書カレタコトハ残ル

 九月十四日

 

 最愛の息子、ジュールが亡くなった。

 あんなにも昆虫が好きであった私の協力者よ、植物に関してあんなにも鋭い目を持っていた私の助手よ。どうしてお前が、他ならぬ昆虫の牙にかかって死ななければならないのか。

 全ては私が悪いのだ。シェルターの備蓄が底を尽きかけていて、外を跋扈ばっこする怪物の目をかい潜って食料を調達しようとした。そんな浅はかな父親を心配して、彼は後を追い、私を庇って死んだ。

 妻のマリーは息子を止められなかった自分を悔い、おめおめと逃げ帰ってきた夫の懺悔に泣き崩れた。

 ああ、死とは何と忌まわしいものであろうか、輝かしい真っ盛りの花を刈り取ってしまうとは。

 何も気づかなかった不甲斐ない父親を、どうか許しておくれ。



 九月二十二日


 妻は己を責めるあまりに廃人同然となった。受け答えさえおぼつかなくなり、私が勧めるスープを機械的に啜った。それ以外の時間は虚空を眺めるだけだ。まるで抜け殻だった。

 息子の亡骸を連れ帰ることさえできなかった夫を責めることもしなかった。そうしてくれれば、幾分かこの胸を苛む罪悪感を和らげることができたかもしれない。

 私には、きっとその価値もないのだ。

 


 十月十一日

 

 最近、シェルターの外殻を叩く音がする。奴らはその触角で隠された獲物の匂いを嗅ぎつけているのかもしれない。避難民は、ひどく怯えている。



 十月十五日

 

 この日のことを、私は思い出したくない。しかし生き残った数少ない人間として書き残す義務があると思ったから、今筆を取っている。

 シェルターは破られた。あの黒く湾曲した大腮おおあごは、ヨーロッパミヤマクワガタのものだっただろうか。私の目には悪魔の角に映った。

 そして裂け目から、ああ、あの光景をどう呼べばいいのか。悪鬼たちがなだれこんできた。収穫しに来たマエダテバチ、薔薇色と焦げ茶のまだら模様をしたアロフィアメイガの幼虫、神様の虫と呼ばれたナナホシテントウも殺戮の宴に加わった。

 私たちはまるで無力なワタムシだ。シェルターという虫こぶの中で息を押し殺し、天敵に侵入されれば、成すすべもなく貪り尽くされる。

 人食い鬼が振るう鉈鎌にとらえられることなく、妻を連れて逃げ延びられたのは僥倖ぎょうこうという他がない。地獄の饗宴を後にして、すっかり変わり果てた町を逃げ出した。より多くの獲物の匂いに引き寄せられて、アブラバチの群れが頭上を飛び去っていった。

 私たちは生き残った。しかし、本当にそれが幸いだったのかはわからない。



  月 日 


 この日記を書くにあたって、日付を記すことを断念する。シェルターが破られた日から生き延びることに必死で、日時を把握する余裕がなかったからだ。

 未だ放心状態の妻を連れて、できる限り人里を離れた。あの虫を模した怪物たちは居住区を占拠していることが多かったからだ。季節は冬を迎えており、氷点下の気候が容赦なく私たちの体から体温を奪い去った。北風ミストラルが吹き荒れるときは、洞穴に逃れて難を逃れた。もしかしたら、オデュッセイアに出てくる一つ目巨人の洞窟ではないかと恐れを抱きながら。

 荒野を旅するにあたり、危険な狼などとは遭遇しなかった。きっと彼らもまた、悪魔に狩り尽くされてしまったのだろう。食イ尽クスベキモノヲ捜シ求メツツ。まさにペテロの前の書にある通りだ。

 ダーウィンよ、進化論よ。どうか教えてくれ。ミュルミドンをガルガンチュワへと変え、キュクロプスのごとき人食い鬼へと変貌させることが、自然選択によってもたらされた進化の答えだというのか。胃袋から胃袋へと移動し、小鳥の尻肉を肥らせていたアトムは、質量保存の法則さえ無視したおぞましい怪物へと成り果てた。

 私は百回でも二百回でも断言する。あれらは私が愛したツチスガリやスカラベ・サクレとは別のものだ。そもそも――。



「え、ダーウィンの進化論が知りたいのかい。珍しいね、きみがそんな専門的なことを聞きたがるなんて。いいよ、この日記を読み終えた後で、できるだけわかりやすく教えてあげる。

