を家にするなんて発想は、相当な天才じゃないと出てこない」
「いや、あんたみたいな変人だと思うわ」
興奮気味に話す少年の言を辛辣に切り捨てながら、まじまじとテントウムシの抜け殻を見上げた。碧眼から感情の色が消え、口がひとりでに動いていた。
「――随分と大きくなったじゃない」
ローズは自分の呟きには気づかない。すぐ傍らにいた少年の不在に、慌てて周囲を見回した。付近の木の根元にしゃがみこむ枯れ葉色の背中が見えた。
「我、発見せり」
「あんた、また勝手に」
「あると思ったんだ。ほら、これ」
降り積もった枯れ葉の中から探し当てたのは、年季を帯びた木の梯子だった。長年使用されていなかったらしく、あちらこちらが濃緑色のコケに覆われている。彼は嬉々として両手で運んできた。
「そんなもんどうする気よ」
「もちろん上るのさ」
黄色がかった半透明の抜け殻に梯子を立てかける。その行為に少女は唖然とした。
「あんた、まさか」
止めるより早く、今なお吹き荒れる強風の中、彼は梯子を上った。モッズコートの裾をはためかせて、殻の頂上まで到達して少女を見下ろす。ローズは叫んだ。
「危ないわよ」
「やっぱり出入りできるだけの裂け目がある。ここから入れるよ」
言うが早いか、脱皮痕に身を滑りこませた。縁に掴まり、一度ぶら下がってから綺麗な着地をする。もはや二の句も継げない少女と殻を隔てて、コノハは朗らかな笑顔を向けた。弾んだ声がくぐもって届く。
『狭いけど、見た目よりずっと快適だ。住めば都とはこのことかな』
「あんた正気なの。馬鹿なこと言ってないで、早く出てきなさい」
『ローズもおいでよ。ここは暖かいよ』
前髪を振り回して、彼女は激しく首を振った。
「冗談じゃないわ。虫の中だなんて身の毛がよだつ」
『そうかい。じゃあ、ぼくはしばらくここにいるよ』
あっさりと言って、殻の向こう側で少年は内部を調査し出した。きょろきょろと周りを見渡して、本棚の上に飾られた、幾何学的な螺旋を描く殻を有した古代の貝類の化石を興味深そうに眺める。
『これは……アンモナイトの化石かな。こんな良好な保存状態のものがあるなんて』
モッズコートの少年は年相応にはしゃいでいた。一方、ブナの木々とともに強い風に吹かれているローズは髪型を乱し、抜け殻の外に独りぼっちで佇んでいた。車に戻ろうにも、小さな車体はぐらぐらと頼りなく揺れていた。外気は凍えそうなほどに寒い。
長い葛藤の末、彼女は梯子に手をかけた。今にも倒れてしまいそうな足場の不安定さにおっかなびっくりと、コケにまみれた
ローズは遠慮がちに片足を差し入れる。そのまま身を下ろすと、細い腰をしっかりと手が支えた。
「いらっしゃい」
持ち上げられて、黒いシューズが枯れた葉や小枝が散乱した絨毯の上に着くと、満面の笑みに出迎えられた。ローズは気まずそうにそっぽを向く。
「あんたを一人にすると危なっかしいから、仕方ないわ」
言い訳がましい弁を聞き流して、コノハは自分の部屋を自慢するように抜け殻の中で両手を広げた。
「どうだい、少々散らかっているけど居心地は悪くないだろう。体節の気門から空気が出入りしてるから、息苦しくなることもないはずだ」
彼の言う通り、外とは違って風の影響を受けることもなく温度は安定していた。思ったよりも生理的な嫌悪感はなく、半透明の殻を通して淡い日差しが舞い散る落ち葉の葉脈を透かしていた。その黄葉をローズが掴もうとすると、指の隙間からすり抜ける。
天井にあたる背胸部は低く、体の構造から前後に行くほど背を屈めなければならなかった。関節部の形を残した外骨格の内壁は滑らかながら複雑な構造をしており、人間の建築家では再現できないだろう。
瓶の中の船と同じ原理で、家具の類は材料を持ちこんで組み立てたのだろう。狭い居住空間にはまず簡素な木のベッドが占め、敷かれたシーツは皺が寄ったまま固まって、隙間から降り積もった木の葉が覆い被さっている。表題のないクロッキーノートが無造作に置かれていた。
手の届く範囲に小ぶりな本棚があり、収められた書籍はいかにも分厚く、ローズでは背表紙の題名を読むこともできない。必要最低限な生活用品が集められた印象のある質素な室内で、剥き出しのまま本棚の上に立てかけられたアンモナイトの化石が唯一の装飾品だ。
