同物異名

@ninomaehajime

神は世界を創り、悪魔は昆虫を創った。

 乾いた荒地が太陽に灼かれていた。かつて広大なブドウ畑が敷かれていた土地も痩せ細り、厳めしい頭状花序で武装したヤグルマギクが孤独に棘を突き立てている。北風ミストラルに削られた岩肌の山並みが見下ろす荒野を、砂煙とともに一台の車が走っていた。

 全体的に丸っこい形をした、どことなく愛嬌のある軽自動車だった。お世辞にも安定した走行とは言えず、モノコック構造をしたフレームががたがたと揺れ、黄色い塗装には錆色が混じっている。助手席側のドアは破損して丸ごと外れており、すかすかになった助手席から革のブーツが片足だけはみ出している。揺れるに任せた靴のつま先が時折小石を蹴り上げるが、乗車している者は気にした様子はない。

「コノハ、たまにはあんた運転代わりなさいよ」

 運転席でステアリングホイールを握った運転者が仏頂面で言った。その簡素な車内は窮屈で、センタートンネルで区切られた運転席の足元には小さい足がすっぽり収まっており、黒いシューズがオルガン式のペダルを踏んでいる。

「運転できるのはきみだけでしょ、ローズ。また車が壊れてもいいの?」

 チョークレバーの向こうで同乗者の少年が答えた。まだ十代半ばの容姿で、黒に近い褐色の髪をしている。枯れ葉色のモッズコートを羽織っており、狐色をした毛皮のフードが首の回りを覆っている。下に履いているのは、色褪せて膝が擦り切れた古いジーンズだった。

 その手元には、大判の本が開かれていた。酷く褪色たいしょくしたカラーの頁で、その中には翅を広げた昆虫の写真が写っている。学名や分類などが下に表記されていた。会話しながら、その右目には鱗翅目りんしもく蝶・蛾パピヨンの色鮮やかな翅が映し出されている。

 少年は顔に傷を負っているのか、すっかりくたびれて薄汚れた包帯を左目に巻いている。後頭部で結んだ結び目のあまりが砂混じりの風にはためいていた。

「それはあんたが走っている最中にドアを開けるからでしょ。そのせいでそっちの翅がもげちゃったんだからね」

 金髪を赤いリボンで蝶々結びにし、あらわになったおでこの際から飛び出した二本の前髪を逆立てながら、運転手の少女は叫ぶ。裾に白い帯状の模様と赤い斑紋をあしらった、丈の長い黒のケープを纏っている。はみ出した足は細くて白い。

 自分より少し年下に見える少女の抗議を、コノハと呼ばれた少年は受け流す。

「珍しい虫の抜け殻があったから、つい気になって」

「だからって、森の中でドアを開けるなんて馬鹿じゃないの」

 少年少女が乗る軽自動車は、元々は東洋の島国で生産されていたもので、他の車種では見られない前開きのドアだった。自殺ドアとも呼ばれ、走行中に開かれると風圧で全開になってしまい、結果として木の幹に助手席のドアが丸ごともぎ取られてしまった。

「ぼくの心配もしてよ。危うく上半身がちぎれるかもしれなかったんだから」

「あんたのはジゴウジトクでしょ」

 隻眼の少年は飄々ひょうひょうとして、昆虫図鑑から目を離さない。ローズという名の少女はため息をついた。

「何でそんなに虫が好きなのよ。あんな、気味の悪い……」

「生態が興味深いからね」

「あたしたちは生きてる虫を見たことがないでしょう」

 他愛のない会話をしていると、荒野の地平線に沿って何か平べったい遮蔽物が延びているのがガラス越しに見えた。三メートルほどの高さの朽ちかけた網目から、向こう側の景色が透けている。

「何あれ」

 小柄な彼女は背丈が足りず、首を伸ばす形で覗きこむ。ローズの疑問に目線を上げた少年が答えた。

「あれは金網だね。何かの境界線だったのかもしれない。どこか迂回して通れる場所を……」

 コノハの提案に金髪の少女は鼻を鳴らした。強くアクセルペダルを踏むと、計器の速度メーターが急速に上がっていく。

「ローズ?」

 見る見るうちに近づいてくる金網を目にして、彼は焦った声を出した。

「ちょっと、止め」

 言い終える前に、ラゲッジドアがついた車の丸い鼻面が金網を突き破った。大きな目を思わせるヘッドライトの割れた破片が飛び散り、シートベルトをしていないふたりの体が大きく跳ねた。

 わずかに浮いた十インチタイヤの接地をモノコック構造の外骨格が受け止める。そのまま何事もなかったように走行を続ける車内の助手席で、顔に包帯を巻いた少年は昆虫図鑑を抱きかかえていた。

「いくら老朽化していたとはいえ、無茶だよローズ」

「あんなのであたしたちを閉じこめられるだなんて、考えが甘いのよ」

 誰に対して言っているのか、少女は不敵に笑っていた。今度は少年がため息をつく番だった。

「全く、車を大事にしてるんだか、してないんだか……」

 ふと彼が丸見えになった助手席から外の景色を眺めると、小石とタイムの茂みが散見される荒野の中に、奇妙な大岩と痕跡があった。まるで硬い地面を掘り起こしたような土の盛り上がりがあり、一対の似た形をした黒い奇岩が向かい合っている。

 全体的にずんぐりとした曲線を描き、片側から見て節くれ立った細い支えが三本接地しており、前の一本には分厚い鋸歯きょしがある。岩の先端部分は細く、長い髭に似たものが飛び出している。最も膨らんだ中央の背には、三本の厳めしい突起物が突き出ていた。

 もし彼らが本物の動物を目の当たりにしたことがあったなら、牡牛の角を連想しただろう。

 もう片方は色や形は近いものの、それほど物々しい角は具えていない。半ば身を地面に埋めながら、やはり太さに比べて細長い支えが伸びている。視認できるのは二本だがどうやら対になっているらしい。両方とも同じ構造ならば、六本のあしが重量を支えていることになる。

 地上に出た奇岩が見下ろす形で、穴に身を埋めた岩と小さな先端部分を突き合わせていた。まるでお互いに見つめ合っているようだと感じた。

 その奇岩群を目で追っていた少年に、黒いケープの少女が低い声で言った。

「……この辺りは、あいつらは少ないね」

 ステアリングホイールを握った手の力が強まる。後方に遠ざかっていく大岩を振り返りながら、彼は言った。

「この辺は人間が少なかっただろうからね」

 その返答に少女は顔をしかめた。

「あんた、嫌なことを言うわね」

「何が?」

 緩やかな雲の流れの下で、黄色い車は荒野を突き進んでいく。その途中でも、明らかに不自然な物体が見受けられた。先ほどのものよりずっと小さく、二本の節目がある三つの連なりの岩が、やはり六本の細長い肢に支えられている。大角の代わりに、透明な板状の構造体を中央に具えていた。頭を垂れた先端には、地面をまさぐる二本の突起物が飛び出ている。

 いずれも似て非なる姿をしたものが群れをなしていた。腰が広く、腹に刷毛はけを帯びている。反対に腰が紐のようで、突飛な形状をしたもの。黄色と黒が帯状の模様を描き、あるいは全体が黒くて腹部が赤らんだものもある。泥を捏ね上げて建築されたとおぼしき徳利やドーム型に近い構造物が、荒れ果てた荒野に多数散見された。

「あれはモンハナバチ、あっちはハキリバチ、こちらは……ヌリハナバチ、ツツハナバチ。マクロセールハナバチとヒゲナガハナバチ……」

 奇岩群を眺めながら、コノハはぶつぶつと呟いていた。その隣で少女は処置なしと言わんばかりに小さく首を振っていた。

 そのときだった。大きな震動が車両を襲った。車体だけが揺れているのではなく、大地そのものが揺らいでいた。同時に進行方向の地面が陥没し、金髪の少女は反射的にフットブレーキを踏んだ。十インチタイヤが土を削り、黄色い車が前のめりになる形で急停止する。

