敗者に災いあれ

 なだらかな稜線を描く山脈が濃緑色に包まれ、群青の空との対比をくっきりと浮き立たせている。ちぎれた雲がわずかばかり漂い、石灰岩と泥灰岩でいかいがんで構成された丘陵地帯の上で、この地方特有の強い日差しが大地を焼いている。

 白い丘の上で、旅の途中で手に入れた日傘を差した少女が岩の上に座っていた。金色の髪を蝶々結びにしたリボンで束ね、秀でたおでこから二本の前髪が飛び出ている。黒いケープを着ており、その裾は赤い斑点と白い帯状の模様で縁取られていた。

 くたびれた黒いシューズのつま先で小石で蹴り、いかにも退屈を持て余している。その表情には呆れの色が浮かんでいた。

 対照的に、嬉々として岩を削り取っているのは、黒みを帯びる褐色の髪をした少年だった。左目を包帯で覆い隠し、右の瞳は鳶色をしている。裾が擦り切れた枯れ葉色のモッズコートを羽織り、襟から狐色をした毛皮のフードを垂らしている。膝が破れたジーンズが汚れるのもかまわず、薄く重なった層の岩を剥ぎ取ってはナイフで一枚ずつ削っている。

 彼が夢中で削っているのは頁岩けつがんというもので、沼や珊瑚礁の中などで生成された堆積岩である。本の頁のように容易にめくれることからこの名がある。

「見て、ローズ。魚の化石だ」

 少年は土で頬を汚し、包帯を巻いた手のひらに収められた頁岩の欠片を向ける。ローズと呼ばれた少女は渋々腰を上げた。

「コノハ、あんたね。こんな何にもないところでいつまで道草食ってるわけ」

「何もない? ここは歴史の宝庫だよ」

 心外と言わんばかりに、コノハという少年は両手を広げてみせる。片手には石片を握り、もう片方には古いナイフを手にしていた。服装の汚れを気にしていないさまは、やや滑稽でもある。

 うながされるままに、彼の右手に収められた頁岩の欠片を覗きこむ。流線形の痕跡を見て、金髪の少女は片眉を跳ねて怪訝そうな顔をした。

「何これ、手も足もないじゃない。というか本当に生き物なの」

「これは化石だよ。途方もない時間をかけて、太古の生物の死骸が形を残したまま岩の中に保存されたんだ」

 得意げに少年が言う。

「この辺りは、ずっと昔は湖か何かだったんだろうね。水の中を泳いでいた生き物の死骸が埋もれた後に、地形が隆起して丘になったんだ」

 喋っている最中にも手を休めず、次々と岩の頁をめくり続けていく。見たこともない種子や木の葉の形が残されており、現在とは植生が違うことを示していた。

 ふうん、とローズは相変わらず関心が薄い。

「昔はこんな変な生き物がいたのね。でも、もういなくなっちゃったんでしょ」

「わからないよ。虫に食べられていなければ、今も海の中を泳いでいるかもしれない……あっ」

 海を知らない少女がその言葉の響きに想像を巡らせているうちに、コノハの素っ頓狂な声に驚く。信じ難いものに巡り合った眼差しで、彼は手のひらの中を凝視していた。眩しい日光の下、日傘を傾けて少女もその岩の欠片を覗き見た。

「カだ」

 その表面に遺されていたのは、双翅目そうしもくの昆虫であるカだった。極めて華奢な体躯をしており、大きさもほんの一、二ミリほど。指先で触れるだけでへし折れてしまいそうな六本の肢と、平均根と呼ばれる、後翅が退化して二枚のみになった翅は翅脈しみゃくさえ見て取れる。

 日傘を差した少女は、その陰の下で太古の昆虫の化石をまじまじと見つめる。

「こんな小さいのが、虫?」

「前に君も言ってただろ。これが本来の大きさなんだ。普段ぼくらが見ている虫たちの方が異常なんだよ」

 かつて栄華を誇った人類社会は、突如地下から湧いて出た未知の巨大生物に滅ぼされた。それは彼らが虫と呼ぶ生物にそっくりで、あっという間に人間を含めた地上の生物を貪り尽くしたという。

 後に残されたのは、荒廃した地上と虫の抜け殻だけだ。

「でも、昔の虫なんでしょ。今のと違うかもしれないじゃない」

「ダーウィンの進化論を教えたじゃないか。まだ人類がいるかいないかの時代には馬鹿げた大きさの生物がたくさんいたけれど、それらの大半は環境に適応できずに淘汰されたんだよ。逆に小さな虫は、そのままの形で厳しい環境の変化も生き抜いたんだ。少なくとも、あんな急激な進化の方向性なんてあり得ない……またあった」

 さらに岩の頁をめくると、口吻の長い甲虫が刻まれていた。カとは違い、肢が無残にねじれてしまっている。

「こいつはゾウムシだ。どこかから運ばれてきたのかな……保存状態が良くない」

 岩に埋もれた昆虫の化石を観察するコノハに、少女が言った。

「でも、その本来の虫とやらはどこにもいないじゃない」

 何気ない一言に、少年が分析を止めて彼女を見返す。その眼差しはいつになく真剣だった。

「……何の根拠もないことだけど」

 静かに言葉を継ぐ。

「彼らは地下に下りたのかもしれない。あの怪物たちと入れ替わりで」

「どうして?」

「また繰り返すために」

 アザミの玉房たまぶさが揺れる丘陵地を、乾いた北の風が吹き抜ける。

 少女は尋ねた。

「何を繰り返すの?」

 はっとした少年は、伏し目がちに首を振った。

「わからないや。何を言ってるんだろ、ぼく」

 本気で自分の発言が理解できない、という風だった。理屈屋で、講釈を垂れるのが好きな彼には珍しい態度だと少女は感じた。

「あんたが変なのはいつものことよ」

 おどけた仕草で背を向けて日傘をくるくると回す。その華奢な背中に、コノハはゾウムシの化石を片手に苦笑いした。

「酷いなあ」

 ローズは緩やかな起伏の丘の斜面から、盆地になった土地を見下ろす。ちょうどそこは雄大な山脈の麓で、荒れ果てた大地とは趣を異にしていた。

 眼下の光景に、黒いケープの少女は険しい目つきをする。

「……本当に酷いわね」

 その山麓には、かつて小さな町があったのだろう。特別視力の良いローズの目には、数え切れない赤褐色の瓦屋根や梁の残骸が視認できた。通りを形成していた石畳は粉砕され、瓦礫となって地面の一部と化している。かつては住民たちの心の拠り所であったであろう教会の十字架が、墓標のごとく突き立っていた。

 日傘の少女の隣にコノハが肩を並べる。額に手をかざし、感心した。

「この距離でも見えるんだ。本当に目はいいんだね」

 ふふん、と自慢げに胸を張る。

「別に大したことじゃないわ……目は?」

 賞賛の中に含まれた嫌味に気づいて彼を睨む。不機嫌になった少女をよそに、コノハも眼下を見下ろした。はっきりとした惨状は見えなくとも、地形の不自然さはわかる。山の足元をかすめて、何かの大軍が通り過ぎていった。その証左に、でこぼこした地面を踏みならした大きな道が荒野を貫いている。

「あそこに町があったんでしょ。どういう風になってる?」

「何かが来て……何もかも踏み潰していったみたい。家の一軒も残ってないわ」

 丘の上に立つ少年少女は、人々の生活を呑みこんで通り過ぎていった災厄の傷痕を眺める。荒野の果てまで続く道に目を凝らして、少年が言った。

「ねえ、ローズ。あの道を辿ってみないかい」

「はあ? 嫌よ、何が通ったかは知らないけど、あの先に人間の生き残りなんていやしないわ」

 彼らは、少なくともローズの方は人類の生存者を探していた。それが自分の使命だと信じていたからだ。必ずしも志は一致していないけれど、コノハは己の好奇心を満たせればどちらでもよかった。

「でも走りやすそうだよ。最近、車の調子があまり良くないでしょ」

 丘の麓には、黄色く丸みを帯びた軽自動車が停まっている。愛嬌がある旅のお供は馬力が足りず、方角を見定めるために丘の頂上に上るには、徒歩で向かわざるを得なかった。

 日傘の少女は思案し、苦虫を噛み潰した顔をする。

「仕方ないわね……だけど、途中までよ。町があったらそっちに向かうからね」

「ウィ、それでいいよ」

 顔に包帯を巻いた少年は指先で何かを摘んでいた。丸く、緑青ろくしょうを吹いた銅でできている。そこには文字が刻まれており、何かの生物が彫られていた。

「それは?」

「さっき、あそこで拾ったんだ。たぶん硬貨だと思う」

 その硬貨をかざして太陽を隠す。陰になった部分には、王冠がいくつもぶら下げられたヤシの木に繋がれ、その下で歯噛みするワニが彫られていた。

 