四方に散りばめられた家具の中で、小さなクルミの机が目を引いた。茶色がかったメルトンの絨毯の上に、木枠の中で麦藁を編んだ紐を張った簡素な椅子が置かれ、角ばった机と向き合っている。長年使われていたものなのか、蝋が塗られていたであろう天板は老いて皺だらけになり、縁が一つ欠けて今にも剥がれてしまいそうだ。さらにインクの染みとペンの先端で傷つけられた痕が飛び散っており、とてもみすぼらしい。
一スーの
ローズがそのノートの紙面を覗くと、たちまち顔をしかめた。非常に難解な式がびっしりと空白を埋め尽くしており、全く意味がわからない彼女の目には夥しいミミズが尻尾をよじっているようにしか見えなかった。
ある箇所に楕円形を逆さまにした図形が描かれており、一種の
y=(e x + e-x)/2
「これは懸垂曲線の方程式だね。この抜け殻に住んでいた人は、幾何学を勉強していたんだ」
横から覗いたコノハが口を出す。懸垂曲線は別名カテナリー曲線とも呼ばれ、ラテン語で「鎖」だとか「絆」を意味するカテーナに由来する。
「きか……?」
「幾何学だよ。図形や空間を扱う高等数学の一種で、そうだなあ」
ノートに記された直線で切られた円錐の端に指を当て、その両端を持ち上げる仕草をして見せる。
「ここに紐があるとするでしょ。両端を指でつまんで吊るせば、この図形と同じ形になる。それを紙の上で表したのがこの複雑な方程式なんだ」
彼が垂らした、見えない紐の切れ端に目を凝らす。ノートの上の式と見比べて、ローズは首を振った。
「この模様がその形を表してると言われても、さっぱり意味がわからないわ。紐が一本があれば簡単にできるのに、わざわざ別のやり方で表現するだなんて」
「一頭のハエを征服するにも、ヘラクレスの棍棒が必要なのさ。それに幾何学で説明できる現象は自然界でも普遍的に起きてるんだ。朝露でたわんだクモの横糸や、遥か宇宙の惑星の軌道にもね」
ふうん、と金髪の少女は興味なさげに相槌を打つ。皺が寄った天板を撫で、あまり納得していない様子だった。
「そんなの勉強してどうなるのさ。もう人間の社会はなくなっちゃってたのに」
「さてね。文明の復興を目指していたのかもしれないし、ただ単に自分がやりたかっただけなのかもしれない」
「やりたかっただけ?」
ローズは訝しそうにする。目を
「知識欲という奴さ。段階を追いながら未知の仄暗い領域に足を踏み入れていく。この暗闇の中に新たな光が差して、もっと高い階段を目指すことができるんだ」
コノハは言いながら、抜け殻の片隅に三足の直角儀と標柱を見出した。その道具は木の幹の体積を求め、樽の容量を測り、本来手が届かない場所への距離さえ計測する。
金髪の少女は再び首を振った。
「やっぱり、変なの」
ミミズがのたくったノートに興味をなくし、ベッドの方に向かう。モッズコートの少年は肩をすくめ、しゃがんでクルミの机そのものを観察する。老朽化もさながら、材木に小さな穴が空いていることに注目した。
おそらく何かが掘り進んだ坑道だ。この机の持ち主が行った行為とは思えず、本来の大きさの虫が空けた穴ではないかと推測した。直径十ミリにも満たず、指も入らない。代わりに耳を当てると、コツコツと材木を齧る音が聞こえる気がした。
古い家具に穴を空ける、シバンムシという虫のことを知っている。死番虫と書き、死の訪れを刻む時計の音だという迷信があったらしい。
果たして自分には、どれほどの時間が残されているのだろう。
「我ハ我ガ身ニ等シキ者トナリテ復活ス、か」
後方で喜声が上がった。振り返ると、黄色い落ち葉を払い落としたベッドの上に座ったローズが、クロッキーノートを両手に広げていた。
金髪の少女は愛らしい笑顔を向けた。
「これならわかるわ。とても素敵ね」
彼女がクロッキーノートを差し出してコノハに見せた。そこには水彩画で描かれた、さまざまなキノコが鮮やかに浮かび上がっていた。
「へえ、綺麗だね。ここの人が描いたのかな」
透明感のある筆致で紙に写し出されていたのは、ウラベニイグチだった。
「食べたことないけど、どんな味がするのかな?」
無邪気にはしゃぐ少女に、コノハは渋い顔をした。このキノコは毒があり、人間が食べると消化不良を起こして嘔吐と下痢を誘発する。魔王とも呼ばれたキノコだ。
「残念だけど食べられないよ、ローズ。これは毒キノコだ」