 別に馬鹿にしてないって」



  月 日


 食べられる野草を探し、川の水を煮沸して飢えと乾きを満たした。それでもこの地方の厳しい気候は容赦なく私たちを苛んだ。捕食者たちばかりでなく、自然界の全てが私たちを敵視していた。あの醜悪な戯画カリカチュアが闊歩している限り、雨風を凌げる場所も少ない。

 盲いた指物師のマリウスやジュリアン先生は無事だろうか。謝肉祭の最終日にヒロムネウスバカミキリの幼虫を串焼きにして食した饗宴を思い出し、頭から振り払う。今は私たちが生き延びなければ。

 妻は日に日に痩せていっている。あの惨劇を目の当たりにしても一言も発せず、この数か月彼女の声を聞いていない。

 厳しい寒さと栄養状態だけが原因ではあるまい。



  月 日


 妻のマリーが亡くなった。

 いよいよ吹雪が激しさを増す中、虫を模した怪物たちも数を減らし、動きが鈍くなっていった。彼女の死に場所が、屋根があるベッドの上であったことがせめてもの慰めである。骨と皮ばかりになった彼女の手に取り、私は妻の最期を看取った。最愛の息子だけでなく、ただ一人の伴侶まで失った。神よ、私は貴方を二度までも欺いたというのですか。

 妻の遺言は「生きて」だった。これほど残酷な言葉があるだろうか。                    


  

  月 日


 セトーの地中海を見下ろす海辺の墓地に妻の遺体を葬った。本当ならば息子ジュールと同じ墓の土の下に埋葬するべきだったのだろう。だが、それは叶わぬ願いというものだ。マリーのプシケーが、どうか隠された死者を暴かぬことを。

 風立ちぬ、いざ生きめやも。



  月 日


 私は独りになった。こうして永らえているのは、なぜだろうか。妻の最期の言葉を守ってか、生き残った数少ない人類として使命感に駆られたからか。

 ともあれ、私の生きる目的は生存者を探すことであり、あの喉渇く巨人の子の正体を突き止めることとなった。

 深い奈落の底から奴らが這い上がってきたのは明白だ。ならば、既知の節足動物門に姿や生態が酷似しているのはどういうことか。

 すっかり姿を消してしまった、愛らしい小人たちはどこへ行った?



  月 日


 怪物どもの様子がおかしい。我が物顔でこの地上を蹂躙していたのに、活動している個体をめっきり見なくなった。寒さに凍え、冬眠しているとでも言うのか。あらゆる熱や衝撃に耐え、人類が有するソドムとゴモラの火ですら駆逐することができなかったというのに。

 吹雪を浴びる一頭のトノサマバッタがいた。全長は二十メートルを下るまい。本来の種は最大でも六十ミリを超えるほどであるから、個体差が激しく相関関係はないのだろう。通常の種は緑色や褐色の体色をしているが、この個体には全体的に黒い筋が走っている。おそらく飛蝗ひこうの特徴である群生相と思われる。

 何かしらの争いが起こったのだろうか。太い腿に赤い筋が入り、脛節には二列の鋸歯がついた、竹馬にも例えられる二本の長い後肢が失われている。さらに飛翔する際には大きな扇形になる、帆とも言うべき翅が無残にも毟り取られていた。前肢と中肢で長い腹端を引きずった痕が積雪の上に残されており、そのみじめな姿は実験の一環で後肢をもぎ取ったバッタを思い起こさせた。

 不具のトノサマバッタも動きが鈍く、あるいは寿命を迎えているのではないかと思うほどに弱り切っていた。この化け物たちにも老いという概念があるのか。呆れるほどの探求心は、この私を無謀な実験へと駆り立てた。

 私は反応を探るために、そのトノサマバッタの前に躍り出た。自殺行為と断じられても反論はできまい。これほどまでの愚行に走らせたのは、妻子の後を追いたいという死への渇望と、未知に対する挑戦心だった。