 およそ一分ほどだろうか。震動が鎮まるまで、ふたりは車内で身を硬くしていた。目前には砂利混じりの土を呑みこんだ大穴が開き、土砂の欠片が落ちていく。直径十メートルを超えた穴は暗く、底が見えない。遥か奈落に通じているかに思えた。

 ようやく揺れが収まり、少女は胸を撫で下ろした。ステアリングホイールにおでこを預ける。

「……危なかった」

「間一髪だったね」

 助手席の少年はまた昆虫図鑑に目を戻していた。生命の危機だったというのに、呑気なものだ。少女は馬鹿馬鹿しくなって運転席のシートに体重を預けた。

「最近、地震ばっかで嫌になるわ」

「あれらが地上に這い出てきたときに、地殻がぼろぼろになっているんじゃないかな。安全運転で頼むよ」

 気楽に言う少年を横目で睨み、ローズはシフトレバーをRに入れて慎重に車を後退させる。陥没した穴を大きく迂回し、進行方向を変えてクラッチペダルを踏んだ。斜めに切り取られた車両後部の縦スリットから暖気を噴き出し、愛車を再び発進させた。

 その後は余震などもなく、旅は順調だった。景色は移ろい、剥き出しの岩肌をした連峰からさらに遠くにはなだらかな独立峰が望めた。山頂までの高さはそれほどではなく、代わりに起伏に富んでいる。緑に覆われているものの、石灰岩の無骨な山肌が見え隠れしていた。

 比較的平坦な地形に出て、荒野を貫く直線の人工物が現われた。二本の長い線が平行し、そのあいだに等間隔で枕木が敷かれていた。左右の鉄材は赤錆び、砂塵に覆われている。

 助手席から半身を乗り出して、並走する構造物を少年が見下ろす。

「ちょっと、危ないでしょ」

「これは線路だね。これに沿っていけば、たぶん町に着くよ」

 少女に片手で襟首を掴まれ、強引に車内へ引き戻される。コノハは気にした様子もなく、運転手に尋ねた。

「寄っていくの?」

「そうね。補給もしなきゃだし」

 片目の少年は肩越しに後部座席を振り返った。中身が浮き出るほど詰めこまれた大きな革袋の口からは、完全密封されたブリキの容器やらイワシらしい絵が描かれた缶詰がはみ出ていた。多くは錆びついており、とうに消費期限は過ぎているだろう。大半が食料や水で、そのあいだに挟まる形で包帯の替えや鋏、ナイフ、登山ロープなどの実用品が収まっている。先ほどの地震で、座席の下をオイル・サーディンの赤錆びた缶詰が転がっていた。

 その隣に寄り添う形で、ブリキでできた横長の胴乱どうらんが立てかけられていた。昆虫や植物を採取する容器で、肩掛けの紐がついている。さらに少年が各地で集めた本が積み重ねられていた。『自然科学年報第四巻』『甲殻類および昆虫に関する一般および特殊の自然史』『昆虫学覚書』『種の起源』『昆虫学的回想録』……。

 さまざまな物資に追いやられて、摩訶不思議な器具が肩身を狭そうにしていた。形は角灯ランタンに似ており、金具の把手とってがついている。透明な硝子の中には、燈心の代わりに小さな横木が入っており、菌糸を張り巡らせた菌類の子実体、すなわちキノコの柄が生えていた。全体的に暗褐色をしており、閉じた傘の下の白いひだが見え隠れしている。

 ローズはこの珍品を角灯と言い張っている。密閉された容器の環境下で腐らずにいるキノコを、コノハは常々不思議に思っていた。

 後部座席の状況を確認して、彼は向き直った。

「……まだ余裕はあるんじゃない?」

「何言ってんの。食料はいくらあっても困らないし、生き残りがいるかもしれないでしょ」

 左目に包帯を巻いた少年は、何とも複雑そうな表情をした。腹が膨らんだ革袋を一瞥して、小さく呟く。

「小さな理性の光よ。おまえは闇と隣り合わせだ。おまえはゼロだ」

「何をぶつぶつ言ってんの」

「いいや、何でも。じゃあ寄ってみようか」

 荒野をわかつ線路に沿って、少年少女を乗せた黄色い車は小さな缶詰を転がしながらひた走る。向かう先には平地から大きく盛り上がった独立峰に見下ろされ、大地を縦断する広大な河が流れていた。そのほとりに、全長四・三キロメートルの城壁に囲まれた町がある。


 

 黄色い愛車のそばで黒いケープの少女が見上げた先には、セミの抜け殻があった。半ば透けた茶褐色をしていて、太い腿節を有する前肢のふ節で時計台の頂上にしっかりとしがみついている。その華美な彫刻と停止した時計盤のあいだには、男女のからくり人形が向かい合っていて、当時は時刻を知らせる鐘の音とともに動き出したことだろう。

 時計台を支えるネオルネッサンスの大きな建物は、半分以上が踏み潰されたメリーゴーランドを有する広場に面している。かつては、この町の決まり事を取り仕切っていたのかもしれない。正円アーチの玄関は破られ、ミツカドツツハナバチやラトレイユツツハナバチといった膜翅目まくしもく、すなわちハチの仲間が触角と大腮おおあごを殺到させている。小首を傾げているかに見える、その頭部だけでも一抱えはあり、体長は一メートルに迫るだろう。それらが何十頭とコリント式の柱身や朽ちた外壁を縦横無尽に這い回って、光を失った複眼が少年少女の姿を無数に映し出されている。

 これらのツツハナバチは他のハナバチが造った古巣などを利用し、泥や植物の樹脂で簡単な仕切りを造る。人類の建造物であっても、習性は変わらないらしい。多くの窓が泥や緑色の塊で塞がれていた。

「力は権利に優る、か」

 モッズコートの少年は呟く。隣の少女は怪訝そうな表情をした。

「また本の受け売り?」

「いや……誰かがそう言ってた気がする。思い出せないけど、たぶん嫌なやつ」

 コノハが曖昧に答えた。ローズは片眉を跳ねただけで、それ以上追及しなかった。

 今からそう遠くない時代、未知の巨大生物による襲撃があった。突如として各地の地中から這い出てきたそれらは、節足動物門、すなわち既知の虫に酷似していた。異なるのは全てが赤い眼を爛々と輝かせており、本来は数ミリほどの大きさの虫が、人間に比肩するか、全長十数メートルと圧倒的な体格差をもって襲いかかってきたのである。

 最初に出現したのはケラの類であったという。従来の虫の醜悪な戯画カリカチュアであるそれらは地上に空いた穴から次々と出現し、本来の食性に関わらず、全ての人類を捕食対象とした。チョウが、ハチが、コガネムシが、バッタが、ハエが、カマキリが、クモが、前肢で逃げ惑う民衆を捕らえ、大腮で砕き、体外消化で溶かし、長い口吻で人体が干からびるまで体液を吸った。その肥大した体長にふさわしい「吠える胃袋」によってあらゆる地上の動物を貪った。

 無論人類も無抵抗ではなく、各国は持てる限りの軍備で対抗した。しかし巨大生物群は無数であり、その外骨格はあらゆる兵器を受けつけなかった。いとも容易く銃弾を弾き、ミサイルや砲撃に耐え、化学兵器をも無効化した。地上を何度も焼き払えるという大量破壊兵器を有した大国でさえ、まるで歯が立たなかったのだ。

 極めて危険な巨大昆虫の群れを前に、金髪の少女は何ら臆した様子はなかった。ただ不愉快そうに顔をしかめ、見上げていた目線を移す。広場も惨憺たるものだった。かつて日陰を作っていたパラソルとテーブルの残骸を、色とりどりのタマムシたちが押し潰していた。翅鞘ししょうが瑠璃色の輝きを纏ったもの、赤銅や青銅の光沢を帯びたもの。それぞれが縞模様や斑点をもってその宝石を飾り立てている。ある個体の頭上では、この町に吹き荒れた暴虐をまぬがれた古いカシの木が伸びていた。その根元にはアレチヒゴサイタイコの刺々しい頭状花が咲いている。