「嘘よ。溶かしてスープにしてたひとがいたもの」
片目の少年は疑わしそうな眼差しを向ける。
「本当かい。その奇特な人はどんな人なの」
問われたローズは目をぱちくりとした。
「ええっと、誰だっけ?」
「知らないよ……」
コノハは呆れた。そんな彼をよそに、ベッドに腰かけたローズは夢中になってクロッキーノートをめくる。
「キノコは生活に役立つのよ。ほら、これ」
隣に座った少年に別の頁を見せる。外被膜を履いた、ひょろりとした柄が伸びたキノコで、どことなく東洋の唐傘を連想させた。学名にはマグソヒトヨタケとある。
金髪の少女は声を弾ませた。
「このキノコは塗料になるのよ。これで色を塗れるんだから」
コノハは返答に困った。確かにヒトヨタケは採取すると二時間足らずで液化する性質を有するが、果たして絵の具に適しているだろうか。
珍しく知識をひけらかす側になり、得意になっている少女の機嫌を損ねないために、褐色の髪の少年は当たり障りのない言葉を選んだ。
「よく知ってるね、ローズ」
「当然よ。キノコには日常生活でよくお世話になったもの」
上機嫌に二本の前髪がしきりに弾んでいる。上下するその動きを観察しながら、コノハは考えを巡らした。
地上の本で得た知識と彼女が暮らしていた場所のキノコでは性質が異なるのだろう。オウシュウツキヨタケが菌糸を張り巡らせた角灯を思い浮かべながら、彼はそう推測した。
虫の抜け殻に入ることに対して、あれだけ抵抗感を示していた金髪の少女は、さまざまなキノコの水彩画を眺めてはしゃいでいた。傷つけると、血によく似た赤い液体を流すというセイヨウアカモミタケをふたりで眺めながら、コノハは疑問を呈した。
「ここにいた人は、どうしてキノコの水彩画なんて描いてたんだろう」
神経質に書きこまれたノートの数式やアルファベットと、キノコの水彩画がどうしても結びつかない。彼ないし彼女の人物像が上手く掴めなかった。
「理由なんてどうでもいいじゃない。きっと好きだったのよ」
ローズは言った。そのあっけらかんとした物言いに、彼は先刻の自分の発言を思い返す。どれほど理屈で飾ろうとも、結局はそういうことなのかもしれない。
「ああ、そうかもしれないね」
琥珀の抜け殻の外では、相変わらず北風が吹き荒れており、ブナの枝葉がしなっていた。裏腹に内部では穏やかな時間が流れており、厳しい世界と隔絶されていた。学名もわからないテントウムシの脱皮殻は一本欠けた肢で毅然と地を踏み締めて、自らの身を鎧とし、盾としていた。
窮屈な車の中での生活が日常だった少年少女には、居心地が良かった。少しずつ日が暮れても、彼らは思い思いに時間を過ごした。コノハは本棚の数学書を読み解き、ローズが化石のアンモナイトを漫然と眺める。その渦巻きに数学上の深遠な真理が隠されていることも知らず、その殻が描く溝をなぞって、目を回したりもした。
すっかり夜の帳が下りる頃、ブナの木立は静まり返った闇に包まれていた。ふたりはやることもなく、狭いベッドの上で頭を寄せている。脱皮痕越しに見える樹冠の合間から、夜空が無数の光点を散りばめていた。
「ローズ」
「何よ」
「こんなにのんびりしたのはいつぶりかな」
「覚えてないわ。ずっと移動ばかりしてたから」
とりとめのない会話をした。コノハは冗談めかして言う。
「いっそ、ここに住もうか」
「ああ……それでもいいかもね」
てっきり拒否されると思っていた彼は意外に思った。この少女は、人類探しの使命を自らに課していたはずだからだ。
「ねえ」
「何だい」
「ここに暮らしていた人は、どこに行ったのかな」
「さあね。何か事情があって引っ越ししたのか、旅にでも出たのか……少なくとも、随分ここには帰ってないよ」
褪せた落ち葉に彩られた絨毯と、凝り固まったままのベッドのシーツからして、そう考えるのが妥当だった。
空を彩る星々を仰ぎながら、ローズの口から言葉がこぼれた。
「その人は、安らかに終われたのかな?」
コノハには答えられなかった。彼女の横顔を一瞥する。目を細め、あどけなかった鼻梁と唇が艶やかな輪郭を描いている。少女の時代が終わろうとしていた。
「コノハ」
真摯な青い眼差しが向けられる。
「あんたは、いなくならないわよね?」
その言葉を受け止め、少し間を置いてから返事をした。
「いなくはならないよ。きみが置いていかない限りは」