 さあ、今度は私とお前の一対一の勝負だ。上等とは言えないが、お前たちが血眼になって欲した獲物が目の前にいるぞ。その浅ましい乱杭歯で食らいつくがよい。

 ところが凹凸の少ない平面的な顔に変化はなく、青色をした複眼で穏やかに私を見下ろしていた。長い二本の触角が、吹雪の方向へなびいている。

 そして、ああ――常識よ、顔を覆え。殺傷力ではギロチンにも匹敵する口器が開き、肢を失った怪物は何事かを喋った。少なくとも私にはそう聞こえた。バッタがかすかな鳴き声を発することは知っていたが、それは未知の言語だった。

 フランス語ともプロヴァンス語とも違う。おそらくは地球上のどの言語とも一致しないだろう、独特な響きを持った言葉で私に語りかけ、トノサマバッタは襲いかかるでもなく向きを変えた。呆然と立ち尽くす私を置いて、億劫そうに長い体を引きずって去った。

 私は、とうとう正気を失ってしまったのだろうか。



  月 日


 私には考える時間が必要だった。少なくとも、さまざまな実験を行なった虫たちは、翅脈しみゃくの弦でバイオリンを奏で、翅鞘しょうしの甲冑をがちゃがちゃと鳴らして何かしらを訴えるものだ。だが、それは言葉ではない。

 虫に理性はないのだ。やはり、あれは節足動物を模倣した別種の生き物に違いない。この耳が聞いたものが確かならば、言語を有する知性がある。

 仮にあれが我々と同じ高等な生物だとするならば、なぜ見境なく人類を食い散らかしたのか。

 あのトノサマバッタは、青い目をしていた。今まで遭遇してきた虫たちは赤く燃え滾る眼光をしており、我々に一見して本能的な危機感を呼び起こさせた。

 あの瞳の色に関係があるのか。何もわからないからと言って、恭しくお辞儀をして通り過ぎるわけにはいかない。観察を続けよう。



  月 日


 逆巻く光の雨を見た。夜にも関わらず、真昼のような明るさだった。

 非現実な光景だった。これ以上は、もう何も書けそうにない。



  月 日


 あの酩酊から覚めて、筆を取っている。網膜にはまだ白い光の奔流が焼きついているから、白昼夢とも錯覚する出来事をどうにか文章にしてみようと思う。

 眠りに就いてしばらくの頃だった。瞼のヴェールを突き抜けて、視界が白一色に染まった。飛び起きたとき、その現象は巻き起こっていた。

 夜空を塗り替え、真夏の太陽にも匹敵する光が立ち昇っていた。その一粒一粒がどうやら生物の輪郭をしており、どれもが私の知識に該当しない。

 牛に似た角を生やす二頭の飛翔体がいた。夥しい軍勢を率いる、王冠を被った細長い体躯の個体が立派な外套を広げていた。極めて長い体をくねらせる、東洋の龍に酷似したものもいた。二対の長い鋏を携えた、威風堂々とした巨人が天を目指していた。長い裾のフリンジが尾を引く、司祭の大行列が神の御許へと向かっていた。

 この厳かな光の式典が、自然現象とは思えない。きっと地上を見舞った災厄と関係しているのだろう。ただ私は、不覚にも涙を流していた。

 これほどまでに美しい光景を、かつて見たことがあるだろうか。



  月 日


 あの奇々怪々な現象が収まるまで、三日三晩はかかっただろうか。幻でも見たのかと思うほど、空は平静を取り戻していた。

 観察を再開したとき、私には漠然とした予感があった。一頭のソライロコガネを発見したとき、それは確信に変わった。全身が空色をした金属光沢を持つ甲虫で、幼い頃に通っていた学校の先生の手伝いに駆り出されていたとき、ハンノキで捕まえた美しい昆虫だ。かつて、私に観察の楽しさを教えてくれた。

 他の巨大な生物に比べれば小柄で、体長はおよそ八十センチほどだろうか。淡い空の色をした前胸背板から、磨き抜かれた二枚の上翅の閉じられた合わせ目を、正中線に沿って一本の亀裂が走っている。その中は空っぽで、手を入れることさえできた。

 セミの幼虫の抜け殻を思い出した。このソライロコガネはまさしく同じ過程を経たのだろう。彼らは脱皮をし、私が目撃した光はその群れだったのだ。

 自らの石頭に棍棒を打ちこむような真似はもうやめよう。完全変態であろうと不完全変態であろうと、幼体か成体かなど些細な問題でしかなく、この連中は古い皮を脱ぎ捨てて姿を変え、空のどこかへ飛び去った。