 コノハの言う通り、幅数十メートルに渡って踏みならされた荒野の道は、旧式の軽自動車にとって非常に快適だった。心なしか、普段は中々かからないエンジンの音でさえ上機嫌に聞こえる。

 ステアリングホイールを握りながら、ローズの心境は複雑だった。草一本も生えないこの平坦な道を作り出した元凶は、多くの命を踏み潰したに違いない。運転手の思惑とは裏腹に、モノコック構造の黄色い車体は颯爽と荒野を駆けていく。

 以前の過失で助手席のドアを破壊した張本人は、先ほど拾ったワニが描かれた硬貨を飽きずに眺めていた。

 太古の昆虫が眠る墓石も、後部座席に横たわる胴乱に収められていた。さらに採取した化石も持っていこうとしたが、ローズにきっぱりと拒否された。

「これ以上、余計なものはいらないのよ」

 片目の少年は苦々しげに後部座席を見やった。オウシュウツキヨタケの角灯ランタン、日傘、積み重なった学術書に加え、もっとも多くの面積を占めるのは食料などの備蓄が詰まった革袋だった。相変わらずぱんぱんに膨れ上がり、最近は座席のシートまで黒々と変色した燻製ニシンやタラなどの保存食が侵食していた。

 その座席の下では、まだ赤錆びた缶詰が横たわって小刻みに震えている。

「珍しいわね、いつも虫の図鑑ばっかり読んでるのに」

 現在に戻り、運転に専念していたローズは助手席の少年に声をかけた。古銭の裏面をまじまじと観察していた彼は、どこか上の空で答えた。

「この図柄の意味を考えてたんだ」

「図柄って、その変な生き物のこと?」

「ワニだよ。爬虫類と言って、節足動物とも哺乳類の人間とも違う。水辺に住む肉食動物だ。そばに描かれているのはヤシの木と王冠だね」

 吹きこんでくる風に前髪を揺らしながら、そこに刻まれている文字を目でなぞった。COL.NEM.と読み取れる。

「それがどうかしたの」

「これはその動物を描いたというより、象徴的な意味合いが強いんだと思う。ワニは基本的には凶暴な生き物だ。その爬虫類が大人しく繋がれているということは、隷属だとか、征服した証なんだと思う」

 愛車を走らせながら、ローズの頭には疑問符が飛び交っていた。

「たぶんこのワニと王冠はどこかの王国の象徴だったんだ。他の国との戦争に負けて、その記念にこの硬貨が造られた」

「戦争って、人間同士が喧嘩してたの」

「おそらくね」

「どうしてそんなことを?」

 彼女の眼差しには強い疑問の色が含まれていた。全く理解できない、という表情だ。同族で争う意義が見出せないのだろう。

 手のひらに包帯を巻いた少年は、その手で硬貨を軽く投げては弄ぶ。

「同じだからって、殺し合わない理由にはならないのさ」

 思い当たる節があるのか、口の端を歪める。少女はやはりわからない様子で首を振っていた。人類の遠い歴史に思いを馳せながら、何かが進軍した痕跡を黄色い車両がひた走る。

 日が傾き始めた頃、運転席の窓から外の景色を見た少女は黄色い声を上げた。何事かと少年が同じ方向に目を向けると、平たい道の外側に一面の紫が敷き詰められていた。咲き誇っているのは大量のラベンダーだった。可憐な花弁を揺らし、濃厚な芳香が車内まで流れてくる気さえする。

 荒れ果てた土地と鮮やかな色彩との対比に、コノハは目を細めた。

「今はそんな時期か。ここはラベンダー畑だったのかな。それにしても、綺麗だね」

 彼としては素直な感想を述べたところ、二本の前髪を嬉しそうに跳ねさせる少女は笑顔で言った。

「とっても美味しそうだわ!」

「……美味しそう?」

 コノハが呆気に取られると、彼女はやはり朗らかな顔で答えた。

「ええ、蜜を吸ってみたいわね」

 少年は少しのあいだ沈黙した。

「君が食べるものを言ってごらん、君が何者であるのか言ってみせよう」

 その言葉は本の引用だったのだが、すっかりご機嫌な少女の耳には届かなかったらしい。運転しながら、視線は一面のラベンダー畑に釘づけだ。

「ローズ、お願いだから前を見て」

「大丈夫よ。もう、心配性ね」

 狭い車内でそんなやり取りを交わす少年少女を、風に波打つラベンダーたちが見送った。

 名残惜しげに軽自動車がラベンダー畑を後にし、いよいよ空が紫紺に染まってきた頃、荒野を一直線に貫いていた平坦な道の果てに、多くが直線で構成された陰影が浮かんでいた。

「町だ」

 どちらともなく言った。



 仄かな青白い光を放つオウシュウツキヨタケの子実体が、金具の把手にぶら下がった角灯の中に収められている。その妖しい輝きが照らし出したのは、重厚な門だった。

 巨大な石を積み上げた建造物で、高さと幅が二十メートルはあるだろうか。三つのアーチがあり、かつてはその街道を人々が行き来していたのだろう。何よりも目を引くのは、北面に刻まれた見事なレリーフだった。

 遥かな過去の戦争を伝えているのだろうか。中央上部には兜を被って帷子かたびらを着こみ、馬に乗った陣営。そしてほとんど裸に盾を持った人々が武器を掲げ、それぞれ対となって争っている。下部には戦利品とおぼしき軍艦の一部と武器、動物が描かれ、門の側面に回ればトロフィーの下で鎖に繋がれた二人の捕虜の姿が見て取れただろう。

 紀元前の戦争、その勝者と敗者が対照的に描かれた凱旋門を見上げて、角灯を掲げたローズが言った。

「どうしてこんなところに門があるのかしら」

 そこは長い街道の中途で、円を描く道が凱旋門を囲っている。まばらに木々が生える他は行く手を阻むものはなく、つまり門としての役割を果たしていない。

「古代の遺跡なんじゃないかな。この門が建てられた時代は使われていたのかもしれないけど、やがて後世に歴史を伝える記念碑になったとかね」

 その素朴な疑問に答えたのは、モッズコートの少年だった。興味深そうに門の浮き彫りを手でなぞっている。

 凱旋門の前に佇む少年少女の後ろで、黄色い車体の軽自動車がヘッドライトで闇夜を照らしていた。以前行なった無茶な運転のために、片方の目を覆うガラスが割れてしまっており、時折明滅した。

「おかしいわ。だって、何かがここを通ったはずでしょう」

 ローズはなおも問いかける。彼らは、正体不明の軍勢が踏みならしてきたとおぼしき平坦な道をなぞってきた。その先にこの町を発見したのだ。

 あいにくコノハはその答えを持ち合わせておらず、代わりにアーチの向こう側を覗いた。そこから真っ直ぐ延びた街道は、陰影を帯びた都市へと続いていた。その背景には以前見かけた独立峰が聳え、黒々とした稜線が空を切り抜いていた。

「その何かはここまで届かなかった……いや、阻まれたというべきか」

 低い声音で呟く。町を凝視するその背中からは、どこか声をかけ難い雰囲気を漂わせていた。角灯を手に提げた少女は所在なさげに佇む。

 ふと彼女に顔を向けて、コノハはいつも通り笑う。

「ローズ、ジャッコ=ランタンみたいだね」

「何よあんた、馬鹿にしてるの?」

 意味のわからない形容をされて、金髪の少女がむっとする。ジャッコ=ランタンとはランタン持ちの男という意味で、かつて妖怪や鬼火の類を指した。由来は知らなくとも誉められたわけではないと察したらしい。

「ただの喩えさ……ああ、そうだ」

 はぐらかすためか、片目の少年は町の方角に向き直る。

「今夜、このまま町へ行ってみない?」

「はあ?」とローズが素っ頓狂な声を出す。突拍子のない提案をしたコノハに対し、呆れた様子で言った。

「あのね、あたしはあんたみたいに夜目が利かないのよ。こんな夜中に運転なんてどうかしてるわ」

「徒歩で十分だよ。それほど大きな町じゃないし、きみにはその珍妙な道具があるじゃないか」

 青白く光るオウシュウツキヨタケの角灯を指差す。自分の手元を見下ろして、少女は渋い顔をした。

「そりゃ、これがあれば夜でも見えるけど……」

「灯りがあった方が生存者に見つけてもらいやすいかもよ」

 心にもないことを言う。少女の意志が少し揺らいだ。

「そうかもしれないけど……やっぱり日が昇ってからの方が」

「それにね」

 珍しくコノハが遮った。

「是が非でも見てみたいものがあるんだよ」

 闇夜に呑まれた町に投げた眼差しは赤く、爛々と輝いていた。その表情は歓喜とも侮蔑ともつかない、複雑な感情を浮かべている。少年の知らない一面を垣間見て、少女は何も言えなくなった。