「そっか」
安心したように、金髪の少女は目を閉じた。胸で両手を重ねた姿は、安らかな生を送った死者にも見えた。
だから周囲の変化に気づいたのは、赤い瞳をした少年が先であった。身を起こし、目を凝らす。
「ごらん、ローズ」
「どうしたの」
同じく半身を起こして、少女は目を瞠った。琥珀色の殻の外で、木々の根元で淡い光が無数に集まっていた。そこかしこから反り返った帽子を覗かせた、森の小人たちが自らの婚礼と胞子の発散を祝っている。暗い景色を彩る、遥か銀河の星雲にも似た青白い光点には見覚えがあった。
「これって」
「ああ、ここはオウシュウツキヨタケの群生地だったんだ。きみが持ってるものよりもずっと光量は弱いけどね」
抜け殻の外に停められた愛車の後部座席でも、一際強い光が放たれている。まるで離れ離れだった同胞と巡り合った喜びを、暗褐色の傘を広げて表現しているようだった。
猛り狂う風の神が通り過ぎた後のブナ林で、しめやかに行われる光の祝典は来訪者を歓迎していた。ベッドの上で膝立ちになり、殻の内側に手をついたローズは呟く。
「綺麗」
「うん」
殻の中の少年少女は、ブナ林に広がる星雲に見とれた。濃密な暗黒に包まれているために、その仄かな輝きはより鮮烈に瞳に焼きつく。
コノハは詩をそらんじる。
「夜というものは、忌まわしく、物悲しく、また憂鬱ではあるまいか? 夜は、光なきが故に黒く且つ暗いのである。光明というものは、万物を喜ばせるものではなかろうか? 光明は、何物にもまして皎々として白い」
金髪の少女は笑う。
「何それ」
「昼間に話した、懸垂曲線のことは覚えてるかい」
「あのよくわからない線のこと?」
ベッドの上に胡坐をかいて、彼は満天の夜空を振り仰いだ。
「誰の手にも届かない宇宙であっても、数学の法則は適用されているんだ。ケプラーの三法則と言ってね、太陽系の惑星は太陽を一つの焦点として楕円の軌道を描いて公転していると証明された。少し式を変えれば放物線になって、それは彗星の弾道となる。人類は、暗い未知の宇宙を科学の光で照らそうとしたんだ」
ローズは静かに耳を傾けていた。
「あの虫たちの抜け殻の中身がどこへ行ったか、ずっと考えていたんだよ。あの老人の日記にも書いていただろ、逆巻く光の雨を見たって。きっと彼らは、あの夜空へと飛び立ったんだ。古い殻を脱ぎ捨てて、数学の灯台によって照らされた星々の海を泳いでいるのさ」
妖精たちの光の祝福に取り巻かれながら、理屈屋の少年はらしくない熱量で想像を語った。少女はくすりと笑う。
「随分とロマンチストね」
はっと我に返って、コノハは照れ臭そうに頭を掻く。琥珀色の抜け殻の中で、鈴を転がすような笑い声が反響していた。
安穏とした時間を台無しにしたのは、大地全体を震撼させる衝撃だった。ブナの林は樹幹ごと揺さぶられ、しっかりと地面に根づいたテントウムシの抜け殻も影響はまぬがれない。本棚の数学書はこぼれ落ち、アンモナイトの化石が落下して真っ二つに割れた。クルミの机の脚ががたがたと揺れ、方程式が書かれたノートが恐れおののく。
ほとんど条件反射で、少年少女は身を寄せ合って抱き合う。このままじっとしていれば、いつも通りに地震は収まるはずだ。ところが、そうはならなかった。
大きい震動こそ過ぎ去ったものの、地鳴りに似た音は止まない。地殻同士が擦り合っているかのような、不協和音が断続的に鼓膜を震わせる。異変を察知したコノハが立ち上がり、抜け殻の裂け目に掴まって這い上がった。
「コノハ」
足元でローズが叫ぶ。爛々とした赤い瞳が、遥か遠方で巻き上がる土煙をとらえていた。その中で動く、極めて巨大な影もだ。
立ち上る土煙を切り裂いたのは、長大な黒い角だった。そそり立つ尖塔を連想させる槍の先端は鋭く尖り、山肌をも貫き通すだろう。その根元では一対の赤い光が輝き、此方を射竦めていた。
大気が軋む音とともに現れたのは、まさしく動く山岳だった。威風堂々とした王者の兜と栗色をした前翅の鎧に身を包み、仄かな星明かりの下で鈍色に輝いている。宮殿の円柱ほどの太さもある六本の肢のふ節が振り下ろされるたびに、大地に大きな爪痕を残して、重厚な要塞を思わせる外骨格が擦れて錆びた金切り声を発した。
身を伏せた姿勢にも関わらず、ブナ林の樹冠を高みから見下ろし、口元の