 初めからそういう風に創られているのだ。

 


「ここから先は随分と期間が空いてるね。たぶん日記じゃなく、別の研究ノートにまとめられているんじゃないかな。後で……ああ、興味なさそうだね」



  月 日


 この日記を記すのは何年ぶりだろうか。地上を蹂躙した巨人たちの抜け殻を調査し、得られた物は多くなかった。せいぜいキチン及びキチン結合性蛋白質でできていることと、エクジステロイドという脱皮ホルモンの名残りが見受けられたことぐらいである。要するに、本来の虫と成分は大して変わらないのだ。

 それにも関わらず人類の攻撃を寄せつけなかったのは、きっと私が知らない領域のことなのだろう。科学の光でも照らせない暗闇に覆われているのだ。



  月 日


 妻のマリーを亡くしてから各地を放浪した。怪物たちの抜け殻だけが残された町で、生き残った人類と出会うことはなかった。おそらくは私が最後の生き残りなのだろう。

 間もなくそれも終わる。



  月 日


 今、残された気力を振り絞って、この日記を書いている。もしかしたら、まだ希望を抱いて旅をしている、あなた及びあなた方に対して伝えよう。



  月 日


 二十一世紀初頭、日付はもう思い出せない。たぶん夏至のことだったと思う。世界各地で大規模な地震と地殻変動が起き、同時期にあの人食い鬼どもが地の底から這い出てきた。ケラ類の昆虫を尖兵に、あっという間に人間を食い散らかした。

 人類の抵抗はほとんど意味を成さなかった。国の体をなくし、人々は散り散りになって逃げた。人間だけでなく、鳥獣や魚類といったあらゆる生物が捕食の対象だった。地球上の野生動物が絶滅をまぬがれなかったのなら、文明社会に慣れ切った人など格好の餌食だっただろう。

 後はごらんの有様だ。



  月 日


 本当に色んな土地を旅してきた。残されていたのは虫の抜け殻と廃墟だけだった。かつて教師を勤めたアヴィニョンもオランジュも、カルパントラやコートダジュールにも人の姿はなかった。ヴァントゥー山を登り、レジオンドヌール勲章のシュヴァリエ章を授与されたパリにも足を向けた。かの有名なエッフェル塔には、ミツバチたちが幾何学的な構造の巣を築き上げていた。

 ただ人類の暮らした痕跡が、それこそ抜け殻のようにあるだけだった。



  月 日


 謎は汲めども汲めども尽きないが、目に見えて不可思議な気象を発見した。北風が常に吹き荒れ、遥か空の高い層まで白い吹雪が覆っている。まるで、風の神アイオロスが風を編み上げた分厚いメルトンで秘密を覆い隠しているようだ。

 少なくとも四季を通して観察したが、北風が止むことはなかった。明らかな異常気象だった。北風は気まぐれであり、それゆえにこの地の生物には猶予が与えられる。ああも暴風に取り巻かれては、とても動植物が生息できる土地にはなり得なかっただろう。

 それに、何だ。あれは。ごく稀に吹雪の隙間から、高く雄大な影が垣間見えた。一瞬視認できただけでも標高が対流圏に達すると判じた。人工物ではあり得まい。あそこには、この世界に訪れた災厄に対する答えがあるのだろうか。

 ああ、だがしかし、私にはあの吹雪を越える体力と時間がない。寿命がないのだ。せめて、真実を求める者たちにこの情報を託すことにする。場所は……。



  月 日


 ここまで目を通していただけたのなら、私が永くないことがおわかりいただけるだろう。家族も友もなく、最善の世界のために尽くしたつもりだ。最後はせめて、私が愛したアルマスで眠りたい。

 ただ、厚かましいのだけれど、この日記を読んでいるあなたもしくはあなた方にお願いがあるのだ。

 どうかこの日記帳を私の遺言だと思って、その旅に同行させてほしい。死は終わりではない。より高貴な生への入り口である。そう信じて、この荒廃した世界の先にある景色を見届けさせてほしいのだ。

 私はかつて、昆虫をこよなく愛した博物学者だった。私の名前は――。



「……だってさ」

 古びた革の装丁でできた日記帳を閉じて、左目に包帯を斜めに巻いた少年が言った。十代半ばほどで、枯れ葉色のモッズコートを羽織っており、その裾は朽ちた葉のごとく擦り切れていた。首から狐色のフードが垂れている。