 彼らの後方で、車のヘッドライトが瞬きをしていた。月の光を遮る、よどんだ夜空の下で、町の建物の屋根よりもずっと高い歩脚が抜きん出ている。

 彼は凱旋門の前でそらんじた。

「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」



 青ざめた光に浮かび上がったのは、細長い体躯をしたカマキリだった。中肢と後肢で支えられた姿は三メートルほどもあり、淡い緑色をしている。背中の羽毛飾りが広げられて、前翅は斜めに、後翅は大きく平行に立てられている。後肢と中肢を大股にして、基節には眼状紋を有した、捕獲肢と呼ばれる前肢の鎌を高く掲げていた。逆三角形の頭部から飛び出た複眼が子供たちを睨めつけている。そのおちょぼ口から、今にも吐息が聞こえてきそうな気さえした。

「ウスバカマキリだね。前肢を折り畳んだ姿勢から、敬虔な巫女、あるいはプロヴァンス語で拝み虫とも呼ばれていたんだ」

「名前なんて聞いてないわよ。あんた、見えてたでしょ」

 蘊蓄うんちくを垂れる少年に対して、ローズは文句を述べる。おっかなびっくり夜道を進んでいた少女は、角灯を掲げた先でウスバカマキリと目が合い、思わず悲鳴を上げてしまった。

「大体、これのどこが拝んでるって言うのよ」

「これは威嚇だね。お化けの姿勢とも呼ばれていて、自分を恐ろしく見せることで敵を威圧していたんだ……何に対して、威嚇していたんだろうね?」

 知るもんか。すっかりへそを曲げた少女に、コノハは肩をすくめた。

「ともあれ、せっかくの招きに応じようじゃないか」

 長く延びる街道で仁王立ちするカマキリの脇を通り抜けて、彼は先へ進む。こんな真っ暗闇に置いていかれたらたまらないと、金髪の少女も慌てて倣う。ふと振り返り、暗闇にぼうっと浮かぶカマキリの割れた背中が亡霊に見えて、ぞっとした。

 闇夜の街道で、青い角灯の灯りが揺らめいている。町を囲う曲がりくねった川の上を通り抜けて、石畳が敷かれた市街地へと辿り着いた。驚いたのは、切り石を積み重ねた家々の外観が保たれていたことだ。経年劣化による破損は見受けられるものの、固く閉じられた鎧戸の向こうから人々の囁きが聞こえてきそうだった。

 ただ、戸口はいずれも突き破られていた。

「ここは、本当に襲われたの」

 今まで巡ってきた町は、怪物たちによって蹂躙されていた。丘の上から見下ろした町のように、根こそぎ破壊された場所も少なくない。

「ローズ、もっと上を見てごらん」

 地上ではなく空を見上げていた少年にうながされて、角灯を掲げる。ローズは再び悲鳴を上げる羽目になった。

 大通りの中空に浮かんでいたのは、さまざまな種類の虫だった。湾曲した複眼で地上を睨みながら、黄色い大腮おおあごに何らかの肉の塊を咥えたキオビクロスズメバチ。細長い体躯を伸ばして獲物を物色するオニヤンマ。アブと思われる残骸を運ぶハナダカバチと、その巨人の背後に暗褐色をした寄生バエのヤドリニクバエが数頭ついて回っている。

 その全てが、空の星々から糸で吊り下げられたホシツリアブと同じく、空中で静止していた。

 金具の把手を握った手を震わせて、少女は尋ねる。

「何でこいつら浮いたままなの。抜け殻、なのよね」

 顎を上げたままの少年も、眉根を寄せて厳しい顔をしていた。頭上で繰り広げられる醜悪な人形劇の説明がつかないらしい。

「どれもこれも生きてはいない……だけど」

 ローズは声を上げてある一点を指差した。その先には、八本の脚を伸ばした大型のクモが浮かんでいる。歩脚の先から全身に至るまで剛毛を生やし、焦げ茶色の地色に黒い筋模様が刻まれていた。触肢を伸ばし、内側に折れ曲がった鋭角の毒牙を歪ませて、八個の単眼で忌々しそうに子供たちを見下ろしている。

 謎が解けたと言わんばかりに、金髪の少女は胸を張った。

「クモって空中で造った糸の網で虫を捕まえるんでしょ。みんな糸に引っかかってるんだ。あんたから散々聞かされたから、これぐらい知ってるわ」

 クモは昆虫とは異なり、鋏角きょうかく亜門に属していて、その体節は頭胸部と腹部の二つにわかれる。その最大の特徴は、腹部の尾端にある紡ぎいぼから糸を吐き出すことだ。

 少女が導き出した答えにはあたかも矛盾がない。ただ、コノハの見解は違っていた。

「ローズ、あれはナルボンヌコモリグモだ。確かに地面に巣穴を掘って糸で補強するけど、どちらかと言えば徘徊性のクモで……」

「そうとわかればとっとと行くわよ。薄気味悪いったらありゃしない」

 彼女はその説明を聞いていなかった。一刻も早くこの場を立ち去りたいらしく、足早に歩き出す。呼び止める間もなく、モッズコートの少年は肩を落とした。改めて虚空で垂直に浮かぶクモに厳しい眼差しを向ける。

「アラクネ……ここで何があった?」

 その問いかけにクモは沈黙で答える。背胸部を向けた彼女には脱皮痕がなく、みじめに腹部が萎んで餓死した死骸であることを示していた。そのナルボンヌコモリグモに襲いかかる寸前で、膜翅目の狩りバチであるオビベッコウが、腹部の針を突き出した姿勢のまま静止していた。

 朦朧もうろうとした灯りを手にした少女の呼び声に急かされ、枯れ葉色のコートの裾をはためかせて彼は歩き出した。

 古びた建物が建ち並ぶ大通りの上は、どこもかしこも似た状況だった。仄かな灯りが届く範囲で、多種多様な虫が吊り下げられている。平たい体をして、極めて長い触角と生き血を啜る口吻を具えたセアカクロサシガメ。鱗翅目の幼虫やナメクジといった農業に害を与える生き物を間引くために、庭師ジャルディニエールと呼ばれたキンイロオサムシ。アリジゴクという俗称を与えられ、本来は砂地に潜んで獲物を待ち構えるウスバカゲロウの幼虫までもが引きずり出され、宙で苦悶に身をよじらせている。

 飛翔能力が高いとは言えない種や、そもそも空を飛ばない幼虫でさえ、宙吊りの刑に処されている。鳥刺しの網を張るクモの仕業にしては、あまりに不自然な状況だった。

 ローズは角灯を胸に寄せ、ひび割れた石畳に目を落としていた。

「何なのよ、この町。だから夜に来るのは嫌だったのに」

 もはや虚勢を張る余裕もない少女に、コノハは苦笑いする。

「日中だったら嫌でも目に入ってたよ」

「そういう問題じゃないのよ、このおかしな状況が不気味だって言ってんの」

 自らの仮説に自信がなくなってきたらしい。怯える彼女と並んで歩きながら、赤い瞳の少年は闇夜を見透かす。赤茶けた瓦屋根の上で、一頭のミツバチハナスガリが目に留まった。頭部から胸部まで黒色の割合が大きく、所々に黄色い線が見え隠れしている。腹柄が細く、流線形の腹部は色合いが逆転していた。

 ミツバチの狼という異名を持ち、その名の通りミツバチを捕らえる狩りバチの仲間だった。建物の軒蛇腹コーニスほどの高さに吊り下げられた前衛芸術の品目に加えられることもなく、安穏と四枚の翅を休めている。