「あれ、何をしてるの」

 老木となったカシの樹冠に潜んで、一頭のハチが身を乗り出していた。細く腰がくびれた体に黒と黄色の衣裳を纏い、その大きな複眼で、翅鞘の先端に瑠璃色をした三本の波線があるオウシュウナカボソタマムシを凝視している。

「たぶん狩ろうとしていたんだろうね。図鑑の通りなら、あれはタマムシツチスガリと言って、タマムシを幼虫の餌にする狩りバチだから」

 その疑問に、肩を並べた少年が答える。金髪の少女は「ふうん」と興味なさげに下唇を突き出した。

「虫も喧嘩するんだ。そのまま共食いすればよかったのに」

 憎々しげに吐き捨てて、そのまま背を向ける。どうやら別種の昆虫だとは考えていないらしい。コノハは肩をすくめ、狩人とその獲物を観察する。眩しい日差しの下で今まさに狩りが行なわれようとして、双方の動きは静止している。まるで時計台の盤面と同じく、針が止まったかのようだ。

 その背中には、セミの抜け殻とよく似た裂け目があった。わずかに覗く内部には暗い空洞しかない。時計台広場に存在する全ての虫が同じだった。外骨格に躍動感を残したまま、脱皮殻だけがその場にとどまっている。

 昆虫図鑑を何度も読み返している少年の目には、とても奇妙な光景に映った。翅を有した成虫は羽化を終えており、本来ならもう脱皮を行なうことはない。少なくとも、彼らは生きて活動する虫を目にしたことがなかった。先刻車内でローズが言った通りだ。

 脱皮が行なわれたのは相当昔だろう。すっかり蔓草や地衣類に侵食された抜け殻も多々見受けられた。そのおかげで、人類を貪り尽くしたという怪物に襲われずに済むのだから、虫好きな少年にとっては複雑な心境である。

 背後で少女の大声が響き渡った。

「誰か、いませんかあ!」

 廃墟の町に着くたびに行なわれる恒例行事だ。肩越しに振り返ると、金髪の少女が両手を口に当てて叫んでいる。コノハはかすかに嘆息した。

 彼女の呼び声は城壁に囲まれた町に空しく反響した。時計台広場の奥に剥き出しの岩に挟まれた小道があり、その先にはかつて教皇庁広場と呼ばれた場所に出る。そこでは要塞を想起させるゴシック様式の宮殿と、金色の聖母像を鐘楼にいただく大聖堂が聳えていた。歴史地区とも呼ばれた史跡は、赤い鞘翅に七つの黒斑を持つナナホシテントウにびっしりと覆われていた。どこか愛嬌のある外見の甲虫には、例外なく翅の隙間に裂け目が生じている。

 聖母像は首から上を失っており、雄大な山容を背景にして、白い翅に黒い縁取りがあり鮮紅色の斑が見目麗しいアポロチョウが鎮座していた。清流を越えた先にある砂地の丘の上には、何の材料でできているかわからない球体を長い後肢で転がそうとした姿勢のまま、糞虫のスカラベ・サクレが静止している。

 歴史地区をさらに奥へと向かい、崩壊した美術館の前の路地を行くと、虫たちの猛攻にさらされた城壁を抜け、長い河のほとりに出る。碧く染まった川面を跨いで、四つのアーチに支えられた水道橋があった。といっても対岸には届かず、比較的原型を保ってはいるものの、カベヌリハナバチたちの泥でできた巣が橋の上を占拠していた。

 古色蒼然とした町並みの至る所に虫の抜け殻が残され、人々が暮らした生活の名残りは風化していた。もう動くものもない町の真ん中で、少女は二本の前髪を萎びさせて肩を落とした。

「やっぱりだめかあ」

 意気消沈とする彼女を少年が慰める。

「まだ諦めるのは早いよ。この町は随分と形が残っているし、どこかに生き残りがいるかもしれない」

 口ではそう言いながら、彼はその可能性を全く考慮していなかった。おそらくは今まで旅をしてきた町や都市と同じく、人間は虫たちに食い尽くされてしまったのだろう。

 ただ彼は、生き残った人類を探すのが自分の使命だと信じる彼女の意向に合わせているだけだ。他者を嫌う少年にとってはどうでもよく、むしろ見つからなくてもいいとまで考えていた。

 もっともローズの前では、口が裂けてもそんなことは言えないのだが。

「そうね。これぐらいでへこたれるわけにはいかないわ」

 たちまち元気を取り戻す二本の前髪を見て、コノハは苦笑した。落ちこんでいたかと思えば立ち直るのも早く、見ていて飽きない女の子だ。

 モッズコートのフードが強く引っ張られた。

「さあ、探索するわよ」

「わかったから、引っ張らないで」

 黄色い車に乗りこむ少年少女を、抜け殻の輝きを失った複眼が見送る。



 染め物屋通りと呼ばれた、石畳の散歩道の片側には細い川が流れており、当時の住民が染め物を洗ったことでその名がある。解体された水車の痕跡があり、水棲昆虫であるトビケラの幼虫が多くの木片が粗雑に組み合わさった筒巣とうそうに身を包み、静かに水面を浮いていた。

 川底から拾ってきたであろう、黄色いビロードを着たアヒルの玩具や水桶に加え、頭蓋骨といった人骨が巣の材料に嵌めこまれていたが、コノハはあえて少女に伝えることはしない。

 車を降りて、無人の散歩道を歩く。緑藻類が繁茂する川に隣接しているためか、本来は水中に生息しているはずの昆虫たちが多く見受けられた。トンボの幼虫であるヤゴが縦横無尽に徘徊した痕跡が石畳に残され、どこからか飛来したのか、明らかに川幅より大きいゲンゴロウがその巨体をもって煉瓦造りの建物を一棟押し潰しているさまは圧巻だった。

 まだ人間が平和に暮らしていた時代、この地方には幼い子供たちに話して聞かせるおとぎ話があった。水辺には火を吐く怪物が棲み、人を取って食うと。

 水の中から這い上がってきた異形を目の当たりにして、人々は思い出したかもしれない。それらは地中に宝物を隠さないし、火も吐かないが、人間を餌食とした。すなわち――ドラックと。

 怪物が上陸したために川に面する通りの縁は欠け、あるいは大半が崩落して多くの瓦礫が水の中になだれこんでいる。とても車では通行できなかっただろう。別の道を探すか否か、コノハに相談しようとして、ローズは彼の不在に気づく。

「また、あいつったら」

 金髪の少女は毒づく。ボヘミアンのように放浪癖のある少年に辟易しながら、辺りを見回すと、ほどなくして見慣れた枯れ葉色のコート姿を発見した。先ほど通り過ぎたアパルトマンと呼ばれる集合住宅の前に佇み、じっと上を見上げている。

 肩を怒らせて大股で戻り、ローズは文句をつけた。

「勝手にいなくならないでって、いつも言ってるでしょ」

 彼女の怒りにも無頓着で、アパルトマンの上方を指差す。

「ローズ、あそこにあるものがわかるかい」

 彼の指先に釣られて、黒いケープの少女はしかめっ面のまま見上げた。四階建ての集合住宅で、黄土色の漆喰は大部分が剥落し、突然の闖入者によって壁を食い荒らされ、長年の風雨にさらされた室内の朽ちた内装が垣間見えた。

 各階の個室に備えられた木枠の窓から、かつて川の流れや人々の往来が眺められたことだろう。住民が身を寄せ合って暮らしていたという建造物は、コノハによって無理やり見せられた図鑑のミツバチの巣を想起させる。