 黒革の日記帳を持った右手には、顔と同じく怪我を負っているのか、包帯が乱雑に巻かれていた。

 そこは野外で、およそ一ヘクタールの痩せた庭だった。赤土が少し混じった石ころだらけの土地に、繁殖力の強いギョウギシバが蔓延はびこっている。ヤグルマギクの仲間が茂みを形成し、猛々しいキバナアザミやイリリアゴロツキアザミが高さを競っている。いずれも夥しい棘で武装した、乾燥に強い花々だ。

 その荒地をマツの木立とイトスギの列がひしめいており、さらに漆喰で塗り固めた塀が敷地を囲っている。庭を望む位置には二階建ての人家があった。古色蒼然としており、外壁の表面は剥がれ落ちている。張り出した母屋の戸口部分と、両翼には別の棟が接続されていた。向かって右側には、枯れた観葉植物の植木鉢が並べられた温室があった。ガラス張りで、内側から蔓性の植物が複雑な紋様を描いて内部を見通すことができない。

 その建物の前を、リラの小径が彩っていた。重い花房が両側から垂れ下がり、ゴシック建築の穹窿きゅうりゅう天井のようになっている。濃淡のある紫色の花々で囲われた道は強い芳香を発していた。

 前庭には緑色の藻で覆われた池が残されていた。かつてはヒキガエルやサンバガエルの合唱が耳をろうしたであろう水場は、静寂を湛えている。

 痩せ衰えながらも、豊潤な自然に囲まれた庭の中央にプラタナスの木があり、その木陰に粗末な椅子が据えられていた。そこにゆったりとした黒いフロックコートの正装に身を包んだ老人が座っている。鍔の広いフェルトの帽子を被り、肩まで届くガリア人風の白髪を垂らしながら俯いていた。膝の上に置かれた手は黒ずみ、古木の樹肌のごとく瑞々しさを失っている。足元には杖が横たわっていた。

「――この人、本当に死んでるの」

 幼さが残る声の持ち主は、金色をした髪の少女だった。先の少年よりやや年下だろうか。後ろ髪を赤いリボンでくくり、はみ出した二本の前髪がそよ風に揺れている。黒いケープを纏い、赤い斑点を散らした裾は白い帯の模様で縁取られていた。

「たぶんだけど……」

 黒みがかった褐色の髪の少年は、その亡骸に目をやった。

「夏の盛りに亡くなったんだと思う。体内の水分を急速に失って……分解する虫もいないから、そのままミイラ化したんだ」

「ミイラ?」

「干からびた遺体のことだよ」

 少年は屈んで、木の椅子に腰かけたミイラを調べる。立派な正装であったろうフロックコートに指先で触れ、手触りを確かめた。雨風にさらされ、生地は傷んでいたが、完全には朽ち果ててはいない。

 襟元には、かつて偉大な功績を残した人間に与えられた赤いリボンの略綬りゃくじゅが認められた。その勲章に目を細め、彼は立ち上がる。

「そこまで昔じゃないね。正確にはわからないけれど、この人が亡くなったのは一、二年前ぐらいじゃないかな」

 黒いケープの少女は、うなだれる老人を見下ろす。

「じゃあ、もう少し早く来ていたら、生きて会えてたかもしれないのね」

 そうだね、とモッズコートの少年は応じた。

「ぼくらの来訪は遅すぎた」

 その言葉に、少女は瞑目した。

「だけどどうして、外で亡くなってるのかしら。家はまだ無事に見えるのに、よりにもよって、こんなところで」

 少し嫌悪を含んだ声音で、老人が座る椅子の背後を見やる。プラタナスの木漏れ日によって翅脈を透かし、一頭の膜翅目、すなわちハチの抜け殻が寄り添うように横たわっていた。

 体長は二メートルほど。体色は黒で、頭部から腹部の基部にかけて白みがかった毛が生えている。黄色い上唇は長く尖り、顔にあたる頭楯とうじゅんは凹凸があって三面角を形成していた。二本の触角のあいだを通る正中線も黄色く、輝きを失った複眼の後縁も同じ色で縁取られている。