 なぜあの個体は無事でいるのか。逆さ吊りにされた連中とは何が違う。その差異に考えを巡らせたとき、ラベンダー畑での出来事を思い出した。

「そうか、食物だ」

 突然声を上げた少年に対して、ローズは驚く。

「急に何よ」

「いや、何となく法則性が見えてきてね」

 石造りの人家に挟まれた大通りを進みながら、自分の考えを披露する。

「まず、この吊し上げられた虫たちは全て狩りをする」

 何を今さら、と言わんばかりに少女は呆れた視線をよこす。

「虫はみんなそうでしょ」

「確かに人間は見境なく襲っていたらしいけどね。本来の虫の食性は、植物食と雑食、肉食とわかれるんだ」

「何が言いたいの」

 彼は若干興奮した口振りで語る。

「幼虫のために餌を蓄える狩りバチを除けば、肉食の虫は存外悪食だ。単に自分の胃袋を満たすために何でも捕食するものもいれば、凶暴な性質の虫は共食いさえする」

 ミツバナハナスガリの抜け殻に目を戻す。

「同じ狩りバチにも関わらず、宙吊りの刑からまぬがれているものがいる。他の虫とは何が違うと思う、ローズ」

 急に質問され、ローズはしどろもどろになる。

「ええっと、姿形が違うとか」

ノン。それはみんなそうだ。節足動物門である以外に、共通点が全く同じものはない。刑罰を逃れているハチとの明確な違いがあるとすれば――獲物の種類だ」

 コノハはまた醜悪な糸繰り人形たちを見上げた。

「あの張り巡らされた糸に引っかかっていないハチは、花の蜜を舐めるミツバチだけを狩る。対して、吊るされている連中は肉食の虫も狩りの対象とするんだ」

 ローズもおぼろげながら話が掴めてきた。先をうながす。

「つまり?」

「上の連中は、お互いに略奪し合う関係なんだ。狩って狩られて、寄生されて……肉食の獲物も狩る虫という意味では同類なんだよ。同じ部族で争っている蛮族なのさ」

 その声音には侮蔑の色がこめられていた。普段、虫に対して悪感情を向けない少年としては珍しい態度だった。

 胸のうちに困惑を抱えながら、少女は尋ねる。

「だけど、誰がこんなことを?」

 モッズコートの少年は沈黙する。どこか畏怖した様子で、何事かを口にしかけた。

「こんなことができるのは――」

 そのとき、話に気を取られていたローズの靴のつま先が何かに引っかかった。縦横に亀裂が走った石畳の陥没で、彼女が危うく転倒しかけたとき、コノハが手を掴んだ。

「大丈夫?」

「うん、ありがとう。何かしら、急につまずいて……」

 彼の手を借りて体勢を立て直し、灯りで路上を照らす。不可思議な模様が刻まれていた。長い鎖じみた刻印が、固い石畳を抉り取って暗闇の先まで延びている。その幅は、少年少女が並ぶよりもずっと広い。

 今まで交わしていた話題も忘れ、ローズは目を見張った。

「これは……」

「たぶん、足跡だ」

「足跡?」

 コノハの言葉に驚く。これほどの規模なら、虫のものに違いない。だがここまで明確な痕跡を残している生物は初めてだった。

「追ってみよう」

 彼は持ち前の好奇心でその足跡を辿っていく。肝心なことを聞きそびれたことを思い出し、ローズは枯れ葉色の背中に声をかけようとして、口をつぐんだ。先刻の様子から何となく気が引けたのだ。

「待ってよ」

 手にした角灯を揺らし、小走りでその背中を追いかけていく。



 それは時計塔が聳える白亜の建造物で、とっくに朽ち果てた草花の中に三色の旗の切れ端が埋もれていた。広場になっており、鎖の足跡はそこで途切れていた。

 広場の中央には、大半の地面が抉れ、何かが激しく墜落したらしい陥没があった。その中心地で、一頭の昆虫が肢を縮めて腹の裏を見せていた。

 ふたりの子供たちは穴の縁に立ち、その怪物を見下ろす。体長は十メートル半ばだろうか。艶のある黒色をしており、青白い灯りを反射している。特徴的なのは、中胸部が極端なくびれを作り、前胸と頭部があたかも同化していることだ。一見したところ、頭部と腹部の二つにわかれているかにも思える。体の内側で折り畳んだ前肢は、すきに似た鋸歯を具えており、これがあの鎖状の足跡の正体だと推測できた。

 頭でっかちの印象を受ける頭部の先には、見るからに強力な一対のやっとこを生やしていた。左右にぴんと伸びた触角、内側には小腮鬚しょうさいしゅ下唇鬚かしんしゅを収め、その存在感を誇示している。

 瓢箪ひょうたん形をした昆虫が無様に引っ繰り返った様に、ローズは見入った。

「あれはオオヒョウタンゴミムシだ」

 コノハが冷静に言った。

「随分と……愉快な名前ね」

「そうでもないよ。あの大腮を見ればわかる通り、肉食の昆虫でも抜きん出て凶暴な奴だ。本来は海辺の砂浜に棲むらしいんだけど、イモムシだろうが大型の甲虫だろうが腹を食い破ってしまうんだ」

「それは怖いわね」

 衝撃から覚めたローズは尋ねた。

「で、ここで何が起きたの」

 少年は一瞬口ごもり、頭の中でさまざまな想像を巡らせた。

「思うに、他の虫たちと同じく吊し上げられて……それでもこの暴れん坊が全然大人しくならないから、思い切り地面に叩きつけられたんじゃないかなあ」

 当時繰り広げられた光景を目の当たりにしてきたような口振りだった。ローズはごくりと喉を鳴らす。見えざる指で叩きつけられた衝撃の規模は、今まさに見せつけられている。

「そのせいで死んだの」

「おそらくそう。ただ……」

 埋葬された死者のごとく手を合わせるオオヒョウタンゴミムシを見下ろし、彼は言いよどんだ。

「ただ?」

「一部の虫は死んだ振りをするんだ。擬死と言って、天敵から目をくらますための行為とされてきたんだけど」

 コノハはわざと声音を低くした。

「このオオヒョウタンゴミムシにも同じ習性がある。もしかしたら、今でもまだ生きてるかもよ」

 彼らのあいだに静寂が訪れた。夜の町を風が吹き抜け、身に纏わりつく。暖かな気候の土地で、体感温度が下がった気がした。すり鉢状の陥没の底に眠る巨人は身じろぎもしない。

 コノハが吹き出す。

「冗談だよ」

 おかしそうに笑う少年を、少女が睨みつける。

「あんたね……」

「もう何十年も経ってるはずだよ。生きてるわけがないじゃないか」

 おどけた仕草でコートの裾をはためかせる。ローズは眉尻を吊り上げた。

「別に怖がってなんかないわよ」

「へえ、そうかい?」

 外見相応の無邪気さでじゃれ合いながら、子供たちは陥没した大穴の縁から離れていく。だから、オオヒョウタンゴミムシの瞳に赤い燐光りんこうが灯ったことに気づきもしなかった。

 誰もいなくなった広場の大穴で、見せかけの死者は覚醒の前兆として、まず前肢のふ節を震わせる。順々に中肢から後肢に反応が起き、虚空を掻いた。触鬚しょくしゅと触角とがゆっくり揺れて、周囲の空気をまさぐる。

 長く錆びついた関節を軋ませ、ぎこちなく肢でもがき出す。くびれた腰のあたりで反り返り、大いに時間をかけて逆さまになった姿勢から起き直る。大きな頭部をもたげ、すり鉢状の穴深くから月も見えない夜空を見上げた。擬死の余韻を覚ますようにしばらくそのままの体勢でいた。やがて不器用に斜面を掻き、少しずつ陥没から這い上がっていく。

 ようやく平面の石畳に鋸歯がついた前肢が届き、厳めしい大腮の先端が覗いた。多くの獲物を屠ってきた一対の大鉈を掲げ、威風堂々とオオヒョウタンゴミムシが地上に姿を現わす。触鬚を震わせ、誰にも聞こえない咆哮を上げた。

 その殺戮に染まった眼光が凝視するのは、少年少女が消えた暗がりだった。



 街道の東を進むと、先ほどの広場と半ば隣接する形で煉瓦造りの古い大聖堂が佇んでいた。古色蒼然としており、旧時代の遺物として当時の信仰の在り方をしのばせるものである。ただ、彼らがその遺産をじっくりと鑑賞することはできなかった。

 饐えた臭いがした。少女の飛び出た前髪がびりりと震える。かつて密集していたであろう建物を圧壊させ、何か恐ろしいものが夜気を遮っている。その壁の正体を確かめるべく角灯で照らし出そうとして、別の手がそっと押しとどめた。