かつてヨーロッパ最大の種と称された、オウシュウサイカブトというカブトムシだった。とっくに絶滅した大型の哺乳類と類似した角から由来する学名だが、原種と比べるべくもなく頭角が異様に発達し、その威厳と風格はいかなる生物も寄せつけない。
かの威容を目の当たりにして、モッズコートの少年は呆然と呟く。
「ガルガンチュワ――」
下では必死にローズが呼びかけている。遥かな距離を隔てて、巨人の王と視線が合った。少年の赤い瞳と、朱に染まった複眼が交差し、目の色が明滅して赤と青が交互に入れ替わる。
その眼差しに呑まれていたコノハは、自らの足を引っ張る手に正気に返った。金髪の少女が必死に腕を伸ばし、ブーツの踵を掴んでいた。
「一体何が起きてるのよ。あたしはどうしたらいいの」
裂け目の下に手を差し伸べ、彼は叫び返した。
「虫だ」
その手を掴みながら、彼女は困惑した表情をした。
「虫って、そんなのいくらでも」
「違う、抜け殻じゃない。あれは生きてる。今、ぼくらを見てるんだ」
引っ張り上げられた黒いケープの少女は一瞬だけ碧眼を見開き、一切の表情を打ち消した。大いに動揺すると思っていた少年は、真逆な反応に戸惑う。
「ローズ?」
「逃げるわよ」
どこか機械的な声音だった。琥珀色の抜け殻から這い出て、その滑らかな前翅の上から滑り降りる。着地して、ホタルの群れにも似たオウシュウツキヨタケの光の中で、際立った灯りを発する地点へと走り出す。
そこには黄色い軽自動車があり、後部座席で角灯に収まったツキヨタケが目印となっていた。普段の性格からは想像もできない迅速な行動に、モッズコートの少年はすっかり虚をつかれた。
「コノハ、急いで」
運転席のドアを開け、ローズが怒鳴る。その大声に急き立てられて、彼も慌てて飛び降りる。その途中で視界に映ったのは、夜空を覆わんばかりに背胸部の甲羅を広げたオウシュウサイカブトの姿だった。下に収められた翅脈が巡る透明な後翅の外套があらわになり、小刻みな振動を始めていた。
姿勢を崩して着地しながらも、コノハは大声を発した。
「ローズ、こちらに飛んでくる」
危機的状況は伝わっているだろうに、フロントガラスに映ったその顔は無表情であった。チョークを引き、アクセルを開けながらキーを捻る。寿命が間近に迫った愛車は中々エンジンがかからなかった。
いつものローズなら毒づいて、必死になってキーを回すだろう。だが、今の彼女は極めて単純な本能に衝き動かされており、焦りはまるで見えない。太古からそうしてきたように、外敵から生き延びるのに最適な行動を愚直に繰り返すばかりだ。
車に向かって走り出しながら、コノハは内心で腑に落ちていた。やっぱり、きみもそうなんだね。
ドアがない助手席に滑りこむとほぼ同時に、小さな車体を強烈な暴風が見舞った。北風すら吹き散らすほどの飛翔が巻き起こす旋風だった。ブナの木々が一斉に恭しく頭を垂れ、大量の落ち葉がフロントガラス越しに視界を飛び交う。
頭上の空が遮られ、視界が一層暗くなる。片目のヘッドライトを光らせて、壮絶な追い風を受けて軽自動車が発進した。巨大船の錨にも似た二本の爪を有したふ節が降り立ち、その衝撃で車体と後部座席の下のオイル・サーディンの缶詰が大きく跳ねた。ルーフのずっと上で、基節が密集した前胸と中胸が織り成す、巨大な建造物の構造体じみた幾何学的な光景が、助手席から顔を出した少年の目に焼きついた。
十インチタイヤが接地すると、負荷に耐えかねてフロントバンパーが剥落する。内部のサスペンションが折れる致命的な音がした。後部座席の荷物が飛び散り、少年少女の後頭部や肩にぶつかる。ステアリングホイールを繰って横転しそうになる姿勢を立て直し、少女の手足はまさしく綱渡りのような運転に駆り出された。
倒壊する建物の絶叫を思わせる軋みの最中、進行方向を塞ぐ柱にも等しい
コノハは後ろを振り返り、次第に遠ざかっていく巨大な影を確認した。追ってくる気配はなく、巨人は長い角を生やした鼻先を地面に近づけていた。そこには琥珀色をしたテントウムシの豆粒のような抜け殻があり、穏やかに青く灯る眼差しが注がれていた。
少年少女が初めて認識する、生きた虫との遭遇だった。ローズは夜が明けても車を走らせ続け、規格外の怪物との距離を稼いだ。とうにブナ林を背後に置き去りにし、石灰岩の山々をいくつか通り過ぎても、アクセルペダルを踏むのを止めなかった。