 緑がかった川面を見下ろす集合住宅の前で、ふたりの背中が揺れている。少しのあいだ穏やかなせせらぎが聞こえて、少女は降参した。

「何にもないじゃない」

「もっとよく見て。ほら、あそこだよ」

 執拗にうながしてくる少年にうんざりしながら、ローズは手をかざして日除けを作った。眉を寄せて目を細めると、形が不揃いなガレットのビスケットを思わせる壁面の残骸に、不自然な正中線の亀裂が走っている。

 まるで騙し絵だ。今にも剥がれ落ちそうな壁面が見る見る盛り上がって、大きな翅を広げた輪郭が浮かび上がってきた。

 ローズは仰け反って驚きの声を上げる。

「わ、わ。何かいる」

「ガの仲間だよ。周囲の色に擬態してるんだ」

 聞き慣れない単語に、少女は小首を傾げた。

「ギタイ?」

「自分の体を周囲の色と同じにして、天敵の目を誤魔化すことさ。もっとも、人工物に擬態する種なんて初めて知ったけど」

 ローズは感嘆の息を漏らす。改めてアパルトマンを仰ぐと、翅を広げたガの擬態は完璧に近い。左官職人が施した漆喰塗りの濃淡でさえ模倣している。脱皮した痕跡がなければ、ガの姿を認識することはできなかっただろう。

「やっぱり変だ」

 コノハが言った。

「変って?」

「虫は古い皮を脱いで大きくなる。だけど蛹を経て、羽化した成虫はもう脱皮しないはずなんだ。少なくとも、ぼくが知っている限りでは」

 最後は尻すぼみになった。文献だけで得た知識だから自信がないのだろう。橙色の瓦屋根の上で、細長い腹部を伸ばして翅を休めるトンボが彼らを見下ろしている。

「成虫も幼虫も関係なく、ぼくらが見てきたのは抜け殻だけだ。中身はどこに行ったんだ?」

 珍しく難しい顔をするコノハをちらっと見て、金髪の少女は言った。

「見た目が似てても、あんたが知ってる虫とは違うんじゃない。だって、いつも読んでる図鑑の虫って、普通はこんな大きさなんでしょ」

 人差し指と親指で小さな何かをつまむ仕草をする。そのまま指のあいだから、虫レンズで覗くようにガを観察する。壁面の残骸に止まった鱗翅目の昆虫は、背胸部から腹部にかけて数十センチの断裂が刻まれ、その空洞が生命の不在を伝えている。

「世界を滅茶苦茶にした化け物を、とりあえず虫と呼んでるだけよ。考えるだけ無駄だわ」

 ばっさりと切って捨てる。隻眼の少年は苦虫を噛み潰した表情をした。

「じゃあ、元の小さな虫たちはどこに行ったのさ」

「さあ。化け物に食われたんじゃないの。あいつら食うだけ食って、地底に帰ったのかもよ。はた迷惑な話だわ」

 鼻を鳴らし、彼をうながす。

「こんなのにかまけてないで、とっとと行くわよ」

 少女がアパルトマンから歩き去ろうとする。渋々その背中についていこうとして、漆喰塗りの壁と同化したガを振り仰いだ。首に天鵞絨ビロードを巻き、枯れ葉の外套を広げた模倣者は、濁った水面に虚像を映していた。

 呼び声に急かされ、モッズコートの少年は裾を翻した。



 過去に旧市街と区分された地域の真ん中には、あらゆる生鮮食品、パンやワインを取り揃えた中央市場があった。屋根が設けられ、特色だった垂直庭園が繁茂してすっかり四角形の建物と周辺を緑色に覆い尽くしている。この町の胃袋とも謳われた市場の上には、大食漢のカオジロキリギリスが鎮座していた。

 でっぷりと肥っていて、縦筋の模様が入った灰褐色をしており、何でも噛み砕きそうな大腮とは裏腹に白い顔が滑稽だった。長く折れ曲がった後肢と鋭い棘を具えた短い前肢が、捕食性の直翅目ちょくしもくであることを示している。

 その足下には、翅の短いコバネギスやツユムシ、イナカコオロギといった直翅目の昆虫をたくさん従えている。彼らは前翅に具えた弓の歯で右前翅の太鼓を弾くという、人間からしてみれば異色のバイオリニストである。少し離れた場所で、オリーブの木の幹に止まったオオナミゼミが沈黙している。彼もまた、後肢のすぐ下に開閉可能な腹弁があって、その内部には礼拝堂にも例えられる共鳴器を有しており、高らかなシンバルを奏でることができる。

 これらが生きていれば、さぞ豊かな交響曲が響き渡ったことであろう。足元まで茂った芝草を踏みしめながら、ローズはその独創的な音楽を聴いた気がした。

「みんな、たくさん歌ってるよ。楽しそう」

 耳の奥で幼い声が蘇った。たどたどしく、声が弾んでいる。女の子のもので、誰の言葉か思い出せない。自分にとって大事な子だった。そんな気がする。

 しばらくのあいだ、ローズは聴こえもしない音楽に耳を傾けていた。そんな体たらくだから、一緒にいたはずの少年がまたいなくなっていることにも気づけなかった。

 少し時間を遡って、心ここにあらずの少女に、コノハが怪訝そうに呼びかけた。

「ローズ、どうしたの?」

 名前を呼んでも反応しない。何度か繰り返して、モッズコートの少年は肩を落とす。何だよ、自分だってかまけているじゃないか。

 まあ、いいや。別に急ぐことではない。彼女が我に返るまで、自分も辺りを見て回ることにした。中央市場の成長した垂直庭園が長い年月をかけて、マカダム工法の街路や切り石でできた老舗の店舗を侵食している。シロツメクサやムラサキウマゴヤシといったマメ科の植物が這いずり、無様に肥え太ったハナヂハムシの幼虫の群れがうずくまっていた。植物食の昆虫にとっては天国だったに違いない。その溢れる緑の中でじっとしている、眩しい黄色の軽自動車は少し浮いていた。

 長い鼻の頭を垂れたショウリョウバッタの傍らを通り抜け、彼は足を止めた。瓦屋根から蔓性の植物が垂れて、恥ずかしがり屋のオトシブミがわずかに顔を覗かせている細い路地に、奇妙な痕跡を見出した。立方体の石を敷き詰めた舗装路が不自然に盛り上がって、少年の肩幅よりずっと大きな土の紐を露出させている。何かが道の下を掘り進んだのだ。

 興味を惹かれたコノハは、隆起した跡を跨いで小道に入りこんだ。蛇行した土の紐自体は長く続かず、すぐに路地を抜けた。廃墟となった家々が並ぶ通りの向こう側に、傾きつつある西日の逆光となって、高い円天井の屋根が見えた。その輪郭からして、小規模な教会だと思われた。

 その円い屋根の上に、大きな甲虫の影が見えた。コノハは目を凝らし、その正体について考察を巡らせる。

「あれはマツノヒゲコガネ、かな」

 短い触角の先に大振りな羽根飾りがついており、扇状に広がっている。その派手な装いから推定できたわけだが、どうにも様子がおかしい。何者かと争ったのか、右の前肢が腿節から欠けており、片方の触覚も失われていた。屋根の曲面に沿って逆さまの姿勢を取っている。真下にある何かを窺っているかに見えた。

 何を見下ろしているのだろう。何事にも好奇心が優先される少年は、その教会の下へ行くことにした。同行者のことなど忘却の彼方に追いやって、閑散とした通りに足を向けた。

 そのローズは忘我から立ち直った。慌てて周囲を見回す。案の定というべきか、少し離れた場所に停められた愛車の姿しかない。彼女は舌打ちした。

「あいつ、またどっかほっつき歩いて」

 自分のことを棚に上げ、大股で歩き出す。カオジロキリギリスの楽団に背を向けて、あの声の主は誰だろうと思いを馳せながら。

 コノハが半壊した町の通りをゆったりとした足取りで進んでいく。近づくにつれて、円屋根の天井に停まったコガネムシの姿が明瞭になっていく。太陽を受けて栗色の翅鞘に白い斑点を密に散らした、渋いながらも味わい深い衣裳を身に纏っている。

 さて、虫に尋ねることにしよう。おまえはいったい何を見ているのだ?

