天童君には秘密がある 2〈KAC2024〉

ミコト楚良

いろいろあって、上司と部下が住宅の内見をしに来た回

「あの黒曜石の地下牢を三分で脱出するとは。をなめていたよ」

 そのコードネームを、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れという男は、自分の敗北を認めるしかなかった。

 

 今しがた、霧のような小雨が降り出して、カサを持っていない灰色のマントの男と乙女は足早に歩いていた。

「あの角です。全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れさま……」

 乙女は彼の秘書だった。それも今日までだ。上司である男は、組織から抜けようとしていた。


 目的の家屋は、すぐみつかった。

 扉に設置されたキーボックスに、あらかじめ聞いておいた暗証番号を入れて中の鍵を取り出した。

 カチリと解錠する。限られた時間しかない者と、顔を知られたくない者のためのセルフ内見会だ。


 部屋はワンルームだった。生活道具一式が、すでにそろっている。

 ひとり暮らしを、すぐに、はじめることができる。


「——わたしを。連れて行ってください」

 そこで、ようやく秘書は声をしぼりだした。


「三月の明け方に水に映る月を飲み干す牝鹿レ・ビッシュよ。おまえを巻き込むわけにはいかない」

 男は長年、仕えてくれた乙女に感謝しているのだ。

 

「わたしは!」

 三月の明け方に水に映る月を飲み干す牝鹿レ・ビッシュは、全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れに抱いていた淡い思いを行動で示す。彼の胸に飛び込んだ。

「ずっと、お慕いしていました。瓦礫がれきの中から、わたしと妹を救い出していただいたときから」

 乙女の肩がふるえている。

 肩にかかる髪が、小雨を含んでいた。

 男は、ぬらしてしまったの乙女の髪を、せめて自分の手でぬぐった。


「三月の明け方に水に映る月を飲み干す牝鹿レ・ビッシュ……」


「わたしを、おそばに」

 はかなげな声で、それでも曲げぬ意志で、乙女は。


「妹を置いて行けぬだろう。たった、ひとりのおまえの身内だ」


「妹は、この春、東京の大学に進学します。成績も優秀で、全額返済不要の奨学金生として。寮費も格安なんです。わたしの役割も、ひと段落です」


 全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れは、三月の明け方に水に映る月を飲み干す牝鹿レ・ビッシュを突き放せなかった。

 彼も、いつしか彼女を愛していたから。


 ワンルームタイプの部屋の二階の掃き出し窓から、男は外を見ているふりをした。

「ワンルームより2LDKを探そうかと思う——」

 


 外の小雨が、男の言葉の続きを聞いていた。






             〈好きなのです

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天童君には秘密がある 2〈KAC2024〉 ミコト楚良 @mm_sora_mm

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