脱出劇で前歯が欠けた車がようやく足を止めたのは、太陽が柔らかな光を投げかける頃合いだった。ずっと無言だった金髪の少女がステアリングホイールに突っ伏し、潤んだ碧眼から大粒の涙をぼろぼろとこぼしてコノハを見つめた。
「あたしたち、生きてる、のよね?」
ようやく理性と感情を取り戻したローズに、彼は静かに肯定する。
「ああ、生きてるよ」
こうして彼らの旅路は、これまでとは似て非なるものになった。あのオウシュウサイカブトが自分たちを追跡してくる可能性を否定できなかったからだ。
助手席で褐色の髪をなびかせて、少年は言った。
「今までの地震は、あれが地中を移動していたのかもしれない」
その発言に少女の顔が青ざめ、ステアリングホイールを握る手に力がこもる。地震が頻発し出したのは、果たしていつからだっただろうか。
さらに追い打ちをかけたのは、コノハの体の異変だった。今までは助手席に座って昆虫図鑑を読み耽っていたのに、眠っている時間が多くなった。その横顔は生きているのか不安になるほど、生気に欠けていた。
「コノハ、大丈夫?」
ふたり旅を続けてきて、こんな事態は初めてだった。ローズは心配になって、何度も何度も呼びかけた。彼は、億劫そうに瞼を開けた。
「大丈夫。ちょっとだけ、眠い……」
その声音は今にも消え入りそうだった。
数日もしないうちに、またもや苦難が襲った。黄色い愛車が変調をきたしたからだ。エンジンの音が明らかにおかしくなり、思ったように速度が出なくなった。何もない荒野の真ん中で減速を繰り返し、最後には断末魔の痙攣をして一切の活動を停止した。
「どうしたの、スバル。お腹が空いたの?」
焦燥のあまり、黒いケープの少女は
「もうとっくに寿命だよ……あれから逃げるときに無茶をさせてしまったし、今まで動いていたことが奇跡なんだ」
間隔の長い呼吸を繰り返しながら、容赦のない現実を突きつける。その言葉に二本の前髪を動揺させながら、金髪の少女は頭を抱えた。
「嘘でしょう。これからどうすればいいのよ。ねえ」
泣きそうな声で計器類に訴える。走行距離を示すメーターや速度計は沈黙し、もう二度と動くことはない。目尻を濡らしながらインパネを叩いては揺さぶった。
「歩くしか、ないね」
深く上下する胸に片手を置いて、憔悴したコノハが唇だけを動かした。あの襲来から大規模な地震はないものの、断続的な揺れはずっとつきまとった。
「そう、そうよね。いつまでも、ここで足踏みしてる場合じゃないわ。だったら、荷物を」
悲痛な表情をしたローズは取り乱しながらも現状を受け入れ、運転席から身を乗り出して後部座席の革袋に手を伸ばした。
「何も、いらないよ」
静かに告げる少年に、彼女は戸惑った眼差しを向ける。
「何を言ってるの。水や食料がないと」
「もう必要ないんだよ」
強く反論され、黒いケープの少女は思わず華奢な肩をすくめる。彼は精一杯体を起こして、何かを打ち明けようとした。
「いいかい、ぼくらは――」
怯えた面持ちの少女を目前にして、コノハは口をつぐむ。肩の力を抜いて、弱々しく謝った。
「……大声出して、ごめん。ぼくは手伝えそうにないからきみが選んでほしい。どれだけ歩くかわからないから、必要なものだけを」
うん、と消え入りそうな返事を聞き届けて、彼はまた瞼を閉じた。運転席のドアが開閉し、足音が移動する。後部座席のドアが開いて、革袋を漁る音がした。
本来の虫の化石が入った胴乱や、これまでの旅路で集めた学術書は置いていくことになるだろう。砂塵を被っていく外骨格の中で、静かに朽ち果てていくに違いない。
おそらくは保存食や水が入った容器を厳選しているのだろう。物を出し入れする音が車内に響いていて、少しだけ止まった。薄目を開けて盗み見ると、彼女の小さな手にはあの干からびた老人が遺した黒革の日記帳があった。
少年は鳶色の右目を閉じて、何も口出ししなかった。
結局彼女が持っていくことにしたのは、幾ばくかの食料と飲料水、包帯や鋏といった必要最低限の物資だった。革袋の口を紐で縛り、肩に提げる。押しこめられたオウシュウツキヨタケの
「……昆虫図鑑は、本当にいらないの?」
遠慮がちにローズは尋ねた。不必要な日記帳を忍ばせたことに負い目を感じているのかもしれない。モッズコートの少年は、力なく笑った。