 昆虫学者の大家を気取りながら鷹揚おうようと歩を進めていたとき、ずっと後ろから怒声が飛んできて思わず舌打ちした。随分とまあ、間が悪いじゃないか。

 うんざりしながら振り返ると、黒いケープの少女が二本の前髪を逆立てて向かってくるのが見えた。怒っているのは明白だ。

 お互いにどう言葉をかけるか考えていたとき、ふたりの足元で同時に大きな衝撃が突き上げた。町全体を慄かせる震動に体がよろめき、立っていられなくなる。ローズはどうにか声を上げようとして、モッズコートの少年が立っていた場所が崩落するのを目撃した。

 一瞬コノハと目が合って、周囲の家屋と一緒に彼の姿は地中に呑みこまれた。緩くなっていた地盤の崩壊は地震とともに広がり、町の中心に大穴を穿っていった。地鳴りが収まるまで、四つん這いのまま彼女は呆然としていた。

 やがて静寂に呑みこまれた町で、ローズは悲鳴じみた声を上げた。

「コノハ」

 少年を引きずりこんだ大穴の縁まで駆け寄る。その余韻で小さな瓦礫が転がり落ち、つんのめる形で足を止めた。ちっぽけな少女の足元で広がる、途方もない暗闇は横たわる巨人の大口にも思えた。旧市街の一画を貪り尽くしてなお、その口腔の深さは底が知れない。

 どうしよう。ローズの頭の中で、その一語だけが繰り返された。彼を助けなければ。しかし、どうやって。転がり落ちた石礫せきれきが響いた音からして、相当深いはずだ。大怪我どころか、生きている保証さえない。

 碧眼を揺らしながら、頭を抱える。不可解な既視感を覚えた。前にも同じことがあった気がする。手を伸ばした誰かを助けられず、自分は置いていかれた。

 もう独りは嫌だ。

 金色の前髪を凛と跳ねて、ローズは立ち上がった。一旦巨人の口から背を向け、緑が茂る中央市場に急いで戻る。そこには黄色い愛車が停まっていた。後部座席を開き、上半身を突っこんで食料品が詰まった革袋を探る。錆びた缶詰や水筒といった物資が次々と車外に放り出される。

 あった。彼女の手の中には、頑丈に編まれた登山ロープが握られていた。今まで立ち寄った町の登山店で物資を集めていた際、いつ使うかも想定しないまま革袋の中に放りこんでいたものだ。

 両手でロープを引っ張って強度を確かめ、そのまま車を離れようとする。後部座席の隅に置かれていた、例のキノコが入った角灯が目に入り、その把手をかっさらった。

 そのまま中央市場から不規則に盛り上がった小径を駆け抜ける。屋根の上から、首を伸ばしたオトシブミが心配そうに見送っていた。

 大穴の前に戻ると、どうにか崩落をまぬがれていた消火栓の胴に登山ロープを巻きつける。しっかりと結び、ほどけないことを確認して穴の縁まで引っ張った。改めて穴を見下ろすと、それは底なしの虚無だった。体の震えが下から上へと駆け巡り、肩で息をする。

 どうにでもなれ。ローズは角灯の把手を口に咥え、後ろ向きに大穴へ身を投じた。両手でロープを握り締め、闇の奥へと降りていく。やがて日差しが遠のいて、暗闇の密度が濃くなると、角灯の中に形成された子実体の傘がひとりでに反り返った。胞子を散布する襞の部分から、青白い灯りが発せられて穴の底へと向かう少女の体をぼうっと包んだ。

 容器の中に入っていたのは、オウシュウツキヨタケという種類のキノコであった。担子菌門たんしきんもんに属するかのキノコは、ランプテロフラビンという物質によって発光する。本来の光量は微弱なものであり、闇夜の中でようやく認識できる程度のものだ。角灯の代用品にできるはずもないのだが、必死にロープを握り締めるローズには考えを巡らす余裕もない。

 青ざめた光の外側は凝縮された暗黒で、目の届く範囲は巻き上げられた砂塵が泳ぐばかりだ。この大穴には底がないのかもしれないと、不吉な想像ばかりが頭をよぎる。頭上を見上げても、小さくなっていく地上の光が見えるだけだ。

 固定されていない体は揺れ動き、深海のクラゲがごとく光も揺らめく。心細さで胸が締めつけられた。

 だから靴の底が着地した感触を得たとき、大いに安心感を得た。それでも用心深く、地上から垂らした登山ロープを握ったまま足のつま先で周囲を探る。少なくとも自分ひとりを支える土台があると判断すると、口に咥えた角灯を手に持ち替えた。

 落下したコノハの姿を探そうとして、ツキヨタケの光を内包した角灯を掲げたとき、すぐ間近に睨みつける眼が照らし出された。予想外の光景に彼女は仰天し、悲鳴とともに尻餅をついた。

 震える手で角灯の灯りをかざすと、異形の姿が浮き彫りになる。その体長は五メートルにも達するだろうか。褐色をしており、外殻を産毛にも似た体毛が覆っている。卵形に膨らんだ頭部には触角が伸び、複雑な翅脈が刻まれた四枚の翅が重なって、二本に枝分かれした尾毛を有する腹部にまで達する。全体的には楕円に近い体形を捻って何かを振り払おうとしている。

 何よりも特徴的なのはその前肢だ。他の細い肢と比べて筋肉が太く発達し、脛節には複数の突起を備えていた。開掘脚と呼ばれる構造で、明らかに地盤を掘り進む形状をしている。全身に土砂がこびりついているのもその証左だろう。

 さらに異様なのは、その昆虫の上に跨るもう一頭の膜翅目の存在だ。細身の体ながら頭部の大半を占める複眼を有し、厳めしい大腮は左右に大きく開いて、見る者を威圧している。黒みがかった衣装を纏っており、腰回りには赤い帯を巻いていた。

 そのハチは自らより二回りほども体格差のある怪物に果敢に躍りかかり、四枚の透明な翅を広げ、背胸部に六本の肢でしがみついて柔軟に可動する腹部を潜りこませようとしている。その尾部の先端には、人体など容易く貫通してしまうであろう刃針ランセットが妖しい輝きを帯びていた。

 死闘を繰り広げたまま時が止まった、二頭の異形を前にローズは息を止めていた。わずかな刺激で今にも暴れ出しそうで、体が硬直していた。

「――オウシュウケラとオニトガリアナバチだね」

 背後から聞き覚えのある声がして、思わず彼女の肩が跳ねた。

「ケラ科の獲物を狩るアナバチの仲間だ。彼女がケラを追跡しているあいだにこの辺りの地盤が穴だらけになって、そのせいで崩れたんだろうね」

 ぎこちない動きで、ローズは背後を振り返る。青白い角灯の灯りに照らされたのは、瓦礫の山の輪郭を背負って、右目を赤く輝かせた少年が佇む姿だった。

「コノハ」

 少女は叫ぶ。

「あんた、生きてるの」

 何十メートルも落下したはずのコノハは、少なくとも五体満足だった。枯れ葉色のモッズコートは土埃にまみれ、裾の部分は落下物に引っかかったのか、無残に縁が引き裂かれている。それこそ朽ちた木の葉に身を包んでいるかに見えた。