 制止したのはコノハだった。なまじ夜目が利くために、彼には眼前のおぞましい物体がよく見えていた。

「何があるの?」

 ただごとではない少年の様子に、金髪の少女は恐る恐る尋ねる。子供たちが嗅いでいたのは、死の残り香だった。

「死骸の山だ。それも肉団子になった……」

 夜闇を透かし、彼らの前に聳えていたのは、夥しい糸で縛り上げられたアリたちの死骸だった。子供たちを見下ろす頭部の数からして、数千頭はいるだろうか。その集団が一頭残らず投網によって捕らえられ、一か所に集められて、無慈悲な力によって圧殺されている。素朴ながらも荘厳な大聖堂の前で、圧縮されて関節が折れ曲がった冒涜的な骸の山が積み上げられていた。

 それはアリ自身の体によって造られた、極めて醜悪な蟻塚だった。

「迂回しよう、ぼくが先に進むから」

 そう言って、モッズコートの少年は左手を差し伸べる。その手を取りながら、ローズはツキヨタケの角灯を下に向けて彼の誘導に従う。時折ひしゃげた肢の先が見え、彼女は思わず目を瞑った。

 散乱する家屋の残骸を用心深く避けながら、コノハは横目で蟻塚を観察する。ふたりを凝視していたのは、苦悶の表情を浮かべた赤い頭部だった。推し量るに、体長は六十センチから一メートルだろうか。残された屋根の上では、別種のアリたちが遠巻きにしていた。赤いアリより一回り小さく、黒色をしている。

「ああ、なるほど」

 柔らかい手を握りながら、彼はようやく合点がいった。片目を薄く開けながら少女が尋ねる。

「何の話?」

「あの踏みならされた道の正体さ」

 死骸の山を迂回しながら、顔に包帯を巻いた少年が言った。

「殺されているのはアカサムライアリだ。このアリは自分では餌もれないから、遠征して別種のアリの巣から蛹や幼虫を奪って奴隷にする。あの平坦な道は、その遠征部隊が通った跡だったんだ」

 随分と奇妙な生態だ、とローズは思った。わざわざ他のアリを奴隷にして給餌させるなど、どういう経緯で生まれた習性だろうか。

「ここはオウシュウクロヤマアリの巣でもあったんだろうね。彼女たちから赤子を略奪しようとして、返り討ちに遭った」

「襲われたアリの方が勝ったの?」

「いや、本来なら力の差は歴然だ。それにもしアカサムライアリと交戦していたなら、町が踏み荒らされていないのはおかしい」

 彼は声を低くした。

「オウシュウクロヤマアリは、強大な支配者の庇護下にあったんだ」

 黒いケープの少女は手を引かれながら、暗闇に覆い隠されたアカサムライアリたちの末路を見透かそうとした。たとえ目には見えなくとも、夥しい死骸の山は忌まわしい存在感を放っていた。

「その支配者って、この町の虫たちを雁字搦がんじがらめにした奴よね。そいつは何なの」

「暴君だ」

 コノハは即答した。

「傲慢で、老獪で、暴虐の君主。弱肉強食の世界で、ならず者たちを牛耳っていた怪物だよ」

 口を極めて罵りながら、その口調には憎悪と恐怖が入り交じっていた。

「コノハ、あんたはその怪物を知ってるのね?」

 問いかけに彼は重々しく口を閉ざす。やがて消え入りそうな声で言った。

「ごめん、今はまだ」

「そっか」

 ローズはそれ以上深く追求しなかった。この町に来たがったのは、彼の過去と関係しているのだろう。お互いの素性を詮索しなくなって、随分と久しい。

 あのおんぼろ車に乗って、彼女は人と虫が消えた荒野を旅していた。薄汚れた少年と出会ったのは、とうの昔に滅ぼされた廃墟の町である。セミの抜け殻に似た色の襤褸を纏い、裸足で墓地に佇んでいた。今と変わらないのは、左目を覆い隠す包帯と、脇に抱えた昆虫図鑑だけだった。

「あなたは……人間?」

 邂逅かいこうを果たして、ふたりの少年少女は驚きのあまり声が出なかった。自分と似た姿形の存在と出会って、ようやく発せられたのがこの一言である。

「きみは、何?」

 彼は問いを返した。発声したのは久しぶりらしく、その声はかすれていた。

「あたしは、ローズ。ありふれたローズ」

 独特の言い回しで自己紹介する。素性の知れない少年は口の中で彼女の名前を咀嚼そしゃくして、焦点の定まらない右目を巡らせる。その瞳に映ったのは、リンゴの木だった。遅い季節で、裸になったその足元には木の葉が散らばっていた。

「ぼくはコノハ。ただのコノハだよ」

 こうして、ふたりの子供たちは行動をともにすることになった。今の関係性に至ったのは、交流を経てお互いの行動原理や習性を理解したからで、身の上を語り合ったわけではないのだ。

 過去を賛美する者は間違っている。

「でも、それだとおかしくない? アリこそ何でもたかるんでしょ、どうして吊るされてないの」

 現実の時間軸に戻り、角灯を提げたローズは質問をした。自らの仮説にそぐわないために、彼女の手を引くコノハは説明に困る。理由こそ思い当たっても、とても論理的とは言えなかったからだ。

「もしかして、先生の説は外れちゃったかしら」

 わざと煽るように言う。モッズコートの少年は何も答えなかった。その代わり、やや斜め上を指差す。

「ローズ、あれ」

 釣られて角灯を掲げると、悪魔の形相と目線が合う。ローズは叫び声を上げ、腰を抜かしそうになった。すっとぼけた顔で、コノハがその手を掴んで支える。

 闇の中に浮かんでいたのは、昆虫の中でも特に変わった姿をしていた。灰色でか細い体躯をしており、三列の飾りをつけた腹部が背中にくっつくほど反り返っている。奇怪なのは頭部で、司教冠ミトラにも似た三角帽子を被り、櫛状の触角が長く左右に広がる。眼球が大きく突き出た顔は尖り、触鬚は気取った口髭を思わせた。

 この小悪魔じみた亡霊が、胸の前で鋸歯を有した捕獲肢をだらりと垂らしていなければ、ウスバカマキリと同じカマキリ目だとはわからなかっただろう。

 さらにその背後には、大きな複眼と大腮が目立つハチが寄り添っていた。ずんぐりむっくりといった体形で、頭楯とうじゅんの中心で二本の触角がくるりと逆巻いている。今でこそ輝きを失っているけれど、本来の種なら鮮やかな檸檬れもん色をしていたはずの目が角灯の灯りを映していた。

 ジャック=カロによって描かれた「聖アントワーヌの誘惑」の百鬼夜行に紛れこんでいそうなカマキリは、小悪魔ディアブロタンの異名を持つクシヒゲカマキリで、その細身を肢で支えているのはカマキリトガリアナバチである。つまり、狩りバチがその針で麻痺させた獲物を運搬している最中の図なのだ。

 コノハはにこやかにローズの体を引っ張り上げる。

「驚いた?」

「あんた、わざとやったわね」

 衝撃から覚めた少女は、腹立ち紛れに彼の足を靴のつま先で蹴る。少年はなおも笑いながら謝る。

「ごめん、ごめん。反応が面白くて」

「ごめんじゃないわよ」

 二本の前髪を逆立てるローズを宥める。ようやく笑いを収め、少年は言った。

「ミュルミドンたちはね、君主にとても忠実だったんだ。それこそ女王アリに従うよりもね」

 唐突な語りに、いきり立っていた少女はきょとんとする。オウシュウクロヤマアリのことを述べていることはかろうじてわかった。

「だから、圧政下で人類に対する攻撃だけが許されたんだと思う。組織的な行動で粛々と略奪が行われたから、あまり町が荒らされずに済んだんだ」

 黒いケープの少女はあからさまにがっかりした様子だった。

「じゃあ、他の生き残りは……」

「期待しない方がいいね」

 彼の言葉に前髪を萎びさせ、がっくりと肩を落とす。気落ちした様子の少女を一瞥して、虚空にぶら下がるみじめなカマキリを見上げた。

「力は権利に優る、だっけ。なあ、メフィスト……」

 その呟きは少女の耳には届かず、かつて彼が見せたことのない酷薄な笑みもまた、目の当たりにすることはなかった。



 青い灯火が消えてしばらくした頃、闇夜の中に爛々らんらんとした朱い眼光が浮かぶ。年月によって錆びついた関節を軋ませながら、前肢の鋸歯で石畳に鎖状の足跡を引きずり、オオヒョウタンゴミムシが大聖堂の前に聳える醜悪な蟻塚を見上げた。

 数千に及ぶ敗者の末路を見届け、彼は苛立たしげに大腮をかちかちと鳴らす。踏み鳴らされた肢によって石材が砕け、宙を舞った。その激情を保持したまま、オオヒョウタンゴミムシの巨体が猛烈な勢いで夥しい死骸へと突進していった。