「いいんだよ、ぼくなりの手向けさ」
永遠の眠りについた愛車の滑らかな体を撫でた。
「彼は、よくここまでぼくたちを連れてきてくれた」
丸みを帯びたモノコック構造の黄色い車体には、ここまでの旅の痕跡が残されていた。無茶な運転で割れたヘッドライト、同乗者の迂闊な行動でもぎ取られた助手席のドア、あの危険な状況から逃げおおせたときに欠損したバンパーと摩擦で削れた外板。内部の部品はもっと目が当てられない状態だろう。
その弔いに、ローズは感極まった。鼻を啜り、目尻に滲んだ涙を拭う。毅然と顔を上げて、別れを告げた。
「守ってくれてありがとう。おやすみなさい、スバル」
手を繋いだ少年少女の後ろ姿が巻き起こる砂塵に消えていく。取り残された古い自動車は、殺風景な荒野の中で自らを墓標とした。
小さな子供たちの旅路は前途多難だった。車という移動手段を失ったこともさることながら、どこに行けばいいかわからない。何より、少年の症状が快方に向かうことはなかった。
「コノハ、歩ける?」
極めて急峻な山々を越えた先に、剥き出しになった岩盤が鋸の歯によく似た稜線の岩山が聳えている。粗野な巨人族の城壁を遠目に、彼らは手を結んで旅を続けていた。切り通しの崖の足元で、キク科の花々が頭状花を咲かせていた。
「ああ、平気だよ……」
彼女の気遣いに強がってみせるも、その足取りは弱々しい。ほとんどローズが先行する形で左の手を引いていた。
もう一つ気がかりなのは、彼が頑なに包帯を巻いた右手を差し出そうとしないことだった。以前の町でオウシュウケラが掘った坑道を脱出した直後にはもう巻かれていた。
あれから随分と経つのに、まだ傷口が痛むのだろうか。せめて、何か薬があれば。
「病院……町があれば薬が見つかるはずよ。それを飲めば、きっと良くなるわ」
子供特有の短絡的な思考に、褐色の髪をした少年は小さく頭を振る。
「病院なんてそうそう見つからないよ。あったとしても、文明が崩壊して何十年も経っているから薬品の類も駄目になっているだろうね」
「だったらどうすれば」
焦燥感に駆られる少女に、彼は告げた。
「きみが望む場所へ」
その鳶色の眼差しは真摯だった。真正面から見据えられ、ローズは瞳を迷わせる。
「そんなこと言われたって、どこに行けばいいかだなんてわかんないよ」
「いいや、きみはとっくに知ってるはずだよ。本能はきっと間違えないから」
もしかしたら、熱に浮かされているのかもしれないと思った。また俯いた少年の真意を追及せず、金髪の少女は荷物を担いだまま黙々と歩いた。
城壁めいた崖の切り通しに沿っていくと、奇妙な痕跡が突き出ているのを見出した。砂と粘土が混じった地層の斜面に、鉤の手に曲がった土の筒が垂れ下がっている。とても数え切れず、無数に連なる鍾乳石を連想させた。
「アトグロスジハナバチの巣だね……」
思わず彼女が目を奪われていると、背後から小さな声が聞き取れた。振り向くと、面を上げたコノハがたどたどしく続けた。
「こういった崖に、蜜や花粉を蓄えるハナバチの仲間だ……スズメバチやミツバチと違って、社会性はないけれど、結果として、同じ場所に同種のハチが多く集まる」
衰弱していても虫の講釈は忘れない。ローズは呆れた。
「コノハ、無理して喋らなくていいのよ」
「気が紛れるんだよ……ほら、あそこを見てごらん」
彼が力なく指差した先に目を移すと、崖の側面を穿って奇妙な形状の細長い抜け殻が突出していた。六本の頑丈な棘を具えた頭部で、二枚刃の
腹部を地中に埋めて、外に垂れた頭部は縦に裂け、背面から大きく破れていた。何かが脱した痕跡だった。
「ハナバチに寄生する、ユキゲホシツリアブの蛹だ……成虫は土を掘る力もない華奢な姿だから、代わりに蛹は頑丈で坑道を掘るのに適した形状をしているんだよ」
「蛹なのに、自分で動くの?」
つい、いつもの調子でローズは尋ねる。蛹は完全変態をするための準備期間で、ほとんど動かないものだと思いこんでいた。
「ああ、成虫にはない能力を蛹の時期に託す昆虫もいる……」
答えながら、崖から垂れた円筒に彼は目を細めた。その足元では小花が密生したカミツレの花冠が揺らめいている。
「ローズ、過変態って知ってるかい」
耳にしたこともない言葉に、ローズは首を振った。
「知らないわ」