 暗闇の中、赤い目をした少年は右手を凝視した。

「ああ、幸いにも」

 その口調は、どこか皮肉そうだった。拳を強く握る。

 心のどこかで覚悟していたのか、ローズの体から一気に力が抜けた。安堵のあまり、目頭が熱くなってくるのを感じる。

「……泣いてるの?」

「泣いてないわよっ。あんたがいないと字が読めないから、良かったってだけ」

 鼻声で答える彼女の言葉にはまるで説得力がない。コノハは苦笑いをしながら軽口を叩く。

「ローズは読み書きができないからね」

 右手をコートのポケットに収め、自然という前衛的な芸術家によって創り出された怪物たちの彫像を眺めた。オニトガリアナバチは昆虫界のモグラと呼ばれるケラの幼生が掘った坑道を利用して地中を進み、鋭く尖った産卵管から分泌される麻酔液によって獲物を麻痺させて卵を産みつける。このオウシュウケラは翅を具えた成虫であり、幼虫の餌には適さない。激しい抵抗に遭い、大捕物になったことだろう。

 前胸部にある運動神経に向かって針を差しこもうとしたアナバチは、そのままの姿勢で背中が裂けている。その下にいるオウシュウケラも同様だ。どちらも成虫でありながら、争いの最中で脱皮が起こったとしか考えられない。 

 倒錯した光景だ。人食いの化け物が従来の本能を取り戻し、狩りの途中で完成されていたはずの皮を脱ぎ捨てる。この理屈に合わない結果が、進化によってもたらされたとでも言うのか。

「――そのへんてこな道具、どういう原理なの」

 少年は胸中の疑念には言及しなかった。ケープの袖で鼻を拭って、ローズは手に握った角灯のオウシュウツキヨタケに目をやる。

「暗いところでキノコが光るのは当たり前でしょ?」

 仄かな青色の灯りに照らされた彼女の顔はきょとんとしていた。この現象には疑問を差し挟む余地がないらしい。

「ああ、うん。そうだね」

 傘を広げるツキヨタケを一瞥し、彼はもう何も言わないことにした。きっとそういうものなのだろう。

「そんなことより、あんた本当に怪我はないの。服を脱いで……」

 彼の身を検めようとしたとき、ふたりのいる地底が大きく鳴動した。また地震だ。少女は悲鳴を上げ、頭を抱えてうずくまった。指に引っかけた角灯の光が激しく揺れる。とっさにコノハは彼女を庇って覆い被さった。

 幸いにも余震だったのか、揺れはすぐに収まった。剥き出しの土の斜面を伝って建材の破片や砂礫されきが転がり落ちてくる。大量の土煙が舞い上がり、少年の腕の中でローズは咳きこんだ。

「もう大丈夫、たぶん」

 しばらく様子を窺って、コノハは身を離した。コートの袖で鼻と口を覆う彼を、金髪の少女は恐る恐る見上げる。涙目になり、震える声音で言った。

「もうやだ。早く、こんなとこから出て……」

 クモの糸にも等しい、地上への唯一の脱出手段であるロープを振り返ったとき、彼女は地盤ごと引き抜かれた消火栓がロープの束とともに落下してくるさまを目撃した。逆さまになり、地面に深く突き刺さっていた。

 絶句する少女に、少年は呑気に言った。

「これ知ってるよ、二重遭難ってやつだ」

 ローズは彼の頬を引っ叩きたくなった。



「そろそろ機嫌を直してよ。こうして横道を見つけたんだからさ」

 自分たちの背丈より高く、頑丈なスコップで刳り貫かれた不自然な坑道をふたりは進んでいた。発光する子実体を抱えた角灯を掲げて、不機嫌そうな少女が先頭に立ち、モッズコートの少年はばつが悪そうに頭を掻いて続く。

 唯一の脱出手段だったロープが目前でとぐろを巻き、ローズは座りこんで途方に暮れていた。そんな彼女をよそに、コノハは道路の切り石や民家の梁などの建材が入り交じる瓦礫の山を精査していた。どこかのベランダに飾られていたのか、観賞用のヤシの木が植わった煉瓦焼きの植木鉢が真っ二つに割れ、萎びた根を露出させた土塊が崩れていた。

「あった」

 少年の予想通り、崩れた土砂や建築物の残骸の隙間に光明を見出した。あのオウシュウケラが掘った、真っ暗な横穴であった。

 やや傾斜がある坑道を、剥き出しの地肌に片手を当てながら進む。金髪の少女は口を開いた。

「……よくこんな暗い場所で見つけられたわね」

 コノハは真っ赤な右目を指差した。

「これでも夜目が利く方だからね」

 その得意げな調子に何だか馬鹿馬鹿しくなって、ローズは深く息を吐く。

「まあいいわ。それで、本当にこの横道は地上へ通じてるの?」

「さあ」

 少女は足を止めて振り返る。眉を険しくして少年を睨んだ。

「あんたね」

「いや、根拠はあるんだよ」

 怒りの眼差しを受けて、コノハは慌てて弁解した。

「根拠って何よ」

「まず、あの二頭の昆虫は脱皮をしていた。だとしたら、中身がどうであれ外に出たはずだ。だとしたら、この横穴を通った可能性が高い」

 再び坑道を歩き出したふたりは問答を重ねる。

「そんなのわからないでしょ。そもそも地下から来たんだから、また潜ったのかも」

「かもね。でも、もう一つあるんだ」

「もう一つ?」

 金髪の少女は首を傾げる。コノハは地上を左手で指差し、右目を赤く輝かせていた。

「あのオウシュウケラも人を襲っていたのなら、この横穴のどれかは地上へ通じているはずだよ。そうでなければ捕食できないからね」

 ローズは思わず横穴の壁から手を離した。この坑道は、人食い鬼が行き来するために掘った洞穴だったのだ。今さらそんな事実に気づき、悪寒が走った。地中から人間を捕らえ、引きずりこむ……。

「どうしたの」

 隻眼の少年は、自分の発言に何の感想も抱いていないようだった。少女の反応に対して怪訝そうにする。

 ローズは彼を恨めしげに睨み、吐き捨てた。

「やっぱり、あんたって嫌なことばっかり言うのね」

「え、何が」

 早足で少年を置き去りにする。コノハは慌ててその後を追いかけた。何が彼女の気に障ったのだろう、と首を捻りながら。

 怪物が掘った坑道は何キロも続いていた。緩やかに曲がりくねり、傾斜も上下を繰り返す。幸い踏破できないほどの悪路はなく、ふたりは道が延びるに従い歩みを進めていた。坑道が二手にわかれるまでは。

 二又にわかれた枝道を前に、少年少女は立ち往生した。どちらが本道であるかわからず、目印があるはずもない。

「どっちに行けばいいのかしら」

 ツキヨタケの灯りで照らしても、地下の坑道を見通すことはできない。難しい顔をする少女の傍らで、コノハは穴の周囲で屈んで何かを探していた。

「あんた、何してんの」

「ぼくらはビュリダンの驢馬ロバじゃないからね。どちらも選ばず餓死するわけにはいかない……お、いいのがあった」

 また訳のわからない喩えを、とローズが渋面を作っていると、モッズコートの少年は左の手に何かを握っていた。掘削作業の途中で巻きこまれたのか、木の根らしい切れ端が握られていた。

「どうするつもり?」

「偉大な機械仕掛けの神に身を任せるのさ」

 大層なことを言って、地の底に切れ端を突き立てる。上部を支えていた手を離した。千切れた木の根は倒れて、左右にわかれた横穴の片方を指し示した。

 彼は笑顔で指差した。

「こっちだね」

「ちょっと待って。結局運任せってこと?」

 金髪の少女は呆れた。

「どっちが正解なんてわからないんだ。偶然に頼るしかないでしょ」

 コノハは鼻歌でも歌いそうな調子で歩き出す。

「若い友よ。そのまま前に進め。何かを成し遂げることができるだろう。ただし、これは出世の道なんかでは全くないのだ」

「それじゃあだめでしょう」

 何かの引用なのか、芝居がかった台詞をそらんじる少年に肩を落とす。実際、ローズにも妙案はなかったのだから、従うより他になかったのだけれど。

 その後も紆余曲折があった。土砂で道が塞がれていたり、掘り抜かれた土の壁から大きな地虫が醜く肥った皮膚をあらわにしていて、ローズを仰天させたりした。十四の体節にわかれた乳白色の体を鉤状にし、三対の貧弱な胸脚を折り曲げていた。蒲鉾型をした白色の皮には繊毛が生えており、皺が寄った背中には瘤が連なる。眼点を有する黒い頭部は強靭な大腮が伸び、切り落とされたかのような先端には三、四本の鋸歯を具えていた。