 肢は先端が黄色く、基部に近づくと黒くなる。腹部もまた波状の帯で色分けされており、スズメバチの警戒色を連想させる。尾節は厚みを持ち、角張った突起がある。

 他の膜翅目まくしもくと比べて、長い口吻こうふんが特徴的だ。少女の渋面を意に介さず、間近で観察していた少年が言った。

「これは、ユリウスハナダカバチだね」

 前胸部の毛を撫でる。この個体もやはり、縦に裂けた脱皮痕があった。

「名前なんてどうでもいいのよ。ずっと昔にこの虫は脱皮してたんでしょ。それなのに……」

「どうして、わざわざここを死に場所に選んだか、って?」

 隻眼の少年は振り返る。その穏やかな鳶色の眼差しに、金髪の少女はどうしてか気後れした。

「――そうよ。だってこの人は虫を憎んでたんでしょう。こいつらのせいで、子供も奥さんも亡くしたんだから」

 少女の主張に、彼は老人の痩せ細った背中を見下ろす。

「さあね、人の考えることはよくわからないよ」

 そう前置きして、少年は続ける。

「さっき、名前なんてどうでもいいと言ったね。実はそうでもないんだよ」

「何がよ」

「ぼくはこのハチをユリウスハナダカバチと言ったけど、本当は違うんだ。スジハナダカバチという名前なんだよ」

 彼女は小首を傾げた。

「どういうこと?」

同物異名シノニムって知ってるかい。博物学者リンネの分類学では、最初につけられた学名が常に優先される。つまり、スジハナダカバチという名前が先にあって、ユリウスハナダカバチは後で名づけられたんだ。だから後者は無効になる」

 急に専門的な話に飛んで、少女はちんぷんかんぷんだった。その様子に気づかず、少年はなおも先を話そうとする。

「このユリウスというのはラテン語読みで、フランス語に言い換えると――」

 金髪の少女はきっぱりと遮った。

「もういいわ。結局、何もわかんないってことね」

 講義を遮られて口を開けたままの少年から、黒革の日記帳を奪い取る。文字が読めないのに頁をぱらぱらとめくる少女に、彼は肩をすくめる。

「結構大事な話なんだけどなあ……」

 気を取り直して、モッズコートの少年はハナダカバチの抜け殻を背にする老人の亡骸に、胸中で問いかけた。

 あなたは、見送られたかったのか。

「ねえ、あんた全部読んだ?」

 少しばかりの感傷に浸っていた少年は、その問いかけに虚をつかれた。

「え?」

「この日記、まだ後ろの方に何か書いてない?」

 日記は完全に埋められていたわけではなく、後半部分はほとんど空白だった。ただ、彼女が開いている頁は末尾に近い。

「ああ、大したことは書かれてないよ。日常的にメモとして使ってたんじゃないかな」

「その割には、前の部分と比べてインクが新しいみたいだけど」

 彼は内心舌打ちしたい気分だった。読み書きもできないくせに、こういうときは目敏めざといじゃないか。

「本当に大したことじゃないんだよ。その日の天候や、明日のパンの心配とかね」

 わざとらしい笑顔を浮かべる少年に、金髪の少女は「ふうん」と鼻を鳴らして日記を閉じる。胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女は日記帳を手にしたまま、荒れ果てた庭を歩き出す。

「……持っていくの?」

「この人の遺言だから」

 華奢な背中に声をかけると、そんな答えが返ってきた。

 まあ、いいや。どうせ読めないだろう。そう自分を安心させて、少年は改めてフロックコートの老人に短い黙祷を捧げた。

「ごめんなさい、さようなら」

 小声で別れを告げると、少し離れた場所から声がした。

「何してんの、コノハ。もう行くわよ」

 コノハと呼ばれた少年は肩をすくめた。

「ウィ、ローズ」

 小走りでローズという名の少女と肩を並べる。彼は口ずさんだ。

「――彼は死ぬまで生きていた」

「何それ。当たり前じゃない」

 呆れた表情をする少女に、少年は笑う。

「そうだよ、当たり前のことさ」

 何気ない会話をしながら、少年少女は美しく咲くリラの小径へ消えた。ヤグルマギクの仲間がもつれ合って生える庭に、プラタナスの木陰でフロックコートの老人とユリウスハナダカバチの抜け殻が残された。

 最愛の子の名を持つハチの傍らで、彼は永遠に思索を続けるだろう。

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