「ゲンセイやツチハンミョウという寄生性の甲虫がいてね、この連中は次々と姿を変える……ハナバチの体に生えた
コノハは続けた。
「坑道の入り口や花の上で待ち伏せて、首尾良くハナバチの体に取りついた第一幼虫は巣の中で産卵された卵に乗り移って、孵化される前に卵を破って中身を啜る。卵の残骸を筏にして、食事を摂るのに適した段階に変態するんだ……これがイモムシ型をした、第二幼虫だ」
興が乗ってきたのか、舌が滑らかになってくる。
「こいつはほとんど動けない、栄養を摂取するのに特化した姿だからね。そうして巣の中の蜜を食べ尽くすと、今度は自らの脱皮殻に包まれて
「ギヨウ?」
「疑似的な蛹だよ。このまま長い眠りを過ごして、第二幼虫と擬蛹という二重の袋の中で、第三幼虫になる。とはいっても、ほとんど第二幼虫と同じ形状なんだけどね」
「わざわざ逆戻りするの?」
「ああ、それから脱皮をして、この時点で本当の蛹になるんだ。そして完全変態をした成虫が出てくる。この過程を過変態と呼ぶんだよ」
金髪の少女は穴だらけの崖を仰いだ。感嘆とも呆れともつかない息を漏らす。
「随分と面倒な生き方をしていた虫もいるのね」
「複雑な環境に適応するためさ」
その横顔を眺めて、隻眼の少年は告げた。
「この擬蛹は、一種の卵のようなものだと思う」
「卵……」
「そう、状況に合わせて必要な形態を変えて、また一から生まれ変わるのさ」
不思議そうな表情をする少女の手の冷たさを感じながら、コノハは言った。
「たぶん、この世界を滅ぼした虫たちもそうだったんだ。地上に来るまでの別の姿があって、否応なく今の形になった。また生まれ直したんだ。そうして、最後に羽化していったのさ」
彼の持論に、ローズは口をつぐむ。短い間の後に言った。
「迷惑な話ね」
「そうだね、とても迷惑な話だ」
かつて生と死が交錯していたであろう高い崖をふたりは見上げた。乾燥した、冷たい風に晒されて、現在はその痕跡をとどめるのみだ。
ローズの青い瞳には、物寂しい光景に映った。
激しい吹雪に見舞われていた。
視界が白く染め抜かれ、その勢いに身を低くする。二本の前髪を北風になぶられながら、ローズは後方に叫ぶ。
「コノハ、ちゃんとついてきてる?」
モッズコートの少年とは手を繋いでいるはずだった。ただ体温を感じず、手のひらの感覚が消えている。伸びた腕の先で、彼の影がかすかに頷くのを視認できただけだ。
一面の銀世界で、少年少女は降りそそぐ白い粉に身をまみれさせながら、完全に方向感覚を失っていた。
ここまでの道程も、けして平坦ではなかった。金髪の少女は、本能が命ずるがままに小高い丘を越え、ときには川を渡った。迂回すれば濡れずに済んだのに、これが最善の道筋と言わんばかりに、愚直に突き進んだ。
しきりに前方を指し示す二本の前髪を横目にし、コノハは弱った体で厳しい道のりを強いられても文句を口にすることはなかった。
厳めしいヤグルマギクの仲間が風に弄ばれる不毛の大地で、手を固く握ったふたりは黙々と歩を進めていた。やがて、見渡す限りの平野が白く染まり始めていることに気づく。靴底で踏むと、凝固した結晶が砕けて音を立てた。
間もなく暴風の洗礼を受けた。北風が吹き荒れ、一寸先さえ真っ白になった。本来ならば引き返すべきなのに、黒いケープを白のまだらにしながら、彼女は腕で顔を庇い、少年の手を引いて前へ進んだ。
もはや合理的な理由などなかった。この先に何があるのか、自分でも言葉にできないだろう。ただ見えない目標を一点に見据え、一歩ずつ風を打ち負かしていった。
何時間歩いただろう。吹雪の中を、小さな二つの影がゆっくりと進んでいた。けして離れ離れにならないよう、しっかりと手を結んで。
白い闇は、やがて終わりを告げる。不自然なほど唐突に視界が晴れ、結晶の欠片が舞い散る。長かった苦境を抜け、半ば呆然自失とするローズの傍らで、すっかり白髪交じりになったコノハは腕に付着した結晶を舐めた。とても甘い味がした。
「これは、雪じゃない。たぶん……樹液だ」
そして、銀白の大地の彼方で彼らは目にするだろう。自然界ではあり得ない、大空を刺し貫くほどの樹影を。
彼は言った。
「あそこが、きみが選んだ場所なんだね」
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