 厳めしい大腮が死肉を貫通し、彼の全身がめりこんだ。無論、不自然に積み上げられていたアカサムライアリの死骸が高さを維持できるわけもなく、原型を留めない肉の塊が次々となだれ落ち、残存していた煉瓦造りの大聖堂をすっかり押し潰した。

 長い地鳴りが起きて、空高く粉塵が舞い上がる。すっかり瓦礫と死骸が散らばった惨状で、彼の象徴とも言える強力な鋏が突き破ってきて威勢よく掲げられた。

 黒い翅鞘の甲冑に守られ、這い出てきたオオヒョウタンゴミムシにはかすり傷の一つもない。触鬚に絡みついたアリの肢を、煩わしそうに大きな頭を振って払い落とす。いつも戦いに勝利して敗者を貪ってきた捕食者が、屍の肉など口にするわけがない。彼が求めるのは新鮮な血肉のみだ。

 唾棄すべき敗北者の屍を踏み砕き、オオヒョウタンゴミムシは追跡を再開する。すなわち少年少女が向かった方向へと。



 時は遡り、ふたりは入り組んだ旧市街を抜けた。その先にあった古代劇場は彼らを感嘆させた。丘の斜面に沿って円形の観客席が設けられ、大勢の人々に見下ろされたであろう舞台が底にある。その背後には保存状態が良好な石壁があり、三十メートル超の装飾壁は強固な城塞を思わせた。中央上部の壁龕へきがんには、立派な外套を纏った彫像が右手を掲げ、冷徹な治世者の眼差しを投げかけていた。

 ただ、鑑賞していたのは人間ではなかった。すり鉢状をした古代劇場の最上部に並んで、隊列を組んだ昆虫たちが舞台を注視していた。膨らんだ腹部に対して、小さな頭部と異様に細い中胸を有した造形をしている。あたかも細長く伸びた首を持ったゴミムシの仲間だった。

「オウシュウホソクビゴミムシたちだ。彼らは体内に過酸化水素とヒドロキノンを持っていて、高温の物質を敵に向かって発射する」

 コノハが解説する。少女は首を傾げた。

「こいつら、何でここに並んでるの」

 さてね、と隻眼の少年は答えた。実のところ見当はついていた。その答えは古代劇場の舞台にある。

「とにかく、下りてみようか」

 整列した火矢部隊のあいだをすり抜け、ふたりは階段状になった石段を下りていく。町の建物と比べても古く、建造された年代がかけ離れていることがわかる。一万もの人を収容できる観客席を見渡し、コノハは言った。

「ここは町の入り口にあった門と同じ古代遺産だ。おそらくは数千年も前に建てられた……」

 角灯の灯りを頼りに、ローズが慎重に足を下ろしていく。かつて喝采を浴びた舞台へと降り立ち、大理石を積み上げた壁を照らす。王の風格を纏った彫像が陰影を帯びて彼女を見下ろしていた。

 黒いケープの少女は呟いた。

「人間って、凄かったのね」

 その感嘆の呟きを、コノハは静かに聞いていた。

「ねえコノハ」

「何だい」

「どうして人間は滅ぼされなきゃいけなかったの?」

 その根源的な問いに博識な少年は答えられなかった。

「だって、こんなのおかしいじゃない。こんなに立派な劇場を造って、きっとたくさんの町を建てて……たくさんの人たちが平和に暮らしてたのに、全部、虫がぶち壊した」

 ずっと内に秘めていた感情が、堰を切って溢れ出す。気づけば彼女は涙ぐんでいた。

「どこにも人なんていやしないじゃない。きっと、もうあたしたちしか残っていないんだわ」

 孤独な舞台の上ですすり泣きが響く。思い返せば、人類の生存者に対して大声で呼びかける彼女の恒例行事が欠けていた。内心では諦観の念を抱いていたのかもしれない。

 人の感情の機微に疎いコノハは、ローズの心情には共感できなかった。それでも彼なりに少女の悲しみに寄り添った。

「どうしようもなかったんだ、ローズ」

 コノハは繰り返した。

「きっと、どうしようもなかったんだ――人類にも、彼らにも」

 彼の言葉に、涙に暮れていたローズが顔を上げる。頬を濡らした少女にモッズコートの少年が語りかけた。

「ねえ、ローズ。虫も自殺するって言ったら、きみは信じるかい」

 目を丸くした彼女をよそに、コノハは舞台の端へと向かう。周縁に焼け焦げた痕跡が残されており、少し歩くと円を描いていた。しゃがんで指でなぞると、わずかに黒い煤が付着した。

「ここで火災が起きたんだ。おそらくはオウシュウホソクビゴミムシたちによって、劇場を囲うようにして火が放たれた」

 彼は立ち上がり、古代劇場の中央に顔を向ける。そこには、大きなラングドックサソリの亡骸があった。くびれのない頭胸部と腹部にわかれ、六つの節で構成された尾部が反り返っている。分類としては鋏角亜門クモ綱サソリ目に属し、八本の歩脚と、触肢しょくしが変化した一対の鋏が左右に広がっていた。

 舞台の大半を占領するサソリが腹を地に落とし、だらしなく歩脚は伸び切っている。両の鋏にかつての力強さはなく、ただの仰々しい飾りと化していた。頭部と胸部が一体化した中央部分に小さな瘤がぽつぽつ並んで厳めしい曲線を描き、寄せられた二つの単眼がいかにも恐ろしげな顔を象っている。口器の上には、さらに小さな三つの単眼が添えられ、飛び出た鋏角が死人の伸びた舌にも見える。

 冷徹な治世者の彫像に見下ろされながら、彼は自らの首筋に尾端の毒針を突き立てていた。

「サソリは火炙りの刑に処されると、絶望して自ら命を絶つと信じられていた」

 赤い右目の少年はラングドックサソリのそばまで戻ってくる。

「でもね、それはただのおとぎ話のはずなんだ。サソリは錯乱状態になって気絶するだけで自殺なんてしない。自らの喉元に、短剣を突き立てたりはしないんだ」

 自分の体よりも大きな死に顔を眺めながら言った。

「擬死にしろ、自殺にしろ、最期の終わりを知らなければ実行できない。死を知っているのは、人間のような高度な知能を持つ生き物だけだったんだよ」

 袖で涙をぬぐったローズが、かつて日記帳にあった問いを投げかける。

「この化け物たちにそんな頭があったって言うの。だったら、どうしてなおさら人間を闇雲に襲ったのよ」

「それは――」

 答えようとしたコノハの耳に、遠くで何かが崩れる轟音が届いた。古代劇場の底部にいるために町の様子はよく見えないが、夜空に粉塵が高く舞い上がっているのが視認できた。

「どうしたの」

「いや、たぶんあの死骸の山が崩れて……」

 またもや発言を遮ったのは、足元で響く地鳴りだった。ふたりはとっさに屈む。

「地震?」

 その地鳴りは大きく町を揺るがす規模ではなく、絶えず大地を痙攣させていた。地面についた手から伝わる震動が微妙に移り変わり、震源地が移動しているかに感じた。

 数分後、大地の鳴動は収まり、少年少女は立ち上がる。ローズは恐る恐る言った。

「ここも前の町みたいに崩れるんじゃないの」

「どうだろう」

 コノハは受け答えしながら、先ほどの轟音について考えていた。あの地鳴りの先触れとしてアリの首塚が崩落したのだろうか。少し違和感が残る。

「コノハ、どうしたのよ」

 コートの袖を引っ張られて、少年は思考から引き戻される。

「とりあえず、ここを離れようか。この劇場の裏側は丘になってるみたいだ。そこへ行ってみないかい」

「車には戻らないの」

「町が崩れるかもしれないと言ったのはきみじゃないか。それに、もうあの中は通りたくないだろ?」

 金髪の少女は答えなかった。むすっとして頬を膨らませている。さっきまで泣きべそをかいていたくせに、すっかり陰気な表情は吹き飛んでいた。感情豊かな子だ、とコノハは楽しそうに笑う。

「何笑ってんのよ、さっさと行くわよ」

「ウィ」

 少年少女は古代劇場の石段を上り、袖にある入り口から通路に入る。石造りの無骨な構造で、途中に設けられたアーチ状の窓から壁龕に佇む大理石の彫像と、舞台の上で自ら命を絶ったサソリの姿が見下ろせた。

 子供たちがその場を去ると、しばらくして、鎖を引きずる音とともにオオヒョウタンゴミムシが現われる。自らに近い種であるホソクビゴミムシの小部隊を容赦なく蹴散らすと、大鉈によって切断された頭部や肢が宙を舞った。