 飛びのいて壁に張りつくローズとは対照的に、コノハは土に身を埋めた幼虫をつぶさに観察していた。不思議なことに腹面に裂け目が見え隠れしている。

「腹脚がないから……コガネムシの幼虫かな。ねえ知ってるかい、ローズ。ハナムグリの幼虫は地中の外に出ると逆さまになって歩くそうだよ」

「知らないわよ」

 悲鳴に近い声だった。

 円筒型の通路は知らないうちに折り返し、いくつもの支道があった。前に進んでいるのか、それとも堂々巡りをしているかわからず、次第にふたりは口数が減ってきた。太陽の傾きがわからないから、何時間経ったかも定かではない。文字通りの糸口が見つかったのは、道の先に異物が現われてからだった。

「待ってローズ、何かある」

 暗闇を見通す赤い瞳を見開き、コノハが制止する。少女が角灯で先を照らすと、何か刺々しいものがびっしりと生えた物体が浮き上がった。

「何よ、また虫?」

「そうみたいだけど……」

 うんざりとした口調のローズに対して、少年は言い淀んだ。珍しい反応に、彼女は片眉を跳ねる。その正体を確かめてやろうと、さらに近づいた。

 明らかになったその姿は、今まで見てきた抜け殻の中でも異様だった。少女は思わず喉を鳴らす。一言で言い表すのなら、毛むくじゃらの行列だった。高さは子供たちの腰丈ほどで、坑道の奥まで長く続いていて、果てが見えない。

 その黒々とした奔流は枝道の片方から現われ、ふたりの進行方向に向かって曲がっている。黒い皮膚の背中を赤茶色の刺毛しもうが覆い、白く長い毛が混じってくすんだ色合いに見える。八つの体節にわかれて腫れぼったい唇に似た器官があり、内臓がはみ出したかのような薄い瘤が膨れ上がっていた。この奇妙な風船の前には二つの大きな暗褐色の斑点があり、後方には剛毛が二束ほど立ち上がっている。

 体節に不思議な器官を有する虫は、どうやら一頭一頭が規則正しく連なっているらしく、禿げた頭部を垂れて前の個体の尾部にほぼ接している。連結した部分の隙間から、角灯の灯りを反射する何かが垣間見えていた。

「その毛虫に触っちゃだめだよ。まだ毒が残ってるかもしれないから」

 コノハの言葉を聞いて、少女はびくっと身を遠ざける。おっかなびっくりという様子で、その正体を尋ねた。

「これは毛虫なの」

「ああ、マツノギョウレツケムシというガの幼虫だよ。本来ならマツの葉を食べて、その樹上に巣を造る習性がある虫なんだけど」

 モッズコートの少年は列を成す毛虫の群れを眺めた。

「どうしてこんな地下にいるんだろう?」

 書物の知識によれば、地中に潜るのは単体で蛹になるときだけだ。この毛虫たちは終齢幼虫の特徴であるボタン穴を具えている。背中の器官ごと、その身は頭から尾部にかけて裂け、空洞が見え隠れしていた。

 目が届く範囲の全個体がそうだった。その亀裂は一糸の乱れもなく繋がり、あたかも途方もない長さの一頭が脱皮したかに見える。

「こいつらはどうして整列してるの」

「ん、ああ……マツノギョウレツケムシは先頭の個体が吐く糸を辿って餌を探すからだよ。何せ目がろくに見えないからね」

 黒いヘルメットにも似た頭部には五つの眼点があるものの、その器官は光を感知する程度の役割しか持たない。彼らは盲目的に前の個体に従うだけだ。

 少年は何かを思いついたらしい。

「これは、アリアドネの糸になるかもしれない」

 また意味がわからないことを、とローズは口を曲げた。

「アリアドネって?」

「まだ人類社会が残っていたころのおとぎ話さ。生贄の人間を食べる怪物が地下迷宮に棲んでいて、退治しに来た英雄がアリアドネというお姫様がくれた糸玉のおかげで迷わずに済んだんだ」

 少女は渋い顔をした。

「お姫様……この毛むくじゃらが?」

「単なる例え話だよ」

 彼は肩をすくめた。

「ほら、足下を見てごらん。毛虫たちのすぐ下に糸があるだろう。この虫は糸を幾重にも束ねて行進するんだ。本来は地上で生活する毛虫だから、この糸を辿っていけば外に出られるかもしれない」

 奇抜な衣装に身を包んだ織姫たちの腹脚の下に敷き詰められた絹糸を見下ろし、彼女は腕組みをする。頭を振って、二本の前髪を左右に揺らした。

「毛むくじゃらの列は両方に続いてるんだけどさ。どちらに行けばいいの」

「こっちでいいんじゃない」

 軽い調子で、コノハは毛虫の頭が並ぶ進行方向を指差した。

 実のところ頭の中では、逆方向に行けば脱出の可能性が高まるのではないかと考えていた。真夏の太陽か冬の地形風を嫌ったのなら、厳しい気候を凌ぐために地下へ逃れてきたのではないかと推測を立てていたからだ。

 同時に別の理由があるのなら、それを確かめてみたいとも思った。とどのつまりは、外に出るより自分の好奇心を優先したのである。

「もし間違っていても列を辿ればいいし、ね」

 無論、そんな思惑はおくびにも出さない。ローズは頷く。

「そうね、とにかく行ってみましょう」

 マツノギョウレツケムシの行列は、数キロにも渡って続いていた。数十頭か、百ではきかないかもしれない。ふたりは刺毛を慎重に避け、壁沿いに進んでいった。

 毛虫の列は単調に並ぶだけではなく、絹のリボンに沿って、壁や天井を這って空間曲線を描いたりした。地上の町に水路があるためか、天井から滲み出した水滴を受け止めた個体だけが背中の気孔を閉じていた。唇の周りに生えている長い白毛が放射線状から直角に立ち上がり、横向きの兜の羽根飾りのようになる。

 少年は蘊蓄うんちくを垂れる。

「この背中の器官はね、低気圧を敏感に察知することができるんだ。真冬にも活動する虫だから、天候を知ることが大事だったのさ」

「ふうん……テイキアツって何?」

 金髪の少女はあまり興味がなさそうだった。

 行列は延々と道を紡いでいた。毛虫たちが気まぐれに螺旋を描いたりするものの、いつまで経っても先頭は見えず、自分たちが狂った円舞に引きこまれてしまった錯覚に陥った。この奴隷の鎖は繋がっており、永遠に断ち切られることはないのかもしれない。

 徒労感に苛まれてきた彼らの目に、ほんの小さな灯火が映ったとき、思わず歓声を上げた。

「光だ」

 夜の灯りに誘われる巡礼者のように、逸る気持ちを抑え、少年少女は早足で毛虫の列をすり抜けていく。光は次第に大きくなり、彼らの期待は膨らんだ。

 やがてアリアドネの糸玉は終わりを告げ、先頭のマツノギョウレツケムシが恭しく頭を垂れている。ローズはその一頭を見て、「隊長」というやかましい合唱が鼓膜に響いた気がした。

 閉塞感のある坑道から大きな空間に出た。モッズコートの少年が眼前の光景に呆然と立ち尽くしている。黒いケープの少女もまた、言葉もなく見上げた。

 崩落した部分から光のテントが降り、その物体を浮かび上がらせる。まず、その足元には絹の糸で紡がれた紡錘形の繭が横たわっていた。その大きさは今まで目の当たりにしたどの虫をも凌ぐ。不規則な粗い皺が寄っており、黒ずんでいる。