 大きな古代劇場の上から凶悪な顔を覗かせると、下方にラングドックサソリの死骸を認めた。少し足を止め、長い尾の毒針を己に突き立てた光景に呆然と見入る。

 やがて大腮を打ち鳴らし、下唇鬚を震わせて今にも唾を吐かんばかりに侮蔑をあらわにする。かつて強敵と認めた相手のみじめな末路から顔を背け、触角を振って新鮮な獲物の匂いを追う。その足音は荒々しい。

 お前とは違う、と言わんばかりに。



 古代劇場を後にして、ふたりは町を見下ろす丘を上った。遊歩道が設けられ、かつては観光客で賑わっていたのだろう。現在は草木が生い茂り、茂みを掻きわけながら傾斜を進むために歩きやすいとは言えない。

 セイヨウタンポポの冠毛かんもうが、強まってきた夜風に翻弄されていた。

「ねえ、どこまで上るのよ」

「もう少しだよ」

 今まで歩き尽くめだったローズが、先行く背中に声をかけた。モッズコートの少年は赤い瞳で曇った夜空を見上げる。上空はさらに風が強く、流動的に雲が流れていた。時折、円を描く月の瞳が垣間見える。

「もう少しで晴れる」

 その表情はどこか浮かされていた。立ち止まることはなく、丘の頂上を目指す。金髪の少女は小さく首を振り、ふと茂みの中で胡瓜きゅうりに似た果実に目を留めた。垂れ下がった楕円形の実の表面はざらざらとしており、黄色く熟れている。その周辺は同じ蔓性植物が群生していた。

 特に他意もなく、彼女は指先でその実に触れる。小さな黄色い花を咲かせたその植物がテッポウウリといい、迂闊に触れると破裂する果実が名前の由来であることなど知る由もない。

 背後で連続する破裂音がして、コノハは驚きとともに振り返る。テッポウウリの実が次々と弾け、果汁と種子が飛び散った。間近で顔面に浴びたローズはひどく狼狽し、後ずさる形でザクロの幹にぶつかる。

 その木陰にはキツリフネの黄色い花が咲いていた。

「ローズ」

 焦った少年が名前を呼ぶ。被った果汁を袖で拭い、ローズは情けない顔をする。

「びっくりした。何なのよ、もう」

 脱力して木の幹からずり下がる際、背中に違和感を覚えた。上着に樹皮のささくれでも引っかかったのだろうか、と身をよじろうとする。

「動くな」

 鋭い一声で制止された。硬直した少女は目線を向けると、コノハが厳しい面持ちで近づいてくる。手で制したまま、彼女の身辺を慎重に探る。

「そのまま、じっとしていて」

 傍らでしゃがんだまま、低い声音で言う。何か恐ろしいことが起こっているとだけわかって、臆病な少女は微動だにできない。

 全身を張り詰めていた少年が、やがて長い吐息をつく。

「よかった、上着だけみたいだ」

「あの、コノハ」

「話は後。ケープを脱いで、慎重にね」

 言われるがままに、彼の手を借りてケープの襟から頭を引き抜く。闇夜に衣擦れの音がして、絹糸でできた上着が体から離れた。下に着ていた、長袖の黒いセーターとショートパンツという身軽な格好になったローズが後ろを振り返る。脱ぎ捨てられたケープが地面に落ちもせず、ザクロの幹に吊り下げられていた。

 ふたりは静かにその場から離れ、樹木を見上げた。立ち枯れた枝葉に白っぽい半透明の膜が張られている。樹冠全体を覆い隠さんばかりに、薄く棚引く天幕が枝の向きをてんでばらばらに捻じ曲げていた。無数に張り巡らされた絹の糸は、三角形の布地にも見える。

 緊張のために小さく震える角灯を片手に、細身の少女がその奇妙な様相を凝視する。

「これって……」

「バルーニングを行なった跡だ」

 ようやく余裕が生まれたコノハが、足元に咲くタンポポを見下ろす。

「クモの幼体たちが親元から離れるとき、できるだけ高い所に上って尻の紡ぎ疣から糸を出すんだ。そのまま糸を風に乗せて、空中で分散する。バルーニングという習性で、この場合は北風ミストラルに乗って遠い土地へ旅立ったんだろうね」

 帆柱となった樹木に吊り下げられた黒のケープに目線を移す。人間の目には見えずとも、極めて細い糸が樹上から幾重にも垂れて繋がっていた。

「運悪く残っていたしおり糸の付着盤が服についてしまったんだ。だけどよかったよ、もし肌に直接くっついていたら、皮膚ごと剥がさなければいけなかったかもしれなかったから」

 恐ろしいことを淡々と述べる少年に、ローズの顔から血の気が失せた。大慌てで背中を向けて、セーターの後ろをめくって肌を見せる。

「ねえ、ちょっと見てよ。痕になってない?」

「やめてよ、女の子がはしたない……」

 顔をしかめていたコノハが、あらわになった背中を目の当たりにして表情を一変させる。覆い隠されていない右目が見開かれ、赤い瞳が動揺する。

「コノハ?」

 尋常ではない雰囲気が伝わってきて、ローズが焦る。痛みはなくとも、やはり痣が残っていたのだろうか。

「……ああ、別にどうもなっていないよ。綺麗な肌だ」

 動揺を押し殺し、彼は答えた。言葉を選ぶ余裕まではなく、結果としてローズは頬を赤らめることになった。

「あんた、急に何言ってんのよ。馬鹿じゃないの」

「きみが見せてきたんじゃないか」

 理不尽な反応に少年は呆れた。少なくとも表面上は、平静を取り戻していた。ポケットの中では、包帯が巻かれた右手が強く握り締められている。

 まくっていたセーターを下ろし、胸を撫で下ろしたのも束の間、ローズは磔になった黒のケープに目を向けた。名残惜しげに碧眼が潤んでいる。

「残念だけど諦めた方がいいよ。また近づくのは危険だし、幼体の糸とはいえ、ぼくたちの力では切れないと思う」

 コノハに諭され、彼女は鼻を鳴らす。

「あたしのお気に入りが……」

 地面に内股で座りこんで嘆く少女に、顔に包帯を巻いた少年は頭を掻く。申し訳なさそうに声をかけた。

「ごめん、ローズ。ぼくがもっと注意するべきだった。慎重に進めば、バルーニングの痕跡にだって気づけたはずなのに」

 彼の謝罪に、体の線がくっきりと浮き出た少女はきょとんとする。神妙な面持ちの少年に思わず吹き出した。

「変なの。植物に触ったのはあたしの不注意だし、あんたのせいで糸が引っついたわけじゃないでしょ」

 情けなく萎れていた前髪を跳ね起こし、彼女は勢いよく立ち上がった。

「さあ、しょぼくれてないでとっとと行くわよ。見たいものがあるんでしょう?」

 陽気に振る舞う少女に、モッズコートの少年はようやく笑うことができた。

「――ああ、そうだね」

 そういった騒動の中で、蛮族の首領は着実に獲物へと近づいていた。なるべく高い木を避けて登ることにした彼らは、木立のあいだに灯る深紅の眼光には気づかない。その貪欲な眼差しは唐突に消え、わずかな震動とともに樹木を掻い潜りながら丘の地中を進んでいく。

 道中で、木の上に干からびたクモの亡骸があった。角錐台の形をした後体部が特徴的で、左右の裾に瘤が膨らんでいる。元は見事な乳白色であっただろう体色はくすみ、痩せ衰えて皺が寄っている。自らを囲う天幕の下には、枝葉のあいだに白絹で織った円錐形の卵嚢らんのうが収まっていた。死してなお、発達した前脚で大事に抱えこんでいる。

 卵嚢の表面には噛み破られた跡があり、内包されていたクモの幼体たちは大半が脱出して旅立った後なのだろう。ただ、ごく少数の子グモが母親の亡骸に寄り添い、共に息を引き取っていた。

 行きたい者は行くがよい、残りたい者は残るがよい。ゴジアオイの薔薇色の花弁を見下ろしながら、コノハは心の裡で呟く。

 今夜は見事な満月だった。今や雲が吹き散らされた夜空から、眩い月光が町全体に降りそそいでいる。全容を現わした町は四方を長い川に囲まれ、切石で造られた古い民家がそのままの形で残り、住民の生活を偲ばせる。出発地点となった北には長い街道が延び、その途上に佇む小さな凱旋門の輪郭が望めた。丘の麓には古代劇場の威風堂々とした石壁が聳え、地震のためか例の蟻塚は崩れて周辺の建物を押し潰している。

 丘陵の上から見て、少年少女が立ち寄らなかった東側には、かつて別の都市と繋いでいた駅と線路があり、大規模な崩落によって駅舎が失われていた。町の形を抉るほどの大穴が穿たれ、その見通せない深淵の上で橋糸が渡されて、不規則な形をした枠糸を土台とした水平の円網が張り巡らされていた。

 極と呼ばれる中心から放射状に広がる三十二本の縦糸を、月明かりに反射する粘球が浮かんだ横糸が一定の角度で分割している。結果として幾何学的な対数螺旋を描く網の玉座に座すのは、類を見ないほどの体格を有するナガコガネグモだった。

 剛毛を生やした歩脚の一本だけで、目測でも五十メートルはあるだろう。遠近感を狂わせる体躯には灰色の毛が密生し、さらに黄色と黒と銀白色の帯模様で彩られている。その色合いは本来腹部が顕著であるが、現在はあまり目立たない。

 円周の中心である休息場の上で最も長い第一歩脚の膝を立て、どの建築物よりも高い位置を跨いでいる。八本の脚を広げて、桁外れの巨躯を虚空に浮かべた光景は確かな畏怖を与えた。精緻に編まれた網の下部には、隠し帯と呼ばれる独特な文様が記されていた。それはまるで、連なる鎖の輪を象っている。

 老いさらばえた白髪を思わせる長い毛を帯びた頭部には一対の触肢が伸びており、様々な犠牲者の体液を啜ってきたであろう強靭な上顎が具わっている。

 八個の大きな単眼は、一切の光を呑みこんで何も映さない。

「……あんたが見たかったのは、あれなの?」

 ショートパンツの尻を岩に乗せ、華奢なセーター姿の少女は静かに語りかけた。モッズコートの少年は佇み、赤みがかった黒髪を夜風になびかせ、沈黙で答えた。見晴らしの良い丘の斜面で、一輪のローズマリーが咲いている。

「ただ、見下ろしてやりたかったんだ」

 しばらくして、コノハが言った。その声音には何かしらの葛藤が感じ取れる。

「本来、ナガコガネグモは地面に対して垂直の円網を張る。だけど彼女は、玉座に座る王様気取りで見下すのを好んでいたから」

 丘の上の独白は続く。

「脱皮した抜け殻でもよかったんだ。あの強大な暴食の王がこんな最期を迎えるだなんて、夢にも思わなかった」

 複雑そうな眼差しが規格外のナガコガネグモに向けられる。我が物顔で町の一画を占拠したクモの頭胸部に、脱皮痕は一切ない。それは取りも直さず、かの巨大な怪物が死骸であることを示していた。

「何で、死んだの?」

 ローズが尋ねた。少し間を置いて、隻眼の少年は短く答える。

「餓死だ」

 白髪を生やしたナガコガネグモの腹部は小さく萎み、帯模様がくしゃくしゃに縮んでいた。生前、必要な栄養を摂っていなかったのは明らかだった。

「餓死って……何も食べなかったの。だって、町の中で虫たちが吊るされていたのはあいつの仕業なんでしょう。いくらでも食べる物はあったはずなのに」

「ああ、そうだ。そのはずなんだよ」

 驚く少女に、コノハは何度も首を振る。その表情は苦渋に満ちており、憎悪とも悲しみともつかぬ感情が入り混じっていた。

「コノハ、あんたは――」

 本当は何なの。そう問いかけようとして、躊躇ちゅうちょした。彼女は、自分があまり賢いとは思っていない。けれど心中の疑問をぶつけてしまえば、彼との旅が終わってしまう。そんな予感に身を震わせた。

 ずっと、このままでいいのだ。未来も過去もなく、現在こそが全てなのだから。

「……ねえ、クモって羽化したら何になるの?」

 代わりに益体もないことを口にした。コノハはようやく感情を押し殺す。

「クモは羽化しないよ。ただ脱皮を繰り返して、成体になるだけだ」

 他愛もないやり取りを交わして、草木が揺れる丘の上で無人の町と今なお威厳を誇示するクモの亡骸を眺める。それぞれの感傷に浸っていたふたりは、身近に迫る危険を察知できなかった。

 彼らの視界の外で、地面から大きな腮が飛び出す。続いて、強靭な鋸歯を具えた前肢が土を掴み、獰猛な鞘翅目の昆虫が姿を現わす。六本の肢で丘の斜面を踏み締め、朱に染まる複眼で小さな生き物たちをとらえる。

 オオヒョウタンゴミムシにとって、ここまで慎重に身を隠す必要などなかった。視認した時点で襲いかかれば、脆弱な彼らに抵抗する術はなかっただろう。

 単に久方ぶりの狩りを楽しんでいただけだ。狩人のニムロデとも称された彼にとって、大腮の一振りで終わるなど物足りなかったから。

 その戯れも終わりにしよう。新鮮な肉の匂いに触覚を躍らせ、興奮に大鉈を激しく打ちつける。体節の気門から酸素を取りこみ、運動を司る中枢神経を活性化させた。錆びついた肢を踏み鳴らし、奴隷の鎖の輪を引きずりながら、標的に向かって突進を開始する。

 その激しい足音は、当然彼らの耳にも届いた。地響きとともに迫りくる処刑者の大腮に顔を向ける寸前で、またもや大地が足元を激しく突き上げた。

 悲鳴を上げるローズが頭を抱え、コノハもとっさに姿勢を低くする。オオヒョウタンゴミムシにとっては多少の震動など障害にもならず、そのままの勢いで彼らに突撃しようとした。

 突如として丘の斜面を突き破り、長大な尖塔が彼の突進を阻んだ。先端が鋭利な形をした黒い円錐は、彼の巨体を真下から強大な力をもって打ち上げる。堅固な翅鞘に包まれたオオヒョウタンゴミムシの体を刺し貫くことはなくとも、彼の体長を遥かに超えた長槍によって、月の光に照らされた町全体を俯瞰できる高度まで跳ね飛ばされた。

 高空まで飛ばされたオオヒョウタンゴミムシの鮮紅の複眼に、自ら飢え死にを選んだナガコガネグモの亡骸が映った。かつて仕えた君主の最期に、彼の瞳には失望とも絶望ともつかぬ感情が錯綜さくそうし、鮮血の色が消え失せる。祈りを捧げるように自ら肢を折り畳み、再び意識を絶った。

 敗残兵はそのまま丘から遠くへ飛ばされ、闇夜に聳える巨人の長槍が沈む鳴動に落下音がかき消される。揺れる丘の上で少年の赤い瞳が捉えたのは、槍の穂先が地面に呑みこまれる寸前の場面だった。

 震える丘陵地で蹲っていたふたりは、地鳴りが鎮まってようやく頭を上げた。頻発する地震に未だに慣れないローズはぼやく。

「もう、勘弁してよね」

 直前まで命の危機に晒されていたことも露知らず、平衡感覚が狂った彼女は岩に手をついて寄りかかる。すると、一方向をじっと見つめる少年の姿が目に入った。

「コノハ?」

 怪訝そうに片眉を跳ねる少女をよそに、彼は呟きを漏らす。

「今のは……」

 頭の上に疑問符を浮かべるローズに、首を振ってみせた。

「まさか――そんなことがあるわけがない」

 コノハは気を取り直して言った。

「戻ろう。もう十分過ぎるほど見たよ」



 以前に崩落した都市の例があるため、彼らは町の周縁を遠回りして愛車まで戻ることにした。取り囲む川の流れに沿って連れ立って歩く。その途中で、大きく陥没した地面に引っ繰り返ったオオヒョウタンゴミムシの姿を見つけた。

「こいつ、こんなとこにいたっけ」

「別の個体だよ。ほら、胸部と腹部のあいだに大きな陥没があるだろう。さっきの奴にはこんな傷痕はなかった」

 強烈な一撃によって腹を穿たれた敗者は、生と死の狭間で微睡まどろみながら彼らのやり取りを聞いていた。もう二度と起き上がることはないだろう。

 やがて山の向こうから朝日が昇り始め、古い町並みを照らす。宙吊りの刑に処された虫たちも、崩された蟻塚も、圧政を敷いていた地底の暴君も等しく光に焼かれた。

 静かにせせらぐ川面に、子供たちの姿が眩しく映る。ふと少年が足を止めた。見下ろした先で、薄茶色の瞳が覗き返していた。

「……そんな目でぼくを見るなよ」

 彼は顔を歪め、少女の呼び声に急かされて歩き出す。枯れ葉色をしたモッズコートの破れた裾が、水面で羽ばたいた。

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