 その繭の中央部を破り、まるで蝋燭が溶けて固まったような奇妙な形をした部分があらわになっている。さらに目線を上げていくと、途中で形を成した腹部から全身が栗色の天鵞絨で包まれた巨大なガが姿を現わした。

 体長は三十メートルを優に超えるだろう。首には白い襟巻を巻き、灰色と白色の鱗粉を纏う翅は、前翅と後翅が重なり、荘厳ですらある。中央を波線が横切り、白く縁取られている。何より特徴的なのは、翅の中央に描かれた眼状紋だった。見開かれた目はちっぽけな少年少女を傲然と見下し、威圧している。

 口器の痕跡しかない頭部から櫛状の触角を長く伸ばし、崩れた天井から空を目指している。今までの抜け殻が大きさの違いこそあれ、既知の昆虫の形を模していたにも関わらず、右の前肢が肥大化した人の手を思わせる形をしていた。地上の縁に五本の指をかけ、這い上がろうとする寸前で静止している。

 これまで目にしてきた状況を遥かに凌駕する光景を前に、ふたりの子供たちは絶句していた。しばらくして、コノハが口を開いた。

「あれは……ヒメクジャクヤママユ……いや、オオクジャクヤママユか。だけど……あの前肢は何だ。あんなもの、本でも見たことがない」

 目を見開いていたローズも、ようやく疑問を口にした。

「あれも、抜け殻なの」

「いいや、あれは……死骸だ。おそらく、羽化不全だと思う」

 隣の少年に顔を向ける。彼女の表情が消えていることに、ガに見とれていたコノハは気づかなかった。

「羽化、不全?」

「うん。オオクジャクヤママユの成虫は本来、横たわった繭の窄んだ部分から出てくるはずなんだ。それにほら、繭を突き破った根元がどろどろとしていて形ができてないだろう。完全変態する幼虫は蛹の中で一度溶けて成虫の形になるから、たぶん……」

 コノハは告げた。

「彼女は、急ぎすぎたんだ」

 そのとき、乾いた笑い声が響いた。その声音は次第に熱を帯び、嘲笑に変わっていった。隻眼の少年は怪訝そうに少女の横顔を見た。

「ローズ?」

 彼女はその呼びかけを無視して、大声で言った。

「何よそれ、馬鹿みたい。あれだけ大飯食らいで、せっせと栄養を蓄えてたのに、肝心なときに失敗するなんて」

 それは強烈な皮肉だった。普段見せない彼女の表情に面食らって、コノハは二の句が継げなかった。

「ほんと間抜けよねえ、せっかくご立派な翅が生えたのに。飛び立つこともできずにこんな土の下で腐っていったなんて、あんたにはお似合いの最期だわ」

「ローズ……」

「全部、全部無駄だったわねえ。無様に死んでいく気分はどうだったのよ。ええ、さぞかし無念だったでしょう?」

「ローズ、もう止めて」

 オオクジャクヤママユの死骸に痛罵を浴びせかける少女のケープの袖を、コノハは引っ張る。ローズはその手を振り払った。

「何でだよ。こいつはこの町の人間を大勢食ったくせに、羽化もできずに死んだんだ。こんなのってあるかよ」

 激情が少年に向けられる。彼は怒ることもなく、ただ悲しそうな眼差しをした。

「わからない。わからないよ」

 コノハは泣きそうに言った。

「ただ、悲しいんだ。この光景が、どうしようもなく悲しいんだ」

 感情に任せていた少女が言葉に詰まり、唇を噛み締めた。憤りを向ける対象を失い、彼女は悪態とともに靴のつま先で地面を蹴り飛ばした。

 その後、ふたりはずっと無言だった。ともあれ地下から脱出する方法は見つかったのだ。おあつらえ向きなことに、ガが伸ばした右手が地上に伸びていたのである。

 少年少女は言葉を交わさないまま、地下に横たわる繭を這い上がる。丸みを帯びており、高さこそあるものの、絹でできた紡錘形の袋は掴むところには事欠かなかった。オオクジャクヤママユの体も同様に毛で覆われ、彼らは潤沢な羽毛を伝って頭部まで辿り着く。そこで一息ついた。

 目の前の大きな複眼はとっくに光を失い、口をなくした顔は栗毛で隠されていた。ただ二本の触角を真っ直ぐ伸ばし、地上を目指していたことはわかる。

 ローズは険しい表情でその横顔を睨みつけ、心配そうに少年は見守る。彼女は何も言わず、変形した前肢を登っていく。昆虫のものとは思えない腕は筋肉質で、やはり剛毛を纏っていた。

 ふたりが地上に近づいていくにつれて、光が強まってくる。ふ節にあたる、五本の指まで到着すると、地上の町は朝を迎えていたことを知った。彼らは一晩を地下で過ごしていたのである。

 後から登り切ったモッズコートの少年は「あっ」と声を上げた。逆光になったその建物は、昨夕に彼が目指した教会だった。崩落した地面の手前で踏みとどまり、かつては華美なステンドグラスが嵌まっていたであろう前面装飾が聳えている。慎ましい庭にはアーモンドの古木が生えていた。

 丸い円屋根の曲面で、あのマツノヒゲコガネが穴を見下ろしていた。



 無事に地下から脱出できた後も、彼らは何も喋らなかった。垂直庭園が繁茂して緑で覆われた中央市場から、半日ぶりに顔を合わせた黄色い軽自動車に乗りこむ。エンジンをかけて、ローズはフロントガラスを睨んだまま発進した。

 無人の町を囲う城壁を抜け、小さな車は大きな河の流れに沿って遠ざかっていった。車内にはやはり沈黙が下り、不安定な走行で少年少女の体が揺さぶられる。

 左目に包帯を巻いた少年は、しばらくして口を開いた。

「ローズ……まだ、怒ってる?」

「別に怒ってない」

 その返答は短かった。いつもの雄弁さはどこにやったのやら、コノハはたどたどしく喋る。その右手には、いつの間にか包帯が巻かれていた。

「つい言いそびれたけど、人は、こういうのはちゃんと言葉にしないといけないんだったね」

「何よ」

 少女は不愛想に応じる。彼は言った。

「助けに来てくれて、ありがとう」

 素直な感謝の言葉に虚をつかれて、ローズはきょとんとした。しばらくして、口を緩めた。ようやく肩の力が抜ける。

「あたしも言い過ぎた。ごめん」

 少年少女は無事仲直りを果たし、気恥ずかしさからか、ふたりは小さな笑い声を交わした。そんな子供たちの交流を、後部座席にちょこんと置かれた角灯の中のツキヨタケが傘を閉じて、静かに見守っている。

 和らいだ空気を吹き飛ばしたのは、もう何度目かになる地震だった。金髪の少女はとっさにフットブレーキを踏み、愛車は縮こまって地鳴りが止むのを待った。

 数分後、静かになった車内でふたりはため息をついた。

「もう、いい加減にしてよね……」

 彼女が言った直後、背後で轟音が聞こえた。同時にふたりはシートからリアガラスの向こう側に顔を向けた。遠くで城壁が崩れ、空高く粉塵を巻き上げて廃墟の町が大地という巨人に呑みこまれていくのを目撃する。

 ツツハナバチたちに占拠された市庁舎が、タマムシを狩ろうとしたタマムシツチスガリが、水棲昆虫の狩場となった染め物通りが、直翅目の楽団が沈黙の音楽を奏でる中央市場が、オウシュウケラとオニトガリアナバチの死闘の痕跡が、マツノギョウレツケムシの道しるべが、マツノヒゲコガネを追いかけて手を伸ばしたオオクジャクヤママユの死骸が、その全てが地中に没した。

 静まり返った後、彼らは顔を見合わせた。

「生きてるから、よしとしよう」

 そう言って、同時に頷いた。

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